마태복음 QT29 20210213토【가라지 비유】마태 13장18~30

마태 13장 18~3013:18 그런즉 씨 뿌리는 비유를 들으라13:19 아무나 천국 말씀을 듣고 깨닫지 못할 때는 악한 자가 와서 그 마음에 뿌리운 것을 빼앗나니 이는 곧 길가에 뿌리운 자요13:20 돌밭에 뿌리웠다는 것은 말씀을 듣고 즉시 기쁨으로 받되13:21 그 속에 뿌리가 없어 잠시 견디다가 말씀을 인하여 환난이나 핍박이 일어나는 때에는 곧 넘어지는 자요13:22 가시떨기에 뿌리웠다는 것은 말씀을…

マタイによる福音書 QT28 20210212金【種を抱いた良い地】マタイ 13章 1~17

マタイ 13章 1~1713:1 その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。13:2 すると大勢の群衆がみもとに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆はみな岸辺に立っていた。13:3 イエスは彼らに、多くのことをたとえで語られた。「見よ。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。13:4 蒔いていると、種がいくつか道端に落ちた。すると鳥が来て食べてしまった。13:5 また、別の種は土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。13:6 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。13:7 また、別の種は茨の間に落ちたが、茨が伸びてふさいでしまった。13:8 また、別の種は良い地に落ちて実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍になった。13:9 耳のある者は聞きなさい。」13:10 すると、弟子たちが近寄って来て、イエスに「なぜ、彼らにたとえでお話しになるのですか」と言った。13:11 イエスは答えられた。「あなたがたには天の御国の奥義を知ることが許されていますが、あの人たちには許されていません。13:12 持っている人は与えられてもっと豊かになり、持っていない人は持っているものまで取り上げられるのです。13:13 わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らが見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、悟ることもしないからです。13:14 こうしてイザヤの告げた預言が、彼らにおいて実現したのです。『あなたがたは聞くには聞くが、決して悟ることはない。見るには見るが、決して知ることはない。13:15 この民の心は鈍くなり、耳は遠くなり、目は閉じているからである。彼らがその目で見ることも、耳で聞くことも、心で悟ることも、立ち返ることもないように。そして、わたしが癒やすこともないように。』13:16 しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。13:17 まことに、あなたがたに言います。多くの預言者や義人たちが、あなたがたが見ているものを見たいと切に願ったのに、見られず、あなたがたが聞いていることを聞きたいと切に願ったのに、聞けませんでした。   種を蒔く人が種を蒔きましたが、それぞれ道端、土の薄い岩地、茨の間、そして良い地に種が落ちました。道端に落ちた種は鳥が来て食べれしまい、土の薄い岩地に落ちた種は芽を出しましたが日が昇ると枯れてしまい、茨の間に落ちた種は、茨が伸びてふさいでしまいました。しかし良い地に落ちた種は実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍になりました。19節以下を読んでみると、道端の種は言葉を悟らない者であり、土の薄い岩地の種は言葉を聞くことでしばらくの喜びがありますが、言葉によって試練や迫害にあうとすぐ倒れる者であり、茨の間の種は世の心配と富の誘惑につまづき結実しない者であります。良い地の種は言葉を聞いて悟る人です。   木を植えるのではなく、ランダムに種をまきます。蒔く者は蒔くだけです。種や種まきが土を変えることはできません。地はそれぞれ違う結果を出します。ある種は、実を結ばずそのまま消えることもあります。良い地に行って蒔けばいいと思われますが、この例え話で地は区別されていません。蒔いたところ、それぞれ道端、土の薄い岩地、茨の間、そして良い地に落ちました。ですから地というのは一つの空間の中に混在しています。誰かが道端であって、誰かが良い地であるのではなく、一人の中に、それぞれの心があるのです。聞こえる人と聞こえない人がいるのではなく、聞こえる時と聞こえない時があります。ただし、最終の評価は、実を結ぶことを見て、それがどのような地だったのか分かります。   私たちは、百倍、六十倍、三倍の実ということを言うときにまるで奇跡を望んでいるかのように祈りますが、稲の場合、一本の稲から七つの穂が出て、さらに一本の穂からは100個の粒が実ります。ですから一本の稲から700個以上の米が結ばれるのです。それでもご飯を炊いて食べる時は一口にしかなりません。ですから種は発芽し、成長し、定められた時間を忍耐するだけで、やがて百倍、六十倍、三倍の実を結ぶことは、過度の期待ではありません。安全な畑に蒔かれ、成長していくうちに、時には風雨を当たっても、それが力になって実を結ぶのです。種の中にある命の力があるからです。御言葉を抱いた良い地の心をもって新しい春を迎えたいです。  

마태복음 QT28 20210212금【씨를 품은 좋은 밭】마태 13장1~17

마태 13장 1~1713:1 그 날에 예수께서 집에서 나가사 바닷가에 앉으시매13:2 큰 무리가 그에게로 모여 들거늘 예수께서 배에 올라가 앉으시고 온 무리는 해변에 섰더니13:3 예수께서 비유로 여러가지를 저희에게 말씀하여 가라사대 씨를 뿌리는 자가 뿌리러 나가서13:4 뿌릴쌔 더러는 길 가에 떨어지매 새들이 와서 먹어버렸고13:5 더러는 흙이 얇은 돌밭에 떨어지매 흙이 깊지 아니하므로 곧 싹이 나오나13:6 해가 돋은…

マタイによる福音書 QT27 20210211木【ヨナのしるしとは】マタイ 12章 38~50

マタイ 12章 38~5012:38 そのとき、律法学者、パリサイ人のうちの何人かがイエスに「先生、あなたからしるしを見せていただきたい」と言った。12:39 しかし、イエスは答えられた。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めますが、しるしは与えられません。ただし預言者ヨナのしるしは別です。12:40 ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。12:41 ニネベの人々が、さばきのときにこの時代の人々とともに立って、この時代の人々を罪ありとします。ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。しかし見なさい。ここにヨナにまさるものがあります。12:42 南の女王が、さばきのときにこの時代の人々とともに立って、この時代の人々を罪ありとします。彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです。しかし見なさい。ここにソロモンにまさるものがあります。12:43 汚れた霊は人から出て行くと、水のない地をさまよって休み場を探します。でも見つからず、12:44 『出て来た自分の家に帰ろう』と言います。帰って見ると、家は空いていて、掃除されてきちんと片付いています。12:45 そこで出かけて行って、自分よりも悪い、七つのほかの霊を連れて来て、入り込んでそこに住みつきます。そうなると、その人の最後の状態は初めよりも悪くなるのです。この悪い時代にも、そのようなことが起こります。」12:46 イエスがまだ群衆に話しておられるとき、見よ、イエスの母と兄弟たちがイエスに話をしようとして、外に立っていた。12:47 ある人がイエスに「ご覧ください。母上と兄弟方が、お話ししようと外に立っておられます」と言った。12:48 イエスはそう言っている人に答えて、「わたしの母とはだれでしょうか。わたしの兄弟たちとはだれでしょうか」と言われた。12:49 それから、イエスは弟子たちの方に手を伸ばして言われた。「見なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。12:50 だれでも天におられるわたしの父のみこころを行うなら、その人こそわたしの兄弟、姉妹、母なのです。」   イエス様は奇跡を起こし、悪霊を追い出ましたが、律法学者やパリサイ人たちが訪ねてきて無駄な論争の目的にしるしを求めたときは、「悪い、姦淫の時代はしるしを求めますが、しるしは与えられません。ただし預言者ヨナのしるしは別です。」と言われました。つまり奇跡を起こさず、しるしとはヨナのしるししかないと言われます。   ヨナのしるしとは何ですか?ヨナはニネベに行って、神様のさばきを伝えるように召されましたが、神様の命令に背いて、タルシスに逃げるち道中に大きな魚が飲み込まれて魚の腹の中に3日間を過ごした人です。彼が悔い改めた時の魚の腹の中から出され、ニネベでさばきの言葉を伝えた人物です。   「ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。40」3日目に復活することを予言するのです。病気が治ることや、多くの人々がパンを食べることができる奇跡も奇跡でありますが、より根本的な奇跡は、キリストがよみがえられた奇跡です。死を打ち勝って復活することは奇跡の中で奇跡であります。   ところが、文脈の中でこのしるしは密かに隠されており、イエス様は、ヨナの話しを介してもうひとつのしるしについて語られます。ルカ11章30節を見れば「ヨナがニネベの人々のために、しるしとなったように、人の子がこの時代のために、しるしとなるからです。」ヨナがとニネベの人々にしるしになったのは、魚の腹や3日間というとことは無関係です。ニネベの人々はそれを知りません。ニネベの人々においてしるしになったのは、ヨナが伝えた神様の御言葉です。   これの意味は42節は補足します。「南の女王が、さばきのときにこの時代の人々とともに立って、この時代の人々を罪ありとします。彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです。しかし見なさい。ここにソロモンにまさるものがあります。42」時代をさばく人はソロモンの知恵の言葉を聞きために来た南の女王であって、イエス様ご自身はその知恵の言葉のソロモンよりもまさる方であります。   北方のアッシリヤ帝国の都ニネベに来たイスラエルの人ヨナが神様の御言葉を伝えるときに奇跡が起きました。 たっだ一日だけ歩きながら悔い改めを促しただけですが、王をはじめ、都にいる民と全体が悔い改めました。ヨナのしるしとは、御言葉が聞こえる奇跡です。イエス様が語られるヨナのしるしとは今に御言葉を聞き、それを信じ、悔い改めに至る奇跡です。

마태복음 QT27 20210211목【요나의 표적이란】마태 12장38~50

마태 12장 38~5012:38 그 때에 서기관과 바리새인 중 몇 사람이 말하되 선생님이여 우리에게 표적 보여주시기를 원하나이다12:39 예수께서 대답하여 가라사대 악하고 음란한 세대가 표적을 구하나 선지자 요나의 표적 밖에는 보일 표적이 없느니라12:40 요나가 밤낮 사흘을 큰 물고기 뱃속에 있었던것같이 인자도 밤낮 사흘을 땅 속에 있으리라12:41 심판 때에 니느웨 사람들이 일어나 이 세대 사람을 정죄하리니 이는 그들이…

マタイによる福音書 QT26 20210210水【良い人は良い倉から良い物を取り出し】マタイ 12章 22~37

マタイ 12章 22~3712:22 そのとき、悪霊につかれて目が見えず、口もきけない人が連れて来られた。イエスが癒やされたので、その人はものを言い、目も見えるようになった。12:23 群衆はみな驚いて言った。「もしかすると、この人がダビデの子なのではないだろうか。」12:24 これを聞いたパリサイ人たちは言った。「この人が悪霊どもを追い出しているのは、ただ悪霊どものかしらベルゼブルによることだ。」12:25 イエスは彼らの思いを知って言われた。「どんな国でも分裂して争えば荒れすたれ、どんな町でも家でも分裂して争えば立ち行きません。12:26 もし、サタンがサタンを追い出しているのなら、仲間割れしたことになります。それなら、どのようにしてその国は立ち行くのですか。12:27 また、もしわたしが、ベルゼブルによって悪霊どもを追い出しているとしたら、あなたがたの子らが追い出しているのは、だれによってなのですか。そういうわけで、あなたがたの子らが、あなたがたをさばく者となります。12:28 しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。12:29 まず強い者を縛り上げるのでなければ、強い者の家に入って家財を奪い取ることが、どうしてできるでしょうか。縛り上げれば、その家を略奪できます。12:30 わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしとともに集めない者は散らしているのです。12:31 ですから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒瀆も赦していただけますが、御霊に対する冒瀆は赦されません。12:32 また、人の子に逆らうことばを口にする者でも赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、この世でも次に来る世でも赦されません。12:33 木を良いとし、その実も良いとするか、木を悪いとし、その実も悪いとするか、どちらかです。木の良し悪しはその実によって分かります。12:34 まむしの子孫たち、おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えますか。心に満ちていることを口が話すのです。12:35 良い人は良い倉から良い物を取り出し、悪い者は悪い倉から悪い物を取り出します。12:36 わたしはあなたがたに言います。人は、口にするあらゆる無益なことばについて、さばきの日に申し開きをしなければなりません。12:37 あなたは自分のことばによって義とされ、また、自分のことばによって不義に定められるのです。」   イエス様は悪霊につかれて目が見えず、口もきけない人の中にいる悪霊を追い出し、自由と安息を与えられました。ところが、パリサイ人たちは、イエス様が悪霊の力を借りて悪霊を追い出していると非難しました。これを見ると、最も恐ろしい目が見えず、口もきけないのはパリサイ人の中にいる悪霊かと思います。イエス様のも言葉とおりに悪霊が悪霊を追い出すことに何の意味があるでしょうか。良い実を見ても無理やり悪い木であると言い張るのは、霊的に悪しきものによって目が見えず、口もきけない人です。   信仰について言うと、それを形にして見せろと言われますがが、人々は見ることでは信じず、自分が信じたいことを信じます。信じたいことのために、事実を否定したり、真実を操作したりします。それが自己欺瞞、自分で自分をだますことです。良い実を結ばないことは必然的に木が悪いからです。逆に木が良い実が結んでとすればその木は良い木です。それを認めずにねたんでいる心が悪い木です。従ってそのような木は毒を含む実を結びます。   イエス様の善なるみわざを目でみましたが、口では悪口をしました。彼らにとっては目に見えることより大切なのは、イエスを認めたくないねたみの心だからです。宗教的な世界では自分たちが目立つべきですが、イエス様が注目されているので、それをねたんだからです。イエス様を引き下げ、自分たちの宗教的地位を維持し、さらに強化するためです。その根拠は憎しみです。   イエス様は、人のすべての罪は赦されるが、聖霊を妨げる罪は赦されないと厳重に警告されました。神様のなさることを見ても、自分をだまし、反対する愚かな心が聖霊を妨げることです。イエス様は彼らに対してまむしの子が心に悪を積み重ねていると指摘しました。信仰を積み重ねるなら良い実が結ばれ、自ら欺く愚かな心を積み重ねるならば毒を含んだ実になり、それが自分の中で結ばれます。

마태복음 QT26 20210210수【선한 사람은 그 쌓은 선에서 선한 것을 내고】마태 12장22~37

마태 12장 22~3712:22 그 때에 귀신들려 눈 멀고 벙어리 된 자를 데리고 왔거늘 예수께서 고쳐 주시매 그 벙어리가 말하며 보게 된지라12:23 무리가 다 놀라 가로되 이는 다윗의 자손이 아니냐 하니12:24 바리새인들은 듣고 가로되 이가 귀신의 왕 바알세불을 힘입지 않고는 귀신을 쫓아 내지 못하느니라 하거늘12:25 예수께서 저희 생각을 아시고 가라사대 스스로 분쟁하는 나라마다 황폐하여질 것이요 스스로…

マタイによる福音書 QT25 20210209火【安息日の主】マタイ 12章 1~21

マタイ 12章 1~2112:1 そのころ、イエスは安息日に麦畑を通られた。弟子たちは空腹だったので、穂を摘んで食べ始めた。12:2 するとパリサイ人たちがそれを見て、イエスに言った。「ご覧なさい。あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています。」12:3 しかし、イエスは言われた。「ダビデと供の者たちが空腹になったときに、ダビデが何をしたか、12:4 どのようにして、神の家に入り、祭司以外は自分も供の者たちも食べてはならない、臨在のパンを食べたか、読んだことがないのですか。12:5 また、安息日に宮にいる祭司たちは安息日を汚しても咎を免れる、ということを律法で読んだことがないのですか。12:6 あなたがたに言いますが、ここに宮よりも大いなるものがあります。12:7 『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、咎のない者たちを不義に定めはしなかったでしょう。12:8 人の子は安息日の主です。」12:9 イエスはそこを去って、彼らの会堂に入られた。12:10 すると見よ、片手の萎えた人がいた。そこで彼らはイエスに「安息日に癒やすのは律法にかなっていますか」と質問した。イエスを訴えるためであった。12:11 イエスは彼らに言われた。「あなたがたのうちのだれかが羊を一匹持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それをつかんで引き上げてやらないでしょうか。12:12 人間は羊よりはるかに価値があります。それなら、安息日に良いことをするのは律法にかなっています。」12:13 それからイエスはその人に「手を伸ばしなさい」と言われた。彼が手を伸ばすと、手は元どおりになり、もう一方の手のように良くなった。12:14 パリサイ人たちは出て行って、どうやってイエスを殺そうかと相談し始めた。12:15 イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。すると大勢の群衆がついて来たので、彼らをみな癒やされた。12:16 そして、ご自分のことを人々に知らせないように、彼らを戒められた。12:17 これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。12:18 「見よ。わたしが選んだわたしのしもべ、わたしの心が喜ぶ、わたしの愛する者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は異邦人にさばきを告げる。12:19 彼は言い争わず、叫ばず、通りでその声を聞く者もない。12:20 傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともない。さばきを勝利に導くまで。12:21 異邦人は彼の名に望みをかける。」   疲れ、重荷を背負った人を招き、安息を与えると言われたみ言葉は12章の安息日論争につながります。私のくびきは負いやすく軽いですといった言葉が安息日論争の中に入ると、信仰とは重荷を減らすものであって、それをさらに重くするものではないことを確認することができます。   安息日の朝に、弟子たちは畑を通りながら空腹を覚え、穂を切って食べました。当時は旅人が他人の畑の穂を切って食べることが制度的に許容されていました。かごに入れて持って帰らなければ大丈夫です。貧しい人と旅人のための慈悲と憐れみの制度です。   ですから誰もイエス様の弟子たちが他人の畑の穂を切って食べたということで問題を提起することはできません。ただし、穂を切って食べることがすなわち収穫と脱穀の行為であるということを問題視したのです。それが労働に該当し、労働を禁じている安息日の規定に違反するということです。みじめな話ですが、これが今朝の本文です。   イエス様はダビデの物語を引用し、わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない..と言われます。神様が人に6日間の労働を止め、安息を命じたのは、人を制限するためではなく、自由にするためです。いつも畑に置いている近視眼的視点は、自分も知らないうちに自分自身を縛ってしまいます。ですから、思い切って視線を天に置いて礼拝することが安息日の真の意味です。そうでなければ無意味なこだわりと欲に閉じ込められてしまうからです。   イエス様はまた、安息日に病人を癒しました。それに対してパリサイ人たちは、イエス様が安息日にしてはならない医療行為、すなわち労働をしたということで訴えます。イエス様は、安息日であってもあなたがたの財産を守ることについては働いているのではないかと言われ、貧しくて苦しい人の病気を癒したのが安息日の精神に反するのかと反問されました。当時は宗教権力は安息日に最も多くのお金を稼いていた時代でした。   このような精神を評価する際、イエス様を進歩的な博愛主義者であるとも言いますが、忘れてはならないことは、イエス様は受肉した神様であるということです。なので「人の子は安息日の主です」とされました。礼拝を受けられるべき方はイエス様ご自身です。   その方が人間を創造された方であって、安息日の礼拝を通して人間を人間らして守ってくださる方です。聖徒の位置づけはこれです。安息日の主はイエス様であり、主であるイエス様が最も大切にするのが人です。安息日は人を生かすための日であり、安息日の主は、人を生かすために来られた方です。  

마태복음 QT25 20210209화【안식일의 주인】마태 12장 1~21

마태 12장 1~2112:1 그 때에 예수께서 안식일에 밀밭사이로 가실쌔 제자들이 시장하여 이삭을 잘라 먹으니12:2 바리새인들이 보고 예수께 고하되 보시오 당신의 제자들이 안식일에 하지 못할 일을 하나이다12:3 예수께서 가라사대 다윗이 자기와 그 함께한 자들이 시장할 때에 한 일을 읽지 못하느냐12:4 그가 하나님의 전에 들어가서 제사장 외에는 자기나 그 함께한 자들이 먹지 못하는 진설병을 먹지 아니하였느냐12:5 또…

マタイによる福音書 QT24 20210208月【疲れた人、重荷を負っている人】マタイ 11章 20~30

マタイ 11章 20~3011:20 それからイエスは、ご自分が力あるわざを数多く行った町々を責め始められた。彼らが悔い改めなかったからである。11:21 「ああ、コラジン。ああ、ベツサイダ。おまえたちの間で行われた力あるわざが、ツロとシドンで行われていたら、彼らはとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。11:22 おまえたちに言う。さばきの日には、ツロとシドンのほうが、おまえたちよりもさばきに耐えやすいのだ。11:23 カペナウム、おまえが天に上げられることがあるだろうか。よみにまで落とされるのだ。おまえのうちで行われた力あるわざがソドムで行われていたら、ソドムは今日まで残っていたことだろう。11:24 おまえたちに言う。さばきの日には、ソドムの地のほうが、おまえよりもさばきに耐えやすいのだ。」11:25 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ、あなたをほめたたえます。あなたはこれらのことを、知恵ある者や賢い者には隠して、幼子たちに現してくださいました。11:26 そうです、父よ、これはみこころにかなったことでした。11:27 すべてのことが、わたしの父からわたしに渡されています。父のほかに子を知っている者はなく、子と、子が父を現そうと心に定めた者のほかに、父を知っている者はだれもいません。11:28 すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。11:29 わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」   なまけず、真面目に働くことは確かに良いことですが、仕事にも中毒というものあります。成り切っている人をほっとけば休まずに仕事に夢中になります。私の場合も、しばらくソファに座って休もうとすると、すぐに不安となり、ノートパソコンを探します。何かしなければならないという中毒症状です。休めない強迫は働かない怠惰と変わらない不幸な病気です。   神様はすべての人に「七」の周期で労働を休むとうにされました。現在、世界中のカレンダーはこれに従い、人が休むことなく労働することについては法律で禁じられています。7日を働いたら一日を休み、7年を働いたら一年を休み、七回を働いたら、一回を休むことです。   休むということは、疲れた肉体の労働を止めることではありますが、欲にブレーキをかけることでもあります。成り切ったところから立ち上がって世界を望むという意味でもあります。休むことににより、現在の位置と方向を把握し、動機と意味を確認することができます。そのような意味での旅行は、体を動かすことではありますが、休むことになります。   イエス様の言葉をよく聞いてみると、「あなたの重荷を下ろしなさい」で終わらず、「私のくびきは負いなさい」です。そしてイエス様のくびきは軽いと言われ、それからイエス様は、「わたしは心が柔和でへりくだっているから」と自己賞賛されます。   それはイエス様が柔和と謙遜という人格を誇るつもりではなく、負いやすく軽いくびきの性質について語られるのです。イエス様のくびきは柔和と謙遜で欲望による競争と紛争と高慢はありません。だからイエス様のものは軽いものであり、だから私たちのものは、そうでなく重苦しいのです。   イエス様が重荷を負った者を招待されたのは、人生の目的を変え、真の安息を味わせるためです。欲望により、休まない人間、休ませない世界を休ませるのが目的です。休みますが、神様の中で休むのです。同じ家に入って休むとしでもある人は快適に安息をとり、ある人にいらいらです。なぜなら、家主であれば楽ですが、他人の家に入ったのであれば不便だからです。私たちにおいてイエス様の人格がお家のような安息になることを願います。