마태복음 QT20 20210203수【기도해야 할 일꾼】마태 9장 27~38

마태 9장 27~389:27 예수께서 거기서 떠나 가실쌔 두 소경이 따라 오며 소리질러 가로되 다윗의 자손이여 우리를 불쌍히 여기소서 하더니9:28 예수께서 집에 들어가시매 소경들이 나아오거늘 예수께서 이르시되 내가 능히 이 일 할 줄을 믿느냐 대답하되 주여 그러하오이다 하니9:29 이에 예수께서 저희 눈을 만지시며 가라사대 너희 믿음대로 되라 하신대9:30 그 눈들이 밝아진지라 예수께서 엄히 경계하시되 삼가 아무에게도…

マタイによる福音書 QT19 20210202火【娘よ】マタイ 9章 14~26

マタイ 9章 14~269:14 それから、ヨハネの弟子たちがイエスのところに来て、「私たちとパリサイ人はたびたび断食をしているのに、なぜあなたの弟子たちは断食をしないのですか」と言った。9:15 イエスは彼らに言われた。「花婿に付き添う友人たちは、花婿が一緒にいる間、悲しむことができるでしょうか。しかし、彼らから花婿が取り去られる日が来ます。そのときには断食をします。9:16 だれも、真新しい布切れで古い衣に継ぎを当てたりはしません。そんな継ぎ切れは衣を引き裂き、破れがもっとひどくなるからです。9:17 また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。そんなことをすれば皮袋は裂け、ぶどう酒が流れ出て、皮袋もだめになります。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れます。そうすれば両方とも保てます。」9:18 イエスがこれらのことを話しておられると、見よ、一人の会堂司が来てひれ伏し、「私の娘が今、死にました。でも、おいでになって娘の上に手を置いてやってください。そうすれば娘は生き返ります」と言った。9:19 そこでイエスは立ち上がり、彼について行かれた。弟子たちも従った。9:20 すると見よ。十二年の間長血をわずらっている女の人が、イエスのうしろから近づいて、その衣の房に触れた。9:21 「この方の衣に触れさえすれば、私は救われる」と心のうちで考えたからである。9:22 イエスは振り向いて、彼女を見て言われた。「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、その時から彼女は癒やされた。9:23 イエスは会堂司の家に着き、笛吹く者たちや騒いでいる群衆を見て、9:24 「出て行きなさい。その少女は死んだのではなく、眠っているのです」と言われた。人々はイエスをあざ笑った。9:25 群衆が外に出されると、イエスは中に入り、少女の手を取られた。すると少女は起き上がった。9:26 この話はその地方全体に広まった。   イエス様は、一人の会堂司の娘を死から救い、長血をわずらっている一人の女性を病気から癒してくださいます。ルカによれば会堂司の名前はヤイロで、死んだ娘は十二歳の少女です。このマタイに記述では、娘がすでに死んでいて父ヤイロがイエス様に行ったときの願いは娘を生き返らせてくださいということでしだが、ルカとマルコを読んでみると、ヤイロがイエス様を訪れた時点に娘はまだ生きていて、ただ危篤な状態であったのです。ルカとマルコにはヤイロがイエス様に助けを求めたことによってイエス様がヤイロの家に向かって行く道に娘が死んだことになっています。そういうことでイエス様を連れていくヤイロはイエス様を急かしていました。   しかし、イエス様は弟子たちと従っている群衆が大勢いましたので、移動に時間がかかりました。イエス様がヤイロの家に行く道の上で、もう一人の病人に会います。ということで時間はより遅れてしまいます。この病人も名前はわかりません。ただ「長血をわずらっている女」と呼ばれるだけです。一人は12歳の少女で、もう一人は12年間を長血と闘病した中年の女性です。二人とも悲しいです。12歳で死んだ少女は若くて悲しく、12年間病気をした人は、その苦しみを覚えて悲しいです。長血といった病気は下血が止まらない婦人病です。当時イスラエル人はこの病気を不正な病気だと定め、この女性を追いだし、差別していました。   マルコによれば、医者に長い期間治療を受けましたが治らず、お金も使い果たしてしまったとのことです。彼女は健康も家族も経済力もありませんでした。そんなある日、イエス様の衣も触れるさえすれば癒されるという信仰を持ってイエス様近づき、衣に触れました。イエス様はその場に止まって衣を触れた女性を探しました。女性は罪人のように恐れながらイエス様の前に出てきました。皆が注目している中、彼女はみすぼらしく、恥ずかしい姿で立っていたのです。おそらく彼女の衣にはあちこちと血痕が付いていたのではないでしょうか。   ヤイロは自分の娘のためにイエス様を促しました。それを見ていた長血をわずらっている女性は恥じとともに恨めしく悲しみを感じたかもしれません。今は中年となり、病気にかかって寂しくなりまそたが、自分にも父という存在がいたごろがあります。娘を心配しているヤイロを見ながら、自分のお父さんを思い出したかもしれません。でも今は頼るべきパパはいません。   死にかかっている娘を生かしたいと願う父ヤイロはと、年を重ね、お父さんをなくし、病にわずらっている女性、その間に立っておられたイエス様がこの女性を呼びかけます。「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。22」イエス様はいかに思慮深い方ですか?「娘」と呼んでくださいました。救われたということは、癒されたということですが、「救い」よりも「娘」という言葉に感動します。体の中の病気だけではなく、心の悲しみをも知っておられました。イエス様は心も一緒に救ってくださったのではないでしょうか。   ヤイロに必ず生かさなければならない大切な娘がいたように、イエス様も、必ず生かしてあげなければならない寂しい娘がいたのです。その後、イエス様はヤイロの家に入り、すでに死んでいた少女に「タリタ、クム!」生きかえらせたてくださいます。ということで十二歳の少女は死から救られ、生き帰ってきた娘のゆえに父は救われ、十二年を苦労した女性は、病気の苦しみから救われましたた。22節の「しっかりしなさい」は「安心しなさい」という意味です。イエス様の衣にさえ触れれば、という信仰をもっていれば「安心」です。

마태복음 QT19 20210202화【딸아 안심하라】마태 9장 14~26

마태 9장 14~269:14 그 때에 요한의 제자들이 예수께 나아와 가로되 우리와 바리새인들은 금식하는데 어찌하여 당신의 제자들은 금식하지 아니하나이까9:15 예수께서 저희에게 이르시되 혼인집 손님들이 신랑과 함께 있을 동안에 슬퍼할 수 있느뇨 그러나 신랑을 빼앗길 날이 이르리니 그 때에는 금식할 것이니라9:16 생베 조각을 낡은 옷에 붙이는 자가 없나니 이는 기운 것이 그 옷을 당기어 해어짐이 더하게 됨이요9:17…

マタイによる福音書 QT18 20210201月【罪人を招くために】マタイ 9章 1~13

マタイ 9章 1~139:1 イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰られた。9:2 すると見よ。人々が中風の人を床に寝かせたまま、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」と言われた。9:3 すると、律法学者たちが何人かそこにいて、心の中で「この人は神を冒瀆している」と言った。9:4 イエスは彼らの思いを知って言われた。「なぜ心の中で悪いことを考えているのか。9:5 『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。9:6 しかし、人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために──。」そう言って、それから中風の人に「起きて寝床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われた。9:7 すると彼は起き上がり、家に帰った。9:8 群衆はそれを見て恐ろしくなり、このような権威を人にお与えになった神をあがめた。9:9 イエスはそこから進んで行き、マタイという人が収税所に座っているのを見て、「わたしについて来なさい」と言われた。すると、彼は立ち上がってイエスに従った。9:10 イエスが家の中で食事の席に着いておられたとき、見よ、取税人たちや罪人たちが大勢来て、イエスや弟子たちとともに食卓に着いていた。9:11 これを見たパリサイ人たちは弟子たちに、「なぜあなたがたの先生は、取税人たちや罪人たちと一緒に食事をするのですか」と言った。9:12 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。9:13 『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」   個人的に好きな「カラヴァッジョが描いたマタイを召し(The Calling of Saint Matthew)という作品は、実物サイズの大作です。イエス様が収税所に座っていたマタイを召されるとき、室内は暗く、イエス様の上から小さな光が入ります。イエス様は手を挙げてマタイを呼び出します。   その様子は、堂々としてると同時に密かな雰囲気です。何の説明もなく呼ばれるのはきょとんとするものですが、だからといって、すべての人にその召しが聞こえ、答えることはできないため、ひそかなコーリングです。驚いた人は、マタイの一人しかいなかったです。マタイは驚き、自分の指で自分を指しながら召しを確認します。   イエス様がマタイを呼んでいる時、仲間の二人は頭を下げたままお金を数えることに集中しています。もう二人は、イエス様が来られたことは見ましたが、何の関心もありません。マタイは起き上がり忽然とイエス様に従いました。   この人が今読んでいるマタイの福音書を書いたマタイです。自分にとっては召命の証しでもあるもので、その経緯についてよく知っているh図ですが、説明を付け加えているわけではありません。「マタイという人が収税所に座っているのを見て、「わたしについて来なさい」と言われた。すると、彼は立ち上がってイエスに従った。」イエスが訪ねてくださり、召してくださった。それに従った事以外は言いたいことがなかったかもしれません。   マタイの記録をさかのぼっていけば、イエス様はマタイの呼ぶ前に中風で体が麻痺していた病人を癒しました。ですが、中風の人を病から救ったのではなく、罪から救ったとされました。   それから罪人と取税人と一緒に食事をしましたが、律法には罪の赦しを宣言したのは神聖冒涜であり、罪人と取税人と一緒に食事することも非難されるべきことです。それに対してイエス様は、患者がいるから医師がいるのだと言われ、罪があるからその赦しのために来られたということを言われます。   マタイが言いたいことは、中風の人の治療でもなく、自分の召しもありません。キリストによる罪の赦しです。病と死、憎悪と貪欲は罪が生み出す悲劇です。「わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない。13」これはホセアの引用です。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」キリストが来られ、病気の苦しみから、また貪欲と無知から救ってくださったのは、罪から救い出すためです。

마태복음 QT18 20210201월【죄인을 부르러 왔노라】마태 9장 1~13

마태 9장 1~139:1 예수께서 배에 오르사 건너가 본 동네에 이르시니9:2 침상에 누운 중풍병자를 사람들이 데리고 오거늘 예수께서 저희의 믿음을 보시고 중풍병자에게 이르시되 소자야 안심하라 네 죄 사함을 받았느니라9:3 어떤 서기관들이 속으로 이르되 이 사람이 참람하도다9:4 예수께서 그 생각을 아시고 가라사대 너희가 어찌하여 마음에 악한 생각을 하느냐9:5 네 죄 사함을 받았느니라 하는 말과 일어나 걸어가라 하는…

한국어 예배 (2021-01-31)

레위기 4:13-2113 만일 이스라엘 온 회중이 여호와의 금령 중 하나라도 그릇 범하여 허물이 있으나 스스로 깨닫지 못하다가14 그 범한 죄를 깨달으면 회중은 수송아지를 속죄제로 드릴지니 그것을 회막 앞으로 끌어다가15 회중의 장로들이 여호와 앞에서 그 수송아지 머리에 안수하고 그것을 여호와 앞에서 잡을 것이요16 기름 부음을 받은 제사장은 그 수송아지의 피를 가지고 회막에 들어가서17 그 제사장이 손가락으로…

日本語礼拝 (2021-01-31)

レビ記 4:13-2113 イスラエルの会衆すべてが迷い出て、すなわち、あることがその集会の目から隠れていて、【主】がしてはならないと命じたすべてのことのうち一つでも行い、後になって責めを覚える場合には、14 自らの罪が明らかになったときに、その集会の人々は罪のきよめのささげ物として若い雄牛を献げ、それを会見の天幕の前に連れて行く。15 会衆の長老たちは【主】の前でその雄牛の頭に手を置き、【主】の前でその雄牛を屠る。16 油注がれた祭司は、その雄牛の血を会見の天幕に持って入る。17 祭司は指を血に浸し、【主】の前で、垂れ幕に向けてその血を七度振りまく。18 そして、その血を会見の天幕の中にある【主】の前の祭壇の四隅の角に塗る。また、その血はすべて、会見の天幕の入り口にある全焼のささげ物の祭壇の土台に流す。19 脂肪はすべてその雄牛から取り、祭壇の上で焼いて煙にする。20 罪のきよめのささげ物の雄牛に対してしたように、この雄牛に対して行う。こうして祭司は彼らのために宥めを行う。そして彼らは赦される。21 その雄牛は宿営の外に運び出し、先の雄牛を焼いた場合と同様に、それを焼く。これは集会のための罪のきよめのささげ物である。

マタイによる福音書 QT17 20210130土【わたしに従って来なさい】マタイ 8章 14~22

マタイ 8章 14~228:14 それからイエスはペテロの家に入り、彼の姑が熱を出して寝込んでいるのをご覧になった。8:15 イエスは彼女の手に触れられた。すると熱がひき、彼女は起きてイエスをもてなした。8:16 夕方になると、人々は悪霊につかれた人を、大勢みもとに連れて来た。イエスはことばをもって悪霊どもを追い出し、病気の人々をみな癒やされた。8:17 これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。「彼は私たちのわずらいを担い、私たちの病を負った。」8:18 さて、イエスは群衆が自分の周りにいるのを見て、弟子たちに向こう岸に渡るように命じられた。8:19 そこに一人の律法学者が来て言った。「先生。あなたがどこに行かれても、私はついて行きます。」8:20 イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません。」8:21 また、別の一人の弟子がイエスに言った。「主よ。まず行って父を葬ることをお許しください。」8:22 ところが、イエスは彼に言われた。「わたしに従って来なさい。死人たちに、彼ら自身の死人たちを葬らせなさい。」   私たちの教会の周りにある聖路加国際病院(St. Luke’s International Hospital)は、東京築地の外国人居留地に宣教師によって建てられた最初の近代式病院です。米国の聖公会は、ルカの福音書を書いたルカの職業がもともと医師だったので、病院名をルカにしたのです。韓国初の近代病院も宣教師によって建てられました。アレンが建てた廣惠院は、恵みを広く施すという意味です。廣惠院は再び済衆院に改称されますが、それも論​​語の博施濟衆に出てくる言葉です。広く施し人を救済するという意味です。これは延世大学のセブランス病院の前身になります。   宣教師は、病院を建て病人を直し、学校を建て文を教えました。それはすなわち病と無知から解放するために来られたイエス・キリストを伝えることであったからです。彼らは教会よりもまず病院と学校を建てました。教会が利己的な利益集団に変わってしまうなら、それをキリストの教会ということはできません。キリストに従う人は条件なしに病と苦みと貧しさから解放し、無知と誤解から先導しました。そのような働きのために自分の人生をささげ、仕え、治すために医学を勉強し、宣教するために自分の時間と財産をささげ、やがて自分の命までもささげました。   先週の日曜学校の説教でトーマス宣教師の話しをしました。英国ウェールズでは、中国の宣教師として行ったトーマスは、中国で妻が死ぬ悲しみを経なければなりませんでした。宣教地で一人残されたトーマスは、朝鮮に行って宣教することを決心し、ゼネラル・シャーマン号に乗って朝鮮に入ってきますが、当時鎖国していた朝鮮は、トーマスを殺してしまいます。自分を殺している兵士にトーマスは漢字のヨハネの福音書を渡します。それがある人の部屋の壁紙となり、その部屋に泊まった人は聖書を読み信者になります。そしてその家が韓国初の教会となりました。   中国宣教のハドソン・テイラーの働きに匹敵する主要な人物がブランソンという宣教師です。 19世紀後半の近代福音運動とムーディーによる霊的的なリバイバルを経験した米国の多くの青年たちはブランソンによって中国宣教に送られます。ブランソンは宣教に献身された青年たちを中国に送る一方、何人かを、中国ではなく、日本に下ろします。それで19歳の少女をはじめとする若者の宣教師が横浜に到着しました。彼らは山間の僻地を選び、貧しい所を宣教しました。それは私たちの教会が属している日本同盟基督教団の始まりです。   ブランソンが中国にいたときに、韓国で宣教していた医師宣教師ハーディが、経験の豊かな牧師宣教師であるブランソンに助けを要め、ブランソンが来たことがあります。今の北朝鮮の東の方、査經會(聖書を読む会)を導くように指導しますが、聖書を読む場所でリバイバルが起こり始めました。そのように起こった元山リバイバルは、ついに平壌大リバイバルに広がっていきます。日本同盟基督教団と朝鮮の平壌大リバイバルの歴史は、ブランソンという宣教師によって縁がつながっています。   彼らの仕事が医者であれ、牧師であれ、学者であれ、また彼らの行き先が中国であれ、日本であれ、韓国であれ、彼らは皆、故郷と親と職業を置いてきた宣教師です。他国の地で家族の死という悲しみも経験しました。韓国の宣教師の墓域、楊花津には、赤ちゃんの墓だけで作られた丘があります。痛みを覚えざるを得ませんが、しかし、彼らはむしろ慰めを伝えるものだったのです。その慰めは、宣教師の慰めではなく、宣教師を通じたキリストの福音の慰めであります。   今朝の本文に弟子の一人が「主よ。まず行って父を葬ることをお許しください。」といいます。ところが、イエス様は断ります。誤解してはならないことは、父親がなくなったのでお葬式をあげますということではありません。親の世話をする義務を果たしたいという意味です。もちろん、聖書は東洋思想以上に親を敬うことをを強調しています。しかし、宣教の召しの前に、個人や家族の現実という条件がつくならば、どんな人であっても日本にも朝鮮にも宣教師としては来れませんでした。狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、宣教の実は、唯一なこと、献身によって成長します。イエスは彼に言われた。「わたしに従って来なさい。死人たちに、彼ら自身の死人たちを葬らせなさい。22」

마태복음 QT17 20210130토【너는 나를 좇으라 】마태 8장 14~22

마태 8장 14~228:14 예수께서 베드로의 집에 들어가사 그의 장모가 열병으로 앓아 누운 것을 보시고8:15 그의 손을 만지시니 열병이 떠나가고 여인이 일어나서 예수께 수종들더라8:16 저물매 사람들이 귀신 들린 자를 많이 데리고 예수께 오거늘 예수께서 말씀으로 귀신들을 쫓아 내시고 병든 자를 다 고치시니8:17 이는 선지자 이사야로 하신 말씀에 우리 연약한 것을 친히 담당하시고 병을 짊어지셨도다 함을 이루려…

マタイによる福音書 QT16 20210129金【一言、与えたまえ】マタイ 8章 1~13

マタイ 8章 1~138:1 イエスが山から下りて来られると、大勢の群衆がイエスに従った。8:2 すると見よ。ツァラアトに冒された人がみもとに来て、イエスに向かってひれ伏し、「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります」と言った。8:3 イエスは手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。すると、すぐに彼のツァラアトはきよめられた。8:4 イエスは彼に言われた。「だれにも話さないように気をつけなさい。ただ行って自分を祭司に見せなさい。そして、人々への証しのために、モーセが命じたささげ物をしなさい。」8:5 イエスがカペナウムに入られると、一人の百人隊長がみもとに来て懇願し、8:6 「主よ、私のしもべが中風のために家で寝込んでいます。ひどく苦しんでいます」と言った。8:7 イエスは彼に「行って彼を治そう」と言われた。8:8 しかし、百人隊長は答えた。「主よ、あなた様を私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばを下さい。そうすれば私のしもべは癒やされます。8:9 と申しますのは、私も権威の下にある者だからです。私自身の下にも兵士たちがいて、その一人に『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをしろ』と言えば、そのようにします。」8:10 イエスはこれを聞いて驚き、ついて来た人たちに言われた。「まことに、あなたがたに言います。わたしはイスラエルのうちのだれにも、これほどの信仰を見たことがありません。8:11 あなたがたに言いますが、多くの人が東からも西からも来て、天の御国でアブラハム、イサク、ヤコブと一緒に食卓に着きます。8:12 しかし、御国の子らは外の暗闇に放り出されます。そこで泣いて歯ぎしりするのです。」8:13 それからイエスは百人隊長に言われた。「行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどそのとき、そのしもべは癒やされた。   百人隊長の愛するしもべが病気になって死にかかっていました。百人隊長はしもべの治療のために苦労をしましたが、治らなかったです。ルカを参考にすると、百人隊長はユダヤ人の長老数人をイエス様のところに遣わしましたが、長老たちはイエス様に百人隊長が自分たちのユダヤ人のためにシナゴーグを造ってくださった人であることを言いました。百人隊長は、ローマからカペナウムに派遣された職業軍人です。彼が自分に仕えるしもべを愛し、ユダヤ人のためにしたことを見ればあわれみと人に対する丁寧さのある人かと思います。   百人隊長はイエス様が自分の家に向かおうとしたときに、「主よ、あなた様を私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばを下さい。そうすれば私のしもべは癒やされます。」と言います。イエス様はこれに驚き、「まことに、あなたがたに言います。わたしはイスラエルのうちのだれにも、これほどの信仰を見たことがありません。10」とその信仰を賞賛しました。誰でも病気になることがあれば救いを求めます。その瞬間には、無神論者もなく不信者もいません。わらさえもつかみたいのです。緊急なときには人は急心に祈ります。ところが、百人隊長は、落ち着いた人格的な人です。まだ、家に着く前ですが、道の上で「ただ、おことばを下さい。そうすれば私のしもべは癒やされます。」と言いました。   百人隊長は、イエス様を信じましたが、正確にはイエス様の御言葉を信じていました。その言葉の力を信じています。御言葉がすなわち実際であるということを信じていました。百人隊長は確かにしもべが癒される現象を望んでいますが、その現象に執着せず、​​御言葉に注目しています。危機の瞬間に必要なのは、主の御言葉です。自分のために与えられる一言の神様の御言葉です。「一言だけいただければ私は生かされます」という告白です。危機と苦難の中、神様に出会ったという証は多くありますが、危機と苦難から救われたとしても、それが必ずしも神様に会うことではありません。危機から救われた超越的な神秘があったから神様に出会うのではなく、それをきっかけにして、神様との対話が始るという人格的な関係があったから、神様に出会うのです。現象を確認の前に御言葉を信じることが信仰です。ですから信仰は人格です。   一昨日に他界10周年を迎える作家の故朴婉緖(パク・ワンソ)は夫を失った四か月後に息子をも事故で失いました。当時、イエス様を信じてもいなかったですが、イエス様に救いを祈る間もなく一人息子が死にました。教養深い文学家は部屋に閉じこもり獣のように泣き叫んだということでした。生きるために文を書かなければならたもので、その痛み時に書いたのは、多くの時間を過ぎた後に本になりました。その本のタイトルがし『一言、与えたまえ』です。神様が一言、御言葉を与えてくださったので自分の命の死ぬよりも苦しい子どもの死を耐えられたと思います。 サムエルは、不妊の女性の体で奇跡的に生まれましたが、神様が神秘の中で、サムエルに現れた時、サムエルは言います。「お話しください。しもべは聞いております」私たちには、生老病死と生死禍福のすべての瞬間に、主の御言葉が必要です。私のみに与えてくださる御言葉が必要です。それは実在です。危機の中から生かしてくださる恵みも主の御言葉の恵みであり、失った痛みの上に立ち上がらせてくださる恵みも、主の御言葉です。今日、私の中で私を救う一言の御言葉があることを祈ります。