마태복음 QT37 2021023화【교회가 세워지는 현장】마태 16장 13~28

마태 16장 13~2816:13 예수께서 가이사랴 빌립보 지방에 이르러 제자들에게 물어 가라사대 사람들이 인자를 누구라 하느냐16:14 가로되 더러는 세례 요한, 더러는 엘리야, 어떤이는 예레미야나 선지자 중의 하나라 하나이다16:15 가라사대 너희는 나를 누구라 하느냐16:16 시몬 베드로가 대답하여 가로되 주는 그리스도시요 살아계신 하나님의 아들이시니이다16:17 예수께서 대답하여 가라사대 바요나 시몬아 네가 복이 있도다 이를 네게 알게 한 이는 혈육이…

マタイによる福音書 QT36 20210222月【膨らんだもの】マタイ 16章 1~12

マタイ 16章 1~1216:1 パリサイ人たちやサドカイ人たちが、イエスを試そうと近づいて来て、天からのしるしを見せてほしいと求めた。16:2 イエスは彼らに答えられた。「夕方になると、あなたがたは『夕焼けだから晴れる』と言い、16:3 朝には『朝焼けでどんよりしているから、今日は荒れ模様だ』と言います。空模様を見分けることを知っていながら、時のしるしを見分けることはできないのですか。16:4 悪い、姦淫の時代はしるしを求めます。しかし、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。」こうしてイエスは彼らを残して去って行かれた。16:5 さて、向こう岸に渡ったとき、弟子たちはパンを持って来るのを忘れてしまっていた。16:6 イエスは彼らに言われた。「パリサイ人たちやサドカイ人たちのパン種に、くれぐれも用心しなさい。」16:7 すると彼らは「私たちがパンを持って来なかったからだ」と言って、自分たちの間で議論を始めた。16:8 イエスはそれに気がついて言われた。「信仰の薄い人たち。パンがないからだなどと、なぜ論じ合っているのですか。16:9 まだ分からないのですか。五つのパンを五千人に分けて何かご集めたか、覚えていないのですか。16:10 七つのパンを四千人に分けて何かご集めたか、覚えていないのですか。16:11 わたしが言ったのはパンのことではないと、どうして分からないのですか。パリサイ人たちとサドカイ人たちのパン種に用心しなさい。」16:12 そのとき彼らは、用心するようにとイエスが言われたのはパン種ではなく、パリサイ人たちやサドカイ人たちの教えであることを悟った。   イエス様はパリサイ人とサドカイ人たちの傍若無人を相手せず、船に乗って渡っていきます。弟子たちがパンを持ってきてないということで慌てていたときにイエス様はパリサイとサドカイのパン種に用心しなさいと言われます。禅問答のような言葉に、弟子たちは聞き取れません。弟子たちは、パン種という言葉が出てきたので、イエス様がパンについて言われていると思いました。   パン種とはパンを膨らませる時に使うイーストです。聖書の中でパン種は良い意味でも、否定的な意味でも使われますが、本文では、否定的な意味で使われています。パリサイ人というのは時代を代表する宗教であり、サドカイというのは政治的な群れです。マルコを参照にすると、この部分を「パリサイ人とヘロデのパン種に気をつけなさい」となっていますが、これは政治を言わためでありますから、サドカイであれ、ヘロデであれ、その意味が変わりません。つまり警戒しなければならないパン種は、時代の宗教的かつ政治的ま論理です。   政治的、神学的な見解が異なるこの二つの群れは、本来ならば互いに協力することはありません。ただし、イエス様を攻撃し、殺そうとすることにおいては一つになっています。それは、イエス様の働きと教え、それが社会に及ぼす影響が、既存の宗教と政治が享受していたことを脅しているからです。イエス様は、奉仕の精神を失い、利益の支配集団になってしまった宗教と政治に対してパン種と言われたのです。   一方、弟子たちの関心は経済にありました。彼らは五つのパンと二匹の魚、七つのパンと二匹の魚の奇跡をすでに経験した後です。まだ空腹でもないのに、未来にある空腹を心配してで慌てていました。とことが、そのパンというのは、イエス様が与えられたものです。イエス様がそばおられるにもかかわらず、また、パンのことで心配をしているのです。   宗教と政治と経済、これすべては人のために存在します。しかし、歴史の中で人を殺し、押し付けたのは、経済と宗教と政治の論理でした。すべて良いものですが、人がそれを悪くものにします。それがパン種です。パン種が入ると膨らみます。   お金に酔い、権力にも酔うように信仰にも酔います。意味もなく膨らんでしまいます。しかし、それは歪んで変質してしまった信念であり、キリストに従う信仰ではありません。私たちが生きている時代は確かに変わっています。急激に変化しています。信仰が本来にあるところに戻らなければ、それは時代のパン種になり、信仰の足を引っ張ることになるかもしれません。      

마태복음 QT36 2021022월【부풀려진 것들】마태 16장 1~12

마태 16장 1~1216:1 바리새인과 사두개인들이 와서 예수를 시험하여 하늘로서 오는 표적 보이기를 청하니16:2 예수께서 대답하여 가라사대 너희가 저녁에 하늘이 붉으면 날이 좋겠다 하고16:3 아침에 하늘이 붉고 흐리면 오늘은 날이 궂겠다 하나니 너희가 천기는 분별할줄 알면서 시대의 표적은 분별할 수 없느냐16:4 악하고 음란한 세대가 표적을 구하나 요나의 표적 밖에는 보여 줄 표적이 없느니라 하시고 저희를 떠나…

한국어 예배 (2021-02-21)

히브리서 5:1-101 대제사장마다 사람 가운데서 취한 자이므로 하나님께 속한 일에 사람을 위하여 예물과 속죄하는 제사를 드리게 하나니2 저가 무식하고 미혹한 자를 능히 용납할 수 있는 것은 자기도 연약에 싸여 있음이니라3 이러므로 백성을 위하여 속죄제를 드림과 같이 또한 자기를 위하여 드리는 것이 마땅하니라4 이 존귀는 아무나 스스로 취하지 못하고 오직 아론과 같이 하나님의 부르심을 입은 자라야…

日本語礼拝 (2021-02-21)

ヘブル人への手紙 5:1-101 大祭司はみな、人々の中から選ばれ、人々のために神に仕えるように、すなわち、ささげ物といけにえを罪のために献げるように、任命されています。2 大祭司は自分自身も弱さを身にまとっているので、無知で迷っている人々に優しく接することができます。3 また、その弱さのゆえに、民のためだけでなく、自分のためにも、罪のゆえにささげ物を献げなければなりません。4 また、この栄誉は自分で得るのではなく、アロンがそうであったように、神に召されて受けるのです。5 同様にキリストも、大祭司となる栄誉を自分で得たのではなく、「あなたはわたしの子。わたしが今日、あなたを生んだ」と語りかけた方が、それをお与えになったのです。6 別の箇所でも、「あなたは、メルキゼデクの例に倣い、とこしえに祭司である」と言っておられるとおりです。7 キリストは、肉体をもって生きている間、自分を死から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、その敬虔のゆえに聞き入れられました。8 キリストは御子であられるのに、お受けになった様々な苦しみによって従順を学び、9 完全な者とされ、ご自分に従うすべての人にとって永遠の救いの源となり、10 メルキゼデクの例に倣い、神によって大祭司と呼ばれました。

マタイによる福音書 QT35 20210220金【救われる資格】マタイ 15章 21~28

マタイ 15章 21~2815:21 イエスはそこを去ってツロとシドンの地方に退かれた。15:22 すると見よ。その地方のカナン人の女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が悪霊につかれて、ひどく苦しんでいます」と言って叫び続けた。15:23 しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。弟子たちはみもとに来て、イエスに願った。「あの女を去らせてください。後について来て叫んでいます。」15:24 イエスは答えられた。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊たち以外のところには、遣わされていません。」15:25 しかし彼女は来て、イエスの前にひれ伏して言った。「主よ、私をお助けください。」15:26 すると、イエスは答えられた。「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです。」15:27 しかし、彼女は言った。「主よ、そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます。」15:28 そのとき、イエスは彼女に答えられた。「女の方、あなたの信仰は立派です。あなたが願うとおりになるように。」彼女の娘は、すぐに癒やされた。   イエス様がツロとシドン地方に行かれたときにシリア・フェニキア出身の異邦の女性が、悪霊につかれた娘を連れてきてイエス様に助けを求めました。しかし、イエス様は、いつもと違って沈黙してから「イスラエルの家の失われた羊たち以外のところには、遣わされていません。…子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです。」と言われます。ユダヤ人ではない理由で拒絶されたのです。   侮辱的かつ差別的な言葉を聞き、さらに拒絶された彼女は「主よ、そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます。」と答えます。イエス様はこの信仰を大きく賞賛し、娘をいやしてくださいました。この事について女性の謙虚さが救いの条件になったと思いますが、女性は、おそらく以前から十分に謙虚だったと思います。病んでいる子供に何もしてあげられない親にとって、自尊心のようなものはありません。娘に悪霊が入った瞬間から侮辱的、差別的な人生になりました。そういう意味で彼女は謙虚にならざるえない人だったのです。   イエス様が認め、賞賛された信仰は、神様に対するの知識なねかもしれません。自分は、神様の恵みを受けるに値する対象ではないということ、それにもかかわらず、「助けてください」と恵みを求めば、神様は恵みを与えてくださる方であることを信じたのです。   何の資格もない者が憐れみ深い救いを経験します。救われるのが当然だと思ったユダヤ人は、かえって救われませんでした。救いは、予期せぬ喜びです。何の資格も、功労もなく受けるものです。救われるべき何かをしたことがありません。   結果的に女性と娘は食卓からパンくずを食べたのではなく、子とされたのです。信仰は、ユダヤ人とギリシヤ人に差別はありません。救われる資格は、心の門を開け、求めるすべての人にあります。「ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。ローマ10:12」

마태복음 QT35 20210220토【구원의 자격】마태 15장 21~28

마태 15장 21~2815:21 예수께서 거기서 나가사 두로와 시돈 지방으로 들어가시니15:22 가나안 여자 하나가 그 지경에서 나와서 소리질러 가로되 주 다윗의 자손이여 나를 불쌍히 여기소서 내 딸이 흉악히 귀신들렸나이다 하되15:23 예수는 한 말씀도 대답지 아니하시니 제자들이 와서 청하여 말하되 그 여자가 우리 뒤에서 소리를 지르오니 보내소서15:24 예수께서 대답하여 가라사대 나는 이스라엘 집의 잃어버린 양 외에는 다른데로…

マタイによる福音書 QT34 20210219木【人を汚すもの】マタイ 15章 1~20

マタイ 15章 1~2015:1 そのころ、パリサイ人たちや律法学者たちが、エルサレムからイエスのところに来て言った。15:2 「なぜ、あなたの弟子たちは長老たちの言い伝えを破るのですか。パンを食べるとき、手を洗っていません。」15:3 そこでイエスは彼らに答えられた。「なぜ、あなたがたも、自分たちの言い伝えのために神の戒めを破るのですか。15:4 神は『父と母を敬え』、また『父や母をののしる者は、必ず殺されなければならない』と言われました。15:5 それなのに、あなたがたは言っています。『だれでも父または母に向かって、私からあなたに差し上げるはずの物は神へのささげ物になります、と言う人は、15:6 その物をもって父を敬ってはならない』と。こうしてあなたがたは、自分たちの言い伝えのために神のことばを無にしてしまいました。15:7 偽善者たちよ、イザヤはあなたがたについて見事に預言しています。15:8 『この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。15:9 彼らがわたしを礼拝しても、むなしい。人間の命令を、教えとして教えるのだから。』」15:10 イエスは群衆を呼び寄せて言われた。「聞いて悟りなさい。15:11 口に入る物は人を汚しません。口から出るもの、それが人を汚すのです。」15:12 そのとき、弟子たちが近寄って来てイエスに言った。「パリサイ人たちがおことばを聞いて腹を立てたのをご存じですか。」15:13 イエスは答えられた。「わたしの天の父が植えなかった木は、すべて根こそぎにされます。15:14 彼らのことは放っておきなさい。彼らは盲人を案内する盲人です。もし盲人が盲人を案内すれば、二人とも穴に落ちます。」15:15 そこでペテロがイエスに答えた。「私たちに、そのたとえを説明してください。」15:16 イエスは言われた。「あなたがたも、まだ分からないのですか。15:17 口に入る物はみな、腹に入り、排泄されて外に出されることが分からないのですか。15:18 しかし、口から出るものは心から出て来ます。それが人を汚すのです。15:19 悪い考え、殺人、姦淫、淫らな行い、盗み、偽証、ののしりは、心から出て来るからです。15:20 これらのものが人を汚します。しかし、洗わない手で食べることは人を汚しません。」   「長老たちの言い伝え」とは律法を犯さないために、信仰の伝統が付け加えた細則です。もちろん、その動機は良いことです。問題は、時間の経過とともに規則だけが残り、律法の精神は衰退してしまうことです。長老たちの言い伝えの中には食べる前に必ず手を洗うという詳細規定がありましたが、イエス様の弟子たちが手を洗わずに食べるのを見た偽善者たちが、それに問題を提起します。それは衛生的意味ではなく、宗教的意味です。神様の前で不正なことをしたということです。   その意図をよく知っておわれるイエス様はここで、いわゆる「コルバン」ということを例えて形式主義をこらしめます。コルバンは神様にささげる祭物です。コルバンになると、それを個人的に使うことはできません。もちろん、家族のために使ってもいけません。しかし、それが神様にささげれば、親を顧みる必要がないという意味ではありません。ところが、この規定を悪用し、一部を神様にささげ、親供養のために使うべき義務の一部を省略し、それをコルバンだと言うのです。これは規則を悪用して、本来の意味からさらに離れてしまうものです。   イエス様は、その心を知っておられ、イザヤの言葉を通してそれを批判しました。「この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを礼拝しても、むなしい。人間の命令を、教えとして教えるのだから。8,9」イエス様は彼らに向けて天の父が植えなかった木、盲人が盲人を導くという痛烈な言葉で責めました。すなわち偽ということです。   イエス様は、真の聖さというのが何であるかについて教えられます。人を汚すのは口に入る食べ物ではなく、口から出る人の思いであると言われます。口に入る食べ物は排泄物になって体の外に出されます。それは廃棄物であるため、確かに臭いがして汚れに見えますが、少なくとも悪ではありません。   形式的な宗教は食べてもよいものと食べてはいけないものを数多く規定していますが、真の意味の汚れは心にあるものが口に出てくることです。口で食べる物が汚れているのではなく、口から出していることが悪であるということです。イエス様は私たちの心について告発されますが、それが「悪い考え、殺人、姦淫、淫らな行い、盗み、偽証、ののしり19」です。   教会の伝統と宗教的文化が決まったことがあります。食べてはいけない、やってないけないことがあります。それを軽んじることはできません。本来の目的は良いものだからです。しかし、宗教的形式と伝統的に人を制限する前に、人の中にある思いがいかに不正なものなのかに気づき、本来の意味を回復する改革が必要です。   「律法」は神様から与えられたものであるため、人間性が守られますが、「律法主義」は、人間が作ったものであるため、非人間的です。ですから、最も人間的なものは、人のものではなく、神のものです。愚かな人らが神本主義という名で宗教と人を対立させますが、神の中で人間が守られることが神本主義です。神様は人間を排除した宗教を信仰として受けとっておられません。

마태복음 QT34 20210219금【사람을 더럽게 하는 것】마태 15장 1~20

마태 15장 1~2015:1 그 때에 바리새인과 서기관들이 예루살렘으로부터 예수께 나아와 가로되15:2 당신의 제자들이 어찌하여 장로들의 유전을 범하나이까 떡 먹을 때에 손을 씻지 아니하나이다15:3 대답하여 가라사대 너희는 어찌하여 너희 유전으로 하나님의 계명을 범하느뇨15:4 하나님이 이르셨으되 네 부모를 공경하라 하시고 또 아비나 어미를 훼방하는 자는 반드시 죽으리라 하셨거늘15:5 너희는 가로되 누구든지 아비에게나 어미에게 말하기를 내가 드려 유익하게…

マタイによる福音書 QT33 20210218木【海におぼれたペテロ】マタイ 14章 22~36

マタイ 14章 22~3614:22 それからすぐに、イエスは弟子たちを舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸に向かわせ、その間に群衆を解散させられた。14:23 群衆を解散させてから、イエスは祈るために一人で山に登られた。夕方になっても一人でそこにおられた。14:24 舟はすでに陸から何スタディオンも離れていて、向かい風だったので波に悩まされていた。14:25 夜明けが近づいたころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに来られた。14:26 イエスが湖の上を歩いておられるのを見た弟子たちは「あれは幽霊だ」と言っておびえ、恐ろしさのあまり叫んだ。14:27 イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。14:28 するとペテロが答えて、「主よ。あなたでしたら、私に命じて、水の上を歩いてあなたのところに行かせてください」と言った。14:29 イエスは「来なさい」と言われた。そこでペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスの方に行った。14:30 ところが強風を見て怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。14:31 イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」14:32 そして二人が舟に乗り込むと、風はやんだ。14:33 舟の中にいた弟子たちは「まことに、あなたは神の子です」と言って、イエスを礼拝した。14:34 それから彼らは湖を渡り、ゲネサレの地に着いた。14:35 その地の人々はイエスだと気がついて、周辺の地域にくまなく知らせた。そこで人々は病人をみなイエスのもとに連れて来て、14:36 せめて、衣の房にでもさわらせてやってください、とイエスに懇願した。そして、さわった人たちはみな癒やされた。   五つのパンと二匹の魚の奇跡を食べた弟子たちに飢えの危機は超えましたが、今回は安全の危機が訪れます。イエス様がいないうちに夜の海を渡る時に嵐に遭遇します。人生において危機は繰り返され、そのたびに、イエス様への信頼は消え去り、不安に包まれるのは、当面の問題がイエス様よりも大きく見えるからです。   イエス様は水の上を歩いて恐れている弟子たちのところに来られましたが、弟子たちは、イエス様を見分けませんでした。弟子たちの目には、暴風と幽霊という恐怖のみが見えるだけです。人生の危機を会えば、イエス様は目に見えず、不安と混乱だけ残るようです。   「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない27」イエス様は安心するようにと言われましたが、その時に暴風が止まったわけではありません。風と波はまだ脅威です。神様の御言葉だけでは平安を持たないから暴風という現実は変わらず脅威であります。   ペテロがイエス様であることを確認するために、暴風の海の上を歩けるようと願い、イエス様はペテロを水の上を歩かせました。しかし、ペテロはすぐに水に沈みはじめました。なぜかというと水の上を歩きながら風浪を見ると再び心が恐れたからです。   水の上という奇跡を歩きながら暴風という問題を見ると、その問題が水の上を歩かせた神様よりも大きく見えたからです。この愚かな矛盾は、私たちにも一般的です。その原因は、31節にあります。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」奇跡の恵みの上に生きていっても、問題があると、すぐに不信仰の海に沈んでしまうのは、目で見て足で歩いても神様を疑うためです。   神様への礼拝と偶像崇拝の違いは、神様を信じるのか、神様から与えられたものを信じるかの違いです。日常の必要と安全が満たされると平安がありますが、そうでなければ、平安は消えてしまう。それは私たちが信じているのが何なのかを如実に表わすことです。神様が水の上を歩くとしてもそれが何の奇跡になるのでしょうか?奇跡を体験しながら落ち込みと疑いを繰り返し不信仰こそが奇跡です。   ヨハネの福音書には、「それで彼らは、イエスを喜んで舟に迎えた。すると、舟はすぐに目的地に着いた。6:21」となっていますす。危機に恐れていましたが、船は行くべき所に間違いなく行っていました。「そして二人が舟に乗り込むと、風はやんだ。」その道でイエス様が伴われます。疑いの対象を変えてみるのはいかがでしょうか?私たちにある恐れが本当に私たちを滅びることができるものなのかを疑うのです。