마태복음 QT3 20210114목【네 번째 동방박사】마태2장 1~12

마태2장 1~122:1 헤롯왕 때에 예수께서 유대 베들레헴에서 나시매 동방으로부터 박사들이 예루살렘에 이르러 말하되2:2 유대인의 왕으로 나신 이가 어디 계시뇨 우리가 동방에서 그의 별을 보고 그에게 경배하러 왔노라 하니2:3 헤롯왕과 온 예루살렘이 듣고 소동한지라2:4 왕이 모든 대제사장과 백성의 서기관들을 모아 그리스도가 어디서 나겠느뇨 물으니2:5 가로되 유대 베들레헴이오니 이는 선지자로 이렇게 기록된바2:6 또 유대 땅 베들레헴아 너는…

マタイによる福音書 QT2 20210113水【救いとインマヌエル】マタイ1章 18~25

マタイ1章 18~251:18 イエス・キリストの誕生は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。1:19 夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。1:20 彼がこのことを思い巡らしていたところ、見よ、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。1:21 マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」1:22 このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。1:23 「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。1:24 ヨセフは眠りから覚めると主の使いが命じたとおりにし、自分の妻を迎え入れたが、1:25 子を産むまでは彼女を知ることはなかった。そして、その子の名をイエスとつけた。   マタイの系図の終わりにヨセフとマリアの家に来られるイエス・キリストが紹介されます。系図を紹介したのは、ユダヤ人が納得できるメシアの根拠を提示するためであり、聖霊によって身ごもった処女から生まれたのも、彼らが否定できないイザヤ7章の預言を思い起こさせているのです。   イエス・キリストがマリアに身ごもられた時に、すでに福音は証しされます。本文が証しするイエス・キリストの受肉の目的は2つです。一つは、「ご自分の民をその罪からお救うため」、もう一つは「神が私たちとともにおられるため」です。   「マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。21」「「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。23」   救いのギリシャ語(σωζω)ソゾは、救助する、解放するという意味です。新約聖書でイエス・キリストが病気や悪魔に苦しむ人を救うときに、この言葉が使われます。救いは絶望的な状態で救助を受けることであります。この絶望的な状態というのは、神様と断たれている状態を言います。   断絶による苦痛です。断絶は、神の民が神を捨てて、罪を選んだゆえにくる痛みです。ですから罪による断絶の痛みからご自分の民を救う方という、イエスの名をもって来られました。   その救いの方法は、インマヌエルです。私たちの中に来られました。天から救うことせず、私たちの中に来て対面しました。イエス・キリストが私たちのところに来てくださったので、神は私たちとともに住み始めたのです。   そして、やがてイエス・キリストは天にお帰りしましたが、信じる者には内住される聖霊を与えられています。ご臨在、救いの証しです。罪から救われた十字架を証しするというのは、受肉した神を証しするものであり、内住する聖霊を証しすることです。ですから、聖書をよく知っていても、自分の中にイエス・キリストがいなければ、十字架は伝えられません。   そして「主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ…我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の生命を信ず」と告白する共同体の中に、神は今日もインマヌエルしておられます。  

마태복음 QT2 20210113수【구원과 임마누엘】마태1장 18~25

마태1장 18~251:18 예수 그리스도의 나심은 이러하니라 그 모친 마리아가 요셉과 정혼하고 동거하기 전에 성령으로 잉태된 것이 나타났더니1:19 그 남편 요셉은 의로운 사람이라 저를 드러내지 아니하고 가만히 끊고자 하여1:20 이 일을 생각할 때에 주의 사자가 현몽하여 가로되 다윗의 자손 요셉아 네 아내 마리아 데려오기를 무서워 말라 저에게 잉태된 자는 성령으로 된 것이라1:21 아들을 낳으리니 이름을 예수라…

マタイによる福音書 QT1 20210112火【歴史の中に来られたキリスト】マタイ1章 1~17

マタイ1章 1~171:1 アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図。1:2 アブラハムがイサクを生み、イサクがヤコブを生み、ヤコブがユダとその兄弟たちを生み、1:3 ユダがタマルによってペレツとゼラフを生み、ペレツがヘツロンを生み、ヘツロンがアラムを生み、1:4 アラムがアミナダブを生み、アミナダブがナフションを生み、ナフションがサルマを生み、1:5 サルマがラハブによってボアズを生み、ボアズがルツによってオベデを生み、オベデがエッサイを生み、1:6 エッサイがダビデ王を生んだ。ダビデがウリヤの妻によってソロモンを生み、1:7 ソロモンがレハブアムを生み、レハブアムがアビヤを生み、アビヤがアサを生み、1:8 アサがヨシャファテを生み、ヨシャファテがヨラムを生み、ヨラムがウジヤを生み、1:9 ウジヤがヨタムを生み、ヨタムがアハズを生み、アハズがヒゼキヤを生み、1:10 ヒゼキヤがマナセを生み、マナセがアモンを生み、アモンがヨシヤを生み、1:11 バビロン捕囚のころ、ヨシヤがエコンヤとその兄弟たちを生んだ。1:12 バビロン捕囚の後、エコンヤがシェアルティエルを生み、シェアルティエルがゼルバベルを生み、1:13 ゼルバベルがアビウデを生み、アビウデがエルヤキムを生み、エルヤキムがアゾルを生み、1:14 アゾルがツァドクを生み、ツァドクがアキムを生み、アキムがエリウデを生み、1:15 エリウデがエレアザルを生み、エレアザルがマタンを生み、マタンがヤコブを生み、1:16 ヤコブがマリアの夫ヨセフを生んだ。キリストと呼ばれるイエスは、このマリアからお生まれになった。1:17 それで、アブラハムからダビデまでが全部で十四代、ダビデからバビロン捕囚までが十四代、バビロン捕囚からキリストまでが十四代となる。   マタイによる福音書は、ユダヤ人のために書かれました。それはユダヤ人であれば誰もが知り、また誰もが待っているメシアの到来が達成するという観点からの書かれています。1章がはじめから系譜が出てきますが、マタイは、ユダヤ人たちが既に周知している、このイスラエルの歴史の上にイエス・キリストを関連付けさせているのです。   まず、血統の最初はアブラハムです。そして系譜の中で大きな転換を迎えることがダビデ王とバビロン捕囚の出来事です。つまりイスラエル王朝の始まりと終わりです。マタイは、イエス・。キリストが、イスラエルの歴史の中でアブラハムとダビデの約束を成就していることを証しているのです。   系譜の最後に、イエス・キリストが登場しますが、これは実際に祖先が誰なのかを遡るという意味よりも、この転期を通して、また新しい歴史が到来していることを語っています。人類の歴史は、アブラハムとダビデとバビロンの歴史より、2021年前のイエス・キリストの誕生から、より大きな転換点を迎えたことが事実です。それより大きな歴史的事件はありませんでした。   マタイの系図には根強い選民意識を持ったユダヤ人であっても拒否することができない歴史的事実、すなわちタマルとラハブとルツとウリヤの妻が含まれています。彼女たちは、言わば正統性がない異邦出身の女性たちです。タマルとラハブはカナン人であってルツはモアブの出身です。ウリヤがヘテ人出身ですから、彼の妻バテシバも異邦出身である可能性が大きいです。   しかも、この女性たちは、すべて律法的な意味で大きい傷があります。恥を人生を歩んだのですす。タマルは義父と不正を犯し、ラハブは娼婦でした。ルツは再婚をし、ウリヤの妻はダビデと姦淫しました。マタイは、歴代の王たちの名前は省いていますが、彼女たちの名前を記録することによってこれらががイエス・キリストのお祖母さんであることを思い起こさせています。   これはユダヤ人にとって否定できない歴史的事実でありますが、選民意識の誇りに陥った人々にとっては決して嬉しい話ではないです。ですからマタイの系図には、二つのメッセージを込めています。イエスが、イスラエルの約束どおり来たメシアであること、そしてそのメシアはイスラエルという民族の解放のために来られたのではなく、全人類の救いのために来られたという福音のメッセージです。その救いに入る資格というのは、最も底にまで下がります。異邦にある恥と屈辱にまで救いは届きます。キリスト教が持つべき自尊心というのは、名誉意識がなく、恥のうちに来られたキリストの愛を受けた恵み意識です。  

마태복음 QT1 20210112월【역사 안으로 오신 예수님】마태1장 1~17

마태1장 1~171:1 아브라함과 다윗의 자손 예수 그리스도의 세계라1:2 아브라함이 이삭을 낳고 이삭은 야곱을 낳고 야곱은 유다와 그의 형제를 낳고1:3 유다는 다말에게서 베레스와 세라를 낳고 베레스는 헤스론을 낳고 헤스론은 람을 낳고1:4 람은 아미나답을 낳고 아미나답은 나손을 낳고 나손은 살몬을 낳고1:5 살몬은 라합에게서 보아스를 낳고 보아스는 룻에게서 오벳을 낳고 오벳은 이새를 낳고1:6 이새는 다윗왕을 낳으니라 다윗은 우리야의…

Ⅲヨハネ QT1 20210111月【あなたのたましいが幸いを得ているように】Ⅲヨハネ1章 1~15

Ⅲヨハネ1章 1~151:1 長老から、愛するガイオへ。私はあなたを本当に愛しています。1:2 愛する者よ。あなたのたましいが幸いを得ているように、あなたがすべての点で幸いを得、また健康であるように祈ります。1:3 兄弟たちがやって来ては、あなたが真理に歩んでいることを証ししてくれるので、私は大いに喜んでいます。実際、あなたは真理のうちに歩んでいます。1:4 私にとって、自分の子どもたちが真理のうちに歩んでいることを聞くこと以上の大きな喜びはありません。1:5 愛する者よ。あなたは、兄弟たちのための、それもよそから来た人たちのための働きを忠実に行っています。1:6 彼らは教会の集まりで、あなたの愛について証ししました。あなたが彼らを、神にふさわしい仕方で送り出してくれるなら、それは立派な行いです。1:7 彼らは御名のために、異邦人からは何も受けずに出て行ったのです。1:8 私たちはこのような人々を受け入れるべきです。そうすれば、私たちは真理のために働く同労者となれます。1:9 私は教会に少しばかり書き送りましたが、彼らの中でかしらになりたがっているディオテレペスが、私たちを受け入れません。1:10 ですから、私が行ったなら、彼のしている行為を指摘するつもりです。彼は意地悪なことばで私たちをののしっています。それでも満足せず、兄弟たちを受け入れないばかりか、受け入れたいと思う人たちの邪魔をし、教会から追い出しています。1:11 愛する者よ。悪を見習わないで、善を見習いなさい。善を行う者は神から出た者であり、悪を行う者は神を見たことがない者です。1:12 デメテリオについては、すべての人たちが、また真理そのものが証ししています。私たちも証しします。私たちの証しが真実であることは、あなたも知っています。1:13 あなたに書き送るべきことがたくさんありますが、墨と筆で書きたくありません。1:14 近いうちにあなたに会いたいと思います。そうしたら、直接話し合いましょう。1:15 平安があなたにありますように。友人たちが、あなたによろしくと言っています。そちらの友人たち一人ひとりによろしく伝えてください。   ヨハネの3番目の手紙は、新約聖書の中で最も短い本です。手紙は、皆が覚えている挨拶、「愛する者よ。あなたのたましいが幸いを得ているように、あなたがすべての点で幸いを得、また健康であるように祈ります。」で始まります。たましいが幸いを得るというのは、信仰に生きることであって、すべての点で幸いを得るというのは、生活のすべての領域が、神の助けを受けることであって、健康であるようにというのは、身体の健康のために祝福です。「たましいが原因となって生活に結果として現われる」のです。   手紙は、受信者が「真理のうちに歩んでいる」ことに対する使徒ヨハネの賞賛と感謝の内容です。「真理のうちに歩んでいる」とはどいうことでしょうか?真理はキリストにあります。それは不変です。しかし、口ではキリストを信じるとしても、それふさわしい生活をしなければ、それを「真理のうちに歩んでいる」と言うことはできません。   本文に示された言葉だけで「真理のうちに歩んでいる」が何なのかを類推してみると、まずは主の名のための宣教の働き人を受け入れたということ、次は、公教会の連合と一致を追い求めたというです。そこには信仰のへりくだりがあります。   ということで使徒ヨハネは、自分を高め自分の意志が貫かれることを言い張り、信仰共同体の秩序を乱したディオテレペスを懲らしめます。ディオテレペスは上に立つことが好きな人でした。苦労した伝道者を冷遇し、使徒ヨハネの権威を引き下ろし、自分が優位を占めしようとしました。イエスを信じると言って教会の中に入ってきていますが、「真理のうちに歩んでいる」人ではありません。   教会と信徒は主の名によって苦労する働き人を受け入れなければありません。イエス様は、「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。また、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。マタイ10:40」信仰の中にいる人たちは、イエス・キリストの絆でつながっている人です。会ったことがなくても皆が主のための同労者です。キリストの信仰と福音の真正性は、思いやりと愛、連合と一致で表されます。   「あなたに書き送るべきことがたくさんありますが、墨と筆で書きたくありません。近いうちにあなたに会いたいと思います。そうしたら、直接話し合いましょう。平安があなたにありますように。友人たちが、あなたによろしくと言っています。そちらの友人たち一人ひとりによろしく伝えてください。」使徒ヨハネの終わりの挨拶を読んで二つのことを望みました。一つは、ヨハネがガイオと対面して交わることを待っていたように、私たちにも対面の喜びが回復されること、もう1つは「墨と筆ではなく」としたように、今は言葉を通して主に会いますが、その日には、主を対面して会うことです。「たましいが幸いを得ているように、すべての点で幸いを得、また健康であるように祈ります。」  

요한삼서 QT1 20210111월【네 영혼이 잘 됨같이】요한삼서1장 1~15

요한삼서1장 1~151:1 장로는 사랑하는 가이오 곧 나의 참으로 사랑하는 자에게 편지하노라1:2 사랑하는 자여 네 영혼이 잘 됨같이 네가 범사에 잘 되고 강건하기를 내가 간구하노라1:3 형제들이 와서 네게 있는 진리를 증거하되 네가 진리 안에서 행한다 하니 내가 심히 기뻐하노라1:4 내가 내 자녀들이 진리 안에서 행한다 함을 듣는 것보다 더 즐거움이 없도다1:5 사랑하는 자여 네가 무엇이든지 형제…

한국어 예배 (2021-01-10)

레위기 4:1-121 여호와께서 모세에게 일러 가라사대2 이스라엘 자손에게 고하여 이르라 누구든지 여호와의 금령 중 하나라도 그릇 범하였으되3 만일 기름 부음을 받은 제사장이 범죄하여 백성으로 죄얼을 입게 하였으면 그 범한 죄를 인하여 흠 없는 수송아지로 속죄 제물을 삼아 여호와께 드릴지니4 곧 그 수송아지를 회막문 여호와 앞으로 끌어다가 그 수송아지 머리에 안수하고 그것을 여호와 앞에서 잡을 것이요5…

日本語礼拝 (2021-01-10)

レビ記 4:1-121 主はモーセにこう告げられた。2 「イスラエルの子らに告げよ。人が、主がしてはならないと命じたすべてのことから離れて、気づかずに罪に陥り、その一つでも行ってしまった、以下のような場合には──3 油注がれた祭司が罪に陥って、民が責めを覚える場合には、その祭司は自分が陥った罪のために、傷のない若い雄牛を罪のきよめのささげ物として主に献げる。4 彼はその雄牛を会見の天幕の入り口、主の前に連れて行き、雄牛の頭に手を置き、主の前でその雄牛を屠る。5 その油注がれた祭司はその雄牛の血を取り、それを会見の天幕に持って入る。6 その祭司は指を血に浸し、主の前で、聖所の垂れ幕に向けてその血を七度振りまく。7 祭司はその血を、会見の天幕の中にある、主の前にある香り高い香の祭壇の四隅の角に塗り、その雄牛の血をすべて、会見の天幕の入り口にある全焼のささげ物の祭壇の土台に流す。8 そして、罪のきよめのささげ物であるその雄牛の脂肪をすべて取り除く。すなわち、内臓をおおう脂肪と、内臓に付いている脂肪すべて、9 また、二つの腎臓と、それに付いている腰のあたりの脂肪、さらに腎臓とともに取り除いた、肝臓の上の小葉を取り除く。10 これは交わりのいけにえの牛から取り除く場合と同様である。祭司はそれらを全焼のささげ物の祭壇の上で焼いて煙にする。11 その雄牛の皮とそのすべての肉、頭と足の部分、さらに内臓と汚物、12 すなわちその雄牛の残りすべてを、宿営の外のきよい所、すなわち灰捨て場に運び出し、薪の火で焼く。これは灰捨て場で焼かれる。

Ⅰヨハネ QT4 20210109土 【命のための祈り】Ⅰヨハネ5章 13~21

Ⅰヨハネ5章 13~215:13 神の御子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書いたのは、永遠のいのちを持っていることを、あなたがたに分からせるためです。5:14 何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。5:15 私たちが願うことは何でも神が聞いてくださると分かるなら、私たちは、神に願い求めたことをすでに手にしていると分かります。5:16 だれでも、兄弟が死に至らない罪を犯しているのを見たなら、神に求めなさい。そうすれば、神はその人にいのちを与えてくださいます。これは、死に至らない罪を犯している人たちの場合です。しかし、死に至る罪があります。これについては、願うようにとは言いません。5:17 不義はすべて罪ですが、死に至らない罪もあります。5:18 神から生まれた者はみな罪を犯さないこと、神から生まれた方がその人を守っておられ、悪い者はその人に触れることができないことを、私たちは知っています。5:19 私たちは神に属していますが、世全体は悪い者の支配下にあることを、私たちは知っています。5:20 また、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことも、知っています。私たちは真実な方のうちに、その御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。5:21 子どもたち、偶像から自分を守りなさい。   ヨハネは死に至る罪と死に至らない罪を区別しています。ユダヤの宗教的背景では、知らずに犯す罪と意図的な罪を区別しました。誤って犯した罪のためには犠牲のささげものをささげることができますが、そこに故意性が見つかると、その罪のために犠牲をささげることはできませんでした。故意に罪を犯してそれのために他の命を犠牲にさせるということはできないからです。それが当然のように行われることを厳格に禁じたのです。   ところが、初代教会の状況においては再解釈されます。初代教会の聖徒は、すでに血を流すささげものをしていませんでした。血のささげものをしていないということは、キリストがささげものとなり、完全な贖罪を成し遂げたということを信じるからです。それならヨハネが教会に対して死に至る罪と言っているのは、贖罪の手段がないことを意味します。すなわち、ヨハネはイエスが十字架で死なれたことを信じると言いながら、故意に罪を犯し、贖罪を繰り返していることを真の意味での信仰とは認めることができない、と言ったのです。   ヨハネが死に至る罪と死に至らない罪を区別して言うとき、確かにこれらを念頭に置いています。罪をどのように認識するかの問題です。罪を認識するには、自力では力不足です。罪に気づくのは、神の恵みによってです。だから、聖霊の照らしが必要です。光は闇を赤裸々にさらします。聖徒の信仰とは、その光に従う意志と勇気です。光を慕うなら光によって罪が現れることを許容しなければなりません。現われた罪を光の中で憎まなければなりません。それが悔い改めです。   ヨハネはヨハネの福音書で「この命は人の光」と言いました。罪を認識していないこと、犯罪を認めないこと、告白しないことは、光が照らそうとしても闇を愛し、光を避けて隠れることです。ヨハネの厳しい懲らしめはこれです。キリストの死因は罪なので聖徒がその罪を携え、喜びながら、キリストと同行することができないからです。   形式的な礼拝と惰性的な信仰生活がこれに該当します。罪の緊張と恐れを抜きにして、恵みと救いの言葉を言い表すことが指摘されています。ヨハネは、愛と信仰を訴える手紙の最後に、それらを脅かす一つの言葉をもってに手紙を締め括っています。手紙の全体は、この最後の言葉が言う危険から立ち返えなければならないからです。それが命のためのヨハネの祈りです。「子どもたち、偶像から自分を守りなさい。21」、私たちは必ず何かに仕えます。罪を犯すということは、自分の中に、神に代わる偶像があるからです。