요한일서 QT4 20210109토【생명을 위한 기도】요한일서5장 13~21

요한일서5장 13~215:13 내가 하나님의 아들의 이름을 믿는 너희에게 이것을 쓴 것은 너희로 하여금 너희에게 영생이 있음을 알게 하려 함이라5:14 그를 향하여 우리의 가진 바 담대한 것이 이것이니 그의 뜻대로 무엇을 구하면 들으심이라5:15 우리가 무엇이든지 구하는 바를 들으시는 줄을 안즉 우리가 그에게 구한 그것을 얻은 줄을 또한 아느니라5:16 누구든지 형제가 사망에 이르지 아니한 죄 범하는 것을…

Ⅰヨハネ QT3 20210108金 【神から出たもの】Ⅰヨハネ5章 1~12

Ⅰヨハネ5章 1~125:1 イエスがキリストであると信じる者はみな、神から生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はみな、その方から生まれた者も愛します。5:2 このことから分かるように、神を愛し、その命令を守るときはいつでも、私たちは神の子どもたちを愛するのです。5:3 神の命令を守ること、それが、神を愛することです。神の命令は重荷とはなりません。5:4 神から生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。5:5 世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。5:6 この方は、水と血によって来られた方、イエス・キリストです。水によるだけではなく、水と血によって来られました。御霊はこのことを証しする方です。御霊は真理だからです。5:7 三つのものが証しをします。5:8 御霊と水と血です。この三つは一致しています。5:9 私たちが人の証しを受け入れるのであれば、神の証しはそれにまさるものです。御子について証しされたことが、神の証しなのですから。5:10 神の御子を信じる者は、その証しを自分のうちに持っています。神を信じない者は、神を偽り者としています。神が御子について証しされた証言を信じていないからです。5:11 その証しとは、神が私たちに永遠のいのちを与えてくださったということ、そして、そのいのちが御子のうちにあるということです。5:12 御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。   カルヴァンが「キリスト教綱要」の始まりに書いたように、「神を知ることが、自分を知ることであり、自分を知ることが、すなわち、神を知ること」です。神様を知れば知るほど、人間の存在は、絶望的なものであり、その悲惨な現実を自覚したときに、聖なる神様に対する知識は大きくなります。自分について知りたいなら、神様を探らなければならないし、神様について知っていくと、自分が誰なのかがわかります。相互補完的な知識であり、循環する知識です。   ヨハネは同様の構造で兄弟を愛することは神様を愛することを語ります。4:20以下で、「神を愛していると言いながら兄弟を憎むと嘘をつくのだから、神を愛する者は、兄弟を愛しなさい」と言いました。   そして、5章の始めに「神を愛する人が兄弟も愛することができる」と言いました。どっちが先なのか判断に困りますが、これも神様と自分を知っていく知識と同様に、順序的に矛盾しているのではありません。兄弟を愛すればそれが神様を愛することであって、神様を愛すると、それが兄弟を愛することです。   神様の恵みを受けると、神様への信仰が生じ、成長します。そして、その信仰があったからこそ恵みはより大きくなってきます。相互補完で、循環します。多くの恵みを受けた人が多くの従順をすると、恵みは広がり循環します。順序的に矛盾しません。   これで、私たちの信仰を成している形を確認することができます。自ら神様への信仰であると定めているものがあれば、それが兄弟愛にどう関係しているのかを点検するのです。神様を愛する心と兄弟を愛する心が表されたものが信仰でなければならないからです。例えば、礼拝は神様と交わる場所ですから、礼拝は神様を愛することであり、そのための奉仕というのは、皆の礼拝、つまり兄弟のための奉仕となりますから、この二つの愛を満たすことになります。   4章の兄弟愛は5章につながっています。4:21の「神」と「兄弟」は、5:1で、「生んでくださった方」と「生まれた者」という言葉に変わります。(神:兄弟=生んでくださった方:生まれた者)です。存在の出所を明らかにしています。3節以下を言い換えれば「神様を愛することは、兄弟を愛することであって、それは決して難しいことではない。なぜなら、出所が神様である人々はみな、世(愛ではないもの)に打ち勝っているからです。 」   愛せないようにする世にある悪に対して、既にキリストが私たちの兄弟になって愛のゆえに死なれました。4章で霊を見分けることについて読みましたが、それも兄弟を愛することと別々ではありません。そのように5:5以下のキリストへの信仰も、兄弟愛と別のテーマで扱っているものではありません。   キリストが再び来られるとき、これを確認するでしょう。「イエスを信じれば救われる」は、「イエスの愛を信じれば救われる」ということです。そして、その信仰は聖徒の愛に現われます。愛するということに恐れを持ちますが、愛は重いいびきではありません。愛は神様から出たものによってより大きなものになって循環していきます。    

요한일서 QT3 20210108금【하나님의 사랑에서 난 사람】요한일서5장 1~12

요한일서5장 1~125:1 예수께서 그리스도이심을 믿는 자마다 하나님께로서 난 자니 또한 내신 이를 사랑하는 자마다 그에게 난 자를 사랑하느니라5:2 우리가 하나님을 사랑하고 그의 계명들을 지킬 때에 이로써 우리가 하나님의 자녀 사랑하는 줄을 아느니라5:3 하나님을 사랑하는 것은 이것이니 우리가 그의 계명들을 지키는 것이라 그의 계명들은 무거운 것이 아니로다5:4 대저 하나님께로서 난 자마다 세상을 이기느니라 세상을 이긴 이김은…

Ⅰヨハネ QT2 20210107木 【愛し合うために】Ⅰヨハネ4章 13~21

Ⅰヨハネ4章 13~214:13 神が私たちに御霊を与えてくださったことによって、私たちが神のうちにとどまり、神も私たちのうちにとどまっておられることが分かります。4:14 私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、その証しをしています。4:15 だれでも、イエスが神の御子であると告白するなら、神はその人のうちにとどまり、その人も神のうちにとどまっています。4:16 私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。4:17 こうして、愛が私たちにあって全うされました。ですから、私たちはさばきの日に確信を持つことができます。この世において、私たちもキリストと同じようであるからです。4:18 愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。4:19 私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。4:20 神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。4:21 神を愛する者は兄弟も愛すべきです。私たちはこの命令を神から受けています。   使徒ヨハネの神学は愛で一貫されています。愛で神様を認識し、愛で信仰を実現します。使徒ヨハネがエペソで晩年を送るとき、すべての説教には、例外なく、互いに愛し合うという勧めがあったそうです。愛の中に神様を知ることと神様を信じてことがすべて含まれているからです。   ヨハネ4章は、霊をわきまえることの勧めから始まります。だから4章は、霊をわきまえることと、互いに愛すること、この二つの主題が混ざっているように見えます。しかし、この二つのお勧めは同じことを言っています。悪霊は互いに愛し合うことを妨げる方法で共同体を脅かすからです。 もし、正しさと正当の論理に陥って兄弟を憎んでいるなら、それは善と悪を見分けることではなく、霊をわきまえず騙されているということです。霊をわきまえることと互いに愛することは同じことだからです。   「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。19」愛の根拠は、神様が「先に」愛されたからです。神様の「先に」は、私たちの「互いに」になります。だから「互いに」愛そうとする人は、必ずその属性上、「先に」愛さなければありません。そうでなければ、結局愛することはできなくなります。   「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。20」神様を愛しているという告白は、兄弟を憎むことで偽りであることが明らかになります。口では神様を愛すると言いますが、先に兄弟を許さなければ、それは神様を知らないこと、また神様を愛していないことです。その信仰は虚しさに直面してしまいます。   先制的に愛することによって互いに愛するをところに達することができます。それが先に愛してくださった神様の愛を知ることであり、その愛に対する真実な告白になります。ヨハネが語る愛は積極的です。互いに愛するということは、先に愛することであり、先に愛するということは、兄弟の存在を容認して受け入れることです。  

요한일서 QT2 20210107목【서로 사랑하려면】요한일서4장 13~21

요한일서4장 13~214:13 그의 성령을 우리에게 주시므로 우리가 그 안에 거하고 그가 우리 안에 거하시는 줄을 아느니라4:14 아버지가 아들을 세상의 구주로 보내신 것을 우리가 보았고 또 증거하노니4:15 누구든지 예수를 하나님의 아들이라 시인하면 하나님이 저 안에 거하시고 저도 하나님 안에 거하느니라4:16 하나님이 우리를 사랑하시는 사랑을 우리가 알고 믿었노니 하나님은 사랑이시라 사랑 안에 거하는 자는 하나님 안에 거하고…

한국어 예배 (2021-01-03)

히브리서 4:1-111 그러므로 우리는 두려워할지니 그의 안식에 들어갈 약속이 남아 있을지라도 너희 중에 혹 미치지 못할 자가 있을까 함이라2 저희와 같이 우리도 복음 전함을 받은 자이나 그러나 그 들은 바 말씀이 저희에게 유익되지 못한 것은 듣는 자가 믿음을 화합지 아니함이라3 이미 믿는 우리들은 저 안식에 들어가는도다 그 말씀하신 바와 같으니 내가 노하여 맹세한 바와 같이…

日本語礼拝 (2021-01-03)

ヘブル人への手紙 4:1-111 こういうわけで、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。神の安息に入るための約束がまだ残っているのに、あなたがたのうちのだれかが、そこに入れなかったということのないようにしましょう。2 というのも、私たちにも良い知らせが伝えられていて、あの人たちと同じなのです。けれども彼らには、聞いたみことばが益となりませんでした。みことばが、聞いた人たちに信仰によって結びつけられなかったからです。3 信じた私たちは安息に入るのですが、「わたしは怒りをもって誓った。『彼らは決して、わたしの安息に入れない』」と神が言われたとおりなのです。もっとも、世界の基が据えられたときから、みわざはすでに成し遂げられています。4 なぜなら、神は第七日について、あるところで「そして神は、第七日に、すべてのわざを終えて休まれた」と言われ、5 そのうえで、この箇所で、「彼らは決して、わたしの安息に入れない」と言われたからです。6 ですから、その安息に入る人々がまだ残っていて、また、以前に良い知らせを聞いた人々が不従順のゆえに入れなかったので、7 神は再び、ある日を「今日」と定め、長い年月の後、前に言われたのと同じように、ダビデを通して、「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない」と語られたのです。8 もしヨシュアが彼らに安息を与えたのであれば、神はその後に別の日のことを話されることはなかったでしょう。9 したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残されています。10 神の安息に入る人は、神がご自分のわざを休まれたように、自分のわざを休むのです。11 ですから、だれも、あの不従順の悪い例に倣って落伍しないように、この安息に入るように努めようではありませんか。

20210102 Ⅰヨハネ QT1 20210102土 【恵みの執行】Ⅰヨハネ2章 1~11

Ⅰヨハネ2章 1~112:1 私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。しかし、もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の前でとりなしてくださる方、義なるイエス・キリストがおられます。2:2 この方こそ、私たちの罪のための、いや、私たちの罪だけでなく、世全体の罪のための宥めのささげ物です。2:3 もし私たちが神の命令を守っているなら、それによって、自分が神を知っていることが分かります。2:4 神を知っていると言いながら、その命令を守っていない人は、偽り者であり、その人のうちに真理はありません。2:5 しかし、だれでも神のことばを守っているなら、その人のうちには神の愛が確かに全うされているのです。それによって、自分が神のうちにいることが分かります。2:6 神のうちにとどまっていると言う人は、自分もイエスが歩まれたように歩まなければなりません。2:7 愛する者たち。私があなたがたに書いているのは、新しい命令ではなく、あなたがたが初めから持っていた古い命令です。その古い命令とは、あなたがたがすでに聞いているみことばです。2:8 私は、それを新しい命令として、もう一度あなたがたに書いているのです。それはイエスにおいて真理であり、あなたがたにおいても真理です。闇が消え去り、まことの光がすでに輝いているからです。2:9 光の中にいると言いながら自分の兄弟を憎んでいる人は、今でもまだ闇の中にいるのです。2:10 自分の兄弟を愛している人は光の中にとどまり、その人のうちにはつまずきがありません。2:11 しかし、自分の兄弟を憎んでいる人は闇の中にいて、闇の中を歩み、自分がどこへ行くのかが分かりません。闇が目を見えなくしたからです。   律法については二つの誤解があります。一つは、人間が律法を守ることで救いに至るという功労主義、すなわち自らの努力で罪を克服したり、罪から分離することができるという考えです。それからもう一つの誤解は、律法は、愛とは無関係形式ばかりで抑圧にすぎないから廃棄すべきだという考えです。両方とも偏った理解です。すべての人間において、やってはいけないことと、やらなければならない原則的な規範が存在します。私たちの中にある罪は避けるべきものであり、私たちに欠けている他人と社会への尊重と配慮は、指向すべきものです。   神様が与えた律法は、善いものであり、それは人間の内面と社会と信仰を守るという原理で作動します。規範と戒めというものが大切な価値であるという理解がある一方で、律法は救いの方策、つまり罪を根本的に解決する手段にはならない不完全性をも理解しなければなりません。律法の中で救いを論じるのは気が早すぎます。律法の精神は、神様を愛し、隣人を愛することです。   律法を守ることによって救われるのではない。キリストの恵みによって救われるという救済論について誰も異議を述べません。ヨハネも同じです。ヨハネが命令を守るようにと強調しているのは、律法に戻るということではなく、キリストの愛にふさわしくなるためです。律法は兄弟を愛することであるため、律法は愛とは衝突しません。ただ、神様を信じるといいながら自己本位的、利己的に信じている人は、信じることと行うことがぶつかります。   愛とは何ですか?愛しなさいという言葉の反対側にある言葉を通して一次的にヨハネが語っている愛が何であるかがわかります。「光の中にいると言いながら自分の兄弟を憎んでいる人は、今でもまだ闇の中にいるのです。9 しかし、自分の兄弟を憎んでいる人は闇の中にいて、闇の中を歩み、自分がどこへ行くのかが分かりません。闇が目を見えなくしたからです。11」   愛は、まず憎まないことです。心の中で憎むのではなく、誰かを憎むしかない分の感情を憎み、兄弟を赦し、受け入れることです。決して簡単なことではありません。私たちは経験によって、それがどれほど難しいことなのかをよく知っています。それが容易ではないことを少しでも知ることによって、キリストの愛の大きさがどれほど大きいことなのかを実感することができます。マタイ5章でイエス様が「自分を愛してくれる人を愛したとしても、あなたがたに何の報いがあるでしょうか。46」と言われたことを覚えます。   「この方こそ、私たちの罪のための、いや、私たちの罪だけでなく、世全体の罪のための宥めのささげ物です。2」イエスが罪のための宥めのささげ物、つまり和解のいけにえとしてささげれらたということを信じる人であれば、当然のことにいけにえのささげものを受けてきて和解を告げるべき人を招き、聖餐に分かち合い、ともに食べます。互いに赦し合って、受け入れます。十字架は法的根拠です。その十字架の恵みが、私たちの中で執行されるのは、私たちがお互いに赦すときです。ヨハネの福音書に復活されたイエス様は、弟子たちに、その恵みを執行することを求めました。「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。20:23」  

20210102 요한일서 QT1 20210102토【은혜의 집행】요한일서2장 1~11

요한일서2장 1~112:1 나의 자녀들아 내가 이것을 너희에게 씀은 너희로 죄를 범치 않게 하려 함이라 만일 누가 죄를 범하면 아버지 앞에서 우리에게 대언자가 있으니 곧 의로우신 예수 그리스도시라2:2 저는 우리 죄를 위한 화목 제물이니 우리만 위할 뿐 아니요 온 세상의 죄를 위하심이라2:3 우리가 그의 계명을 지키면 이로써 우리가 저를 아는 줄로 알 것이요2:4 저를 아노라 하고…

新年礼拝 신년예배 (2021-01-01)

ペテロの手紙第二 1:1919 また私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。夜が明けて、明けの明星があなたがたの心に昇るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。