ルカの福音書 QT45 220301火【不義の裁判官とやもめ】ルカ 18章 1~8

ルカ 18章 1~818:1 いつでも祈るべきで、失望してはいけないことを教えるために、イエスは弟子たちにたとえを話された。18:2 「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。18:3 その町に一人のやもめがいたが、彼のところにやって来ては、『私を訴える人をさばいて、私を守ってください』と言っていた。18:4 この裁判官はしばらく取り合わなかったが、後になって心の中で考えた。『私は神をも恐れず、人を人とも思わないが、18:5 このやもめは、うるさくて仕方がないから、彼女のために裁判をしてやることにしよう。そうでないと、ひっきりなしにやって来て、 私は疲れ果ててしまう。』」18:6 主は言われた。「不正な裁判官が言っていることを聞きなさい。18:7 まして神は、昼も夜も神に叫び求めている、選ばれた者たちのためにさばきを行わないで、いつまでも放っておかれることがあるでしょうか。18:8 あなたがたに言いますが、神は彼らのため、速やかにさばきを行ってくださいます。だが、人の子が来るとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」   今朝は、やもめと不義な裁判官のたとえ話です。このたとえ話は、1節で「いつでも祈るべきで、失望してはいけないことを教えるために」というテーマをあらかじめ出しています。どういう時であっても落ち込まずに祈らなければならないという結論は明らかです。話しはこうです。やもめに悔しいことがあったので、裁判官に繰り返し嘆願しましたが、この裁判官は神を恐れず、人を人とも思わない人なので、弱者の悔しい請願をずっと聞いてくれませんでした。しかし、やもめの執拗さに面倒な心になってそれを聞いてくださるという話しです。   最後の8節で神様が「速やかにさばきを行ってくださいます」と言いましたが、ここで「速やかに」に翻訳されたギリシャ語「エン・タケイ(ἐν τάχει)」には、確かに「速やかに」という意味がありますが、同時に「確かに、必ず」という意味もあります。もし時間を示す「速やかに」という意味でなければ、神様が「必ず、確かに」その悔しさを解いてくださるという意志的な表現になります。実は、そうでなければ、後半節と呼応できません。早いうちに解決できなくても、いつかは必ず解決できる。ところが、誰がその時まで耐え忍び、祈り続けるかという意味で「だが、人の子が来るとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」と言われたのです。   このたとえ話は、たくさん祈り、長く祈れば、神様が面倒で聞いてくださるということではないと思います。不義な裁判官という登場人物に不義ということにも注目する必要があります。ここで不義な裁判官は神様ではありません。神様を恐れない人です。この裁判官は、被害者の悲しみを考えたり、社会的な正義を悩む人ではありません。そうであれば、私たちの祈りを妨げる、祈りを挫折させる霊的な力かも知れません。   イエス様が再び来られるまで、私たちの祈りを妨げるもの、神様を恐れず、弱者を無視し、不義を行うものと戦い、弱者を助け、正義を貫く人が果たしているだろうかということです。やもめの祈りは、裁判官に対する単なる請願ではなく、不義な裁判官の無視にもかかわらず、落ち込まず、義を追い求め、耐え忍ぶ戦いです。「人の子が来るとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか」ここの信仰は、無理やり欲しいことを願い続けることではなく、神様の憐れみと義を実践することではないでしょうか。

누가복음 QT45 220301화【불의한 재판관과 과부】누가복음 18장 1~8

누가복음 18장 1~818:1 항상 기도하고 낙망치 말아야 될 것을 저희에게 비유로 하여18:2 가라사대 어떤 도시에 하나님을 두려워 아니하고 사람을 무시하는 한 재판관이 있는데18:3 그 도시에 한 과부가 있어 자주 그에게 가서 내 원수에 대한 나의 원한을 풀어 주소서 하되18:4 그가 얼마 동안 듣지 아니하다가 후에 속으로 생각하되 내가 하나님을 두려워 아니하고 사람을 무시하나18:5 이 과부가…

ルカの福音書 QT44 220228月【神の国】ルカ 17章 20~37

ルカ 17章 20~3717:20 パリサイ人たちが、神の国はいつ来るのかと尋ねたとき、イエスは彼らに答えられた。「神の国は、目に見える形で来るものではありません。17:21 『見よ、ここだ』とか、『あそこだ』とか言えるようなものではありません。見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです。」17:22 イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたが、人の子の日を一日でも見たいと願っても、見られない日が来ます。17:23 人々は『見よ、あそこだ』とか、『見よ、ここだ』とか言いますが、行ってはいけません。追いかけてもいけません。17:24 人の子の日、人の子は、稲妻がひらめいて天の端から天の端まで光るのと、ちょうど同じようになります。17:25 しかし、まず人の子は多くの苦しみを受け、この時代の人々に捨てられなければなりません。17:26 ちょうど、ノアの日に起こったのと同じことが、人の子の日にも起こります。17:27 ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていましたが、洪水が来て、すべての人を滅ぼしてしまいました。17:28 また、ロトの日に起こったことと同じようになります。人々は食べたり飲んだり、売ったり買ったり、植えたり建てたりしていましたが、17:29 ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降って来て、すべての人を滅ぼしてしまいました。17:30 人の子が現れる日にも、同じことが起こります。17:31 その日、屋上にいる人は、家に家財があっても、それを持ち出すために下に降りてはいけません。同じように、畑にいる人も戻ってはいけません。17:32 ロトの妻のことを思い出しなさい。17:33 自分のいのちを救おうと努める者はそれを失い、それを失う者はいのちを保ちます。17:34 あなたがたに言いますが、その夜、同じ寝床で人が二人寝ていると、一人は取られ、もう一人は残されます。17:35 同じところで臼をひいている女が二人いると、一人は取られ、もう一人は残されます。」17:37 弟子たちが、「主よ、それはどこで起こるのですか」と言うと、イエスは彼らに言われた。「死体のあるところ、そこには禿鷹が集まります。」   神の国がいつ来るかという質問に、イエス様は神の国はすでに来ていると答えられました。イエス様ご自身が今、ここに来ておられるのが神の国が始まっているということです。天国は誰かが描いた花道のようなものではありません。イエス様を信じ、その御言葉に従う聖徒が、今、ここで経験するのが神の国です。聖徒は、終末を恐れず、神様とともに歩む人です。言い換えれば、死を恐れず、御言葉に従って歩む人です。そういう意味で神の国は、まだ完全体ではありません。十字架を負って従う人々を通して建てられていきます。御言葉を求める人々、それに従う人々によって、神の国は建てられます。   神の国は、イエス様とともに始まり、その日の裁きでよって完成されます。イエス様から始めてイエス様によって完成されます。だから、神の国はイエス様の中にある国です。食べて飲んで楽しんで所有物に執着している時、その日に裁きがきます。人々は神の国が見えない、触れないと不平を言いますが、裁きを他人の事だと思います。再び来られるイエス様が本物と偽物を区別されるとき、それは世の中ではなく教会の中です。聖徒は、今、ここでイエス・キリストに従わなければなりません。   福音を二つに分けて保守的な神学は魂の救いのための福音であると言い、いわゆる進歩的な神学は社会正義のための福音だと言いますが、神の国は分断国ではありません。天国は罪のないところなので、この地で福音を携えて生きる聖徒は、自分の中の罪を知り、告白し、救われますが、同時に神の国の民は、世に蔓延している罪に染まらず、それと戦い、この地上に神の国を回復します。やがて二つに分かれるのは、イエス様が来られるその日、本物と偽物です。イエス様の中にいる人とそうではない人が分けられます。神の国はそこにあるのではなく、あそこにあることでもなく、今、ここにあります。  

누가복음 QT44 220228월【하나님의 나라】누가복음 17장 20~37

누가복음 17장 20~3717:20 바리새인들이 하나님의 나라가 어느 때에 임하나이까 묻거늘 예수께서 대답하여 가라사대 하나님의 나라는 볼 수 있게 임하는 것이 아니요17:21 또 여기 있다 저기 있다고도 못하리니 하나님의 나라는 너희 안에 있느니라17:22 또 제자들에게 이르시되 때가 이르리니 너희가 인자의 날 하루를 보고자 하되 보지 못하리라17:23 사람이 너희에게 말하되 보라 저기 있다 보라 여기 있다 하리라…

ルカの福音書 QT43 220226土【骨まで高慢】ルカ 16章 19~31

ルカ 16章 19~3116:19 ある金持ちがいた。紫の衣や柔らかい亜麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。16:20 その金持ちの門前には、ラザロという、できものだらけの貧しい人が寝ていた。16:21 彼は金持ちの食卓から落ちる物で、腹を満たしたいと思っていた。犬たちもやって来ては、彼のできものをなめていた。16:22 しばらくして、この貧しい人は死に、御使いたちによってアブラハムの懐に連れて行かれた。金持ちもまた、死んで葬られた。16:23 金持ちが、よみで苦しみながら目を上げると、遠くにアブラハムと、その懐にいるラザロが見えた。16:24 金持ちは叫んで言った。『父アブラハムよ、私をあわれんでラザロをお送りください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすようにしてください。私はこの炎の中で苦しくてたまりません。』16:25 するとアブラハムは言った。『子よ、思い出しなさい。おまえは生きている間、良いものを受け、ラザロは生きている間、悪いものを受けた。しかし今は、彼はここで慰められ、おまえは苦しみもだえている。16:26 そればかりか、私たちとおまえたちの間には大きな淵がある。ここからおまえたちのところへ渡ろうとしても渡れず、そこから私たちのところへ越えて来ることもできない。』16:27 金持ちは言った。『父よ。それではお願いですから、ラザロを私の家族に送ってください。16:28 私には兄弟が五人いますが、彼らまでこんな苦しい場所に来ることがないように、彼らに警告してください。』16:29 しかし、アブラハムは言った。『彼らにはモーセと預言者がいる。その言うことを聞くがよい。』16:30 金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ。もし、死んだ者たちの中から、だれかが彼らのところに行けば、彼らは悔い改めるでしょう。』16:31 アブラハムは彼に言った。『モーセと預言者たちに耳を傾けないのなら、たとえ、だれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」   イエス様の「乞食ラザロのたとえ話」を読むと、金持ちがラザロに直接に悪を行ったことはないと思われます。ただし、金持ちはすべてに豊かでしたが、その家から落ちる物で食べていたラザロにはけちだったようです。乞食にはラザロという名前がありますが、金持ちには名前がありません。ラザロは、たとえ乞食として生きていましたが、自分の名前が与えられていますが、イエス様は、名が知られていたはずの金持ちには名前を付けてくださいませんでした。彼は自分の名前に代わるものを持って生きたからです。金持ちという名前に置き換えられる「お金」で粘鉄した人生だからです。   金持ちといっても大きい財閥ではありません。町の中で比較的に金持ちです。金持ちは自分で豊かだとは思いません。依然として不足しているものがあり、さらに満たさなければならないという欲を持っています。ということでイエス様は、乞食ラザロを一緒に登場させることによって金持ちがどれだけ祝福されたのがを表します。   ラザロは死後に天国に行き、金持ちは地獄に行きました。聖書は空間的な意味での地獄についてあまり描写していませんが、稀に地獄について描かれたのがここです。ということで、ルカ16章に基づき、「地獄には水一滴の憐れみがないところ」と言っています。渇いた人間に水一滴の慈悲がないなら、地獄というところは、苦痛というより残酷という言葉がもっと似合うかもしれません。金持ちは死んで地獄に行ったのではなく、地獄で生きて地獄に行ったことではないでしょうか。飢え渇いた者に憐れみがないという生き方をして、死んでからその水一滴の慈悲がないところに行ったので地獄であることは変わりません。   金持ちは後悔しているようですが、反省はしていません。金持ちは、自分の家族が地獄に来るかと心配してラザロを自分の家に送ってもらいたいと願います。確かに家族は愛していたようです。アブラハムはこう答えます。「神様のみことばが既にあるので、みことばを読んで守る人は地獄に来ることがありません」と言いますが、金持ちはそうではないと言い張ります。「地獄に行ってそれを経験しなければ、みことばを信じられない」ということです。愚かさが罪です。アブラハムは言います。「モーセと預言者たちに耳を傾けないのなら、たとえ、だれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。」   金持ちは「ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすようにしてください。24」「ラザロを私の家族に送ってください。27」など、いろいろ求めますが、金持ちは、まだ、ラザロが自分の家の前で物乞いをしている乞食であると思っているようです。地獄の中であっても高ぶります。骨まで高慢で地獄の中でも人を差別し、自分勝手に動かそうとする金持ちを見ると、果たして地獄は地獄かと思いました。神様が悔い改めない人を地獄を送って悔い改めさせるのではなく、地獄に行っても悔い改めない人が集まる所が地獄であることが分かりました。  

누가복음 QT43 220226토【뼛속까지 교만】누가복음 16장 19~31

누가복음 16장 19~3116:19 한 부자가 있어 자색 옷과 고운 베옷을 입고 날마다 호화로이 연락하는데16:20 나사로라 이름한 한 거지가 헌데를 앓으며 그 부자의 대문에 누워16:21 부자의 상에서 떨어지는 것으로 배불리려 하매 심지어 개들이 와서 그 헌데를 핥더라16:22 이에 그 거지가 죽어 천사들에게 받들려 아브라함의 품에 들어가고 부자도 죽어 장사되매16:23 저가 음부에서 고통 중에 눈을 들어 멀리…

ルカの福音書 QT42 220225金【不義の管理者の知恵】ルカ 16章 1~18

ルカ 16章 1~1816:1 イエスは弟子たちに対しても、次のように語られた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この管理人が主人の財産を無駄遣いしている、という訴えが主人にあった。16:2 主人は彼を呼んで言った。『おまえについて聞いたこの話は何なのか。会計の報告を出しなさい。もうおまえに、管理を任せておくわけにはいかない。』16:3 管理人は心の中で考えた。『どうしよう。主人は私から管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力はないし、物乞いをするのは恥ずかしい。16:4 分かった、こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、人々が私を家に迎えてくれるようにすればよいのだ。』16:5 そこで彼は、主人の債務者たちを一人ひとり呼んで、最初の人に、『私の主人に、いくら借りがありますか』と言った。16:6 その人は『油百バテ』と答えた。すると彼は、『あなたの証文を受け取り、座ってすぐに五十と書きなさい』と言った。16:7 それから別の人に、『あなたは、いくら借りがありますか』と言うと、その人は『小麦百コル』と答えた。彼は、『あなたの証文を受け取り、八十と書きなさい』と言った。16:8 主人は、不正な管理人が賢く行動したのをほめた。この世の子らは、自分と同じ時代の人々の扱いについては、光の子らよりも賢いのである。16:9 わたしはあなたがたに言います。不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうすれば、富がなくなったとき、彼らがあなたがたを永遠の住まいに迎えてくれます。16:10 最も小さなことに忠実な人は、大きなことにも忠実であり、最も小さなことに不忠実な人は、大きなことにも不忠実です。16:11 ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなければ、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょうか。16:12 また、他人のものに忠実でなければ、だれがあなたがたに、あなたがた自身のものを持たせるでしょうか。16:13 どんなしもべも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは、神と富とに仕えることはできません。」16:14 金銭を好むパリサイ人たちは、これらすべてを聞いて、イエスをあざ笑っていた。16:15 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、人々の前で自分を正しいとするが、神はあなたがたの心をご存じです。人々の間で尊ばれるものは、神の前では忌み嫌われるものなのです。16:16 律法と預言者はヨハネまでです。それ以来、神の国の福音が宣べ伝えられ、だれもが力ずくで、そこに入ろうとしています。16:17 しかし、律法の一画が落ちるよりも、天地が滅びるほうが易しいのです。16:18 だれでも妻を離縁して別の女と結婚する者は、姦淫を犯すことになり、夫から離縁された女と結婚する者も、姦淫を犯すことになります。   今朝の本文では、一人の管理者がオーナーから預けた資本をうまく管理することができず、無駄にしたことで解雇されます。解雇によって生活が困難になる管理者は、オーナーにお金を借りた人々を呼んで部分的ですが、その債務額を免除しました。それは、自分がオーナーに追い出されても彼らが恵みを忘れずに、助けてくれると思ったからです。確かに越権行為で文書偽造です。ところが、オーナーはむしろ彼を賢いといって褒めます。これが職場を移動するときに会社公金を流用するまたは会計操作することが賢いということではないでしょう。   このたとえ話は難しいです。注釈の意見を探してみましたが、どんな解釈もどこか理解できない部分が残ります。ただ、このたとえ話を通して語られる結論的なメッセージは、まず、小さなことに忠実であること、次はお金に仕えないこと、最後は人の上に立たないことです。しかし、たとえ話の解釈をその結論を一致させることは難しいです。この本文はこれからの課題にしてもう少し勉強してみたいと思います。   できる限りを考えると、ここでイエス様は物質の世俗的な属性を認めています。それは腐敗しやすく、汚れやすいものです。お金が不義ではなく、人間の不義がお金に触れるので、お金が不義になります。人間に貪欲がある限り、お金は不義になる危険にさらされています。お金を利子なしで貸し、物を利益なしで売ることはありません。利率を策定することも返済期日を定めることもオーナーではなく、オーナーに委任された管理者です。ユダヤ社会に高利貸し業は律法で禁止されており、高利によって人々の心を失い、資金回転を鈍らせるなら収益率は落ちてしまいます。それらすべてが管理者の責任です。   管理者が債務者の債務を一部減免してくれたのは、もしかして管理者が金額を正し、会計精算をしたことかもしれません。「不正の富で、自分のために友をつくりなさい」という言葉は、お金は不義になりやすいですが、それでも神様の管理者はそれを持って善用しなければならないということです。管理者の解雇を人間の死と考えると、理解しやすいです。お金とともにこの地に生きていますが、人間は死後を考えなければなりません。経済活動は不可欠なことでありますが、それに貪り、執着してはいけません。与えられた財政と権限を自分の欲望ではなく神様が委任されたことに善用しなければなりません。管理者が解雇されたのは、貪欲という他の主人に仕えていたからかもしれません。   このたとえ話を通して、イエス様が整理してくださった三つの結論はすでにいいました。小さなことに忠実であること、お金に仕えないこと、人の上に立たないことです。小さなことだから忠実しないことと、お金にこだわること、自分が人より優れていると思うことはすべて欲から出るものです。「どんなしもべも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは、神と富とに仕えることはできません。」その欲心を捨てて管理者になるとき、賢くなります。

누가복음 QT42 220225금【불의한 청지기의 지혜】누가복음 16장 1~18

누가복음 16장 1~1816:1 또한 제자들에게 이르시되 어떤 부자에게 청지기가 있는데 그가 주인의 소유를 허비한다는 말이 그 주인에게 들린지라16:2 주인이 저를 불러 가로되 내가 네게 대하여 들은 이 말이 어찜이뇨 네 보던 일을 셈하라 청지기 사무를 계속하지 못하리라 하니16:3 청지기가 속으로 이르되 주인이 내 직분을 빼앗으니 내가 무엇을 할꼬 땅을 파자니 힘이 없고 빌어 먹자니 부끄럽구나16:4내가…

ルカの福音書 QT41 220224木【放蕩息子の兄】ルカ 15章 11~32

ルカ 15章 11~3215:11 イエスはまた、こう話された。「ある人に二人の息子がいた。15:12 弟のほうが父に、『お父さん、財産のうち私がいただく分を下さい』と言った。それで、父は財産を二人に分けてやった。15:13 それから何日もしないうちに、弟息子は、すべてのものをまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して、財産を湯水のように使ってしまった。15:14 何もかも使い果たした後、その地方全体に激しい飢饉が起こり、彼は食べることにも困り始めた。15:15 それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑に送って、豚の世話をさせた。15:16 彼は、豚が食べているいなご豆で腹を満たしたいほどだったが、だれも彼に与えてはくれなかった。15:17 しかし、彼は我に返って言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が、なんと大勢いることか。それなのに、私はここで飢え死にしようとしている。15:18 立って、父のところに行こう。そしてこう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。15:19 もう、息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」』15:20 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとへ向かった。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。15:21 息子は父に言った。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。』15:22 ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい。手に指輪をはめ、足に履き物をはかせなさい。15:23 そして肥えた子牛を引いて来て屠りなさい。食べて祝おう。15:24 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。』こうして彼らは祝宴を始めた。15:25 ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえてきた。15:26 それで、しもべの一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。15:27 しもべは彼に言った。『あなたのご兄弟がお帰りになりました。無事な姿でお迎えしたので、お父様が、肥えた子牛を屠られたのです。』15:28 すると兄は怒って、家に入ろうともしなかった。それで、父が出て来て彼をなだめた。15:29 しかし、兄は父に答えた。『ご覧ください。長年の間、私はお父さんにお仕えし、あなたの戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しむようにと、子やぎ一匹下さったこともありません。15:30 それなのに、遊女と一緒にお父さんの財産を食いつぶした息子が帰って来ると、そんな息子のために肥えた子牛を屠られるとは。』15:31 父は彼に言った。『子よ、おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ。15:32 だが、おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。』」   本日は「放蕩息子のたとえ話」です。失われた羊のたとえ話で、九十九匹の羊がパリサイ人と律法学者であると言いましたが、そうであるなら放蕩息子の話でも、パリサイ人と律法学者が誰かの姿で隠れているはずです。それが放蕩息子の兄です。イエス様は、宗教的、道徳的に優れていると自負していたパリサイ人と律法学者を兄と重ね、たとえ話でおられます。放蕩息子のたとえ話は、放蕩息子の道徳性と父の赦しに焦点を置きがちですが、父が兄に弟を受け入れるように頼んでいるというメッセージを見逃してはならなりません。ティム・ケラーの本『放蕩sする神』(The Prodigal God)で「イエス様が教えておられる対象は、不道徳な外部の人ではなく、道徳的な内部の人である」と言いました。逆説的で、恐ろしいですが、パリサイ人と律法学者が神様に近づけないのは、彼らの「罪」のためではなく、彼らの「自己信仰」のためです。変化と改革の対象は未信者ではなく、「自己信仰」で歪んでいて教会の中にいる人であるということです。ティム・ケラーは、正鵠を射り、「あなたの罪悪と良い行いの両方の背後に自ら救い主になりたいという渇望が隠れている」と言います。   数日前、アンドレ・ジッドの『狭き門』について書いたことがありますが、宗教主義に反対していたアンドレ・ジッドは『放蕩息子の帰宅』も書きました。アンドレ・ジッドの『放蕩息子の帰宅』には、放蕩息子が家を出たのが、父が嫌いだからではなく、宗教主義の兄を避けて逃げたのだと言います。彼は父から離れたことがなく、ただ、家を離れたということです。つまり、父は神様であって神様を離れたことはなく、家は宗教をいい、宗教から離れたということです。形式化され、規範化された教会を離れたということです。この話には聖書にはない放蕩息子の弟が登場します。逃げられず、帰ってきた放蕩息子は、弟には宗教から抜け出すように家出を誘います。『狭き門』と『放蕩息子の帰宅』は、宗教主義に窒息していたアンドレ・ジッドの悲鳴のような物語りです。イエス様の放蕩息子のたとえ話も、究極的に罪人を受け入れない宗教主義者たちを懲らしめているのです。放蕩息子に向かって回心しなさいというより、先に兄​​が悔い改めをしなければなりません。

누가복음 QT41 220224목【탕자의 형】누가복음 15장 11~32

누가복음 15장 11~3215:11 또 가라사대 어떤 사람이 두 아들이 있는데15:12 그 둘째가 아비에게 말하되 아버지여 재산 중에서 내게 돌아올 분깃을 내게 주소서 하는지라 아비가 그 살림을 각각 나눠 주었더니15:13 그 후 며칠이 못되어 둘째 아들이 재산을 다 모아가지고 먼 나라에 가 거기서 허랑방탕하여 그 재산을 허비하더니15:14 다 없이한 후 그 나라에 크게 훙년이 들어 저가…