욥기 QT13 211015금【네 시작은 미약하였으나…】욥기 8장 1~7

욥기 8장 1~78:1 수아 사람 빌닷이 대답하여 가로되8:2 네가 어느 때까지 이런 말을 하겠으며 어느 때까지 네 입의 말이 광풍과 같겠는가8:3 하나님이 어찌 심판을 굽게 하시겠으며 전능하신이가 어찌 공의를 굽게 하시겠는가8:4 네 자녀들이 주께 득죄하였으므로 주께서 그들을 그 죄에 붙이셨나니8:5 네가 만일 하나님을 부지런히 구하며 전능하신 이에게 빌고8:6 또 청결하고 정직하면 정녕 너를 돌아보시고 네…

ヨブ記 QT12 211014木【人とは何ものなのでしょう】ヨブ記 7章 11~21

ヨブ記 7章 11~217:11 ですから、私も自分の口を制することをせず、霊の苦しみの中で語り、たましいの苦悩の中で嘆きます。7:12 私は海でしょうか、それとも竜でしょうか。あなたが私の上に見張りを置かれるとは。7:13 寝台が私を慰め、寝床が嘆きを負ってくれると私が思っても、7:14 あなたは、いくつもの夢で私をおののかせ、幻によって私をおびえさせます。7:15 私のたましいは窒息を、私のからだではなく死を選びます。7:16 もういやです。いつまでも生きたくありません。かまわないでください。私の日々は空しいものです。7:17 人とは何ものなのでしょう。あなたがこれを尊び、これに心を留められるとは。7:18 朝ごとにこれを訪れ、その都度これを試されるとは。7:19 いつまで私から目をそらしてくださらないのですか。唾を飲み込む間も、私を放っておいてくださらないのですか。7:20 私が罪ある者だとしても、人を見張るあなたに、私は何ができるでしょう。どうしてあなたは、私を標的とされるのですか。私は、自らを重荷としなければならないのですか。7:21 どうして、あなたは私の背きを赦さず、私の咎を取り去ってくださらないのですか。私が今も、ちりに横たわらなければならないとは。あなたが私を捜しても、私はもういません。   殉教者の孫良源牧師の娘の講演を聞いたことがあります。信仰のために二人の兄を失い、父まで失った彼女は喪失と怒りの恨みて神様に向けて拳骨をふるったと言いました。その姿を想像しながら、彼女の神様への恨みが不敬なことに思えませんでした。   ヨブは苦痛の中で、神様への恨みを言い始めます。「神様は、私の上に見張りを置かれる、朝ごとに訪れ、その都度試される、唾を飲み込む間もない、たとえ私が罪ある者だとしても、神様に何の害を与えたのか」という恨みです。   ヨブの恨みも神様に敵対的でないので不敬だと思いません。ヨブが、この言語を隠したなら、神様の率直な自分を表現をすることができないかも知れません。「人とは何ものなのでしょう。あなたがこれを尊び、これに心を留められるとは。朝ごとにこれを訪れ、その都度これを試されるとは。17,18」ヨブにとって恨みは神様の沈黙と不在ではなく、むしろ、自分に対する神様の過度な関心と介入です。ヨブは今の状況が神様の中にあることを知っています。   まるで詩篇8篇を読んでいるようです。ダビデは、「人とは何ものなのでしょう。あなたが心に留められるとは。人の子とはいったい何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。8:4」と言いました。しかし、ダビデは、神様のご臨在の感激を歌いましたが、ヨブはそれが苦痛になって訴えています。とちらもあり得ます。神様がともにおられて平安があるように、神様がともにおられて苦みもあります。   それは何の違いでしょうか?ヨブには、神様の慈悲が一時停止そた状態です。だからヨブは耐えられない苦痛の中をさまよっています。もし、今の私を維持している神様の慈悲が消え、神様が私の罪に注目し始めるなら私に対する神様の関心を耐えることは出来ません。神様の慈悲を感じられないヨブの「人とは何ものなのでしょう」という恨みは、神様の慈悲を悟ったダビデの「人とは何ものなのでしょう」に変わり、今ここにいます。  

욥기 QT12 211014목【사람이 무엇이관대】욥기 7장 11~21

욥기 7장 11~217:11 그런즉 내가 내 입을 금하지 아니하고 내 마음의 아픔을 인하여 말하며 내 영혼의 괴로움을 인하여 원망하리이다7:12 내가 바다니이까 용이니이까 주께서 어찌하여 나를 지키시나이까7:13 혹시 내가 말하기를 내 자리가 나를 위로하고 내 침상이 내 수심을 풀리라 할 때에7:14 주께서 꿈으로 나를 놀래시고 이상으로 나를 두렵게 하시나이다7:15 이러므로 내 마음에 숨이 막히기를 원하오니 뼈보다도…

ヨブ記 QT11 211013水【再発見する人生観】ヨブ記 7章 1~10

ヨブ記 7章 1~107:1 地上の人間には苦役があるではないか。その日々は日雇い人の日々のようではないか。7:2 日陰をあえぎ求める奴隷のように、賃金を待ち焦がれる日雇い人のように、7:3 そのように、私には徒労の月日が割り当てられ、労苦の夜が定められている。7:4 私は 横になるときに言う。「いつ起き上がれるだろうか」と。夜は長く 、私は夜明けまで寝返りを打ち続ける。7:5 私の肉は、うじ虫と土くれをまとい、皮膚は固まっては、また崩れる。7:6 私の日々は機の杼よりも速く、望みのないままに終わる。7:7 心に留めてください。私のいのちが息にすぎないことを。私の目は、再び幸いを見ることはありません。7:8 私を見る人の目は、もう私を認めることはありません。あなたが私に目を留められても、私はもういません。7:9 雲は消え去ります。そのように、よみに下る者は上っては来ません。7:10 その人はもう自分の家には帰れず、彼の家も、もう彼のことが分かりません。   ヨブは、人生の日々が雇い人の日と同じだと言いました。雇い人は雇われた時間の中で仕事をします。雇い人の日は苦しいものであり、その先には休みという報酬を受けることになります。人生は、神様から与えられた時間の中で生きる存在であり、その苦労が終われば報いが与えられます。ヨブの現実は苦しいですが、生きることが信じることです。   ヨブが敬虔な人であっても富んである時、力あるときは、これを告白するのは出来なかったと思います。ヨブの人生は、底に陥ていますが、そのゆえに人生の原点に戻っているのです。忙しすぎだからといって、今が幸せだといって、人生が何なのか考えることよりは幸いです。根拠のない楽観主義は、神様も人生を捨て、肉を求めることに従って誤解してしまいます。信仰をその中に閉じ込めてしまうのです。しかし、根拠のない楽観論こそ、突然が降りかかる死の前では挫折せざる得ないです。   友人に話していたヨブは、7節からいきなり神様への祈りに変わります。「心に留めてください。私のいのちが息にすぎないことを。私の目は、再び幸いを見ることはありません。7」人間の命が息をつくようなのものであると告白します。この瞬間、議論は祈りに変わります。人生が何なのかを発見した人間は祈ります。ヨブは空しく飛んでいく人生を直視します。ヨブは、それにもかかわらず神様を求めているのではなく、それがゆえに神様を求めているのです。

욥기 QT11 211013수【재발견하는 인생관】욥기 7장 1~10

욥기 7장 1~107:01 세상에 있는 인생에게 전쟁이 있지 아니하냐 그 날이 품군의 날과 같지 아니하냐7:02 종은 저물기를 심히 기다리고 품군은 그 삯을 바라나니7:03 이와 같이 내가 여러 달째 곤고를 받으니 수고로운 밤이 내게 작정되었구나7:04 내가 누울 때면 말하기를 언제나 일어날꼬 언제나 밤이 갈꼬 하며 새벽까지 이리 뒤척 저리 뒤척 하는구나7:05 내 살에는 구더기와 흙 조각이…

ヨブ記 QT10 211012火【疑わしきは罰せず】ヨブ記 6章 14~30

ヨブ記 QT10 211012火【疑わしきは罰せず】ヨブ記 6章 14~30 ヨブ記 6章 14~306:14 落胆している者には、友からの友情を。さもないと、全能者への恐れを捨てるだろう。6:15 兄弟たちは水無し川のように私を裏切った。流れが去る川床のように。6:16 それは氷で黒ずみ、雪で隠される。6:17 炎天のころには、流れがなくなり、暑くなるとその場所から消える。6:18 隊商はその道筋からそれ、荒れ地に上って滅びる。6:19 テマの隊商はこれを目印とし、シェバの旅人はこれに望みをかける。6:20 彼らはこれに頼ったために恥を見、そこまでやって来て、辱めを受ける。6:21 今や、あなたがたはそのようになった。あなたがたは恐ろしいことを見ておびえている。6:22 私が言ったことがあるか。「私に贈り物をせよ」と。「あなたがたの財産の中から私のために賄賂を贈れ」と。6:23 あるいは「敵の手から私を救い出せ。横暴な者たちの手から私を贖い出せ」と。6:24 私に教えよ。そうすれば、私は黙ろう。私がどのように迷い出たのか、私に悟らせよ。6:25 真っ直ぐなことばは、なんと痛いことか。あなたがたは自分で何を責め立てているのか。6:26 ことばで私を責めるつもりか。絶望している者のことばを、風と見なすつもりか。6:27 あなたがたは、みなしごをくじで分け合い、自分の友さえ売りに出す。6:28 今、ぜひ、私の方に顔を向けてくれ。あなたがたの顔に向かって私は決してまやかしを言わない。6:29 思い直してくれ。不正があってはならない。思い直してくれ。私の正しさが問われているのだ。6:30 私の舌に不正があるだろうか。私の口は破滅を見極められないだろうか。   エリファズは良い言葉を言いましたが、彼自身ヨブからは事実関係を聞いたわけではありません。ヨブの答えはエリファズに対する答えでもありますが、自分の中心を知っておられる神様への訴えであるかもしれません。誰が人の心を知り、その心を判断することができるでしょうか。   特に神様の前に立っている人間の真実さについては、誰もそれを測定することすらできません。信仰的に行うと、賞賛されることより、誤解を受けることも多くあります。もちろん人の目で偽善を見つけるのは難しいことでもあります。私たちは、信仰さえも行為と情熱に基づいて序列化することを好みますが、人の魂の中にある信仰を測るということが無理なことです。   憲法に「無罪推定の原則」があります。有罪が確定するまで被告は無罪とみなされます。捜査する人の経験や心証では、疑いがあっても犯罪者扱いはできません。有罪者に対して罪に定めることが出来ないのは事実ですが、もしかしたら罪のない人が濡れ衣を着せられることがないようにするためのものかもしれません。   ヨブの弁論は正当です。正義を言う友人に事実は伝えるべきですから。友人は思っていることが自分の中で確信になり、自分の論理を立てていきますが、ヨブは神学的悩みだけが蓄積されていきます。人間を説明することができないように苦難を神様の罰で説明することはできないということです。人間が知らないことを知るということは、いかに偉大な発見でしょうか。   ヨブに対する誤解は、神様を知ることの誤解です。私を取り巻く環境と人間から起こっていることに対し、無罪推定の原則を適用したいと思わされました。私の推定、私の中でさらに大きくなる確信を捨てて、理解と慰めの言葉を始めたいと思います。騙されることがあっても、「疑わしきは罰せず」の原則を守ったので指摘される非はないと言えるでしょう。

욥기 QT10 211012화【무죄 추정의 원칙】욥기 6장 14~30

욥기 6장 14~306:14 피곤한 자 곧 전능자 경외하는 일을 폐한 자를 그 벗이 불쌍히 여길 것이어늘6:15 나의 형제는 내게 성실치 아니함이 시냇물의 마름 같고 개울의 잦음 같구나6:16 얼음이 녹으면 물이 검어지며 눈이 그 속에 감취었을지라도6:17 따뜻하면 마르고 더우면 그 자리에서 아주 없어지나니6:18 떼를 지은 객들이 시냇가로 다니다가 돌이켜 광야로 가서 죽고6:19 데마의 떼들이 그것을 바라보고…

ヨブ記 QT9 211011月【ヨブの答え】ヨブ記 6章 1~13

ヨブ記 6章 1~136:1 ヨブは答えた。6:2 ああ、私の苦悶の重さが量られ、私の破滅が、ともに秤にかけられたらよいのに。6:3 きっと海の砂よりも重いだろう。だから、私のことばは激しかったのだ。6:4 まことに、全能者の矢が私に刺さり、その毒を私の霊が飲み、神の脅威が私に対して準備されている。6:5 野ろばが若草の上で鳴くだろうか。雄牛が飼葉の上でうなるだろうか。6:6 味のない物は塩なしに食べられるだろうか。卵の白身に味があるだろうか。6:7 私の喉はそれを受けつけない。それらは私には腐った食物のようだ。6:8 ああ、私の願いがかなえられ、私が望むものを神が下さるとよいのに。6:9 神が望むままに私を砕き、御手を伸ばして私を絶たれるのであれば、6:10 それはなおも私にとって慰めであり、容赦ない激痛の中でも、私は小躍りして喜ぶ。私は聖なる方のことばを、拒んだことはない。6:11 私にどんな力があるのだろうか。私が待たなければならないとは。どんな終わりがあるのだろうか。耐え忍ばなければならないとは。6:12 私の力は石の力なのか。私の肉は青銅なのか。6:13 私のうちには何の助けもないではないか。すぐれた知性は、私から取り払われている。   エリファズはヨブの苦難の理由を罪に定め、悔い改めを促す長い助言を終えました。エリファズが使っている言葉は重いものでありましたが、それは中からではなく、口から出てくるものなので軽いものでした。世界は不条理であって、人は罪に陥った存在なので正義の神様に照らすと、人の非難の素材はあふれます。ヨブが全存在をもって経験している苦しみは、エリファズの口から出る気の利いの言葉では相手にできないことでした。   痛みを通して神様に会うということは何度も聞きましたし、またそのように言ってきましたし、実際そうであると思います。それは、人間は苦痛に耐えられない存在ということでもあります。痛みを打ち勝てないので、神様に降伏し、痛みがなくなるように願います。それでも、痛みはなくならず、さらに思いものになり、人間が耐えられなくなると、人間は痛みからの回復ではなく、終わりを望みます。死の向こうには痛みのない安息があると思うからです。このような人間の弱さを考えると、人間は誠にかわいそうな存在です。耐えられない深刻な苦痛の人間が求められるのは、死ぬことしかありません。今この瞬間にも、多くの人が苦痛の中で死んでおり、医療ができる最善は麻薬によって痛みをほんの少し和らげることしかありません。   深海魚の釣りを見たことがあります。珍しい魚が釣られてきますが、海の中から出た魚は目玉と内臓が口の中から飛び出て死にます。圧力の差があるからです。同様に、浅い所の魚を深いところ入れると、その圧力に耐えられず縮ん入ってしまいます。本文は、苦痛と死との関係について言うことではありません。痛みという怪物の圧力に耐えられない人間の限界について言うのです。人間の意志がそれを耐えられるでしょうか?苦しんいるヨブに神学的な原因を取り調べることではなく、死ぬほどに大変な苦しみのヨブに少しでも共感できるな、ヨブ記の正しい読み方であると思います。   ヨブは目と内臓を飛び出るような苦痛の中でも死を超えている痛みのない世界を望みますが、それも神様を認め、神様を信頼しているからです。「それはなおも私にとって慰めであり、容赦ない激痛の中でも、私は小躍りして喜ぶ。私は聖なる方のことばを、拒んだことはない。10」ヨブが悔い改めないことではありません。ヨブが神様の前でどのように生きていたのかが分かります。傷んでいるヨブはかわいそうですが、ヨブの信仰を読んでみると、痛みのない日常を生きている私の信仰がかわいそうに感じられます。

욥기 QT9 211011월【욥의 대답】욥기 6장 1~13

욥기 6장 1~136:1 욥이 대답하여 가로되6:2 나의 분한을 달아 보며 나의 모든 재앙을 저울에 둘 수 있으면6:3 바다 모래보다도 무거울 것이라 그럼으로 하여 나의 말이 경솔 하였구나6:4 전능자의 살이 내 몸에 박히매 나의 영이 그 독을 마셨나니 하나님의 두려움이 나를 엄습하여 치는구나6:5 들 나귀가 풀이 있으면 어찌 울겠으며 소가 꼴이 있으면 어찌 울겠느냐6:6 싱거운 것이…

ヨブ記 QT8 211009土【私なら】ヨブ記 5章 1~16

ヨブ記 5章 1~165:1 さあ、呼んでみよ。だれかあなたに答える者はいるか。聖なる者のうちのだれのところにあなたは向かうのか。5:2 苛立ちは愚か者を殺し、ねたみは浅はかな者を死なせる。5:3 私は愚か者が根を張るのを見て、ただちにその住まいを呪った。5:4 その子たちは安全からはほど遠く、門で押しつぶされても、救い出す者もいない。5:5 愚か者が刈り入れた物は、飢えた人が食べ、茨の中からさえそれを奪う。渇いた人たちが彼らの富をあえぎ求める。5:6 まことに、不幸はちりから出て来ることはなく、労苦は土から生え出ることはない。5:7 まことに、人は労苦のために生まれる。火花が上に向かって飛ぶように。5:8 私なら、神に尋ね、神に向かって自分のことを訴えるだろう。5:9 神は、測り知れない大いなることをなし、数えきれない奇しいみわざを行われる。5:10 地の上に雨を降らせ、野の面に水を送られる。5:11 神は低い者を高く上げ、嘆き悲しむ者は安全なところに引き上げられる。5:12 神は悪賢い者たちの企みを打ち砕かれ、彼らの手は良い成果を得られない。5:13 神は知恵のある者を、彼ら自身の悪巧みによって捕らえ、彼らのねじれたはかりごとは突然終わる。5:14 彼らは昼間に闇と出会い、真昼でも、夜のように手探りする。5:15 神は貧しい者を剣から、剣の刃から、強い者の手から救われる。5:16 こうして弱い者は望みを抱き、不正は口をつぐむ。   エリファズはヨブの苦難に対して訓戒を続けます。彼が見るからには、ヨブの苦しみの原因はヨブの罪にありました。だからエリファズはヨブに神様に悔い改めを求めます。この時のエリファズの表現が、「私なら、神に尋ね、神に向かって自分のことを訴えるだろう8」です。「私なら」悔い改め、「私なら」神様に頼ると言っていますが、実際には「私なら」と言えるほどの共感をしたことがないのに、無責任に「私なら」という表現を使っているのです。   訓戒者のところに立つことが怖いのは自分の問題を忘却するからです。人々が他人の裏話をすると、様々な正しい言葉を吐き出し、誰かを非難しますが、その都度、自分はそうではない安定感を共有します。誰かを非難すると、すべては非難される人の問題であって非難する人は客観的な立場で公正な批判をしているものであり、自分たちは、健全で優れた人だと勘違いしてしまいます。   しかし、その瞬間に罪を犯す者は、非難される人ではなく、身の程を知らず、兄弟を非難し、断罪する人であることをわきまえません。エリファズは神様に対する理解について良い言葉は並べていますが、彼の心の中には優越感があり、自己陶酔に陥っています。これが教えることの落とし穴です。教えるところに立つと、自分はその教えにふさわしい人であると思ってしまうのです。   エリファズは「私なら」という表現で、自分の論旨を強調していますが、「ヨブなら」という視点、ヨブの立場に立って彼の痛みなどは考えない、過酷な訓戒者です。エリファズが言っている神様をエリファズ自身が会ったのではありません。そんな神様に会ったはずがありません。自分の論旨を強化するための材料にすぎないのです。司法的な因果応報の関係で神様に出会う人はいません。それを超えておられる慈悲と愛に触れられるとき、私たちは神様に会うことができます。