ルカの福音書 QT25 220205土【あいさつしてはいけないこと】ルカ 10章 1~16

ルカ 10章 1~1610:1 その後、主は別に七十二人を指名して、ご自分が行くつもりのすべての町や場所に、先に二人ずつ遣わされた。10:2 そして彼らに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。10:3 さあ、行きなさい。いいですか。わたしがあなたがたを遣わすのは、狼の中に子羊を送り出すようなものです。10:4 財布も袋も持たず、履き物もはかずに行きなさい。道でだれにもあいさつしてはいけません。10:5 どの家に入っても、まず、『この家に平安があるように』と言いなさい。10:6 そこに平安の子がいたら、あなたがたの平安は、その人の上にとどまります。いなければ、その平安はあなたがたに返って来ます。10:7 その家にとどまり、出される物を食べたり飲んだりしなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからです。家から家へと渡り歩いてはいけません。10:8 どの町に入っても、人々があなたがたを受け入れてくれたら、出された物を食べなさい。10:9 そして、その町の病人を癒やし、彼らに『神の国があなたがたの近くに来ている』と言いなさい。10:10 しかし、どの町であれ、人々があなたがたを受け入れないなら、大通りに出て言いなさい。10:11 『私たちは、足に付いたこの町のちりさえ、おまえたちに払い落として行く。しかし、神の国が近づいたことは知っておきなさい。』10:12 あなたがたに言います。その日には、ソドムのほうが、その町よりもさばきに耐えやすいのです。10:13 ああ、コラジン。ああ、ベツサイダ。おまえたちの間で行われた力あるわざが、ツロとシドンで行われていたら、彼らはとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって座り、悔い改めていたことだろう。10:14 しかし、さばきのときには、ツロとシドンのほうが、おまえたちよりもさばきに耐えやすいのだ。10:15 カペナウム、おまえが天に上げられることがあるだろうか。よみにまで落とされるのだ。10:16 あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾け、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのです。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒むのです。」   イエス様は弟子たちに伝道のために地域を訪問すると、「財布も袋も持たず、履き物もはかずに行きなさい」と言われました。9章に続いて、伝道者の財政観が繰り返されます。伝道者ある家に定住し、他の家に移らないようにと言われ、働く者が報酬を受けるのは当然だと言われました。その中に目立つ言葉があります。「道でだれにもあいさつしてはいけません。4」と言われたことです。挨拶しないということはどういうことでしょうか。   黙想を公開するところなので、今朝も私の話をしたいと思います。10年間の留学生活を終えて宣教師派遣のため、韓国にしばらく帰っていた間に2011年東北大震災が起きました。その年4月に東京の神学校へ入学の予定でしたが、日本は混乱に陥り、航路は途切れ、飛行機が飛びませんでした。   ある教会で私が日本に遣わされたら、初期費用の一部を支援するというありがたい提案がありました。それで私が教会に訪れましたが、それは実行できませんでした。帰ってくる道で偶然と日本で一緒に留学した知人に会いました。知人の夫婦は、日本の神学校の入学のために日本に入るということを聞いて飛び出て出金をし、宣教献金ですといいながら私に渡しました。うかとそのお金を受け取り、感謝の言葉もきちんとできず、逃げるように帰ってきました。   実は飛行機が飛ばないだけでなく、航空券を購入するお金もありませんでした。そのお金は正確に3人家族の航空券の金額でした。助けがあると思ったところでは助けられず、帰り道に予期せずに出会った人から助けられました。その時、神様は私に二つのことを言われました。まず、「今が日本に入る時である」ということです。私たちは空港で待機して、誰もいないまるで貸し切りのような飛行機に乗って日本に入ってきました。   神様から言われたもう一つは、「人に求めるな」ということです。人は大切です。助けたり、助けられたり、互いに協力しなければなりません。しかし、伝道者が人に頼ってはいけません。それはおそらく他のすべての仕事も同じであると思います。宣教師で遣わされるなら、神様に頼って行かなければなりません。「道でだれにもあいさつしてはいけません」は、その意味が難しかったですが、その日、神様が私に言われた「人に求めるな」であると理解しています。   日本に到着しましたが、入学するお金はありませんでした。奉仕していた市川福音キリスト教会に、韓国の教会から宣教献金が入ってきたことがありますが、先生がそれを両替すると、私の入学金と学費とぴったりであってそうです。私がいない間、教会と先生はそれを私の入学金と授業料として支払ってくださいました。ということで、入学ができ、そのように始めた第2の日本の生活はこれまで欠けがありません。後に、財政に苦しんでいた神学校も、私に奨学金を与えてくださいました。私は日本で教会を起こし、神学校に財政サポートと献身者の人材を送りますと約束しました。   働き手はただ働きます。そのために人にあいさつしません。もちろん、人の愛と思いやりによって伝えられ、与えられることをよく知っています。その感謝を忘れてはいけません。そして受けることよりも与えることが幸いであることもよく知っています。受けることが証ではなく、分け与えることが証になるためにさらに流さなければならないと思っています。神の国の財政は、それを知る人々の信仰の循環の中で豊かになってきます。ここに告白します。究極的に、神様のみが私の唯一かつ完全な供給者です。

누가복음 QT25 220205토【아무에게도 문안하지 말며】누가복음 10장 1~16

누가복음 10장 1~1610:1 이후에 주께서 달리 칠십인을 세우사 친히 가시려는 각동 각처로 둘씩 앞서 보내시며10:2 이르시되 추수할 것은 많되 일군이 적으니 그러므로 추수하는 주인에게 청하여 추수할 일군들을 보내어 주소서 하라10:3 갈지어다 내가 너희를 보냄이 어린 양을 이리 가운데로 보냄과 같도다10:4 전대나 주머니나 신을 가지지 말며 길에서 아무에게도 문안하지 말며10:5 어느 집에 들어가든지 먼저 말하되 이…

ルカの福音書 QT24 220204金【わたしに従って来なさいと言われても】ルカ 9章 51~62

ルカ 9章 51~629:51 さて、天に上げられる日が近づいて来たころのことであった。イエスは御顔をエルサレムに向け、毅然として進んで行かれた。9:52 そして、ご自分の前に使いを送り出された。彼らは行ってサマリア人の村に入り、イエスのために備えをした。9:53 しかし、イエスが御顔をエルサレムに向けて進んでおられたので、サマリア人はイエスを受け入れなかった。9:54 弟子のヤコブとヨハネが、これを見て言った。「主よ。私たちが天から火を下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」9:55 しかし、イエスは振り向いて二人を叱られた。9:56 そして一行は別の村に行った。9:57 彼らが道を進んで行くと、ある人がイエスに言った。「あなたがどこに行かれても、私はついて行きます。」9:58 イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません。」9:59 イエスは別の人に、「わたしに従って来なさい」と言われた。しかし、その人は言った。「まず行って、父を葬ることをお許しください。」9:60 イエスは彼に言われた。「死人たちに、彼ら自身の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。」9:61 また、別の人が言った。「主よ、あなたに従います。ただ、まず自分の家の者たちに、別れを告げることをお許しください。」9:62 すると、イエスは彼に言われた。「鋤に手をかけてからうしろを見る者はだれも、神の国にふさわしくありません。」   イエス様がエルサレムに向かっているのは、十字架を背負うためです。十字架への道の上でも、人々はイエスを信じませんでした。病人と悪霊を追い出しましたが、人々はイエス様を受け入れませんでした。イエス様が何をしても、自分が信じるものを捨てない限り、イエス様を信じることはできません。それは今でも同じです。自分に信じるものがある限り、イエス様を信じることはできません。イエス様が拒絶されているのを見て怒りを覚えた弟子たちは、彼らを火で滅ぼすべきだと呪いますが、イエス様はそれも叱責され、他の場所に移動されます。   イエス様がどこに行っても弟子たちは従いますと公言します。このような稚気ある弟子たちに、イエス様は「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません。」と言われます。すべての動物と人が自分の住む所を作って住んでいるわけですが、イエス様が特にキツネと鳥にたとえた理由を考えてみました。キツネは狡猾で、空中の鳥は鷲です。キツネと鷲は腐った肉を食べます。狡猾で腐ったものを食べる者が力と富を得、誇っていますが、十字架の道はそれを追い求めるものではないということでしょう。   今朝の説教は、箴言28章の「悪しき者は、追う者もいないのに逃げるが、正しい人は若獅子のように頼もしい。1」でした。「追う者もいないのに逃げる」という言葉は何か痛いです。イギリスの心理学者スティーブ・テイラーが「現代人は少しずつ狂っている」と言いましたが、認めざるを得ない診断だと思います。不安でなければ耐えられない現代人はすべてそうです。誰も追いかけてくる者がいないのに、リスがチェンホイールで回るように飛び回ります。獅子に追ってくるなら逃げるだろうが、追ってくる獅子はいません。ただ、自分が被害意識も持たず、獅子のように大胆に生きれば良いのです。   日常は重要です。生きるということは、いかに幸いなことでしょうか?どんな人生であっても、人生という贈り物を受けた人間は幸いです。しかし、使命を受けた人は日常に縛られません。優先順位を決めるということは、重要なものと重要でないものを区別し、重要ではないものを捨てるためのではありません。すべてのものに対して意味を守るためです。   イエス様に召された人々がイエス様に条件をかけました。「まず行って、父を葬ることをお許しください。」「主よ、あなたに従います。ただ、まず自分の家の者たちに、別れを告げることをお許しください。」ということです。イエス様は親をなくした人に葬儀もさせない、家族に挨拶もさせないような方ではありません。父親を葬るというのは、親を扶養し、後でなくなったら従いますということです。親を奉養しないこの時代の言葉に置き換えれば、退職し、子どもたちを結婚させてから従いますということです。   それは時間的な優先順位ではなく、価値の優先順位です。自分が価値があると思うことに先に従うだけです。捨てないと従えません。そして従わなければ握っていたことも取れなくなります。個人的に親がなくなったばかりなので、よく思い出します。親が望んでいた出世のところか、心配ばかりかけたことと、老いて病気にかかった親を寂しくおいていたことが、思い出す度に申し訳ないです。誰でも子どもなら皆そう思いますし、言い訳の余地もありませんが、すべての人は親から離れ、神様の言葉と召しの前に一人で立たなければなりません。自ら聞き従い、身をささげなければなりません。それが優先順位です。

누가복음 QT244 220204금【나를 좇으라 하셔도】누가복음 9장 51~62

누가복음 9장 51~629:51 예수께서 승천하실 기약이 차가매 예루살렘을 향하여 올라가기로 굳게 결심하시고9:52 사자들을 앞서 보내시매 저희가 가서 예수를 위하여 예비하려고 사마리아인의 한 촌에 들어갔더니9:53 예수께서 예루살렘을 향하여 가시는고로 저희가 받아 들이지 아니하는지라9:54 제자 야고보와 요한이 이를 보고 가로되 주여 우리가 불을 명하여 하늘로 좇아 내려 저희를 멸하라 하기를 원하시나이까9:55 예수께서 돌아보시며 꾸짖으시고9:56 함께 다른 촌으로…

ルカの福音書 QT23 220203木【不信仰な曲がった時代】ルカ 9章 37~50

ルカ 9章 37~509:37 次の日、一行が山から下りて来ると、大勢の群衆がイエスを迎えた。9:38 すると見よ、群衆の中から、一人の人が叫んで言った。「先生、お願いします。息子を見てやってください。私の一人息子です。9:39 ご覧ください。霊がこの子に取りつくと、突然叫びます。そして、引きつけを起こさせて泡を吹かせ、打ちのめして、なかなか離れようとしません。9:40 あなたのお弟子たちに、霊を追い出してくださいとお願いしたのですが、できませんでした。」9:41 イエスは答えられた。「ああ、不信仰な曲がった時代だ。いつまで、わたしはあなたがたと一緒にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか。あなたの子をここに連れて来なさい。」9:42 その子が来る途中でも、悪霊は彼を倒して引きつけを起こさせた。しかし、イエスは汚れた霊を叱り、その子を癒やして父親に渡された。9:43 人々はみな、神の偉大さに驚嘆した。イエスがなさったすべてのことに人々がみな驚いていると、イエスは弟子たちにこう言われた。9:44 「あなたがたは、これらのことばを自分の耳に入れておきなさい。人の子は、人々の手に渡されようとしています。」9:45 しかし、弟子たちには、このことばが理解できなかった。彼らには分からないように、彼らから隠されていたのであった。彼らは、このことばについてイエスに尋ねるのを恐れていた。9:46 さて、弟子たちの間で、だれが一番偉いかという議論が持ち上がった。9:47 しかし、イエスは彼らの心にある考えを知り、一人の子どもの手を取って、自分のそばに立たせ、9:48 彼らに言われた。「だれでも、このような子どもを、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。また、だれでもわたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。あなたがた皆の中で一番小さい者が、一番偉いのです。」9:49 さて、ヨハネが言った。「先生。あなたの名によって悪霊を追い出している人を見たので、やめさせようとしました。その人が私たちについて来なかったからです。」9:50 しかし、イエスは彼に言われた。「やめさせてはいけません。あなたがたに反対しない人は、あなたがたの味方です。」   イエス様が祈っていた間に、弟子たちは町である親に息子に入っている悪霊を追い出すようと頼まれましたが、できませんでした。親は息子を連れてイエス様を直接訪れました。これを聞いたイエス様はこう言われます。「イエスは答えられた。ああ、不信仰な曲がった時代だ。いつまで、わたしはあなたがたと一緒にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか。あなたの子をここに連れて来なさい。」マタイ、マルコ、ルカがともにこれを記していますが、この厳しい言葉はイエス様が悪霊につかれた子の親にしたことではなく、「弟子たち」に言われた言葉です。   マタイの福音書とマルコ福音書では、後に弟子たちがイエス様になぜ自分たちは悪霊を追い出せなかったですかと質問しますが、それぞれの答えはこうです。 「マタイ 17:20 あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに言います。もし、からし種ほどの信仰があるなら、この山に『ここからあそこに移れ』と言えば移ります。あなたがたにできないことは何もありません。」。「マルコ9:29この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出すことができません。」信仰がない、または祈りが足りないということですが、それだけではわかりにくいです。信仰と祈りの充分な分量が分からないからです。   イエス様が祈っておられた時に弟子たちが町で病気を治し、悪霊を追い出そうとしていたこと、そして悪霊につかれた息子の親がイエス様のところに来て弟子たちを恨みながら、つげぐちをしたこと、そして今朝の本文、ルカの福音書の中で、誰が偉いなのかをめぐって議論が起こったこと、それにイエス様が」「一番小さい者が、一番偉い」と言われたことなどを考えると、弟子たちはすでにイエス様の権威と自分たちに委任された力を信じて、町で賑わっていたかもしれません。イエス様は、それを「不信仰な曲がった時代」と懲らしめられたのではないでしょうか。   これに関連して、マタイの福音書の7章の言葉で確認できるいくつかの事実があります。イエスの権威と力は、聖徒に与えられるということですが、それ自体が信仰の証ではなく、それが信仰を証明するでもないということです。「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。その日には多くの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。』しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。『わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。』7:21‐23」主の名によって多くの「権能」を行ったとしても、イエス様は「不法」を行う者、その人を知らないと言われます。マタイによる福音書の7章の「不法」は、今日、ルカによる福音書の「曲がった時、不信仰」です。仕えようとせず、信仰が地位になるとき、それが信仰のないものになり、曲がった時の不法になります。  

누가복음 QT23 220203목【믿음이 없고 패역한 세대】누가복음 9장 37~50

누가복음 9장 37~509:37 이튿날 산에서 내려 오시니 큰 무리가 맞을쌔9:38 무리 중에 한 사람이 소리질러 가로되 선생님 청컨대 내 아들을 돌아보아 주옵소서 이는 내 외아들이니이다9:39 귀신이 저를 잡아 졸지에 부르짖게 하고 경련을 일으켜 거품을 흘리게 하며 심히 상하게 하고야 겨우 떠나 가나이다9:40 당신의 제자들에게 내어 쫓아 주기를 구하였으나 저희가 능히 못하더이다9:41 예수께서 대답하여 가라사대 믿음이…

ルカの福音書 QT22 220202水【信仰告白,その後】ルカ 9章 18~36

ルカ 9章 18~369:18 さて、イエスが一人で祈っておられたとき、弟子たちも一緒にいた。イエスは彼らにお尋ねになった。「群衆はわたしのことをだれだと言っていますか。」9:19 彼らは答えた。「バプテスマのヨハネだと言っています。エリヤだと言う人たち、昔の預言者の一人が生き返ったのだと言う人たちもいます。」9:20 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」ペテロが答えた。「神のキリストです。」9:21 するとイエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じられた。9:22 そして、人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日目によみがえらなければならない、と語られた。9:23 イエスは皆に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。9:24 自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを救うのです。9:25 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の益があるでしょうか。9:26 だれでも、わたしとわたしのことばを恥じるなら、人の子もまた、自分と父と聖なる御使いの栄光を帯びてやって来るとき、その人を恥じます。9:27 まことに、あなたがたに言います。ここに立っている人たちの中には、神の国を見るまで、決して死を味わわない人たちがいます。」9:28 これらのことを教えてから八日ほどして、イエスはペテロとヨハネとヤコブを連れて、祈るために山に登られた。9:29 祈っておられると、その御顔の様子が変わり、その衣は白く光り輝いた。9:30 そして、見よ、二人の人がイエスと語り合っていた。それはモーセとエリヤで、9:31 栄光のうちに現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について、話していたのであった。9:32 ペテロと仲間たちは眠くてたまらなかったが、はっきり目が覚めると、イエスの栄光と、イエスと一緒に立っている二人の人が見えた。9:33 この二人がイエスと別れようとしたとき、ペテロがイエスに言った。「先生。私たちがここにいることはすばらしいことです。幕屋を三つ造りましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために。」ペテロは自分の言っていることが分かっていなかった。9:34 ペテロがこう言っているうちに、雲がわき起こって彼らをおおった。彼らが雲の中に入ると、弟子たちは恐ろしくなった。9:35 すると雲の中から言う声がした。「これはわたしの選んだ子。彼の言うことを聞け。」9:36 この声がしたとき、そこに見えたのはイエスだけであった。弟子たちは沈黙を守り、当時は自分たちの見たことをいっさい、だれにも話さなかった。   20節でペテロが「神のキリストです」と告白しましたが,マタイ16章では,「あなたは生ける神の子キリストです。16」と伝えています。この短い告白に従って告白することができれば、安定と平和があります。「あなた」は遠くにいる神的存在ではなく、人間として来られ、今、私たちの隣におられるイエス様です。そのイエス様は人間の救いのために来られた「キリスト」であり、キリスト・イエスは本来「神の子」であるからです。   これを信じることができれば、これ以上の安定と平和はありません。イエス(Ιησου) キリスト(Χριστο) 神様の(Θεου) 子(Υιο) 救い主(Σωτηρ) のギリシャ語の頭文字を取ってみると「イクトゥス(ΙΧΘΥΣ)」になりますが、意味は「魚」です。ということで迫害された初代教会の時代には、魚の表示でお互いに信仰告白を確認しました。それは今まで続いています。   ペテロが信仰告白をした後、イエス様の会話は急進的に展開していきます。まだ、言われたこともなかったイエス様の使命とビジョンを初めて弟子たちに共有されます。信仰告白の上で起こったことです。神様の御心を知るためには、まず、自分の信仰の実在を告白しなければなりません。弟子たちはまだ理解できませんが、イエス様は気にせず、神様のご計画の全貌を知らせます。信仰告白の上に教会を立てなければならないからです。   22節で「苦しみを受け、捨てられ、殺され、三日目によみがえる」という受難と復活について,23節では直接「十字架」に言及しました。さらに、弟子たちに「日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」という強い献身を求められました。私たちにとって、「十字架」という言葉は慣れているかもしれませんが、当時の弟子たちにとっては、十字架は禅問答のような言葉でした。神様の御心を知り、それに従う聖徒であるなら、自分の信仰告白を常に更新しなければなりません。告白する信仰の言葉の上に神様の御言葉が与えられ、御旨が現れるからです。告白の言葉を整えていきたいと思います。  

누가복음 QT22 220202수【신앙고백 그 이후】누가복음 9장 18~36

누가복음 9장 18~369:18 예수께서 따로 기도하실 때에 제자들이 주와 함께 있더니 물어 가라사대 무리가 나를 누구라고 하느냐9:19 대답하여 가로되 세례 요한이라 하고 더러는 엘리야라 더러는 옛 선지자 중의 하나가 살아났다 하나이다9:20 예수께서 이르시되 너희는 나를 누구라 하느냐 베드로가 대답하여 가로되 하나님의 그리스도시니이다 하니9:21 경계하사 이 말을 아무에게도 이르지 말라 명하시고9:22 가라사대 인자가 많은 고난을 받고…

ルカの福音書 QT21 220201火【伝道者と五つのパン、二匹の魚】ルカ 9章 1~17

ルカ 9章 1~179:1 イエスは十二人を呼び集めて、すべての悪霊を制して病気を癒やす力と権威を、彼らにお授けになった。9:2 そして、神の国を宣べ伝え、病人を治すために、こう言って彼らを遣わされた。9:3 「旅には何も持って行かないようにしなさい。杖も袋もパンも金もです。また下着も、それぞれ二枚持ってはいけません。9:4 どの家に入っても、そこにとどまり、そこから出かけなさい。9:5 人々があなたがたを受け入れないなら、その町を出て行くときに、彼らに対する証言として、足のちりを払い落としなさい。」9:6 十二人は出て行って、村から村へと巡りながら、いたるところで福音を宣べ伝え、癒やしを行った。9:7 さて、領主ヘロデはこのすべての出来事を聞いて、ひどく当惑していた。ある人たちは、「ヨハネが死人の中からよみがえったのだ」と言い、9:8 別の人たちは、「エリヤが現れたのだ」と言い、さらに別の人たちは、「昔の預言者の一人が生き返ったのだ」と言っていたからである。9:9 ヘロデは言った。「ヨハネは私が首をはねた。このようなうわさがあるこの人は、いったいだれなのだろうか。」ヘロデはイエスに会ってみたいと思った。9:10 さて、使徒たちは帰って来て、自分たちがしたことをすべて報告した。それからイエスは彼らを連れて、ベツサイダという町へひそかに退かれた。9:11 ところが、それを知った群衆がイエスの後について来た。イエスは彼らを喜んで迎え、神の国のことを話し、また、癒やしを必要とする人たちを治された。9:12 日が傾き始めたので、十二人はみもとに来て言った。「群衆を解散させてください。そうすれば、彼らは周りの村や里に行き、宿をとり、何か食べることができるでしょう。私たちは、このような寂しいところにいるのですから。」9:13 すると、イエスは彼らに言われた。「あなたがたが、あの人たちに食べる物をあげなさい。」彼らは言った。「私たちには五つのパンと二匹の魚しかありません。私たちが出かけて行って、この民全員のために食べ物を買うのでしょうか。」9:14 というのは、男だけでおよそ五千人もいたからである。しかし、イエスは弟子たちに言われた。「人々を、五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい。」9:15 弟子たちはそのとおりにして、全員を座らせた。9:16 そこでイエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げ、それらのゆえに神をほめたたえてそれを裂き、群衆に配るように弟子たちにお与えになった。9:17 人々はみな、食べて満腹した。そして余ったパン切れを集めると、十二かごあった。   本文にはイエス様が教えてくださった伝道者の生き方、そして五つのパン、二匹の魚の記事があります。それぞれ異なる話しが一日の本文にあるので難しいです。まず、伝道者の生き方について考えてみました。「旅には何も持って行かないようにしなさい。杖も袋もパンも金もです。また下着も、それぞれ二枚持ってはいけません。どの家に入っても、そこにとどまり、そこから出かけなさい。人々があなたがたを受け入れないなら、その町を出て行くときに、彼らに対する証言として、足のちりを払い落としなさい。3‐5」準備してかた出発しても地元で調達しても、源泉的な供給策は神様であるからです。これのゆえに伝道者が神様の働きをする自信を持ちます。人のしたいことなら人が準備しなければならず、神様の働きなら神様がご用意くださいます。その中で人が神様の働きに用いられるということです。   人と財政は宣教の主体ではありません。宣教の主体は神様であり、人と財政は神様が用いられる道具です。それで、神様の働きをする人は、神様のご用意されたものの上で自分の人生を生きるので、不安の理由がありません。信仰のゆえに不安であるならばそれは矛盾です。信仰ではないかもしれません。「杖も袋もパンも金もです。また下着も、それぞれ二枚持ってはいけません」と言われたのは、杖に頼らず、パンに頼らず、お金に頼らず、少し備蓄した生活の余裕にも頼ってはいけないということです。神様を信じるということは、神様ではないものを信じないということです。   長い留学生活を終えて神学校に入る時、もう家族がおり、お金は一杯もありませんでした。日本政府と大学から多くの恩恵を受けて勉強した私としては、4年間支払わなければならない神学校の学費は現実的に不可能な金額でした。入学すると仕事はできず、貯えもありませんでした。神学校で私を相談したスタッフは、神学校に入るような信仰があるのかチェックして、それから財政状況をチェックしました。私はそれが同じことだと思いましたが、別々に聞かれました。信仰はあるようですが、お金はないようですので、学費について信仰を強調せずに、学費をきちんと準備するようにと言われました。周りにも大変心配をかけました。しかし、私は「今でなければ信仰で生きる機会はない」と宣言しました。   その時も今も同じ考えを持っています。「私が行けば、私が準備しなければならない、しかし神様が召されれば、神様がご用意なさる。」私は4年間、今朝の本文に出てくる五つのパン、二匹の魚を食べて生活しました。毎朝、神様がくださるマナを食べて生きました。どこから来たのかわかりませんが、授業料と生活費は与えられました。ぎりぎりではありませんでした。かえって困っている神学生を助け、財政にも教会を精一杯仕えました。個人的に宣教師もサポートしました。神様の働きは、持っているものを分けて使うことではなく、神様の働きにささげ、そのうえに神様与えられるものを持ってしていきます。宣教の主体は神様であるからです。それが五つのパン、二匹の魚の奇跡です。そういえば、伝道者の生き方と五つのパン、二匹の魚の奇跡は、異なるテーマではないかもしれません。

누가복음 QT21 220201화【전도자와 오병이어】누가복음 9장 1~17

누가복음 9장 1~179:1 예수께서 열 두 제자를 불러 모으사 모든 귀신을 제어하며 병을 고치는 능력과 권세를 주시고9:2 하나님의 나라를 전파하며 앓는 자를 고치게 하려고 내어 보내시며9:3 이르시되 여행을 위하여 아무 것도 가지지 말라 지팡이나 주머니나 양식이나 돈이나 두 벌 옷을 가지지 말며9:4 어느 집에 들어가든지 거기서 유하다가 거기서 떠나라9:5 누구든지 너희를 영접지 아니하거든 그 성에서…