출애굽기 QT42 2105022토【토단과 깎지 않은 돌제단】출애굽기 20장 18~26

출애굽기 20장 18~2620:18 뭇 백성이 우레와 번개와 나팔 소리와 산의 연기를 본지라 그들이 볼 때에 떨며 멀리 서서20:19 모세에게 이르되 당신이 우리에게 말씀하소서 우리가 들으리이다 하나님이 우리에게 말씀하시지 말게 하소서 우리가 죽을까 하나이다20:20 모세가 백성에게 이르되 두려워하지 말라 하나님이 임하심은 너희를 시험하고 너희로 경외하여 범죄하지 않게 하려 하심이니라20:21 백성은 멀리 서 있고 모세는 하나님이 계신…

出エジプト記 QT41 20210521金【まだ、守られない法】出エジプト 20章 1~17

出エジプト記 20章 1~17 20:1 それから神は次のすべてのことばを告げられた。20:2 「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である。20:3 あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。20:4 あなたは自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、いかなる形をも造ってはならない。20:5 それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたみの神。わたしを憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、20:6 わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。20:7 あなたは、あなたの神、主の名をみだりに口にしてはならない。主は、主の名をみだりに口にする者を罰せずにはおかない。20:8 安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。20:9 六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。20:10 七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。あなたも、あなたの息子や娘も、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、またあなたの町囲みの中にいる寄留者も。20:11 それは主が六日間で、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造り、七日目に休んだからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものとした。20:12 あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしているその土地で、あなたの日々が長く続くようにするためである。20:13 殺してはならない。20:14 姦淫してはならない。20:15 盗んではならない。20:16 あなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない。20:17 あなたの隣人の家を欲してはならない。あなたの隣人の妻、男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを欲してはならない。」   十戒の4命令までは、神様に対するものであり、5命令から10命令までは、隣人愛の戒めです。ですから十戒は神の愛であり、また、隣人に対する愛です。十戒には礼拝の自由があり、労働権と安息の保証があります。家族の絆と財産と所有の権利を保護します。この十戒は、西洋世界の法制の発展に基礎となりました。人間の尊厳な権利が杭のように打ち込まれているのが十戒です。   日本も韓国もこの憲法を借用しています。ですから私たちの憲法精神を遡るとシナイ山に辿り着きます。私たちにある道徳的な判断があるなら、それはすでに十戒の空気の中で生きてきたからです。紀元後2021年を生き、一週間を生き、憲法の下で生きるなら、神様と関係なく生きるものは誰一人もいません。   十戒が律法の基本であると思いがちですが、十戒は、基本ではなく、最高のものです。十戒を守って生きる世界というものは、想像しがたいです。神様を認め、神様を意識し、神様のみに礼拝し、その心の中に自分のための貪欲の偶像の置かない人たちが生きている世界をまだ見たことがないからです。   生活の中で健康的な労働と安息のバランスがあり、搾取と抑圧がなく、すべての人が親を敬い、隣人を愛して憎むことなく、それらに危害を加えず、殴ることなく、浮気も不倫をなく、性暴力を振る舞わない、むさぼって奪うことなく、だましとらない、殺しあいのない世界を見たことがないから確か十戒はあるが、十戒が実現された世界は想像し難いです。   この十戒は、申命記5章にもう一度出てきます。荒野の世代が死に、次の世代がカナンの地に入る前にヨルダンの東で再度宣言されます。すべての時代を超えて守らなければならない最も人間らしく生きるための条件が十戒です。律法といって同じ律法ではありません。十戒は、律法と恵みが対立するような議論に巻き込まれるようなテーマではありません。人が人らしく生きるためには、誰もがこの法律を逃れることができないからです。

출애굽기 QT41 2105021금【아직 지켜지지 않은 법】출애굽기 20장 1~17

출애굽기 20장 1~1720:1 하나님이 이 모든 말씀으로 말씀하여 이르시되20:2 나는 너를 애굽 땅, 종 되었던 집에서 인도하여 낸 네 하나님 여호와니라20:3 너는 나 외에는 다른 신들을 네게 두지 말라20:4 너를 위하여 새긴 우상을 만들지 말고 또 위로 하늘에 있는 것이나 아래로 땅에 있는 것이나 땅 아래 물 속에 있는 것의 어떤 형상도 만들지 말며20:5 그것들에게…

出エジプト記 QT40 20210520金【近づけない神の御怒り】出エジプト 19章 16~25

出エジプト記 19章 16~2519:16 三日目の朝、雷鳴と稲妻と厚い雲が山の上にあって、角笛の音が非常に高く鳴り響いたので、宿営の中の民はみな震え上がった。19:17 モーセは、神に会わせようと、民を宿営から連れ出した。彼らは山のふもとに立った。19:18 シナイ山は全山が煙っていた。主が火の中にあって、山の上に降りて来られたからである。煙は、かまどの煙のように立ち上り、山全体が激しく震えた。19:19 角笛の音がいよいよ高くなる中、モーセは語り、神は声を出して彼に答えられた。19:20 主はシナイ山の頂に降りて来られた。主がモーセを山の頂に呼ばれたので、モーセは登って行った。19:21 主はモーセに言われた。「下って行って、民に警告せよ。彼らが見ようとして主の方に押し破って来て、多くの者が滅びることのないように。19:22 主に近づく祭司たちも自分自身を聖別しなければならない。主が彼らに怒りを発することのないように。」19:23 モーセは主に言った。「民はシナイ山に登ることができません。あなたご自身が私たちに警告して、『山の周りに境を設け、それを聖なるものとせよ』と言われたからです。」19:24 主は彼に言われた。「下りて行け。そして、あなた自身はアロンと一緒に上れ。しかし、祭司たちと民は、主のところに上ろうとして押し破ってはならない。主が彼らに怒りを発することのないように。」19:25 そこでモーセは民のところに下りて行き、彼らに告げた。   イスラエルの民はエジプトを出てから3ヶ月後、つまりペンテコステになるときにシナイ山に着きました。神様はシナイ山で、イスラエルとともに契約を結ばれます。ところが、この契約が、初めてではありません。神様がアブラハム、イサク、ヤコブに言われたあの契約が成就され、具体化されていきます。神様の契約は、継承され、更新され、発展していきます。神様の約束どおりにイスラエルは大きな民族を遂げ、今は、神様とその共同体が契約をしているのです。   契約の日の朝から雷鳴と稲妻と厚い雲が山の上にあって、角笛の音が鳴り響きました。山全体が火のつくようであってラッパの音が鳴りました。喜びと平和ではなく、大きな恐怖でした。ヘブル12章では、モーセ自身も深く恐れ震えると伝えます。神様の顕現は恐怖そのものだった。契約を立てる過程で、神様は、民が山に近づかないようにと警告されます。山に上がってくる者は必ず死ぬことを意味しています。   教会はできるだけ多くの人に伝道し、礼拝をささげることを勧めしますが、原則的に礼拝というのは、誰にでも許可されているものではありません。なぜなら、神様は、今怒り中におられるからです。御怒りの中におられる神様の前に恐れずに進む人はいません。罪を持った人間が聖なる神様に会うことになれば、御怒りのゆえに生き残る人間はいません。   人間が近づくと、神様が怒りを発すると言われます。神様は、罪を憎む、その怒りを隠しません。エペスの手紙によれば、人間は本質上怒りの子です。人間本来の本質的属性が罪によって滅びるしかない神様の怒りの対象であるということです。そして、神様の怒りは今も終わっていません。神様は愛であられるので、神様は今も罪に対して怒っておられます。   ただし、その怒りの中、例外的に憐れみの装置があります。モーセとアロンは神様のところに行くことが許されました。アロンは祭司になるため許可されました。レビ記で読んでいますが、イスラエルは神様の怒りの前に獣の血を流し、アロンの子の祭司を通して礼拝しました。   そして、ヘブル人への手紙を読んでいるように、大祭司はメルキゼデクの列に倣う、イエス・キリストです。イエス・キリストを通るときに怒りの中で憐れみを受けるのです。それによって礼拝できるようになったのです。ですから救いです。イエス様の血がなければ、人間の終わらない罪のゆえに終わらない神様の怒りによって未だに礼拝はできません。   人間の本質を怒りの子と定めたエペソ2章3節から続く4節以降は、「あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。4,5」と述べました。   さらに続く14,16節で「実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。」イエスの血によって、憐れみの道が開かれ、礼拝ができるようになりました。恐れと感謝なしに礼拝することはできません。

출애굽기 QT40 2105020목【접근할 수 없는 하나님의 진노】출애굽기 19장 16~25

출애굽기 19장 16~2519:16 제 삼일 아침에 우뢰와 번개와 빽빽한 구름이 산 위에 있고 나팔소리가 심히 크니 진중 모든 백성이 다 떨더라19:17 모세가 하나님을 맞으려고 백성을 거느리고 진에서 나오매 그들이 산 기슭에 섰더니19:18 시내산에 연기가 자욱하니 여호와께서 불 가운데서 거기 강림하심이라 그 연기가 옹기점 연기 같이 떠오르고 온 산이 크게 진동하며19:19 나팔 소리가 점점 커질 때에…

出エジプト記 QT39 20210519水【祭司の王国、聖なる国民】出エジプト 19章 1~15

出エジプト記 19章 1~1519:1 エジプトの地を出たイスラエルの子らは、第三の新月の日にシナイの荒野に入った。19:2 彼らはレフィディムを旅立って、シナイの荒野に入り、その荒野で宿営した。イスラエルはそこで、山を前に宿営した。19:3 モーセが神のみもとに上って行くと、主が山から彼を呼んで言われた。「あなたは、こうヤコブの家に言い、イスラエルの子らに告げよ。19:4 『あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを見た。19:5 今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。19:6 あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。』これが、イスラエルの子らにあなたが語るべきことばである。」19:7 モーセは行って、民の長老たちを呼び寄せ、主が命じられたこれらのことばをすべて、彼らの前に示した。19:8 民はみな口をそろえて答えた。「私たちは主の言われたことをすべて行います。」それでモーセは民のことばを携えて主のもとに帰った。19:9 主はモーセに言われた。「見よ。わたしは濃い雲の中にあって、あなたに臨む。わたしがあなたに語るとき、民が聞いて、あなたをいつまでも信じるためである。」それからモーセは民のことばを主に告げた。19:10 主はモーセに言われた。「あなたは民のところに行き、今日と明日、彼らを聖別し、自分たちの衣服を洗わせよ。19:11 彼らに三日目のために準備させよ。三日目に、主が民全体の目の前でシナイ山に降りて行くからである。19:12 あなたは民のために周囲に境を設けて言え。『山に登り、その境界に触れないように注意せよ。山に触れる者は、だれでも必ず殺されなければならない。19:13 その人に手を触れてはならない。その人は必ず石で打ち殺されるか、矢で殺されなければならない。獣でも人でも、生かしておいてはならない。』雄羊の角が長く鳴り響くときは、彼らは山に登ることができる。」19:14 モーセは山から民のところに下りて行って、民を聖別した。彼らは自分たちの衣服を洗った。19:15 モーセは民に言った。「三日目のために準備をしなさい。女に近づいてはならない。」   鷲は、子が大きくなると、崖の上の巣から子を追い出し、下に落とします。すると、まだ飛べない鷲の子はとめどなく墜落します。親鳥はそれを上から見ています。鷲の子が地面に触れる前に、大きな翼を広げて鷲の子を翼の上に乗せて飛びかけます。それを何回か繰り返すうちに鷲の子は飛べるようになります。   初めて巣から押し出され、下に落ちたときの鷲の子はこれで死ぬと思ったかもしれません。しかし、それが絶望にならないのは、親鷲が上からすべてを見ているからです。しかも、親鷲は鷲の子を救い出すことができる十分な力を持っています。「あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを見た。4」神様がイスラエルをそのように守り、保ちながら訓練してきたということです。   神様は荒野で、その恵みを思い起こさせ、さらにイスラエルに向かったビジョンを共有しておられます。祝福は絶望の瞬間に鷲の背中で乗せられたことにに止まらず、成熟した使命につながります。恵みを受けたのは、より大きな恵みを受けるためでした。荒野の羊飼いモーセは、イスラエルを救い出し、独立させる指導者となり、奴隷ヘブライ民族は祭司の国となります。これは、人が見た夢ではありません。人の努力の結果でもありません。神様が選び、恵みを与えた結果です。選らばれ、救われた恵みの上に、聖別された使命の恵みが与えられます。神様のご計画は、予期せぬ恵みです。   「今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。5,6」奴隷においてエジプトは世界のすべてでした。しかし、神様は、彼らの視野を広げてくださいます。救いを経験したイスラエルにより広いところを眺める視野を与えます。神様はあらゆる民族とすべての歴史を治める方です。自分の食べ物しか分からなかった奴隷から、誰かのために生きる意味が始まります。   イスラエルは祭司の国となる祝福を受けるからです。祭司というのは、他人のために働く人です。人を神様へつなげる人が祭司です。祭司は、民の礼拝と祝福のためにとりなします。アロンの子ではなく、レビではなく、イスラエルが祭司の国になるという祝福のビジョンです。そして、イスラエルはその計画に従うと答えました。これからは、祝福の契約どおりに神様の御言葉を受け、それを身につけて生きる課題が残りました。

출애굽기 QT39 2105019수【제사장 나라 거룩한 백성】출애굽기 19장 1~15

출애굽기 19장 1~1519:1 이스라엘 자손이 애굽 땅에서 나올 때부터 제 삼월 곧 그때에 그들이 시내 광야에 이르니라19:2 그들이 르비딤을 떠나 시내 광야에 이르러 그 광야에 장막을 치되 산 앞에 장막을 치니라19:3 모세가 하나님 앞에 올라가니 여호와께서 산에서 그를 불러 가라사대 너는 이같이 야곱 족속에게 이르고 이스라엘 자손에게 고하라19:4 나의 애굽 사람에게 어떻게 행하였음과 내가 어떻게…

出エジプト記 QT38 20210518火【イスラエルの組織編成】出エジプト 18章 13~27

出エジプト記 18章 13~2718:13 翌日、モーセは民をさばくために座に着いた。民は朝から夕方までモーセの周りに立っていた。18:14 モーセのしゅうとは、モーセが民のためにしているすべてのことを見て、こう言った。「あなたが民にしているこのことは、いったい何ですか。なぜ、あなた一人だけがさばきの座に着き、民はみな朝から夕方まであなたの周りに立っているのですか。」18:15 モーセはしゅうとに答えた。「民は神のみこころを求めて、私のところに来るのです。18:16 彼らは、何か事があると、私のところに来ます。私は双方の間をさばいて、神の掟とおしえを知らせるのです。」18:17 すると、モーセのしゅうとは言った。「あなたがしていることは良くありません。18:18 あなたも、あなたとともにいるこの民も、きっと疲れ果ててしまいます。このことは、あなたにとって荷が重すぎるからです。あなたはそれを一人ではできません。18:19 さあ、私の言うことを聞きなさい。あなたに助言しましょう。どうか神があなたとともにいてくださるように。あなたは神の前で民の代わりとなり、様々な事件をあなたが神のところに持って行くようにしなさい。18:20 あなたは掟とおしえをもって彼らに警告し、彼らの歩むべき道と、なすべきわざを知らせなさい。18:21 あなたはまた、民全体の中から、神を恐れる、力のある人たち、不正の利を憎む誠実な人たちを見つけ、千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長として民の上に立てなさい。18:22 いつもは彼らが民をさばくのです。大きな事件のときは、すべてあなたのところに持って来させ、小さな事件はみな、彼らにさばかせて、あなたの重荷を軽くしなさい。こうして彼らはあなたとともに重荷を負うのです。18:23 もし、あなたがこのことを行い、神があなたにそのように命じるなら、あなたも立ち続けることができ、この民もみな、平安のうちに自分のところに帰ることができるでしょう。」18:24 モーセはしゅうとの言うことを聞き入れ、すべて彼が言ったとおりにした。18:25 モーセはイスラエル全体の中から力のある人たちを選び、千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長として、民の上にかしらとして任じた。18:26 いつもは彼らが民をさばき、難しい事件はモーセのところに持って来たが、小さな事件はみな彼ら自身でさばいた。18:27 それからモーセはしゅうとを送り出した。しゅうとは自分の国へ帰って行った。   モーセを訪ねてきたイテロによると、イスラエルには問題がありました。出エジプトの初期の人々には体系と秩序がなく、朝から夕方までモーセから裁判を受けるためにやってきました。その数が多すぎて待っている人も疲れ、一人で仲裁し、判断しているモーセも疲れ果てていました。それを見たイテロがモーセに助言したのです。出エジプト社会を効率的に治めるための組織を改編するというものです。千人隊長、百人隊長、五十部長、十部長を立て、その単位での争いや問題を自主的に解決し、重大なことだけはモーセが直接引き受けて解決するという取り決めです。   それが必要なのは、モーセが、より重要な職務を集中する必要があるからです。「あなたは掟とおしえをもって彼らに警告し、彼らの歩むべき道と、なすべきわざを知らせなさい。20」モーセは絶たない葛藤と紛争の問題を解決していく中で、神様の秩序を教えると言いましたが、イテロは、まず民全体に基準となるものを教えることを言います。問題が起こってからそれを縫合するのではなくあるべき秩序を先に教えるということです。   社会の構成員が、神様とその秩序を知り、それを通して共同体の意識が養われれば、小さな問題については、自分たちで解決することができます。介入は必要ありません。それが成熟した社会です。神様の言葉を学び、それを実践する人は成熟した社会をつくっていきます。制御する社会には限界があります。神様の言葉を学ぶことはなく、治めることのみ関心を持つ人は、リーダーになってはいけません。したがって、モーセが優先的にしなければならないことは、争いの裁判ではなく、神様の言葉を先に教えることでした。   使徒の働き6章には、使徒たちの優先職務のために、教会が最初に執事を任命した話しがあります。教会の働きは分担され、協力の体制を作って行きます。イテロの助言も中間リーダーを立てることを通して協力体制を作り、組織を構成するというものでした。問題は、誰を立てるかということです。声が大きい人、人の前に出るのが好きな人ではありません。神様の召しには必ず内的召命と外的召命があります。共同体の中で信仰と人格の認定、尊敬という外的召命なしにはできません。「神を恐れる、力のある人たち、不正の利を憎む誠実な人たち21」を立てなければなりません。   信仰共同体のリーダーシップは、仕えるリーダーシップであって君臨するものではありません。中間リーダーを立て、組織を運用したのは、紛争をなくし、社会を円滑かつ効率的に維持するためでした。ところが、もし委任された権限でその中間リーダーたちが互いに争った場合、組織化の最悪の結果を生みます。   リーダーの良い資質となる参考書がテモテの手紙です。テモテのリーダー論をまとめてみると、リーダーになるためには、まず自分を守ることができなければなりません。「非難されるところがなく、一人の妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、礼儀正しく、よくもてなし、教える能力があり、酒飲みでなく、乱暴でなく、柔和で、争わず、金銭に無欲で」自制ができ、争いを起こさない人です。   また、「自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人でなければなりません。」それに「信者になったばかりの人であってはいけません。高慢になって、悪魔と同じさばきを受けることにならないようにするためです。」人を知っていくことに時間がかかります。人も共同体に対し、時間を置いて慣れていきます。聖徒と共同体は時間をかけて交際していきます。いきなりできることはありません。   教団法には、転入するところまで、また役員になるところまで、そして神学校に入学するところまで、決められた時間を置いています。教会のメンバーになりますと言ったり、奉仕をしますと言ったり、あるいは献身しますと言ったりしても、その人が誰なのかを知るまで時間をかけて待ちます。働き手が足りない時に、何でも受け入れたいと思う時もありますが、それは人の考えであり、神様はそうではありません。そういう意味でも人が時間と一緒に足並みを揃えるのは賢明なことです。神様を恐れること、全体の秩序が優先だからです。   異邦の祭司イテロはモーセに、この重要なアドバイスをしてから、自分の地に戻ります。異邦の祭司が残した言葉はイスラエルの共同体の胸に刻まなければなりません。「民全体の中から、神を恐れる、力のある人たち、不正の利を憎む誠実な人たちを見つけ、千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長として民の上に立てなさい。」組織をつくり、役割を分担し、効率よく管理しなければなりません。その職を求めるということは、その職を遂行する資質を慕うということす。枝川愛の教会が絶えず神様の御心にかなったリーダーを立てていく働きができることを祈ります。

출애굽기 QT38 2105018화【이스라엘의 조직 편성】출애굽기 18장 13~27

출애굽기 18장 13~2718:13 이튿날에 모세가 백성을 재판하느라고 앉았고 백성은 아침부터 저녁까지 모세의 곁에 섰는지라18:14 모세의 장인이 모세가 백성에게 행하는 모든 일을 보고 가로되 그대가 이 백성에게 행하는 이 일이 어찜이뇨 어찌하여 그대는 홀로 앉았고 백성은 아침부터 저녁까지 그대의 곁에 섰느뇨18:15 모세가 그 장인에게 대답하되 백성이 하나님께 물으려고 내게로 옴이라18:16 그들이 일이 있으면 내게로 오나니 내가…

出エジプト記 QT37 20210517月【恵みを言える恵み】出エジプト 18章 1~12

出エジプト記 18章 1~1218:1 さて、モーセのしゅうと、ミディアンの祭司イテロは、神がモーセと御民イスラエルのためになさったすべてのこと、どのようにして主がイスラエルをエジプトから導き出されたかを聞いた。18:2 それでモーセのしゅうとイテロは、先に送り返されていたモーセの妻ツィポラと18:3 彼女の二人の息子を連れて行った。その一人の名はゲルショムで、「私は異国にいる寄留者だ」という意味である。18:4 もう一人の名はエリエゼルで、「私の父の神は私の助けであり、ファラオの剣から私を救い出された」という意味である。18:5 こうしてモーセのしゅうとイテロは、モーセの息子と妻と一緒に、荒野にいるモーセのところにやって来た。彼はそこの神の山に宿営していた。18:6 イテロはモーセに伝えた。「あなたのしゅうとである私イテロが、あなたの妻とその二人の息子と一緒に、あなたのところに来ています。」18:7 モーセはしゅうとを迎えに出て行き、身をかがめ、彼に口づけした。彼らは互いに安否を問い、天幕に入った。18:8 モーセはしゅうとに、主がイスラエルのために、ファラオとエジプトになさったすべてのこと、道中で自分たちに降りかかったすべての困難、そして主が彼らを救い出された次第を語った。18:9 イテロは、主がイスラエルのためにしてくださったすべての良いこと、とりわけ、エジプト人の手から救い出してくださったことを喜んだ。18:10 イテロは言った。「主がほめたたえられますように。主はあなたがたをエジプト人の手とファラオの手から救い出し、この民をエジプトの支配から救い出されました。18:11 今、私は、主があらゆる神々にまさって偉大であることを知りました。彼らがこの民に対して不遜にふるまったことの結末によって。」18:12 モーセのしゅうとイテロは、神への全焼のささげ物といけにえを携えて来たので、アロンとイスラエルのすべての長老たちは、モーセのしゅうととともに神の前で食事をしようとやって来た。   聖書に記述してないから推測するだけですが、チッポラと子どもたちは、ある時点で故郷である、ミディアンに戻りたようです。モーセとイスラエルの民がシナイ山に辿り着いたとき、モーセの丈人のイテロがミデヤンからモーセの妻チッポラと子どもを連れてやってきました。   モーセは丈人のイテロとのいい関係が維持していたようで、イテロが訪ねてきたとき、モーセは丁寧に挨拶し、彼を迎えます。イテロはモーセがミデヤンを離れ、エジプトに行こうとしたときに、モーセを祝福して見送った人です。モーセ自身も恐れていたし、誰も出エジプトというのが可能と考えていなかったときにイテロはモーセのビジョンを信じて送り出しました。   イテロはミデヤンの異邦の神に仕える祭司でした。後にイテロの信仰がどのように変わるのかについては、明らかではありません。今朝は、イテロという人物より、モーセとイテロの間で起きている関係から考えてみたいのです。この二人は、確かに霊的なコードが一致しませんでしたが、互いに信頼する関係でした。   モーセとイスラエルがシナイ山まで来たのでエジプトを抜け出す状況というは一段落しました。人は状況と環境に適応する存在です。移り行く状況に適応していく間に早い」スピードで以前の記憶をも忘れてしまいます。じりじりしながら祈った奇跡が日常になってからの奇跡の記憶は消えます。分かれた紅海の水は記憶しない、飲む水がなくてモーセに向かって石を持ちます。   わずかこの間モーセが丈人のイテロの羊飼いをしているときと比べたら天地開闢の状況です。怖くてエジプトに行かないと言ったモーセがイスラエルの民を連れ出して、紅海を渡ってシナイ山に着きました。振り返ってみると、すべて神様の痕跡です。問題を振り返って見ないことです。   それをまとめ、意味を見つけ、記憶するために言わなければなりません。言ってみると気づいてなかったことに気づき、意味が分かり、知らなかった恵みを知ることができます。モーセはイテロにこの出来事を話します。一種の伝道です。伝道をしようと思って言ったことではなく、神様が自分の人生にされたことを言わざるえないがゆえに言う、それがまさに伝道です。   伝道をしていないところか、私たちの中から恵みが離れていくのは、自分の人生の中に現われた神様を記憶しなし、意味を覚えない、言葉にしないからです。恵みが日常に埋もれて忘却してしまったからです。その霊的な怠けは高慢の入り口です。高慢は恐ろしい病気であって、一度高慢になったら自覚はありません。耳も聞こえません。   枝川愛の教会は、移転してきましたが、わずか1年前には想像していなかったことです。ここで恵みを覚えるのがなければ、それは逆に危機になります。まだ、集まったりすることも分かち合うこともできません。そのような意味での危機です。神様がこの共同体をどのように導かれたのかを覚え、意味を探り、捉え、それを共有しなければ、共同体はさまざまな葛藤の中で弱まります。神様の恵みを覚え、それを言っている共同体は安全です。