ルカの福音書 QT14 22024月【不滅の遺伝子】ルカ 7章 11~17

ルカ 7章 11~177:11 それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちと大勢の群衆も一緒に行った。7:12 イエスが町の門に近づかれると、見よ、ある母親の一人息子が、死んで担ぎ出されるところであった。その母親はやもめで、その町の人々が大勢、彼女に付き添っていた。7:13 主はその母親を見て深くあわれみ、「泣かなくてもよい」と言われた。7:14 そして近寄って棺に触れられると、担いでいた人たちは立ち止まった。イエスは言われた。「若者よ、あなたに言う。起きなさい。」7:15 すると、その死人が起き上がって、ものを言い始めた。イエスは彼を母親に返された。7:16 人々はみな恐れを抱き、「偉大な預言者が私たちのうちに現れた」とか、「神がご自分の民を顧みてくださった」と言って、神をあがめた。7:17 イエスについてのこの話は、ユダヤ全土と周辺の地域一帯に広まった。   リチャード・ドキンスという英国の生物学者が書いた『利己的遺伝子(The Selfish Gene)』という本があります。科学書としてはまれに多くの人が読みました。19世紀半ば以降の知識人がカール・マルクス『共産党宣言』に熱狂したように、20世紀後半の科学主義の教育を受けた人々は、リチャード・ドキンスの「利己的遺伝子」という進化論に真理を与え、それに熱狂しました。私にはそれにに反論するほどの生物学的知識はありませんが、反論したくもありません。   なぜなら、進化を認めているからです。私たちが神様の創造を言うとき、それはある日、突然生じた奇跡的な創造ではありません。神様が秩序を整え、その秩序の上で創造された、または創造されていることをいいます。進化はその秩序の一つです。進化生物学は学術的大きいな発見だと思いますが、それも現象を観察したものであって、根源を究明したものではありません。世界の構造が科学的に明らかになればなるほど、神様の創造の秘密が私たちに啓示されることであります。   『利己的遺伝子』は、ドキンスの文学的表現であって、出版社がマーケティングのためにこれをタイトルとしましたが、もともとドキンスは「不滅の遺伝子(ImmortalGene)」をタイトルにしたかったのです。生物学では、人間が死ぬと微生物によって分解され、後に消えるのですが、進化の世界の中で遺伝子は消えないということです。科学は死んだら終わりだと言って来ましたが、もう一つの科学は不滅だと言っているのです。といえるなら、「魂」という言葉と「永遠の命」という言葉も科学と話し合いができるのではないでしょうか。「不滅」を発見した以上、「永遠」をも認めなければなりません。生物学的な死によって人間の存在が根本的に消滅するわけではありません。   今朝の祈りの説教は箴言27章25節でした。「草が刈り取られ、若草が現れ、山々の青草も集められると」 草を切ってからものびます。終わりのようで絶望のようですが、また命があります。人間は生物学的に確かに死にますが、それは終わりではありません。死んでも消滅しないまま、その日に創造主の神様に導かれて復活します。こういう意味で、私が持っている復活の信仰が、決して非科学的なものとは思っていません。   今日の本文で、イエス様はナインという町の未亡人の死んだ独りの子をよみがえられました。神様が死んだ人を再び生かす話が、疑いもなく、抵抗もなく信じられるのですから、信仰の人に与えられた信仰の遺伝子は不滅かと思います。科学的な思考をする人々はこれを説話と言い、人の作り話だと言います。死んだら終わらなければならないからです。というのは彼らにも信仰があるのです。人間は、死んだら間違いなく終わりだということを信じているのです。しかし、科学にしても宗教にしてもまだ確認されたことは何もありません。何を信じるのかが残っているだけです。

누가복음 QT15 220125화【불멸의 유전자】누가복음 7장 11~17

누가복음 7장 11~177:11 그 후에 예수께서 나인이란 성으로 가실새 제자와 허다한 무리가동행하더니7:12 성문에 가까이 오실 때에 사람들이 한 죽은 자를 메고 나오니 이는 그 어미의 독자요 어미는 과부라 그 성의 많은 사람도 그와 함께 나오거늘7:13 주께서 과부를 보시고 불쌍히 여기사 울지 말라 하시고7:14 가까이 오사 그 관에 손을 대시니 멘 자들이 서는지라 예수께서 가라사대 청년아…

ルカの福音書 QT14 22024月【御言葉を信じる信仰】ルカ 7章 1~10

ルカ 7章 1~107:1 イエスは、耳を傾けている人々にこれらのことばをすべて話し終えると、カペナウムに入られた。7:2 時に、ある百人隊長に重んじられていた一人のしもべが、病気で死にかけていた。7:3 百人隊長はイエスのことを聞き、みもとにユダヤ人の長老たちを送って、自分のしもべを助けに来てくださいとお願いした。7:4 イエスのもとに来たその人たちは、熱心にお願いして言った。「この人は、あなたにそうしていただく資格のある人です。7:5 私たちの国民を愛し、私たちのために自ら会堂を建ててくれました。」7:6 そこで、イエスは彼らと一緒に行かれた。ところが、百人隊長の家からあまり遠くないところまで来たとき、百人隊長は友人たちを使いに出して、イエスにこう伝えた。「主よ、わざわざ、ご足労くださるには及びません。あなた様を、私のような者の家の屋根の下にお入れする資格はありませんので。7:7 ですから、私自身があなた様のもとに伺うのも、ふさわしいとは思いませんでした。ただ、おことばを下さい。そうして私のしもべを癒やしてください。7:8 と申しますのは、私も権威の下に置かれている者だからです。私自身の下にも兵士たちがいて、その一人に『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをしろ』と言えば、そのようにします。」7:9 イエスはこれを聞いて驚き、振り向いて、ついて来ていた群衆に言われた。「あなたがたに言いますが、わたしはイスラエルのうちでも、これほどの信仰を見たことがありません。」7:10 使いに送られた人たちが家に戻ると、そのしもべは良くなっていた。   今日の本文は、イエス様が百人隊長のしもべを癒し、百人隊長の信仰を褒めるところです。百人隊長はイタリアからパレスチナに派遣されたローマ軍の将校です。植民地を支配する軍人であり、彼の言う通り、言葉言うだけで部下たちは動く権威ある人です。そんな彼が歩き回っていました。それは、死にかかっている自分のしもべを癒すためです。   イエス様が賞賛された百人隊長の信仰の中には、「人に対する尊重」もあるでしょう。しもべを生かしたのはイエス様ですが、イエス様は百人隊長の信仰を褒め、彼に功績を回しました。百人隊長としもべがどのような関係であり、どのような事情があるのか​​は分かりませんが、彼は支配者であり、軍人でしたが、人間の命を大切にする人間でした。それは確かに「褒められる信仰」です。   百人隊長はしもべのために走り回りましたが、イエス様の御言葉の前では止まります。百人隊長は、イエス様が自分の家までこれらることを恐縮と思いました。しかし、しもべを生かさなければならなかったので、イエス様に「おことばを下さい。そうして私のしもべを癒やしてください」とお願いします。自分も軍人ですから言葉でいえば、手下の人々が動くように、イエス様がみことばを下されば死にかかっているしもべは癒されますということです。イエス様は、イスラエルにこのような信仰を見たことがないと言われます。   神様が御言葉を下してもその結果を見る前には信じない人々がイスラエル人です。彼らは、奇跡のある所を探し回りますが、人のためには苦労しません。百人隊長は、人のためには歩き回り、みことばの前に止まりました。癒しの集会に集まる人、伝道と奉仕に熱心な人、敬虔に熱心な人は確かに信仰の人ですが、みことばの力を信じ、みことばの前にとどまる信仰が真の信仰です。   救いの御言葉、命の御言葉は、見て聞いて触れるような感覚に依存するものではありません。神様が御言葉を下さればそれが現実になるということを信じ、その御言葉に耳を傾けることが信仰です。百人隊長の信仰から二つの「尊重」 を学びます。「人に対する尊重」、「人を生かす神様の御言葉に対する尊重」 です。

누가복음 QT14 220124월【말씀을 믿는 믿음】누가복음 7장 1~10

누가복음 7장 1~107:1 예수께서 모든 말씀을 백성에게 들려 주시기를 마치신 후에 가버나움으로 들어가시니라7:2 어떤 백부장의 사랑하는 종이 병들어 죽게 되었더니7:3 예수의 소문을 듣고 유대인의 장로 몇을 보내어 오셔서 그 종을 구원 하시기를 청한지라7:4 이에 저희가 예수께 나아와 간절히 구하여 가로되 이 일을 하시는 것이 이 사람에게는 합당하니이다7:5 저가 우리 민족을 사랑하고 또한 우리를 위하여 회당을…

ルカの福音書 QT13 22022土【積極的な人間関係】ルカ 6章 27~38

ルカ 6章 27~386:27 しかし、これを聞いているあなたがたに、わたしは言います。あなたがたの敵を愛しなさい。あなたがたを憎む者たちに善を行いなさい。6:28 あなたがたを呪う者たちを祝福しなさい。あなたがたを侮辱する者たちのために祈りなさい。6:29 あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬も向けなさい。あなたの上着を奪い取る者には、下着も拒んではいけません。6:30 求める者には、だれにでも与えなさい。あなたのものを奪い取る者から、取り戻してはいけません。6:31 人からしてもらいたいと望むとおりに、人にしなさい。6:32 自分を愛してくれる者たちを愛したとしても、あなたがたにどんな恵みがあるでしょうか。罪人たちでも、自分を愛してくれる者たちを愛しています。6:33 自分に良いことをしてくれる者たちに良いことをしたとしても、あなたがたにどんな恵みがあるでしょうか。罪人たちでも同じことをしています。6:34 返してもらうつもりで人に貸したとしても、あなたがたにどんな恵みがあるでしょうか。罪人たちでも、同じだけ返してもらうつもりで、罪人たちに貸しています。6:35 しかし、あなたがたは自分の敵を愛しなさい。彼らに良くしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いは多く、あなたがたは、いと高き方の子どもになります。いと高き方は、恩知らずな者にも悪人にもあわれみ深いからです。6:36 あなたがたの父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くなりなさい。6:37 さばいてはいけません。そうすれば、あなたがたもさばかれません。人を不義に定めてはいけません。そうすれば、あなたがたも不義に定められません。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦されます。6:38 与えなさい。そうすれば、あなたがたも与えられます。詰め込んだり、揺すって入れたり、盛り上げたりして、気前良く量って懐に入れてもらえます。あなたがたが量るその秤で、あなたがたも量り返してもらえるからです。」   生きることは、自分の人生の中に入っている人々と関係することです。私たちは、遠くにいる未知の誰かと生きるのではなく、今、ここに与えられた人々と一緒に生きています。すべての人は、人生を通して少ない人々に出会い、彼らに仕え、彼らに仕えられながら生きます。私たちに与えられた縁ろいうのは、少数を愛する機会です。   ということで関係は常に重要です。私を知らない人は、私を憎まないし、私を呪うこともしないし、侮辱もしません。利害のため、感情のために葛藤を起こすこともありません。問題は、近くいる人、一緒に生きている人々との関係です。本文で言われる「人、罪人、敵」は、私の近くにいます。今、私と人間関係をしている人です。   彼らから逃げれば、人生から逃げることです。「あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬も向けなさい」とうのは、負けなさいという教えではありません。負けるようですが、それこそが、積極的な人間関係を通じて関係の危機に打ち勝つことです。「与えなさい。そうすれば、あなたがたも与えられます。詰め込んだり、揺すって入れたり、盛り上げたりして、気前良く量って懐に入れてもらえます。あなたがたが量るその秤で、あなたがたも量り返してもらえるからです。」先に仕える人が仕えられます。

누가복음 QT13 220122토【적극적 인간관계】누가복음 6장 27~38

누가복음 6장 27~386:27 그러나 너희 듣는 자에게 내가 이르노니 너희 원수를 사랑하며 너희를 미워하는 자를 선대하며6:28 너희를 저주하는 자를 위하여 축복하며 너희를 모욕하는 자를 위하여 기도하라6:29 네 이 뺨을 치는 자에게 저 뺨도 돌려 대며 네 겉옷을 빼앗는 자에게 속옷도 금하지 말라6:30 무릇 네게 구하는 자에게 주며 네 것을 가져가는 자에게 다시 달라하지 말며6:31 남에게…

ルカの福音書 QT12 22021金【山上八幸と平地四幸】ルカ 6章 12~26

ルカ 6章 12~266:12 そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。6:13 そして、夜が明けると弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び、彼らに使徒という名をお与えになった。6:14 すなわち、ペテロという名を与えられたシモンとその兄弟アンデレ、そしてヤコブ、ヨハネ、ピリポ、バルトロマイ、6:15 マタイ、トマス、アルパヨの子ヤコブ、熱心党員と呼ばれていたシモン、6:16 ヤコブの子ユダ、イスカリオテのユダで、このユダが裏切る者となった。6:17 それからイエスは彼らとともに山を下り、平らなところにお立ちになった。大勢の弟子たちの群れや、ユダヤ全土、エルサレム、ツロやシドンの海岸地方から来た、おびただしい数の人々がそこにいた。6:18 彼らはイエスの教えを聞くため、また病気を治してもらうために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人たちも癒やしてもらっていた。6:19 群衆はみな何とかしてイエスにさわろうとしていた。イエスから力が出て、すべての人を癒やしていたからである。6:20 イエスは目を上げて弟子たちを見つめながら、話し始められた。「貧しい人たちは幸いです。神の国はあなたがたのものだからです。6:21 今飢えている人たちは幸いです。あなたがたは満ち足りるようになるからです。今泣いている人たちは幸いです。あなたがたは笑うようになるからです。6:22 人々があなたがたを憎むとき、人の子のゆえに排除し、ののしり、あなたがたの名を悪しざまにけなすとき、あなたがたは幸いです。6:23 その日には躍り上がって喜びなさい。見なさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。彼らの先祖たちも、預言者たちに同じことをしたのです。6:24 しかし、富んでいるあなたがたは哀れです。あなたがたは慰めをすでに受けているからです。6:25 今満腹しているあなたがたは哀れです。あなたがたは飢えるようになるからです。今笑っているあなたがたは哀れです。あなたがたは泣き悲しむようになるからです。6:26 人々がみな、あなたがたをほめるとき、あなたがたは哀れです。彼らの先祖たちも、偽預言者たちに同じことをしたのです。   ルカは、イエス様の言行を直接見たり、聞いたりしてその場で記録したものではなく、資料を通して編集したものです。四つの福音書の中で、マルコの福音書が最初に書かれ、マタイの福音書とルカの福音書はマルコの福音書を参考にして書かれ、さらにルカの福音書は別のイエス様の記録であるいわゆる「Q文書」を参照して編集しました。ということで福音書の中でも同じ時間、同じ出来事としても、少しずつ違いがあったり、添削があるのです。マタイにはマタイの読者がおり、ルカにはルカの読者がいたからです。著者は彼らの認識の範囲の内で編集したと思います。その意図まで読み取ることができれば,福音書を読む楽しみはさらなるものです。   ルカの福音書 6章を読んでいると、半分の「八つの幸い」出てきます。ルカは,マタイの福音書 5章に出てくる山上の説教の「八つの幸い」の一部だけを紹介しているからです。面白いのは、ルカはそれを山ではなく平地だと紹介します。今日は、マタイの「山上の八つの幸い」と、ルカの「平地の四つの幸い」を比較してみたいと思います。順番にすると、マタイの八つの幸いの第一、第二、第四、第八の幸いが、ルカの福音書に紹介されています。   「6:20 イエスは目を上げて弟子たちを見つめながら、話し始められた。「貧しい人たちは幸いです。神の国はあなたがたのものだからです。(マタイの第1の幸い、マタイの福音書5:3、心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです)6:21 今飢えている人たちは幸いです。あなたがたは満ち足りるようになるからです。(マタイの第二の幸い、マタイの福音書第5:6、義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです)今泣いている人たちは幸いです。あなたがたは笑うようになるからです。(マタイの第四の幸い、マタイの福音書第5:4、悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです)6:22 人々があなたがたを憎むとき、人の子のゆえに排除し、ののしり、あなたがたの名を悪しざまにけなすとき、あなたがたは幸いです。(マタイの第八の幸い、マタイの福音書第5:10、義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです)」   それから、ルカが言及していない部分ですが、マタイの八つの幸いの中で三、五、六、七の幸いに当たります。「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。(マタイ5:5)」「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです(マタイ5:7)」「心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです(マタイ5:8)」「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。(マタイ5:9)」   ルカは、確かに八つの幸いの記録を閲覧したと思います。しかし、八つの幸いの全部を記録したことではありません。その理由については、つながる文脈を通して考えることができます。「しかし、富んでいるあなたがたは哀れです。あなたがたは慰めをすでに受けているからです。今満腹しているあなたがたは哀れです。あなたがたは飢えるようになるからです。今笑っているあなたがたは哀れです。あなたがたは泣き悲しむようになるからです。人々がみな、あなたがたをほめるとき、あなたがたは哀れです。彼らの先祖たちも、偽預言者たちに同じことをしたのです。6:24‐26」   八つの幸いの主語は、「貧しい者、悲しむ者、柔和な者、義を求める者、憐れむ者、清潔な者、平和の者、迫害される者」ですが、ルカは、その中で「貧しい者、悲しむ者、義を求める者、迫害される者」だけを紹介しました。これはつまり「弱者」です。これらの「弱者」は確かにルカの福音書に含まれています。彼らには神様の慰めという希望があるからです。しかし、八つの幸いを2つに分けるとしたら、片方には持っている人たちへの教えもいます。彼らに求められているのは、柔和、憐れみ、清潔、平和です。ところがルカの平地の四つの幸いにはありません。   ルカの平地の四つの幸いは、祝福を受けるための教えではなく、災いを免れるための教えだからです。イエス様は当時の既得権者に対する怒りでこれらを言われました。ルカはその状況を充実に編集したのです。今ここには貧しい人々がおり、泣いている人々がおり、差別のない公平を求めている人がいます。   持っている人々に対する厳しい警告です。柔和と憐れみ、聖潔と平和のない既得権者に対する災いの宣言です。彼らの富と楽しみは、貧しい人々が差別され、泣いている事の上に与えられているものです。だからでしょうか。マタイの福音書では、八つの幸いの話が終わると、「世の光と塩」について語られます。欲では満足することができません。わたしたちの時代と隣人の貧しさと悲しみに対する柔和、憐れみ、清潔と平和の心がある時、慰められる、満ち足らせ、天の御国が自分のものになるのです。  

누가복음 QT12 220121금【산상팔복과 평지사복】누가복음 6장 12~26

누가복음 6장 12~266:12 이 때에 예수께서 기도하시러 산으로 가사 밤이 맞도록 하나님께 기도하시고6:13 밝으매 그 제자들을 부르사 그 중에서 열 둘을 택하여 사도라 칭하셨으니6:14 곧 베드로라고도 이름 주신 시몬과 및 그 형제 안드레와 및 야고보와 요한과 빌립과 바돌로매와6:15 마태와 도마와 및 알패오의 아들 야고보와 및 셀롯이라 하는 시몬과6:16 및 야고보의 아들 유다와 및 예수를 파는…

ルカの福音書 QT11 22020木【安息日を守るということの意味】ルカ 6章 1~11

ルカ 6章 1~116:1 ある安息日に、イエスが麦畑を通っておられたときのことである。弟子たちは穂を摘んで、手でもみながら食べていた。6:2 すると、パリサイ人のうちの何人かが言った。「なぜあなたがたは、安息日にしてはならないことをするのですか。」6:3 イエスは彼らに答えられた。「ダビデと供の者たちが空腹になったとき、ダビデが何をしたか、6:4 どのようにして、神の家に入り、祭司以外はだれも食べてはならない臨在のパンを取って食べ、供の者たちにも与えたか、読んだことがないのですか。」6:5 そして彼らに言われた。「人の子は安息日の主です。」6:6 別の安息日に、イエスは会堂に入って教えておられた。そこに右手の萎えた人がいた。6:7 律法学者たちやパリサイ人たちは、イエスが安息日に癒やしを行うかどうか、じっと見つめていた。彼を訴える口実を見つけるためであった。6:8 イエスは彼らの考えを知っておられた。それで、手の萎えた人に言われた。「立って、真ん中に出なさい。」その人は起き上がり、そこに立った。6:9 イエスは彼らに言われた。「あなたがたに尋ねますが、安息日に律法にかなっているのは、善を行うことですか、それとも悪を行うことですか。いのちを救うことですか、それとも滅ぼすことですか。」6:10 そして彼ら全員を見回してから、その人に「手を伸ばしなさい」と言われた。そのとおりにすると、手は元どおりになった。6:11 彼らは怒りに満ち、イエスをどうするか、話し合いを始めた。   イエス様の弟子たちは人の畑の穂を摘んで手でもみながら食べました。パリサイ人はこれを問題視します。人のものを勝手に食べたからではありません。イスラエルには、空腹の旅人が畑の穂を手で切って食べてもよいという憐れみの律法がありました。パリサイ人が問題にしたのは、その日が安息日だったからです。安息日に穂を摘んだというのは、収穫行為であり、手でもみすりをしたというのは、脱穀行為であり、それは労働に当たり、安息日に働いてはいけないという律法を破ったということです。このようなことを公に問題にしていることを見ると、当時に律法がどのように解釈され、信仰という名で人をどのように押し付けていたのかが分かります。   本質を失うと、本末は転倒します。不当であると思われると、上位の価値に上がって本質を確める必要があります。イエス様は安息日の神学的な整理をしてくださいます。「人の子は安息日の主です。」と言われました。安息日の主人は、イエス様であるということです。安息日が主人ではなく、神様が主人です。礼拝のために安息日を聖く守り、共同体がそれを守らせることは重要なことです。   安息日は、六日を働き、七日目の一日を休むようにとされた神様の制度です。神様が安息日を定めて人を休ませたのは人間性のためです。休まず働く人は人間性を損ないます。体だけ休むのではなく、欲も休まなければなりません。安息日には、地に執着していた人間が息を切り替え、天を仰ぎ、神様を礼拝する日です。それで、欲を捨て、人間性を保ち、信仰を続けます。   言い換えれば、安息日は安息日の主である神様が最も大切にされる人のためのものです。それが安息日の最も上位にある目的です。人を愛して人として来られ、人を大切に思って十字架にかかり、人を憐れんで病気の人々を癒してくださいました。ところが、人のために作った安息日が、安息日を守らない人を押し付けることになっていました。イエス様はそれを指摘します。   私たちが日曜日に礼拝するのは、律法に定められた安息日だからではありません。私たちの主日は、旧約聖書の安息日ではありません。主日の礼拝を聖守しなければ地獄に行くからではありません。神様のふところの中で休むためです。神様が遣わされた所で一週間を働き、主の日には神様の家に帰るためです。だから、礼拝も人のためのものです。人を大切にする礼拝が、すなわち神様を礼拝することです。   旅人が人の畑の穂をとって食べてもよいという律法の意図は、私有財産を保護しないということではなく、空腹の人の食べる権利を与えるためです。生きる権利、食べる権利は神様から与えられています。休む権利も神様からです。安息日を守らなければならないのは義務ではなく、人らしさに戻って礼拝する権利のためです。自分を空にして、神様のみことばで入れ替え、人に仕え、人と分け与え、人に奉仕しながら神様を礼拝する日が主日礼拝です。それが自分自身を守る日です。聖徒が優先順位を決めるとき、もちろん自分より神様を優先しなければなりません。ただ、神様を優先する人は、神様が愛され、大切に思われる人を優先します。

누가복음 QT11 220120목【안식일을 지킨다는 것의 의미】누가복음 6장 1~11

누가복음 6장 1~116:1 안식일에 예수께서 밀밭 사이로 지나가실새 제자들이 이삭을 잘라 손으로 비비어 먹으니6:2 어떤 바리새인들이 말하되 어찌하여 안식일에 하지 못할 일을 하느뇨6:3 예수께서 대답하여 가라사대 다윗이 자기와 및 함께한 자들이 시장할 때에 한 일을 읽지 못하였느냐6:4 그가 하나님의 전에 들어가서 다만 제사장 외에는 먹지 못하는 진설병을 집어 먹고 함께한 자들에게도 주지 아니하였느냐6:5 또 가라사대…