ルカの福音書 QT30 220211金【人目につかない墓】ルカ 11章 37~54

ルカ 11章 37~5411:37 イエスが話し終えられると、一人のパリサイ人が、自分の家で食事をしていただきたい、とお願いした。そこでイエスは家に入って、食卓に着かれた。11:38 そのパリサイ人は、イエスが食事の前に、まずきよめの洗いをなさらないのを見て驚いた。11:39 すると、主は彼に言われた。「なるほど、あなたがたパリサイ人は、杯や皿の外側はきよめるが、その内側は強欲と邪悪で満ちています。11:40 愚かな者たち。外側を造られた方は、内側も造られたのではありませんか。11:41 とにかく、内にあるものを施しに用いなさい。そうすれば、見よ、あなたがたにとって、すべてがきよいものとなります。11:42 だが、わざわいだ、パリサイ人。おまえたちはミント、うん香、あらゆる野菜の十分の一を納めているが、正義と神への愛をおろそかにしている。十分の一もおろそかにしてはいけないが、これこそしなければならないことだ。11:43 わざわいだ、パリサイ人。おまえたちは会堂の上席や、広場であいさつされることが好きだ。11:44 わざわいだ。おまえたちは人目につかない墓のようで、人々は、その上を歩いても気がつかない。」11:45 すると、律法の専門家の一人がイエスに言った。「先生。そのようなことを言われるなら、私たちまで侮辱することになります。」11:46 しかし、イエスは言われた。「おまえたちもわざわいだ。律法の専門家たち。人々には負いきれない荷物を負わせるが、自分は、その荷物に指一本触れようとはしない。11:47 わざわいだ。おまえたちは預言者たちの墓を建てているが、彼らを殺したのは、おまえたちの先祖だ。11:48 こうして、おまえたちは先祖がしたことの証人となり、同意しているのだ。彼らが預言者たちを殺し、おまえたちが墓を建てているのだから。11:49 だから、神の知恵もこう言ったのだ。『わたしは預言者たちや使徒たちを彼らに遣わすが、彼らは、そのうちのある者たちを殺し、ある者たちを迫害する。11:50 それは、世界の基が据えられたときから流されてきた、すべての預言者の血の責任を、この時代が問われるためである。11:51 アベルの血から、祭壇と神の家の間で殺されたザカリヤの血に至るまで。』そうだ。わたしはおまえたちに言う。この時代はその責任を問われる。11:52 わざわいだ、律法の専門家たち。おまえたちは知識の鍵を取り上げて、自分は入らず、入ろうとする人々を妨げたのだ。」11:53 イエスがそこを出て行かれると、律法学者たち、パリサイ人たちはイエスに対して激しい敵意を抱き、多くのことについてしつこく質問攻めを始めた。11:54 彼らは、イエスの口から出ることに、言いがかりをつけようと狙っていたのである。   本文でイエス様が言われた墓は、不正の意味で使われています。「人目につかない墓」とは、土饅頭を作らないで埋葬した墓を言います。なので墓かどうかの区別がつきません。イエス様がパリサイ人に対して人目につかない墓であると言われたのは、彼らが腐ったのかどうかを目では区別できないからです。信仰であると思いましたが、無知であり、敬虔であると思いましたが、傲慢であり、熱心であると思い込んでいましたが暴力であったことはたくさんあります。とはいえ、パリサイ人が嘘をついているわけではありません。自分が墓なのかとうかが分からないだけです。   教会で起こる問題は、信仰のない人が引き起こすのではありません。自分の信仰が良いと思う人々によって問題が起こります。認知偏向現象の中で「ダニング・クルーガー効果」というものがあります。学ぶ大学生を対象に調べたところ、少し知っている人は自分の能力を過大評価する傾向があり、ある程度知っている人はむしろ自分の能力を過小評価する傾向があったということです。パリサイ人というのは、自分の信仰は優れているという確定偏向がある人々です。他人より優れている信仰を持っている思う人の典型です。   自分を疑ってみない人、自分を客観化するメタ認知ができない人は、パリサイ人にとどまってしまいます。大学生の間でこんな言葉があります。学士は「私が何を知っているのかを分かる」、修士は「私が何を知らないのかを分かる」、博士は「私は何を知っているか分からない」しかし、知識の世界で自分が無知であることに気づくのはそれほど時間がかかりません。問題は信念や信仰の領域です。よく信じていると思っている、それが信仰の恐ろしい敵です。慣れている自分ではなく、未知の自分を見つめる力があることを祈ります。

누가복음 QT30 220211금【평토장한 무덤】누가복음 11장 37~54

누가복음 11장 37~5411:37 예수께서 말씀하실 때에 한 바리새인이 자기와 함께 점심 잡수시기를 청하므로 들어가 앉으셨더니11:38 잡수시기 전에 손 씻지 아니하심을 이 바리새인이 보고 이상히 여기는지라11:39 주께서 이르시되 너희 바리새인은 지금 잔과 대접의 겉은 깨끗이 하나 너희 속인즉 탐욕과 악독이 가득하도다11:40 어리석은 자들아 밖을 만드신 이가 속도 만들지 아니하셨느냐11:41 오직 그 안에 있는 것으로 구제하라 그리하면…

ルカの福音書 QT29 220210木【復活の神秘】ルカ 11章 29~36

ルカ 11章 29~3611:29 さて、群衆の数が増えてくると、イエスは話し始められた。「この時代は悪い時代です。しるしを求めますが、しるしは与えられません。ただし、ヨナのしるしは別です。11:30 ヨナがニネベの人々のために、しるしとなったように、人の子がこの時代のために、しるしとなるからです。11:31 南の女王が、さばきのときに、この時代の人々とともに立って、この時代の人々を罪ありとします。彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです。しかし見なさい。ここにソロモンにまさるものがあります。11:32 ニネベの人々が、さばきのときに、この時代の人々とともに立って、この時代の人々を罪ありとします。ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。しかし見なさい。ここにヨナにまさるものがあります。11:33 だれも、明かりをともして、それを穴蔵の中や升の下に置く者はいません。燭台の上に置きます。入って来た人たちに、その光が見えるようにするためです。11:34 からだの明かりは目です。あなたの目が健やかなら全身も明るくなりますが、目が悪いと、からだも暗くなります。11:35 ですから、自分のうちの光が闇にならないように気をつけなさい。11:36 もし、あなたの全身が明るくて何の暗い部分もないなら、明かりがその輝きであなたを照らすときのように、全身が光に満ちたものとなります。」   人間の魂は、特別な体験を通して神様と連合することができると考えるのが神秘主義です。ということで神秘主義者は特別な体験を追い求め、それを「霊的」といいます。非合理的、非理性的、超自然的なものにさらに集中します。したがって論理的に矛盾が生じると思いますが、それも「霊的」ということで理解されます。 中世14世紀に神秘主義が台頭しましたが、その時代はみことばが伝えられなかった時代です。神様のみことばが解釈されず、伝えられなかった時代、その時代に神様を求めた人々は神秘主義に流れることは当然だったかも知れません。神秘主義はギリシャ文化の影響を受けた初代教会の時代からあり、歴史の中で繰り返され、今もあり、なお生まれています。   イエス様は、しるしを求める人々、不思議なものが見たい人々に対して「悪い時代」であると責められ、見せられる神秘とは「ヨナのしるし」しかないと言われました。ヨナのしるしというのは、イエス様が十字架にかかって死なれ、3日後に復活されるということです。興味を導く不思議なことではなく、死んだ命を生かす救いの神秘です。神秘の中でまことの神秘は復活の神秘です。人々はこれを信じず、不思議な現象と出来事を探して迷っているのです。   イエス様は、ソロモンの時代に、シバ王国の女王がソロモンの知恵を聞くためにエルサレムにきた話をされました。賢者たちはソロモンの知恵を聞くためにエルサレムに集まりましたが、この時代にイエス様のみことばを聞こうとする人はいないということです。イエス様は「ここにソロモンにまさるものがあります」と言われます。みことばがありますが、みことばを聞こうとはせず、目に見える現象に振り回されています。   続くもう一つの話は、灯の明かりをつける話です。先の話と無関係ではないと思います。灯は照明の役割を果たすべきなので、発光しなければなりません。燃料を燃焼して光を出すのです。それが神様のみことばから出てくる光エネルギーです。それを高いところにかけて広いところを照らします。それで灯の役割をする果たすことができます。みことばに無関心で律法の言語遊戯と現象の神秘にのみ振り回されている人々をイエス様は責められました。復活の神秘、救いの神秘は、みことばと向かい合う人に悟られます。神様は、みことばを燃料とし、光エネルギーを明かす人を高く上げられ、世を照らされます。

누가복음 QT29 220210목【부활의 신비】누가복음 11장 29~36

누가복음 11장 29~3611:29 무리가 모였을 때에 예수께서 말씀하시되 이 세대는 악한 세대라 표적을 구하되 요나의 표적 밖에는 보일 표적이 없나니11:30 요나가 니느웨 사람들에게 표적이 됨과 같이 인자도 이 세대에 그러하리라11:31 심판 때에 남방 여왕이 일어나 이 세대 사람을 정죄하리니 이는 그가 솔로몬의 지혜로운 말을 들으려고 땅 끝에서 왔음이어니와 솔로몬보다 더 큰이가 여기 있으며11:32 심판 때에…

ルカの福音書 QT28 220209水【悪霊を追い出すということ】ルカ 11章 14~28

ルカ 11章 14~2811:14 さて、イエスは悪霊を追い出しておられた。それは口をきけなくする悪霊であった。悪霊が出て行くと、口がきけなかった人がものを言い始めたので、群衆は驚いた。11:15 しかし、彼らのうちのある者たちは、「悪霊どものかしらベルゼブルによって、悪霊どもを追い出しているのだ」と言った。11:16 また、ほかの者たちはイエスを試みようとして、天からのしるしを要求した。11:17 しかし、イエスは彼らの心を見抜いて言われた。「どんな国でも内輪もめしたら荒れすたれ、家も内輪で争えば倒れます。11:18 あなたがたは、わたしがベルゼブルによって悪霊どもを追い出していると言いますが、サタンが仲間割れしたのなら、どうしてサタンの国は立ち行くことができるでしょう。11:19 もし、わたしがベルゼブルによって悪霊どもを追い出しているとしたら、あなたがたの子らが悪霊どもを追い出しているのは、だれによってなのですか。そういうわけで、あなたがたの子らがあなたがたをさばく者となります。11:20 しかし、わたしが神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。11:21 強い者が十分に武装して自分の屋敷を守っているときは、その財産は無事です。11:22 しかし、もっと強い人が襲って来て彼に打ち勝つと、彼が頼みにしていた武具を奪い、分捕り品を分けます。11:23 わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしとともに集めない者は散らしているのです。11:24 汚れた霊は人から出て行くと、水のない地をさまよって休み場を探します。でも見つからず、『出て来た自分の家に帰ろう』と言います。11:25 帰って見ると、家は掃除されてきちんと片付いています。11:26 そこで出かけて行って、自分よりも悪い、七つのほかの霊を連れて来て、入り込んでそこに住みつきます。そうなると、その人の最後の状態は、初めよりも悪くなるのです。」11:27 イエスがこれらのことを話しておられると、群衆の中から、ある女が声をあげてイエスに言った。「あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は幸いです。」11:28 しかし、イエスは言われた。「幸いなのは、むしろ神のことばを聞いてそれを守る人たちです。」   イエス様が悪霊につかれた人から悪霊を追い出しました。人々はその現場にいてそれを見ましたが、イエス様を敵対していたのでイエス様を陥れます。イエス様が悪霊のかしらのベルゼブルの力を借りて悪霊を追い出しているというのです。彼らは見ても信じません。信じたいことを信じるだけです。   イエス様が言われます。私が悪霊に力で悪霊を追い出すとすれば、悪霊の国はどのようにして立つのか。悪霊も互いに協力するのに、人から悪霊を追い出し、人を生き返らせる現場を見ても、ベルゼブル云々するなら、ここに神様の国が立てられるのかということです。   イエス様は、24節以下で悪霊につかれた者から悪霊を追い出しても、後にその悪霊が再び入るようになると、さらに悪くなると言われます。恐ろしいです。その対策は28節です。「幸いなのは、むしろ神のことばを聞いてそれを守る人たちです。」   御言葉を聞いて守るということを一言で言えば「従順」です。耳に慣れている言葉ですが、何を、どのように従うかについてはっきりと言える人がほとんどいません。従順を具体的ではなく抽象的に考えるからです。御言葉を聞いて守るということは、悪いことをしない、はまじめに教会の通うなどの宗教的で、道徳的なものにとどまることではありません。   何に従うべきかを知ることも難しいですが、それを実践することはさらに難しいです。自分をあきらめなければならないからです。自分で悪霊を追い出すのではなく、神様の御言葉が自分の中に入っている悪霊を追い出すのです。悪霊は体のどこかに隠れているのではなく、人間の考えと言葉に存在します。ですから、神様の御言葉は自分の思いと考えと戦います。神様の御言葉に従うことをしなければ、その以外のものに従うことになります。   今日の本文の主題節は、23節です。「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしとともに集めない者は散らしているのです」イエス様の中で自分を振り返ることができない人はイエス様ではない他のものに縛られているのです。神様の御言葉をもって自分をあきらめることが、神様の御言葉をもって自分の中にある悪霊を追い出すことです。「幸いなのは、むしろ神のことばを聞いてそれを守る人たちです。」

누가복음 QT28 220209수【귀신을 쫓아낸다는 것】누가복음 11장 14~28

누가복음 11장 14~2811:14 예수께서 한 벙어리 귀신을 쫓아 내시니 귀신이 나가매 벙어리가 말하는지라 무리들이 기이히 여겼으나11:15 그 중에 더러는 말하기를 저가 귀신의 왕 바알세불을 힘입어 귀신을 쫓아낸다 하고11:16 또 더러는 예수를 시험하여 하늘로서 오는 표적을 구하니11:17 예수께서 저희 생각을 아시고 이르시되 스스로 분쟁하는 나라마다 황폐하여지며 스스로 분쟁하는 집은 무너지느니라11:18 너희 말이 내가 바알세불을 힘입어 귀신을…

ルカの福音書 QT27 220208火【求める者に与えられるもの】ルカ 11章 1~13

ルカ 11章 1~1311:1 さて、イエスはある場所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」11:2 そこでイエスは彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、御名が聖なるものとされますように。御国が来ますように。11:3 私たちの日ごとの糧を、毎日お与えください。11:4 私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負い目のある者をみな赦します。私たちを試みにあわせないでください。』」11:5 また、イエスはこう言われた。「あなたがたのうちのだれかに友だちがいて、その人のところに真夜中に行き、次のように言ったとします。『友よ、パンを三つ貸してくれないか。11:6 友人が旅の途中、私のところに来たのだが、出してやるものがないのだ。』11:7 すると、その友だちは家の中からこう答えるでしょう。『面倒をかけないでほしい。もう戸を閉めてしまったし、子どもたちも私と一緒に床に入っている。起きて、何かをあげることはできない。』11:8 あなたがたに言います。この人は、友だちだからというだけでは、起きて何かをあげることはしないでしょう。しかし、友だちのしつこさのゆえなら起き上がり、必要なものを何でもあげるでしょう。11:9 ですから、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。11:10 だれでも、求める者は手に入れ、探す者は見出し、たたく者には開かれます。11:11 あなたがたの中で、子どもが魚を求めているのに、魚の代わりに蛇を与えるような父親がいるでしょうか。11:12 卵を求めているのに、サソリを与えるような父親がいるでしょうか。11:13 ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。」   弟子の一人がイエス様に祈り方について質問したとき、イエス様が教えてくださったのが「主の祈り」であり、私たちはそれを暗記しています。主の祈りを唱えるたびに、それが礼拝儀式で形式的に言い返すのではなく、イエス様がこう祈りなさいと教えてくださった祈りの公式、原則であることを思い起こさなければなりません。主の祈りの中にある主題を見つけ、それに私たちの心と日常を適用すれば、私たちが祈るべきものが何であるかが分かります。   今朝の本文は、主の祈りで終わらず、5節以降にイエス様のもう一つのたとえ話につながります。これのテーマも祈りです。主の祈りと離れている別の話ではなく、主の祈りを教えた後にそれを具体的に例示しているものです。ある人に家に夜、友達がやってきて、その友人をもてなしたかったのですが、パンがなかったので、隣人にパンを借りに行った話です。   隣人はすでに夜が深く、扉を閉まったので、貸すことができないと断りましたが、イエス様は義理のためには貸さなくても、あきらめず求め続けることで、結局は与えられると言われます。あきらめずに祈るということ、与えられるまで祈り続けるということです。「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれでも、求める者は手に入れ、探す者は見出し、たたく者には開かれます。9,10」   もしかしたら、この聖句を基に祈りましたが、答えられなかった経験があるかもしれません。長い間、たくさん祈ると答えられると信じて祈り続けましたが、自分が思っていたどおりに与えられなかったことです。私にはあります。本文の最後の部分を見ると、この祈りの正体が明らかになります。求めているのは、5節の「三つのパン」、8節の「必要なもの」、そして9節、10節の「求めるべきもの」、「探すべきもの」、「開くべきもの」、11節と12節で子どもが求める「魚と卵」です。そしてそれらと呼応する最後のもう一つの言葉は、13節の「聖霊」です。   友人をおもてなしするために受け取らなければならないのは聖霊です。私たちがとりなしの祈りをどのようにしてきたのかを考えると、祈りが答えられなくて失望する人はおそらくいないと思います。神様は利他的なとりなしの祈りに答えてくださいます。愛なしでは真似も出せません。もし私たちが自分の欲求を下ろし、お互いの必要のために絶えずとりなして祈りるなら、それぞれの祈りが答えられると思います。ところが、いつまでも利己的で欲張りの私たちはそれができません。できるためには聖霊様が必要です。   私はこの例え話が主の祈りの中でも11章4節のためのイエス様の説明であると思います。「私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負い目のある者をみな赦します。私たちを試みにあわせないでください。」聖霊がうちにおられなければできないことだからです。

누가복음 QT27 220208화【구하는 자가 받는 것】누가복음 11장 1~13

누가복음 11장 1~1311:1 예수께서 한 곳에서 기도하시고 마치시매 제자 중 하나가 여짜오되 주여 요한이 자기 제자들에게 기도를 가르친 것과 같이 우리에게도 가르쳐 주옵소서11:2 예수께서 이르시되 너희는 기도할 때에 이렇게 하라 아버지여 이름이 거룩히 여김을 받으시오며 나라이 임하옵시며11:3 우리에게 날마다 일용할 양식을 주옵시고11:4 우리가 우리에게 죄 지은 모든 사람을 용서하오니 우리 죄도 사하여 주옵시고 우리를 시험에…

ルカの福音書 QT26 220207月【信仰と法】ルカ 10章 25~42

ルカ 10章 25~4210:25 さて、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試みようとして言った。「先生。何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。」10:26 イエスは彼に言われた。「律法には何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」10:27 すると彼は答えた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい』、また『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』とあります。」10:28 イエスは言われた。「あなたの答えは正しい。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」10:29 しかし彼は、自分が正しいことを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とはだれですか。」10:30 イエスは答えられた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下って行ったが、強盗に襲われた。強盗たちはその人の着ている物をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。10:31 たまたま祭司が一人、その道を下って来たが、彼を見ると反対側を通り過ぎて行った。10:32 同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。10:33 ところが、旅をしていた一人のサマリア人は、その人のところに来ると、見てかわいそうに思った。10:34 そして近寄って、傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで包帯をし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行って介抱した。10:35 次の日、彼はデナリ二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』10:36 この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。」10:37 彼は言った。「その人にあわれみ深い行いをした人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って、同じようにしなさい。」10:38 さて、一行が進んで行くうちに、イエスはある村に入られた。すると、マルタという女の人がイエスを家に迎え入れた。10:39 彼女にはマリアという姉妹がいたが、主の足もとに座って、主のことばに聞き入っていた。10:40 ところが、マルタはいろいろなもてなしのために心が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。私の姉妹が私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか。私の手伝いをするように、おっしゃってください。」10:41 主は答えられた。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。10:42 しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」   良きサマリア人のたとえ話が始まったのは、神様を愛し、隣人を愛するという教えの実例編です。数日前、息子の学校の作文の宿題を親に助けれてもいいということて手伝いました。テーマは「善きサマリア人の法の制定に賛成するのか、反対するのか」でした。危機に陥った人がゴールデンタイムで現場にいた人の助けを受けることができれば命が助かります。ですから、善きサマリア人の法は、緊急の人を助けなければならない義務を規定する法律です。牧師が子どもの宿題に良きサマリア人の物語を扱ったので、聖書の背景と主題を少し説明しました。それから結論的に「反対」する立場を論述しました。   「良きサマリア人の物語は、新約聖書のルカ福音に出てくるイエス様がなされたたとえ話です。あるサマリア人が困ったユダヤ人に会ったが、そのまま通り過ぎずに助けてくれた話です。しかし、同族のユダヤ人の祭司とレビ人は、困難なユダヤ人を見ましたが、そのまま通り過ぎてしまいました。この良きサマリア人の教訓は、多くの人々が知っており、誰もが良いことであると認めています。ということで、もうすでに良きサマリア人の法を制定し、施行している国もあると聞きました。韓国においても良きサマリア人法を制定する動きがあります。良きサマリア人のような人が大勢いて、困難な人々が助かる良い社会になればとてもいいと思います。   しかし、法というのは強制性を持っています。良きサマリア人の法律を制定すると、良いことを法的に強制することになります。助ける人が危険が伴うときも義務的に助けなければならないのかという議論もあり得るでしょう。定められた法に違反すると処罰することは当然ですが、法をもって良いことを強制することはできないと思います。空腹の人にパンを与えるのは確かに良いことですが、パンを与えなかったということで処罰を受けてはならないからです。だから、良きサマリア人は必要ですが、それは社会の道徳と市民意識の成熟がしなければならないことであり、法律で強制することではありません。したがって、私は良きサマリア人は大賛成ですが、良きサマリア人の法の制定は反対します。」   当初、この物語は永遠のいのちを受け継ぐ信​​仰についてのことでした。良いこと、信仰の働きは強制することができません。だから、イエス様がこの自発的なサマリア人の模範を語られたのです。良きサマリア人の法制化に反対する理由は、当時イエス様が頑なになった律法の弊害に反対しながらこの話をされたからです。作文で語った「社会の道徳と市民意識の成熟」というのは、すなわち「憐れみを実践する信仰」です。律法を読んでみると悪いことはありません。しかし、強制された律法は、神を愛し、隣人を愛することを妨げます。体制がないと混乱してしまいますが、体制が整えられると、本質が転倒されやすいです。信仰と善を守る完璧なシステムはありません。ということで、今朝の本文にあるマリアはよいことをしました。自分の義を表すために多くの働きをするよりも、みことばで自分を照らし、礼拝の場にとどまる方がほど有益です。  

누가복음 QT26 220207월【믿음과 법】누가복음 10장 25~42

누가복음 10장 25~4210:25 어떤 율법사가 일어나 예수를 시험하여 가로되 선생님 내가 무엇을 하여야 영생을 얻으리이까10:26 예수께서 이르시되 율법에 무엇이라 기록되었으며 네가 어떻게 읽느냐10:27 대답하여 가로되 네 마음을 다하며 목숨을 다하며 힘을 다하며 뜻을 다하여 주 너의 하나님을 사랑하고 또한 네 이웃을 네 몸과 같이 사랑하라 하였나이다10:28 예수께서 이르시되 네 대답이 옳도다 이를 행하라 그러면 살리라…