마태복음 QT51 210311목【가이사의 것과 하나님의 것】마태 22장 15~22

마태 22장 15~2222:15 이에 바리새인들이 가서 어떻게 하여 예수로 말의 올무에 걸리게 할까 상론하고22:16 자기 제자들을 헤롯 당원들과 함께 예수께 보내어 말하되 선생님이여 우리가 아노니 당신은 참되시고 참으로써 하나님의 도를 가르치시며 아무라도 꺼리는 일이 없으시니 이는 사람을 외모로 보지 아니하심이니이다22:17 그러면 당신의 생각에는 어떠한지 우리에게 이르소서 가이사에게 세를 바치는 것이 가하니이까 불가하니이까 한대22:18 예수께서 저희의…

マタイによる福音書 QT50 20210310水【天の御国の結婚の披露宴】マタイ 22章 1~14

マタイ 22章 1~1422:1 イエスは彼らに対し、再びたとえをもって話された。22:2 「天の御国は、自分の息子のために、結婚の披露宴を催した王にたとえることができます。22:3 王は披露宴に招待した客を呼びにしもべたちを遣わしたが、彼らは来ようとしなかった。22:4 それで再び、次のように言って別のしもべたちを遣わした。『招待した客にこう言いなさい。「私は食事を用意しました。私の雄牛や肥えた家畜を屠り、何もかも整いました。どうぞ披露宴においでください」と。』22:5 ところが彼らは気にもかけず、ある者は自分の畑に、別の者は自分の商売に出て行き、22:6 残りの者たちは、王のしもべたちを捕まえて侮辱し、殺してしまった。22:7 王は怒って軍隊を送り、その人殺しどもを滅ぼして、彼らの町を焼き払った。22:8 それから王はしもべたちに言った。『披露宴の用意はできているが、招待した人たちはふさわしくなかった。22:9 だから大通りに行って、出会った人をみな披露宴に招きなさい。』22:10 しもべたちは通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った人をみな集めたので、披露宴は客でいっぱいになった。22:11 王が客たちを見ようとして入って来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない人が一人いた。22:12 王はその人に言った。『友よ。どうして婚礼の礼服を着ないで、ここに入って来たのか。』しかし、彼は黙っていた。22:13 そこで、王は召使いたちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇に放り出せ。この男はそこで泣いて歯ぎしりすることになる。』22:14 招かれる人は多いが、選ばれる人は少ないのです。」   続く今朝の比喩は、天の御国を結婚の披露宴を催した王の話しにたとえている内容です。王が息子の結婚の披露宴を施し、人々を招待しました。ところが、招待された人々が来ようとしませんでした。王は再び人を送ってごちそうの宴会に誘います。   しかし、人々はそれぞれの仕事に忙しく、今回も応じません。それが嫌だった人々は招待しに来たしもべを侮辱して殺してしまいました。そういえば神様が遣わした過去の預言者も、拒絶され、殺されることがありました。   これを聞いた王は、軍隊を送り、しもべを殺した人々を滅ぼし、町を焼き払いました。その後で王はしもべを送って大通りで出会った人をみなを招待するようにしました。婚宴の客はいっぱいになりました。   ところが、招待された人の中で礼服を着ていない人がいました。急いで来ることで礼服を備えてないわけではありません。イスラエルの王は、婚宴を施すとき、招待した客に着るを礼服も提供していました。それにもかかわらず、婚宴の中に礼服を着てない客が一人発見されたのです。   王は彼になぜ礼服を着てないのかと聞きましたが、何の返事もしません。その人は、手足を縛って、外の暗闇に放り出し、泣いて歯ぎしりするようになります。そこは天の御国ですから、天の御国の資格が必要です。このたとえ話は「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ないのです。14」で終わります。   この本文についてある人は礼服はイエス・キリストであるといい、ある人は信じる者の行動を言うということで意見が分かれます。しかし、今朝、本文を読んだ後に心に残る感情は、「教会を拒絶する時代の恥」、「教会に石を投げる時代の悲痛」、「教会には来るが、イエス・キリストがいないという時代の虚しさ」です。この感情の中にはイエスがいないことや、信仰の行いがないことが同じことです。   「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ないのです。14」招かれることはありますが、イエス・キリストで着なければ、誰も天の御国にふさわしくありません。選ばれなければなりません。キリストを信じるからといって選ばれるわけでもありません。順序が間違っています。神様が選ばれた人が、イエス・キリストを信じることが出来ます。   人が神様を選択するのではなく、神様が人をお選びになります。したがって、天の御国をを伝える教会には、用意されている礼服、つまりイエス・キリストの福音を持って伝えるために出かけなければなりません。  

마태복음 QT50 210310수【천국의 혼인 잔치】마태 22장 1~14

마태 22장 1~1422:1 예수께서 다시 비유로 대답하여 가라사대22:2 천국은 마치 자기 아들을 위하여 혼인 잔치를 베푼 어떤 임금과 같으니22:3 그 종들을 보내어 그 청한 사람들을 혼인 잔치에 오라 하였더니 오기를 싫어하거늘22:4 다시 다른 종들을 보내며 가로되 청한 사람들에게 이르기를 내가 오찬을 준비하되 나의 소와 살진 짐승을 잡고 모든 것을 갖추었으니 혼인 잔치에 오소서 하라 하였더니22:5…

マタイによる福音書 QT49 20210309火【ぶどう園のしもべの反逆】マタイ 21章 33~46

マタイ 21章 33~4621:33 もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がいた。彼はぶどう園を造って垣根を巡らし、その中に踏み場を掘り、見張りやぐらを建て、それを農夫たちに貸して旅に出た。21:34 収穫の時が近づいたので、主人は自分の収穫を受け取ろうとして、農夫たちのところにしもべたちを遣わした。21:35 ところが、農夫たちはそのしもべたちを捕らえて、一人を打ちたたき、一人を殺し、一人を石打ちにした。21:36 主人は、前よりも多くの、別のしもべたちを再び遣わしたが、農夫たちは彼らにも同じようにした。21:37 その後、主人は『私の息子なら敬ってくれるだろう』と言って、息子を彼らのところに遣わした。21:38 すると農夫たちは、その息子を見て、『あれは跡取りだ。さあ、あれを殺して、あれの相続財産を手に入れよう』と話し合った。21:39 そして彼を捕らえ、ぶどう園の外に放り出して殺してしまった。21:40 ぶどう園の主人が帰って来たら、その農夫たちをどうするでしょうか。」21:41 彼らはイエスに言った。「その悪者どもを情け容赦なく滅ぼして、そのぶどう園を、収穫の時が来れば収穫を納める別の農夫たちに貸すでしょう。」21:42 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、聖書に次のようにあるのを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった。これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ。』21:43 ですから、わたしは言っておきます。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ民に与えられます。21:44 また、この石の上に落ちる人は粉々に砕かれ、この石が人の上に落ちれば、その人を押しつぶします。」21:45 祭司長たちとパリサイ人たちは、イエスのこれらのたとえを聞いたとき、自分たちについて話しておられることに気づいた。21:46 それでイエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者と認めていたからである。   「生命体を発見するたびに、私は権力の意志も一緒に発見した。さらに、誰かを祀っている者の意志すら主人になろうとする意志を発見することができた。」- 「ツァラトゥストラはこう語った」の中で –   人間の権力への欲求は生存のためのものにとどまりません。欲望は生存を越えて超越しようとする飢え渇きを持っているから存在します。ですからニーチェは力に頼ることがすなわち人間の実体であると考えました。   ニーチェの人間現象の分析については、同意せざるえません。人は、自分が人生の主人であると思い、生涯の中で取り扱うすべてのものに対して欲を張ります。その理由は不安だからであり、その不安の最終的な対象は死です。   しかしここに矛盾があります。死という不可抗力的な結末を知っているのにもかかわらず、その不安のために欲を張っている人間を発見するのです。欲張っても命に関しては自分ではどうにもすることができません。今自分が持っている資源については、自分を所有者とすることができるかもしれませんが、命に関して主人になることはできません。   人間は主体的ではなく依存的であることに悲観になるかもしれませんが、人間が自分の人生をまことに主体的に生きることのできる唯一の方法は、生を与えられた神様のうちに入って依存することです。根源を所有していると結末に恐れはありません。人生の主人になりたくて、神様を離れていきますが、人間は決して生の所有者になることはできません。   今日のイエス様の比喩は悪い葡萄園のしもべらの反逆です。本来、彼らは主人に信頼を受けていた人たちです。多くのことを委ねられて専門的に経営することができる責任と権利を与えられた人たちです。いくらでも主体的に決定することができ、成果に応じた報酬を受け取ることもできる人です。   ところが、彼らは不安を抱き始めました。主人が来ると主人のふりすることができなくなるからです。ですから存在に満足せずに貪欲を図ります。虚しいこと図る人はすぐに愚かになります。主人が送ったしもべを殺し、また息子をも殺してしまいます。そうすると所有者が変わると思ったのです。   人間が尊厳になる瞬間は、所有者になって所有する時ではなく、自分の位置を知る時です。その時に貪欲と不安から解放され、幸せと安らぎが与えられます。神の懐で主体的な生涯を送ることはできます。そのためには、息子を通さなければなりません。キリストを通した神からの平安が、今日ここにあることを祈ります。  

마태복음 QT49 210309화【포도원 지기의 반역】마태 21장 33~46

마태 21장 33~4621:33 다시 한 비유를 들으라 한 집 주인이 포도원을 만들고 산울로 두르고 거기 즙 짜는 구유를 파고 망대를 짓고 농부들에게 세로 주고 타국에 갔더니21:34 실과 때가 가까우매 그 실과를 받으려고 자기 종들을 농부들에게 보내니21:35 농부들이 종들을 잡아 하나는 심히 때리고 하나는 죽이고 하나는 돌로 쳤거늘21:36 다시 다른 종들을 처음보다 많이 보내니 저희에게도 그렇게…

マタイによる福音書 QT48 20210308月【信じるが信じられない人】マタイ 21章 23~32

マタイ 20章 23~3221:23 それからイエスが宮に入って教えておられると、祭司長たちや民の長老たちがイエスのもとに来て言った。「何の権威によって、これらのことをしているのですか。だれがあなたにその権威を授けたのですか。」21:24 イエスは彼らに答えられた。「わたしも一言尋ねましょう。それにあなたがたが答えるなら、わたしも、何の権威によってこれらのことをしているのか言いましょう。21:25 ヨハネのバプテスマは、どこから来たものですか。天からですか、それとも人からですか。」すると彼らは論じ合った。「もし天からと言えば、それならなぜヨハネを信じなかったのかと言うだろう。21:26 だが、もし人から出たと言えば、群衆が怖い。彼らはみなヨハネを預言者と思っているのだから。」21:27 そこで彼らはイエスに「分かりません」と答えた。イエスもまた、彼らにこう言われた。「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに言いません。21:28 ところで、あなたがたはどう思いますか。ある人に息子が二人いた。その人は兄のところに来て、『子よ、今日、ぶどう園に行って働いてくれ』と言った。21:29 兄は『行きたくありません』と答えたが、後になって思い直し、出かけて行った。21:30 その人は弟のところに来て、同じように言った。弟は『行きます、お父さん』と答えたが、行かなかった。21:31 二人のうちのどちらが父の願ったとおりにしたでしょうか。」彼らは言った。「兄です。」イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに言います。取税人たちや遊女たちが、あなたがたより先に神の国に入ります。21:32 なぜなら、ヨハネがあなたがたのところに来て義の道を示したのに、あなたがたは信じず、取税人たちや遊女たちは信じたからです。あなたがたはそれを見ても、後で思い直して信じることをしませんでした。   神殿権力がイエス様のところに来て何の権限でこのようなことをするのか尋ねました。このようなことというのは、神殿の庭で商人と両替する人々を追い出した昨日の本文の出来事を言うのです。知りたくて質問したことではありません。告訴する口実をつかむためです。神殿権力は神殿内に両替所とささげ物の販売を許していましたが、それによって宗教権力は莫大な独占利益を受けていました。   イエス様はそれらを追い出し、商売できないようたしましたが、神殿権力はこの時から、イエス様を殺そうと決心するようになります。世はすべてのものに対して我慢するとしてもお金に対してはそうにはなりません。聖書的にも歴史的にも、イエス様を売ったり、殺したり、裏切ったりしたすべてのことにお金があります。お金を通っていかなければ、神様を信じてたくても、結局、信じられなくなります。人は、神様が創造したものであるため宗教的です。ですから何かでも信じなくては耐えられない存在です。すべての人間には信仰があります。しかし、問題は、一つだけ信じられるということです。お金と権力には確かに大きな力があります。それを信じるなら、神様を信じることはできません。   それはパリサイ人、大祭司、律法学者、長老たちの方から如実に表れています。信仰の衣を着ていますが、その信仰の対象は、神様ではありません。イエス様との論争で彼らの矛盾は明らかになりました。しかし、自分たちの矛盾に目をつぶってしまいます。真実を探しているのではないからです。信じ込んでいること、信じたいことを貫徹したいだけだからです。何かを信じている人に教えることはできません。ですから救いが起こる前に、いつも絶望という機会が訪れるのです。   イエス様は彼らが掘った罠を軽く避けながらその延長線で比喩で言われます。比喩の理由は、聞いて考えなさいということです。考える人が言葉を聞く人です。二人の息子がいましたが、息子は、働きに行くと言っただけで行かず、もう一人の息子は行かないと言って、後に悔いって働きに行ったという話です。口だけで結局行かなかった子は、律法を守るといいながら、権力とお金だけに関心がある人であり、行かないと反抗して、後に悔いってて行った子は、取税人たちや遊女たちです。   イエス様の結論は、取税人たちや遊女たちの方が先に悔い改め、神の御国に入るということです。疑わなければならないことは、自分の信仰です。神様を疑うということではありません。自分の信念を疑わなければならないということです。自分の信じること、信じたいことを信じるのなら、神様を信じることができなくなります。それぞれの信仰が福音にふさわしいものかどうかを考えなければありません。  

마태복음 QT48 210308월【믿지만 믿을 수 없는 사람들】마태 21장 23~32

마태 21장 23~3221:23 예수께서 성전에 들어가 가르치실쌔 대제사장들과 백성의 장로들이 나아와 가로되 네가 무슨 권세로 이런 일을 하느뇨 또 누가 이 권세를 주었느뇨21:24 예수께서 대답하시되 나도 한 말을 너희에게 물으리니 너희가 대답하면 나도 무슨 권세로 이런 일을 하는지 이르리라21:25 요한의 세례가 어디로서 왔느냐 하늘로서냐 사람에게로서냐 저희가 서로 의논하여 가로되 만일 하늘로서라 하면 어찌하여 저를 믿지…

マタイによる福音書 QT47 20210306土【主がお入り用なのです】マタイ 21章 1~11

マタイ 20章 1~1121:1 さて、一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとのベテパゲまで来たそのとき、イエスはこう言って、二人の弟子を遣わされた。21:2 「向こうの村へ行きなさい。そうすればすぐに、ろばがつながれていて、一緒に子ろばがいるのに気がつくでしょう。それをほどいて、わたしのところに連れて来なさい。21:3 もしだれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐに渡してくれます。」21:4 このことが起こったのは、預言者を通して語られたことが成就するためであった。21:5 「娘シオンに言え。『見よ、あなたの王があなたのところに来る。柔和な方で、ろばに乗って。荷ろばの子である、子ろばに乗って。』」21:6 そこで弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、21:7 ろばと子ろばを連れて来て、自分たちの上着をその上に掛けた。そこでイエスはその上に座られた。21:8 すると非常に多くの群衆が、自分たちの上着を道に敷いた。また、木の枝を切って道に敷く者たちもいた。21:9 群衆は、イエスの前を行く者たちも後に続く者たちも、こう言って叫んだ。「ホサナ、ダビデの子に。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。ホサナ、いと高き所に。」21:10 こうしてイエスがエルサレムに入られると、都中が大騒ぎになり、「この人はだれなのか」と言った。21:11 群衆は「この人はガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言っていた。   今私たちは四旬節を過ごしています。マタイ福音書の本文ではイエス様がエルサレムに入られるところです。今年は3月28日がエルサレム入城の日(棕櫚主日, Palm Sunday)週間です。翌日の29日からイースター前日の4月2日までが受難週です。その間にイエス様の十字架の死があります。熱烈な歓迎の中で入られますがが、イエス様はまもなく死なれることになります。   そのためにエルサレムに入られますが、ゼカリヤの預言通り、ろばの子に乗って入られます。「娘シオンよ、大いに喜べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ。見よ、あなたの王があなたのところに来る。義なる者で、勝利を得、柔和な者で、ろばに乗って。雌ろばの子である、ろばに乗って。ゼカリヤ9:9」   イエス様は、弟子たちに向こうの村に行けば、ろばの子が縛られているからそれを解いて連れて来るようにと言われます。その時、誰かが何かを言えば、主がお入り用なのですと答えるよう命じられました。弟子たちは一言半句なく、他人の家の財産であるロバの子を解いて連れて来なければなりませんでした。   マタイの福音書には省略されていますが、マルコとルカの福音書を参考にすれば主人がろばの子を持っていく弟子たちに、なぜ持っていくのかと尋ねています。しかし、イエス様が教えてくださったとおりに主がお入り用なのですと言ってたら主人がそれを渡したのです。   主がお入り用なのですというのは、すべてにおいて主が主権者であることを言います。世界はそれに従わなければなりません。主の所有者であるからです。人が従わないことによって、神の事が断たれたり、妨げたりはしません。貸してくださいではなく、助けてください、でもありません。主がお入り用なのですといいます。神様はお造り、定め、召し、用いられます。   主がお入り用なのですとしたときにそれに従う信仰のある枝川愛の教会にはそれらが集まって移転のための準備を進めています。移転に必要なものがたくさんありますが、すでに新礼拝堂の中にろばの子がたくさん集まっています。神様が定め、召し、用いるために区別したものです。   たとえ小さな子ろばであっても、イエス様が乗られるのだから聖なるものとなり、限られた財政を持って移転準備を進んめていますが、主のために捧げられたものだから聖別されのです。主がお入り用なのですと言われたイエス様の言葉に従わなければ、神様の主権が引き起こす奇跡を体験することはできなかったでしょう。

마태복음 QT47 210306토【주가 쓰시겠다 하라】마태 21장 1~11

마태 21장 1~1121:1 저희가 예루살렘에 가까이 와서 감람산 벳바게에 이르렀을 때에 예수께서 두 제자를 보내시며21:2 이르시되 너희 맞은편 마을로 가라 곧 매인 나귀와 나귀 새끼가 함께 있는 것을 보리니 풀어 내게로 끌고 오너라21:3 만일 누가 무슨 말을 하거든 주가 쓰시겠다 하라 그리하면 즉시 보내리라 하시니21:4 이는 선지자로 하신 말씀을 이루려 하심이라 일렀으되21:5 시온 딸에게 이르기를…

マタイによる福音書 QT46 20210305金【仕える権威】マタイ 20章 17~34

マタイ 20章 17~3420:17 さて、イエスはエルサレムに上る途中、十二弟子だけを呼んで、道々彼らに話された。20:18 「ご覧なさい。わたしたちはエルサレムに上って行きます。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡されます。彼らは人の子を死刑に定め、20:19 異邦人に引き渡します。嘲り、むちで打ち、十字架につけるためです。しかし、人の子は三日目によみがえります。」20:20 そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、息子たちと一緒にイエスのところに来てひれ伏し、何かを願おうとした。20:21 イエスが彼女に「何を願うのですか」と言われると、彼女は言った。「私のこの二人の息子があなたの御国で、一人はあなたの右に、一人は左に座れるように、おことばを下さい。」20:22 イエスは答えられた。「あなたがたは自分が何を求めているのか分かっていません。わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか。」彼らは「できます」と言った。20:23 イエスは言われた。「あなたがたはわたしの杯を飲むことになります。しかし、わたしの右と左に座ることは、わたしが許すことではありません。わたしの父によって備えられた人たちに与えられるのです。」20:24 ほかの十人はこれを聞いて、この二人の兄弟に腹を立てた。20:25 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。20:26 あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。20:27 あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。20:28 人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい。」20:29 さて、一行がエリコを出て行くと、大勢の群衆がイエスについて行った。20:30 すると見よ。道端に座っていた目の見えない二人の人が、イエスが通られると聞いて、「主よ、ダビデの子よ。私たちをあわれんでください」と叫んだ。20:31 群衆は彼らを黙らせようとたしなめたが、彼らはますます、「主よ、ダビデの子よ。私たちをあわれんでください」と叫んだ。20:32 イエスは立ち止まり、彼らを呼んで言われた。「わたしに何をしてほしいのですか。」20:33 彼らは言った。「主よ、目を開けていただきたいのです。」20:34 イエスは深くあわれんで、彼らの目に触れられた。すると、すぐに彼らは見えるようになり、イエスについて行った。   イエス様は弟子たちに18節と19節の短い言葉に圧縮して十字架と復活を予告しました。その時にゼベダイの息子たちの母、つまりヤコブとヨハネの母が息子ヤコブとヨハネを連れて、イエス様のところに来て、請託をしたのです。よく見てくださいということです。   21節の「あなたの御国」とは、霊的な神の国をいうものではなく、イエス様がローマ帝国の圧制から革命を起こし、政権を握ると、政治的な権力の座に自分の息子たちを登用してもらいたいということです。   弟子たちがそれを聴いてヤコブとヨハネの母がしたことをを批判しましたが、それも、弟子たちそれぞれもこれからの自分の立場を狙っていたからです。イエス様の人気が高くなっていたのは、十字架がますます近づいてきた時でした。弟子たちは出世の期待に精一杯膨らんていたようです。   神に従うという価値を追い求めて、すべてのものを捨てて献身しますが、それは再びある社会を成し、その社会の中で、また権力といった秩序が作られます。ということで献身者といいながら、その世界の中で貪欲に陥ってしまうことが繰り返されます。それは信仰の歴史でもあります。 イエス様は、支配する人ではなく仕える人が偉い人であると言われます。「献身」という言葉は、確かに「献身的」な言葉ですが、その言葉は、使わないときに意味がより明確になります。イエス様は献身という抽象的な言葉ではなく、仕えるという具体的な行動を示して言われました。   ですから仕える人が献身者なのです。「あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。27」共同体の中で仕える人がいれば、その人が神の国で偉い人になるということです。   それから、イエス様は、弟子たちが聞き取れなかった十字架の話に戻ります。「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい。28」   今朝の本文はここで終わらず、盲人を直してくださったた話しまで続きます。これが著者の編集的意図かどうかは分かりませんが、多分に対照的です。イエス様が「わたしに何をしてほしいのですか。」という質問に、盲人たちは「主よ、目を開けていただきたいのです。33」と答えます。   この単純な救いの願いにイエス様は深くあわれんおられました。彼らは救いの感激の中で、イエス様を従いました。仕えることができる機会を獲得したのです。中傷することではありませんが、盲人たちは世界を見て感激したと思いますが、いつかは何の感激もなくなるかもしれません。見えるのが感激ではなく、当然のことだと思うようになります。そして、自分が苦労し、献身したことに対する補償を求めることになるかもし​​れません。毎朝、十字架で血を流し、仕えてくださったイエス様のことを思い起こさなければなりません。