ヨブ記 9章 11~249:25 私の日々は飛脚よりも速い。それは飛び去って、幸せを見ることはない。9:26 それは葦の舟のように通り過ぎる。獲物をめがけて舞い降りる鷲のように。9:27 たとえ「不平を忘れ、悲しい顔を捨てて明るくふるまいたい」と私が言っても、9:28 自分のあらゆる苦痛に私はおびえています。私はよく知っています。あなたが私を潔白な者となさらないことを。9:29 私はきっと、悪しき者とされるでしょう。なぜ私は、空しく労するのでしょうか。9:30 たとえ私が雪の水で身を洗っても、灰汁で手を清めても、9:31 あなたは私を墓の穴に沈め、私が着る服は私を忌み嫌います。9:32 神は、私のように人間ではありません。その方に、私が応じることができるでしょうか。「さあ、さばきの座に一緒に行きましょう」と。9:33 私たち二人の上に手を置く仲裁者が、私たちの間にはいません。9:34 神がその杖を私から取り去り、その恐ろしさが私をおびえさせませんように。9:35 そうなれば、私は恐れず神に語りかけます。しかし今、私はそうではありません。 ヨブの言葉が無気力です。双方向ではなく、一方的だからです。神様には言葉届かず、友達とは言葉が通じないです。息苦しいヨブは自分と神様との間の仲裁者を求めます。「私たち二人の上に手を置く仲裁者が、私たちの間にはいません。神がその杖を私から取り去り、その恐ろしさが私をおびえさせませんように。33,34」神様と私の間に立ち、私の事情を知り、それを神様に執り成す人を探し求めていますが、そのような人はいません。 神様は神だからできなく、人は人だからできません。神様の神格を信じることはできます。人間が限界を認めることさえできれば、神様を信じることは難しくありません。しかし、人間が遠くにおられる絶対者を信じることでヨブの嘆きから逃れることはありません。絶対者なる神様は仲裁者なるイエス・キリストを通して会えるからであります。神格である神様は人格であるイエス・キリストを通して出会います。「神は唯一です。神と人との間の仲介者も唯一であり、それは人としてのキリスト・イエスです。Ⅰテモテ2:5」 十字架は、神様であるイエス・キリストが神格を置いて、十字架に上がった人格の出来事です。神様の御言葉は人格的な啓示です。人格的な神様に出会ったということは、イエス・キリストに会ったということです。ヨブが切に求めていた仲裁者、イエス・キリストと話し合う一日をを祈ります。