ヨシュア 黙想 【合理的判断と一貫した従順】 20251126(水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師   

ヨシュア 9:1~15 9:1 さて、ヨルダン川の西側の山地、シェフェラ、レバノンに至る大海の全沿岸のヒッタイト人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の王たちはみな、これを聞くと、 9:2 ともに集まり、一つになってヨシュアおよびイスラエルと戦おうとした。 9:3 ギブオンの住民たちは、ヨシュアがエリコとアイに対して行ったことを聞くと、 9:4 彼らもまた策略をめぐらし、変装をした。古びた袋と、古びて破れて継ぎ当てをしたぶどう酒の皮袋をろばに負わせ、 9:5 繕った古い履き物を足にはき、古びた上着を身に着けた。彼らの食糧のパンはみな乾いて、ぼろぼろになっていた。 9:6 彼らはギルガルの陣営のヨシュアのところに来て、彼とイスラエルの人々に言った。「私たちは遠い国から参りました。ですから今、私たちと盟約を結んでください。」 9:7 イスラエルの子らはそのヒビ人たちに言った。「おそらく、あなたがたは、私たちのただ中に住んでいるのだろう。どうして私たちがあなたがたと盟約を結べるだろうか。」 9:8 彼らはヨシュアに言った。「私たちは、あなたのしもべです。」ヨシュアは彼らに言った。「あなたがたは何者か。どこから来たのか。」 9:9 彼らは彼に言った。「しもべどもは、あなたの神、主の名のゆえにとても遠い国から参りました。主のうわさ、および主がエジプトで行われたすべてのこと、 9:10 主がヨルダンの川向こうのアモリ人の二人の王、ヘシュボンの王シホン、およびアシュタロテにいたバシャンの王オグになさった、すべてのことを聞いたからです。 9:11 私たちの長老や、私たちの国の住民はみな私たちに言いました。『旅のための食糧を手にして彼らに会いに出かけなさい。そして彼らに、「私たちは、あなたがたのしもべです。今、どうか私たちと盟約を結んでください」と言いなさい。』 9:12 これが私たちのパンです。私たちがあなたがたのところに来ようと出た日、それぞれ自分の家で食糧として準備したときには、まだ温かかったのですが、今はご覧のとおり、干からびて、ぼろぼろになってしまいました。 9:13 これがぶどう酒の皮袋です。私たちがこれらを満たしたときには新しかったのですが、ご覧のとおり破れてしまいました。これが私たちの上着と私たちの履き物です。とても長い旅のため古びてしまいました。」 9:14 そこで人々は彼らの食糧の一部を受け取った。しかし、主の指示を求めなかった。 9:15 ヨシュアは彼らと和を講じ、彼らを生かしておく盟約を結んだ。会衆の上に立つ族長たちは彼らに誓った。   エリコの城とアイの町が崩れ落ちると、残されたカナンの諸部族は恐れを感じ、連合してイスラエルと戦うことを決意した。しかし、ギブオンだけは別の道を選んだ。彼らは自らを欺きながら、イスラエルのしもべになることを申し出たのである。そうすれば、滅ぼし尽くされることを免れ得ると考えたからであろう。それはギブオンにとっても、イスラエルにとっても、合理的で魅力的な条件であった。ギブオンの立場からすれば生き延びることができ、イスラエルの側からすれば、戦わずして勝利を得るだけでなく、現地の部族をしもべとして従わせることができたからである。 しかし本文は、「彼らは主の御心を求めなかった」(14節)という言葉によって、この事件の本質を伝えている。すなわち、彼らの判断と選択に誤りがあったことを示しているのである。イスラエルは神に何を問うべきであったのだろうか。ギブオンをしもべとすべきか、それとも拒むべきか、と問うべきだったのだろうか。「主に問わなかった」とは、すべてのことを漏れなく神に祈った後でなければ決断してはならない、という意味なのだろうか。 イスラエルにはすでに、「カナンの諸族をことごとく滅ぼせ」という神の上位命令が与えられていたではないか。その命令は性質上、例外を許さない絶対的なものであった。イスラエルには、カナンの民の中から誰かをしもべとすることも、彼らと共存することも許されていなかった。なぜ彼らを滅ぼさねばならなかったのかという問いは、今日の主題ではないが、それは不純なものの影響力を完全に排除し、新しいものへの再生を象徴する行為として理解できるであろう。 「神に問わなかった」というのは、祈る行為を怠ったという意味ではない。イスラエルはそれなりに慎重であり、悩み、最善を尽くして合理的な判断を下したはずである。問題はその「合理性」にあった。彼らはすでに与えられていた神の命令を基準とせず、状況に応じた合理的判断を優先したのである。こうして彼らは、神の上位命令を自分たちの判断で勝手に調整してしまった。 しかし、この種の合理性はやがて妥協となり、不従順となる。問題は慈悲にあったのではなく、命令を自分なりの基準で再解釈したことにあった。聖書は、それこそが神の御心から逸脱することであると厳しく警告している。神が自分を導いておられる方向をすでに知っていながら、状況の合理性に従うことは、神の方向に逆らうことであり、妥協することであり、それこそが「神に問わなかった」こととなる。祈りという行為をしなかったのではなく、なお自分自身の方向設定が明確でなかったことに問題があったのである。

여호수아 묵상 【경험의 함정】 20251124(월) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

여호수아 8:10~23 8:10 여호수아가 아침에 일찌기 일어나서 백성을 점고하고 이스라엘 장로들로 더불어 백성 앞서 아이로 올라가매 8:11 그를 좇은 군사가 다 올라가서 성읍 앞에 가까이 이르러 아이 북편에 진치니 그와 아이 사이에는 한 골짜기가 있었더라 8:12 그가 오천명 가량을 택하여 성읍 서편 벧엘과 아이 사이에 또 매복시키니 8:13 이와 같이 성읍 북편에는 온 군대가 있고…

テモテへの手紙 第二 黙想【パウロの助言】20251101(土) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

テモテへの手紙 第二 1:1-8 1:1 神のみこころにより、またキリスト・イエスにあるいのちの約束にしたがって、キリスト・イエスの使徒となったパウロから、 1:2 愛する子テモテへ。父なる神と、私たちの主キリスト・イエスから、恵みとあわれみと平安がありますように。 1:3 私は夜昼、祈りの中であなたのことを絶えず思い起こし、先祖がしてきたように、私もきよい良心をもって仕えている神に感謝しています。 1:4 私はあなたの涙を覚えているので、あなたに会って喜びに満たされたいと切望しています。 1:5 私はあなたのうちにある、偽りのない信仰を思い起こしています。その信仰は、最初あなたの祖母ロイスと母ユニケのうちに宿ったもので、それがあなたのうちにも宿っていると私は確信しています。 1:6 そういうわけで、私はあなたに思い起こしてほしいのです。私の按手によってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。 1:7 神は私たちに、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊を与えてくださいました。 1:8 ですからあなたは、私たちの主を証しすることや、私が主の囚人であることを恥じてはいけません。むしろ、神の力によって、福音のために私と苦しみをともにしてください。    テモテへの手紙第二は、パウロの書簡の中でも「獄中書簡」と呼ばれます。さらにその中でも、使徒パウロが生涯の最後に書いた手紙であると考えられています。ローマの牢獄で人生の終わりを迎えようとしていたパウロが、信仰の子であるテモテに心を込めて書き送った手紙なのです。    この手紙の冒頭が、今日の本文の箇所です。ここでパウロがテモテに願い、勧めていることは、これからの安楽な人生のための祝福や、健康、名誉などではありませんでした。むしろ、パウロ自身がそうであったように、福音のために苦難を受けることでした。  人生の最後に、自分の息子のような存在に伝えたかった言葉は、パウロが与えられる最も良い助言であったはずです。使徒パウロにとってそれは、神様の力により福音とともに苦難にあずかるということでした。  私たちは聖書を通して使徒パウロの生涯を知っています。文字で読むだけでも、数多くの死の危険を乗り越え、無視や迫害に耐え、御言葉を伝えるための資金を自ら働いてまで賄いながら、神様の御言葉を宣べ伝えた人物がパウロでした。しかし私たちが文字で感じ取る以上に、テモテはその姿をすぐ傍で見ていたので、誰よりもパウロの無事を祈り、その手紙を待っていたことでしょう。  そんなパウロが人生の終わりに語った「あなたも私と同じように、福音のために苦難を受けなさい」という言葉は、テモテにとって大きな衝撃と挑戦であったに違いありません。相当な恐れもあったことでしょう。しかしパウロは言います──神様が私たちにお与えになったのは、恐れる心ではないと。  私たちが福音のために生きるということは、確かに多くの苦難を伴う道です。小さな心配や不安から、ある者には命に関わる問題にまで及ぶこともあります。けれどもその中で私たちに与えられているのは、恐れではありません。神様は私たちに、力と愛と慎みの心、すなわちあらゆる苦難を乗り越える力を与えてくださっているのです。だからこそ私たちは今日も、福音のために生き、伴う苦難にくじけることなく、その道を歩むことができるのです。 https://youtu.be/CvVj2_Lhg7A?si=3naI8lWryBRfQiDK

디모데후서 묵상【바울의 조언】20251101(토) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

디모데후서 1:1-8 1:1 하나님의 뜻으로 말미암아 그리스도 예수 안에 있는 생명의 약속대로 그리스도 예수의 사도 된 바울은 1:2 사랑하는 아들 디모데에게 편지하노니 하나님 아버지와 그리스도 예수 우리 주께로부터 은혜와 긍휼과 평강이 네게 있을지어다 1:3 내가 밤낮 간구하는 가운데 쉬지 않고 너를 생각하여 청결한 양심으로 조상적부터 섬겨 오는 하나님께 감사하고 1:4 네 눈물을 생각하여 너 보기를…

ゼカリヤ書 黙想【自由を与える統治】20251031(金) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

ゼカリヤ書 14:16-21 14:16 エルサレムに攻めて来たすべての民のうち、生き残った者はみな、毎年、万軍の主である王を礼拝し、仮庵の祭りを祝うために上って来る。 14:17 地上の諸氏族のうち、万軍の主である王を礼拝しにエルサレムに上って来ない氏族の上には、雨が降らない。 14:18 もし、エジプトの氏族が上って来ないなら、雨は彼らの上に降らず、疫病が彼らに下る。これは、仮庵の祭りを祝いに上って来ない諸国の民を主が打つ疫病である。 14:19 これが、エジプトの罪への刑罰となり、仮庵の祭りを祝いに上って来ないすべての国々の罪への刑罰となる。 14:20 その日、馬の鈴の上には「主への聖なるもの」と刻まれ、主の宮の中の鍋は祭壇の前の鉢のようになる。 14:21 エルサレムとユダのすべての鍋は、万軍の主への聖なるものとなる。いけにえを献げる者はみなやって来て、その一つを取ってそれで煮るようになる。その日、万軍の主の宮にはもう商人がいなくなる。     ゼカリヤ書の最後では、「イスラエルの神」「イスラエルの主」であった神様が、「全地の王」「万軍の主」として、その統治の範囲がイスラエルから全世界へ広がる、回復されることが示されています。    それと同時に、その神様の民となった全世界の人々には、「律法」を守ることが義務づけられます。律法とは、神様がご自身の民に与えられた命令であるからです。また、その律法を守らない者に与えられる裁きも、同じく存在します。    しかし、それは決して異邦人を律法の下に縛りつけるための支配ではありません。むしろこのような出来事は、全地のすべての者が、万軍が、神様の恵みのもとにおいて、その御子イエス・キリストによって救いを得るための、神様の特別な御計画なのです。    神様を自らの王と告白する者には、救いの名であるイエス・キリストが共に与えられます。神様の国の民となるということは、新たな抑圧ではなく、あらゆる抑圧からの自由と解放を意味するのです。    私たちの人生の主権は、「自分」という存在から神様へと移されました。私たちが「主よ」と呼ぶのが、まさにそのような信仰の告白なのです。私たちが神様に自分を委ねることは、決して自由を奪われることではありません。むしろそれは、真の自由を得る道なのです。 https://youtu.be/SzTIIzahEaw?si=uI-MrQ1UwNrdFbUp

스가랴 묵상【자유를 주는 통치】20251031(금) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

스가랴 14:16-21 14:16 예루살렘을 치러 왔던 이방 나라들 중에 남은 자가 해마다 올라와서 그 왕 만군의 여호와께 경배하며 초막절을 지킬 것이라 14:17 땅에 있는 족속들 중에 그 왕 만군의 여호와께 경배하러 예루살렘에 올라오지 아니하는 자들에게는 비를 내리지 아니하실 것인즉 14:18 만일 애굽 족속이 올라오지 아니할 때에는 비 내림이 있지 아니하리니 여호와께서 초막절을 지키러 올라오지 아니하는…

ゼカリヤ 黙想 【王になった神様】 20251030(木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ゼカリヤ 14:9~15 14:9 主は地のすべてを治める王となられる。その日には、主は唯一となられ、御名も唯一となる。 14:10 全土はゲバからエルサレムの南のリンモンまで、アラバのようになる。しかしエルサレムは高くそびえ、ベニヤミンの門から第一の門のところを経て隅の門まで、またハナンエルのやぐらから王家のぶどうの踏み場まで、元の場所にそのまま残る。 14:11 そこには人々が住み、もはや聖絶の物はなく、エルサレムは安らかに住む。 14:12 これは、主がエルサレムを攻めるどの民にも加えられる疫病である。彼らの肉は、まだ足で立っているうちに腐る。彼らの目はまぶたの中で腐り、彼らの舌は口の中で腐る。 14:13 その日、主からの大いなる混乱が、彼らの間に起こる。彼らは互いに手でつかみ合い、互いに殴りかかる。 14:14 ユダもエルサレムで戦う。周りのすべての国々の財宝は、金、銀、衣服など非常に多く集められる。 14:15 馬、らば、らくだ、ろば、彼らの宿営にいるすべての家畜にも、同じような疫病が臨む。   主の日は、イスラエルという国家の回復ではない。その日は、世界のすべての国々が消え去り、ただ神だけが王として統治される日である。人間が築いた権力や体制、欲望と不義の構造は崩れ去り、神は、人間に委ねられた支配がゆがめられ、見捨てられたところを正し、ご自身の正義と秩序のために直接統治される。私たちは思い起こすべきだ。神がこの世界に委ね、求められたものは何であったのか。それは、正義と慈しみ、そしていのちの秩序であった。 その日は、すべての高慢が解体される日でもある。高慢は臆病さと似ており、虚勢が消えれば何も残らない。「エルサレムを攻めた民の肉は、そのままで腐り、目は眼窩の中で朽ち、舌は口の中で腐る。」(14:12)悪はその日に自ら崩れ去るだろう。その災いは、悪人の肉体だけでなく、悪によって築かれた腐敗の構造そのものをも解体する。 しかし、神を求める者にとってそれは災いではなく慰めであり、滅びではなく回復である。崩れゆく世界のただ中で、神は新しい創造を起こされる。その光は、人間が作り出す繁栄の灯ではなく、神のうちで、すべての被造物が本来の場所を見いだす平和の光である。ゼカリヤが見た終末は、終わりではなく始まりであった。現実を破壊として見る者には恐れがあり、神の新しい創造として見る者には希望がある。

스가랴 묵상 【왕이 되신 하나님】 20251030(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

스가랴 14:9~15 14:9 여호와께서 천하의 왕이 되시리니 그날에는 여호와께서 홀로 하나이실 것이요 그 이름이 홀로 하나이실 것이며 14:10 온 땅이 아라바 같이 되되 게바에서 예루살렘 남편 림몬까지 미칠 것이며 예루살렘이 높이 들려 그 본처에 있으리니 베냐민 문에서부터 첫문 자리와 성 모퉁이 문까지 또 하나넬 망대에서부터 왕의 포도주 짜는 곳까지라 14:11 사람이 그 가운데 거하며 다시는…

ゼカリヤ 黙想 【主の日】 20251029(水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師

ゼカリヤ 14:1~8 14:1 見よ、主の日が来る。あなたから奪われた戦利品が、あなたのただ中で分配される。 14:2 「わたしはすべての国々を集めて、エルサレムを攻めさせる。都は取られ、家々は略奪され、女たちは犯される。都の半分は捕囚となって出て行く。しかし、残りの民は都から絶ち滅ぼされない。」 14:3 主が出て行かれる。決戦の日に戦うように、それらの国々と戦われる。 14:4 その日、主の足はエルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。オリーブ山はその真ん中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。山の半分は北へ、残りの半分は南へ移る。 14:5 「山々の谷がアツァルにまで達するので、あなたがたはわたしの山々の谷に逃げる。ユダの王ウジヤの時に地震を避けて逃げたように、あなたがたは逃げる。」私の神、主が来られる。すべての聖なる者たちも、主とともに来る。 14:6 その日には、光も、寒さも、霜もなくなる。 14:7 これはただ一つの日であり、その日は主に知られている。昼も夜もない。夕暮れ時に光がある。 14:8 その日には、エルサレムからいのちの水が流れ出る。その半分は東の海に、残りの半分は西の海に向かい、夏にも冬にも、それは流れる。   「主の日が来る。」(14:1)エルサレムの都は攻められ、民の半分は捕らえ移される。それはまるで、かつてのバビロン侵攻の出来事をもう一度語るようであり、またローマによる滅亡を予告する言葉としても読むことができる。しかし、ゼカリヤの雄弁は単なる歴史の再現ではない。彼が語るのは終末的な「最後の日」、すなわち神がこの世界の秩序を新しくされる「主の日」である。ゼカリヤが見たエルサレムの崩壊は、帝国の歴史ではなく、神の新しい創造が始まるために、人間に与えられた秩序が壊される「創造的破壊」であった。人の秩序が崩れ、神の支配が始まる転換の瞬間なのである。 「その日には光がなく……夕べにも光があるだろう。」(14:6–7)昼と夜、成功と失敗という秩序は、人間にとってあまりにも当たり前のものだ。しかしその当たり前の秩序が退き、新しい時間が到来する。死すべき人間が心の底から願う究極の祝福、それがこの「新しい時」である。どんな論理も、どんな秩序も、神を教えることはできない。人間にとって厳格な時間でさえ、神を先取りしたり支配したりすることはできない。すべてが終わったかのような暗闇の中にあっても、その闇の只中で、神は新しい光を備えられる。光は闇の中でこそ、その価値をより深く放つ。だからゼカリヤは言うのだ。「夕べにも光があるだろう。」私には「ない」ように見えても、神には「ある」。それが信仰の言葉である。 そして「その日、エルサレムから生ける水が湧き出で、その半分は東の海に、半分は西の海に流れる。」(14:8)十三章に出てきた「清めの泉」から、今や生ける水が全世界へと流れ出す。その泉はとどまることなく、絶えず湧き出る。闇の中にも光があり、廃墟の中にも水が湧く。「主の日」は破壊と滅亡の日ではなく、慰めと希望の日である。その生ける水は、罪と後悔に苦しむ人間の心に流れ込み、それを潤し、洗い清め、再び流れ出ていく。たとえ人生の「青い夕暮れ」を迎えるような虚しさの中にあっても、「主の日」には光が差し込む。

스가랴 묵상 【여호와의 날】 20251029(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

스가랴 14:1~8 14:1 여호와의 날이 이르리라 그 날에 네 재물이 약탈되어 너의 중에서 나누이리라 14:2 내가 열국을 모아 예루살렘과 싸우게 하리니 성읍이 함락되며 가옥이 약탈되며 부녀가 욕을 보며 성읍 백성이 절반이나 사로잡혀가려니와 남은 백성은 성읍에서 끊쳐지지 아니하리라 14:3 그 때에 여호와께서 나가사 그 열국을 치시되 이왕 전쟁 날에 싸운 것 같이 하시리라 14:4 그 날에…