출애굽기 QT70 210708목【넉넉하여 남음이 있었더라】출애굽기 35장 30~36장 7

출애굽기 35장 30~36장 735:30 모세가 이스라엘 자손에게 이르되 볼지어다 여호와께서 유다 지 파 훌의 손자요 우리의 아들인 브사렐을 지명하여 부르시고35:31 하나님의 신을 그에게 충만케 하여 지혜와 총명과 지식으로 여러가지 일을 하게 하시되35:32 공교한 일을 연구하여 금과 은과 놋으로 일하게 하시며35:33 보석을 깎아 물리며 나무를 새기는 여러가지 공교한 일을 하게 하셨고35:34 또 그와 단 지파 아히사막의…

出エジプト記 QT69 210707水【心から進んで献げる】出エジプト記 35章 20 ~29

出エジプト記 35章 20 ~2935:20 イスラエルの全会衆はモーセの前から立ち去った。35:21 心を動かされた者、霊に促しを受けた者はみな、会見の天幕の仕事のため、そのあらゆる奉仕のため、また聖なる装束のために、主への奉納物を持って来た。35:22 進んで献げる心のある者はみな、男も女も、飾り輪、耳輪、指輪、首飾り、すべての金の飾り物を持って来た。金の奉献物を主に献げる者はみな、そのようにした。35:23 また、青、紫、緋色の撚り糸、亜麻布、やぎの毛、赤くなめした雄羊の皮、じゅごんの皮を持っている者はみな、それを持って来た。35:24 銀や青銅の奉納物を献げる者はみな、それを主への奉納物として持って来た。アカシヤ材を持っている者はみな、奉仕のあらゆる仕事のためにそれを持って来た。35:25 また、心に知恵ある女もみな、自分の手で紡ぎ、その紡いだ青、紫、緋色の撚り糸、それに亜麻布を持って来た。35:26 心を動かされ、知恵を用いたいと思った女たちはみな、やぎの毛を紡いだ。35:27 部族の長たちは、エポデと胸当てにはめ込む、縞めのうや宝石を持って来た。35:28 また、ともしび、注ぎの油のため、また香りの高い香のために、香料と油を持って来た。35:29 イスラエルの子らは男も女もみな、主がモーセを通して行うように命じられたすべての仕事のために、心から進んで献げたのであり、それを進んで献げるものとして主に持って来た。   神様は安息日について語られた後、幕屋建築のために民がささげるべき各種物品のリストを教えられます。そして必要な才能を持った人材を呼び出します。「あなたがたの中から主への奉納物を受け取りなさい。すべて、進んで献げる心のある人に、主への奉納物を持って来させなさい。5」「あなたがたのうち、心に知恵ある者はみな来て、主が命じられたものをすべて造らなければならない。10」設計は、神様がなさいましたが、施工は人がします。そしてすべてが自発的なものです。強制による負担があれば、それはすでに意味を失います。   「イスラエルの全会衆はモーセの前から立ち去った。心を動かされた者、霊に促しを受けた者はみな、会見の天幕の仕事のため、そのあらゆる奉仕のため、また聖なる装束のために、主への奉納物を持って来た。20,21」イスラエルの民は自発的で献身の心を持ってささげ、奉仕します。神様の設計の中には資材供給計画もありましたが、それは、イスラエルの民の各家の中にあったものでした。幕屋は民が持っているもの、そしてそれを自発的にささげることを通じて建てられます。神様は持ってないものを求めません。   本文には、「心」という言葉を繰り返して、イスラエルの民がどのよう自ら進む心で献身したのかを語っています。事実、神様の命令から、そのような「心」は強調されています。 「心を動かされた者21」、「進んで献げる心のある者22」、「心に知恵ある女もみな25」、「心を動かされ、知恵を用いたいと思った女たち26」、「心から進んで献げた 29」ささげる心がない人は、持って来てはいけないようなことです。幕屋、つまり礼拝をささげる場所の土木工事は聖徒のささげようとする心です。   ヘブライ語で心がレブ(לב)です。申命記 6章 5節の「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」の「心」と本文の「心:レブ(לב)」は同じ言葉です。イエス様もこの言葉を用して教えられました。新約聖書のギリシャ語では、これをカルディア(Kαρδία)に翻訳し、英語になるとマインド(mind)です。マインドも「心」を意味ですが、辞書的には、「ある物事に対する視点や考え方」を指します。礼拝を慕ってそれを求める人々の参加意識のマインドが幕屋の建築材料です。「進んで献げるものとして主に持って来た29」ここにある「心を動かされる」、「心の知恵」、「進んでささげる」などはみな同じ言葉のようです。

출애굽기 QT69 210707수【즐거이 드리는 이스라엘】출애굽기 35장 20~29

출애굽기 35장 20~2935:20 이스라엘 자손의 온 회중이 모세 앞에서 물러갔더니35:21 무릇 마음이 감동된 자와 무릇 자원하는 자가 와서 성막을 짓기 위하여 그 속에서 쓸 모든 것을 위하여, 거룩한 옷을 위하여 예물을 가져 여호와께 드렸으니35:22 곧 마음에 원하는 남녀가 와서 가슴 핀과 귀고리와 가락지와 목거리와 여러가지 금품을 가져 왔으되 사람마다 여호와께 금 예물을 드렸으며35:23 무릇 청색…

出エジプト記 QT68 210706火【休みの命令】出エジプト記 35章 1 ~9

出エジプト記 35章 1 ~935:1 モーセはイスラエルの全会衆を集めて、彼らに言った。「これは、主が行えと命じられたことである。35:2六日間は仕事をする。しかし、七日目は、あなたがたにとって主の聖なる全き安息である。この日に仕事をする者は、だれでも殺されなければならない。35:3 安息日には、あなたがたの住まいのどこであっても、火をたいてはならない。」35:4 モーセはイスラエルの全会衆に告げた。「これは主が命じられたことである。35:5 あなたがたの中から主への奉納物を受け取りなさい。すべて、進んで献げる心のある人に、主への奉納物を持って来させなさい。すなわち、金、銀、青銅、35:6 青、紫、緋色の撚り糸、亜麻布、やぎの毛、35:7 赤くなめした雄羊の皮、じゅごんの皮、アカシヤ材、35:8 ともしび用の油、注ぎの油と、香り高い香のための香料、35:9 エポデや胸当てにはめ込む、縞めのうや宝石である。   世の中を生きることは厳しいことであってそれは富む人にも、貧しい人にも同じです。前進せず止まると負けそうです。前に進みたいが疲れています。休みたいと思っても働かなければなりません。働かなければ不安です。幸せも不幸も相対的なものです。他の人が富んでいる限り、人間は休みません。目を閉じて働き、目を開いて眠ります。   それに気づくと質問しなければなりません。何のために働くのか?仕事をするために生きるのだろうか?生きるために働くのだろうか?答えはありませんが、最も醜い答えから切り捨てると、生存のために生きるということです。どう考えても気に入りません。幸せと不幸が相対的であると言いましたが、人生に目的と意味というのは人によって違います。それを見つけ、その道を歩んでいけば、手段や道具などは与えられでしょう。本来それの所有者は、世ではなく、神様だからです。   奴隷の目的が生存です。生存するために仕事があります。支配されていますから…目的と意味を隠されます。質問すると鞭で打たれます。休まず、より多くの仕事をして、より多くのことを生産することが人生の目的であったら、神様はエジプトで奴隷のままもっと働かせたでしょう。しかし、出エジプトは神様がそこから引き出してくださった恵みです。休めない人を休ませたのです。世の中に奴隷となっていた人間に、荒野の土の香りは、香ばしいものではないでしょうか。   一昨年の今頃に虫垂炎で病院に入院したとき、私は神様に一週間の強制休息を受けました。ところが入院の前、家に帰ってノートパソコンを持ってきて入院しました。働かなければならないと思いました。病院では、2週間入院するとのことでしたが、一週間入院して早めに退院しました。やらなければならないことがあるから退院しますといいましたが、考えてみれば余計なオーバーアクションです。それも日常の奴隷ということです。   じっと一人で一曲の歌を最後まで聞いたことがいつだったのか分かりません。気持ちが焦っています。詩集を広げ、読んだことはありますか?仕事をするデスクの上にコーヒーを置くことをやめました。何かに集中していると、コーヒーのことを忘れてしまいます。冷めたコーヒーと向き合います。コーヒーが冷め、休憩も冷めてしまします。これからコーヒーはティーテーブルの上におきます。そしてコーヒーを飲むときは、何もせずにコーヒーだけ飲みたいです。   「六日間は仕事をする。しかし、七日目は、あなたがたにとって主の聖なる全き安息である。この日に仕事をする者は、だれでも殺されなければならない。2」神様が休みなさいと言われたのに休まず働いている人は、「だれでも殺されなければならない」ということです。事実死ぬほど働いて死んでしまう人はいかに多いでしょうか?休む時に休まないのは誠実ではありません。死ぬことより休みを選びたいのです。労働のために安息があるのではなく、安息、そのもの意味を認めてもうらいたい思います。神様が与えた安息の権利と自由を楽しみたいです。

출애굽기 QT68 210706화【쉬라는 명령】출애굽기 35장 1~9

출애굽기 35장 1~935:1 모세가 이스라엘의 온 회중을 모으고 그들에게 이르되 여호와께서 너희에게 명하사 행하게 하신 말씀이 이러하니라35:2 엿새 동안은 일하고 제 칠일은 너희에게 성일이니 여호와께 특별한 안식일이라 무릇 이날에 일하는 자를 죽일지니35:3 안식일에는 너희의 모든 처소에서 불도 피우지 말지니라35:4 모세가 이스라엘 자손의 온 회중에게 고하여 가로되 여호와의 명하신 일이 이러하니라 이르시기를35:5 너희의 소유 중에서 너희는…

出エジプト記 QT67 210705月【栄光の角】出エジプト記 34章 27~35

出エジプト記 27~3534:27 主はモーセに言われた。「これらのことばを書き記せ。わたしは、これらのことばによって、あなたと、そしてイスラエルと契約を結んだからである。」34:28 モーセはそこに四十日四十夜、主とともにいた。彼はパンも食べず、水も飲まなかった。そして、石の板に契約のことば、十のことばを書き記した。34:29 それから、モーセはシナイ山から下りて来た。モーセが山を下りて来たとき、その手に二枚のさとしの板を持っていた。モーセは、主と話したために自分の顔の肌が輝きを放っているのを知らなかった。34:30 アロンと、イスラエルの子らはみなモーセを見た。なんと、彼の顔の肌は輝きを放っていた。それで彼らは彼に近づくのを恐れた。34:31 モーセが彼らを呼び寄せると、アロンと、会衆の上に立つ族長はみな彼のところに戻って来た。モーセは彼らに話しかけた。34:32 それから、イスラエルの子らはみな近寄って来た。彼は主がシナイ山で告げられたことを、ことごとく彼らに命じた。34:33 モーセは彼らと語り終えると、 顔に覆いを掛けた。34:34 モーセが主と語るために主の前に行くとき、彼はその覆いを外に出て来るまで外していた。 外に出て来ると、 命じられたことをイスラエルの子らに告げた。34:35 イスラエルの子らがモーセの顔を見ると、モーセの顔の肌は輝きを放っていた。 モーセは、 主と語るために入って行くまで、 自分の顔に再び覆いを掛けるのを常としていた。   モーセの顔の肌が輝き、覆いを掛けました。顔の輝きは、神様の栄光の反映であり、イスラエルの民はその輝きに近づけませんでした。モーセの顔が輝きを放っていたと翻訳した「カラン」(ןרק)というヘブライ語は、ラテン語で「角」に翻訳されました。カランは両方の意味で翻訳することができるからです。ですからラテン語を使っていた中世には、モーセの輝く顔はモーセの頭の角と理解しました。ルネサンスのミケルにゲルが、モーセを彫刻した時もモーセの頭には角が付いていました。ミケランジェロのモーゼは、モーセがシナイ山での律法を受けて降りてきたとき、民たちが金の子牛を作って踊っていたことを見た時の顔です。角の生えたモーセの顔は怒っています。   角というのは本来救いの象徴です。Ⅱサムエル記22章と詩篇18篇でダビデは、「身を避ける、わが岩なる神よ。わが盾、わが救いの角、わがやぐら、わが逃れ場、わが救い主、あなたは私を暴虐から救われます。」としました。救いの角は神様の輝く光栄です。モーセの顔の輝きは、神様の栄光の顕現であり、ミケランジェロの怒りの顔の角も救いの伏線です。輝きも角も、モーセのものではありません。神様の御言葉があるところに現われる神様の栄光です。モーセを通して現われた神様の光栄は、私たちのための栄光の角、救いの角であるイエス・キリストです。  

출애굽기 QT67 2100705월【영광의 뿔】출애굽기 34장 27~35

출애굽기 34장 27~3534:27 여호와께서 모세에게 이르시되 너는 이 말들을 기록하라 내가 이말들의 뜻대로 너와 이스라엘과 언약을 세웠음이니라 하시니라34:28 모세가 여호와와 함께 사십일 사십야를 거기 있으면서 떡도 먹지 아니하였고 물도 마시지 아니하였으며 여호와께서는 언약의 말씀 곧 십계를 그 판들에 기록하셨더라34:29 모세가 그 증거의 두 판을 자기 손에 들고 시내산에서 내려오니 그 산에서 내려올 때에 모세는 자기가…

出エジプト記 QT66 210703土【神様の宣言、人間の信仰】出エジプト記 34章 1~9

出エジプト記 34章 1~934:1 主はモーセに言われた。「前のものと同じような二枚の石の板を切り取れ。わたしはその石の板の上に、あなたが砕いたこの前の石の板にあった、あのことばを書き記す。34:2 朝までに準備をし、朝シナイ山に登って、その山の頂でわたしの前に立て。34:3 だれも、あなたと一緒に登ってはならない。また、だれも、山のどこにも人影があってはならない。また、羊でも牛でも、その山のふもとで草を食べていてはならない。」34:4 そこで、モーセは前のものと同じような二枚の石の板を切り取り、翌朝早く、主が命じられたとおりにシナイ山に登った。彼は手に二枚の石の板を持っていた。34:5 主は雲の中にあって降りて来られ、 彼とともにそこに立って、主の名を宣言された。34:6 主は彼の前を通り過ぎるとき、こう宣言された。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、34:7 恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。しかし、罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる者である。」34:8 モーセは急いで地にひざまずき、ひれ伏した。34:9 彼は言った。「ああ、主よ。もし私がみこころにかなっているのでしたら、どうか主が私たちのただ中にいて、進んでくださいますように。確かに、この民はうなじを固くする民ですが、どうか私たちの咎と罪を赦し、私たちをご自分の所有としてくださいますように。」   モーセのとりなしは、神様がかたくなな民、不完全で倒れがちのイスラエルを、あきらめずに導いてくださるためのものでした。モーセの執り成しに対して神様はご自身の品性を宣言されます。「主は彼の前を通り過ぎるとき、こう宣言された。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、34:6 」   神様の宣言があるからそれが保証になり、安心となります。モーセが召された時もそうでした。人は可能性を打診し、方法を講じます。モーセが出エジプトは不可能だと言った時に、神様は方法論ではなく、成し遂げられる結果を宣言されました。モーセが神様に説明を求められた時も、神様は「わたしは『わたしはある』という者である。」とご自身を宣言しました。   神様は説明したり説得するのではなく、神様ご自身を宣言されます。それは歴史的事実となり、結果となります。人生という荒野で、絶えず罪に巻き込まれる人が生きられる根拠は、神様があわれみ深く、情け深い、怒るのに遅く、恵みとまことに富むからであります。   今日の本文で、神様は再び律法を与えながら神様に対して宣言されます。恵みの根拠はここにあります。神様の憐れみの宣言、神様はあわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富むという宣言に、私たちの恵みの根拠があります。神様が恵みを宣言されるならば、人間は信仰を告白しなければなりません。

출애굽기 QT66 2100703토【하나님의 선언 인간의 고백】출애굽기 34장 1~9

출애굽기 34장 1~934:1 여호와께서 모세에게 이르시되 너는 돌판 둘을 처음 것과 같이 깍아 만들라 네가 깨뜨린바 처음 판에 있던 말을 내가 그 판에 쓰리니34:2 아침 전에 예비하고 아침에 시내산에 올라와 산꼭대기에서 내게 보이되34:3 아무도 너와 함께 오르지 말며 온 산에 인적을 금하고 양과 소도산 앞에서 먹지 못하게 하라34:4 모세가 돌판 둘을 처음 것과 같이 깎아…

出エジプト記 QT65 210702金【モーセの特権】出エジプト記 33章 12~23

出エジプト記 33章 12~2333:12 さて、モーセは主に言った。「ご覧ください。あなたは私に『この民を連れ上れ』と言われます。しかし、だれを私と一緒に遣わすかを知らせてくださいません。しかも、あなたご自身が、『わたしは、あなたを名指して選び出した。あなたは特にわたしの心にかなっている』と言われました。33:13 今、もしも私がみこころにかなっているのでしたら、どうかあなたの道を教えてください。そうすれば、私があなたを知ることができ、みこころにかなうようになれます。この国民があなたの民であることを心に留めてください。」33:14 主は言われた。 「わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる。 」33:15 モーセは言った。「もしあなたのご臨在がともに行かないのなら、私たちをここから導き上らないでください。33:16 私とあなたの民がみこころにかなっていることは、いったい何によって知られるのでしょう。それは、あなたが私たちと一緒に行き、私とあなたの民が地上のすべての民と異なり、特別に扱われることによるのではないでしょうか。」33:17 主はモーセに言われた。「あなたの言ったそのことも、わたしはしよう。あなたはわたしの心にかない、あなたを名指して選び出したのだから。」33:18 モーセは言った。「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」33:19 主は言われた。「わたし自身、わたしのあらゆる良きものをあなたの前に通らせ、主の名であなたの前に宣言する。わたしは恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」33:20 また言われた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」33:21 また主は言われた。「見よ、わたしの傍らに一つの場所がある。あなたは岩の上に立て。33:22 わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れる。わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておく。33:23 わたしが手をのけると、あなたはわたしのうしろを見るが、わたしの顔は決して見られない。」   モーセは、神様にご計画を教えていただくために祈りながら、イスラエルの民を神の民として受け入れてくださるようにと、とりなします。共同体を神様の御心の中に置いておくなら、それより安全なことはないからです。たとえイスラエルが罪を犯し、懲らしめの中にいても、神様がイスラエルの民をご自身の民とし、彼らとともにおられるなら、それよりも安全なことはありません。モーセのとりなしは、イスラエルに対して堅かった神様の心を変えます。神様はモーセのとりなしの祈りを聞き、イスラエルの民を受け入れます。   モーセという存在は、神様の意志までも変えることができる特権を持っているのでしょうか?モーセというと特別な存在が祈ると、神様の意志までも変えられるということではありません。モーセの特権は、自分自身を放棄するまで共同体のためにとりなしの祈りする愛の力です。民が罪を犯している時も、モーセはとりなして祈っていました。神様はモーセという特別な存在の祈りを特別に聞いてくださったのではなく、モーセの特別なとりなしの祈り、特別な愛の祈りを聞いてくださったのです。   そのような意味でモーセは特別でした。聖なる神様に会って生き残る者はいませんが、神様の同労者モーセは一瞬でも神様に出会いその栄光を味わいました。とりなしの祈りは利他的な祈りです。利他的祈りの中で神様の心を共感することができます。神様の資源を自分自身に引っ張るための祈りではなく、神様の御心を知り、神様と動労者になることがとりなしの祈りです。   自分の必要のための祈ってもてもすぐに祈りの言語が断たれます。人のために、共同体のために祈り始めると、神様は、その特別な祈りに言語と心を与えてくださいます。自分が神様の働きをすれば、神様は自分の働きをしてくださいます。熱心に祈っても利他的な祈り、執り成しの祈りがなければ祈りを学ぶことはできません。神様の声を聞くこと、神様に出会うことは、すべての信仰の人において究極の課題です。今日ここで実践する愛に基づいたとりなしを通して、その道を見つけることを願います。   「たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。たとえ私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです。たとえ私が持っている物のすべてを分け与えても、たとえ私のからだを引き渡して誇ることになっても、愛がなければ、何の役にも立ちません。13:1-3」