マタイ 7章 1~127:1 さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。7:2 あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量るその秤で量り与えられるのです。7:3 あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分の目にある梁には、なぜ気がつかないのですか。7:4 兄弟に向かって、『あなたの目からちりを取り除かせてください』と、どうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。7:5 偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取り除くことができます。7:6 聖なるものを犬に与えてはいけません。また、真珠を豚の前に投げてはいけません。犬や豚はそれらを足で踏みつけ、向き直って、あなたがたをかみ裂くことになります。7:7 求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。7:8 だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。7:9 あなたがたのうちのだれが、自分の子がパンを求めているのに石を与えるでしょうか。7:10 魚を求めているのに、蛇を与えるでしょうか。7:11 このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っているのです。それならなおのこと、天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか。7:12 ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。これが律法と預言者です。 イエス様が「さばいてはいけません」と言われたのは、善悪を区別しない、または不義に無関心であれとか、それらに沈黙しなさい、という意味ではありません。山上の垂訓の後半でイエス様は偽りと真実を見分けるように言われましたが、正当な批判意識がなくては見分けることはできません。霊的な覚醒とは、堕落の自覚であり、それは良心の中に宿る批判意識の力だからです。 ところが、批判が何なのか、その定義と解釈も経ないまま分別を根本的に禁じるということには、信仰を愚民化し、全体化するような意図が隠されているのです。不義を容認、黙認させるための道具として、この御言葉を悪用してはなりません。そのようなことについてはは、当然の厳しく批判しなければなりません。 一方、批判はしますが、その動機が相手を引き下げ、自分を上に上がらせるための場合があります。これらは、一見、改革的に見えるかもしれませんが、高度に計算された機会主義です。それは発展のための健全な批判ではなく、分裂させ、誤解させ、量り与えられないさばきになります。 時には批判してはならないし、時には批判しなければなりません。問題は動機です。今朝の本文を読みながら、新しい事を発見しました。7章に入って「さばいてはいけない」という御言葉が6節まで、それから7節から11節までが「求めなさい」という祈りの御言葉が続きます。「批判の主題」は終わり、「祈りの主題」が始まったと思いましたが、続く12節は、再び批判の主題に戻ります。 「ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。これが律法と預言者です。」で終わります。 まとめてみると、「さばいてはいけない → さばくならまず自分から振り返る → 求めれば与えられる。探せば見出す。たたければ開かれる。 → 神が良いものをくださる → ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい」このような編集から分かるのは、7節から11節までにある「求めなさい」というメッセージが、その前の「さばいてはいけない」というメッセージと別々に離れたものではなく一つにつながっているメッセージである、ということです。 批判の動機は「ねたみと嫉妬」です。人を引き下げ、自分をえらくするためのことでした。ということで「さばく者の動機はねたみと嫉妬である」を挿入すると、文脈は自然に流れます。イエス様は、「ねたみと嫉妬の動機で人をさばかず、相手を理解すること、そしてあなたにとって良いものは神様に求めてもらいなさい」と整理してくださったのです。