ヨブ記 4章 12~214:12 あることばが私に忍び寄り、そのささやきを私の耳がとらえた。4:13 夜の幻で思いが乱れ、深い眠りが人々を襲うとき、4:14 おののきと震えが私に降りかかり、私の骨々の多くがわなないた。4:15 ある霊が顔の上を通り過ぎ、私は身の毛がよだった。4:16 それは立ち止まったが、私はその顔だちを見分けられなかった。しかし、その姿は私の目の前にあった。静寂。そして私は次のような声を聞いた。4:17 「人は神の前に正しくあり得ようか。その造り主の前にきよくあり得ようか。4:18 見よ。神はご自分のしもべさえ信頼せず、御使いたちのうちにさえ、誤りを認められる。4:19 まして、ちりに土台を据えた泥の家に住む者はなおさらのこと。彼らはシミよりもたやすく押しつぶされ、4:20 朝から夕方まで打ち砕かれ、永久に滅ぼされて、だれも顧みない。4:21 彼らの天幕の綱は確かに取り去られる。彼らは知恵がないために死ぬ。」 神様の御言葉とサタンの欺く言葉が明確に区別できる水と油のようなものであれば解釈と識別力というのは必要ありません。しかし、サタンは私たちより神様と神様の御言葉よく知っています。サタンは疑いのない、巧妙な方法で神様の御言葉を歪曲します。 エリファズの訴えには雄弁力があります。誰も反論することができません。いつも聞いていた神様の御言葉という色がついています。ところが、このような言語に注意しなければなりません。実体のない、観念的に使う宗教的な言語、誰も反論することはできませんが、それが何なのかを定義することさえできず、空中に浮いているような言語、それの捨てて自分の日常の言語で信仰生活をしなければなりません。それこそ、自分が信じているものの実体が何であるかを知ることができます。 エリファズの言語は厳粛でした。「「人は神の前に正しくあり得ようか。その造り主の前にきよくあり得ようか。17…まして、ちりに土台を据えた泥の家に住む者はなおさらのこと。彼らはシミよりもたやすく押しつぶされ、朝から夕方まで打ち砕かれ、永久に滅ぼされて、だれも顧みない。19,20」 誰がこれに反論しますか?「伝道者の書」に書かれていたら疑いのない人間論です。誰が神様を否定し、その前で、人間の地位を高めることがありますか?エリファズは、この言葉でヨブを批判し、悔い改めを促すます。しかし、ヨブの苦難の核心は、ヨブが自分の罪を告げるまで、神様が拷問をかけているのではありません。 悔い改めることに問題はありません。しかし、ここでエリファズの言っている悔い改めはヨブをさらに苦しめていることです。ヨブが悔い改めて解決できる問題ではないからです。よいことを行ったから祝福を受け、罪を犯したから罰を受ける応報神学はヨブ記において背馳します。 ここで気になることがあります。ヨブ記の中で最も緊張の中で登場したサタンは、今どこにいるのでしょうか?ヨブを粉々にして今は舞台から姿を消えたのでしょうか?サタンはヨブを痛めることが目的ではありません。ヨブが神様を裏切ることを目的としています。だからサタンがまだ活動しなければありません。ところが、サタンは今どこいるのでしょうか? サタンがエリファズの仮面をかぶってヨブに現れているのです。エリファズに現われた存在は、神様ではなく、愚かな人間を欺くサタンです。人間が神様の御言葉を伝えるといい時は、そこには必ず偽善が含まれています。エリファズのように確信に満ちて雄弁するとき、断罪の剣が隠れているときは間違いなくそうです。 私たちは、士師記を読んできました。恐ろしいのは、悪ではなく、各自がそれぞれ正しいと思っていたことです。殺し合ったのは、善と悪ではなく、それぞれ自分が正しいと持っていたことの衝突でした。神様の御言葉を伝えることに人間の無知と偽善が含まれています。それを認めなければならないし、自分の思い通りに人を動かすために、神様の名前を濫用することを恐れなければなりません。