民数記 黙想 【記憶の歪曲、現実の離脱】 20250429(火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

民数記 16:12~35 16:12 モーセは人を遣わして、エリアブの子のダタンとアビラムとを呼び寄せようとしたが、彼らは言った。「われわれは行かない。 16:13 あなたは、われわれを乳と蜜の流れる地から連れ上って、荒野で死なせようとし、そのうえ、われわれの上に君臨している。それでも不足があるのか。 16:14 しかも、あなたは、乳と蜜の流れる地にわれわれを導き入れず、畑とぶどう畑を、受け継ぐべき財産としてわれわれに与えてもいない。あなたは、この人たちの目をくらまそうとするのか。われわれは行かない。」 16:15 モーセは激しく怒った。そして主に言った。「どうか、彼らのささげ物を顧みないでください。私は彼らから、ろば一頭も取り上げたことはなく、彼らのうちのだれも傷つけたことがありません。」 16:16 それからモーセはコラに言った。「明日、あなたとあなたの仲間はみな、主の前に出なさい。あなたも彼らも、そしてアロンも。 16:17 あなたがたは、それぞれ自分の火皿を取り、その上に香を盛り、それぞれ主の前に持って行きなさい。二百五十の火皿を、あなたもアロンも、それぞれ自分の火皿を持って行きなさい。」 16:18 彼らはそれぞれ自分の火皿を取り、それに火を入れて、その上に香を盛った。そしてモーセとアロンと一緒に会見の天幕の入り口に立った。 16:19 コラは、二人に逆らわせようとして、全会衆を会見の天幕の入り口に集めた。そのとき、主の栄光が全会衆に現れた。 16:20 主はモーセとアロンに告げられた。 16:21 「あなたがたはこの会衆から離れよ。わたしは彼らをたちどころに滅ぼし尽くす。」 16:22 二人はひれ伏して言った。「神よ、すべての肉なるものの霊をつかさどる神よ。一人の人が罪ある者となれば、全会衆に御怒りを下されるのですか。」 16:23 主はモーセに告げられた。 16:24 「会衆に告げて、コラとダタンとアビラムの住まいの周辺から引き下がるように言え。」 16:25 モーセは立ち上がり、ダタンとアビラムのところへ行った。イスラエルの長老たちもついて行った。 16:26 そして会衆に告げた。「さあ、この悪い者どもの天幕から離れなさい。彼らのものには何もさわってはならない。彼らのすべての罪のゆえに、あなたがたが滅ぼし尽くされるといけないから。」 16:27 それでみなは、コラとダタンとアビラムの住まいの周辺から離れ去った。ダタンとアビラムは、妻子、幼子たちと一緒に出て来て、自分たちの天幕の入り口に立った。 16:28 モーセは言った。「私を遣わして、これらのわざを行わせたのは主であり、私自身の考えからではないことが、次のことによってあなたがたに分かる。 16:29 もしこの者たちが、すべての人が死ぬように死に、すべての人の定めにあうなら、私を遣わしたのは主ではない。 16:30 しかし、もし主がこれまでにないことを行われるなら、すなわち、地がその口を開けて、彼らと彼らに属する者たちをことごとく吞み込み、彼らが生きたままよみに下るなら、あなたがたはこれらの者たちが主を侮ったことを知らなければならない。」 16:31 モーセがこれらのことばをみな言い終えるやいなや、彼らの足もとの地面が割れた。 16:32 地は口を開けて、彼らとその家族、またコラに属するすべての者と、すべての所有物を吞み込んだ。 16:33 彼らと彼らに属する者はみな、生きたまま、よみに下った。地は彼らを包み、彼らは集会の中から滅び失せた。 16:34 彼らの周りにいたイスラエル人はみな、彼らの叫び声を聞いて逃げた。「地がわれわれも吞み込んでしまわないか」と人々は思ったのである。 16:35 また、火が主のところから出て、香を献げていた二百五十人を焼き尽くした。   モーセはコラと共に反乱に加担したダタンとアビラムを呼びましたが、彼らはそれを拒み、公然とモーセを非難しました。彼らは、エジプトから出たことは解放ではなく滅びだと言い放ちました。「我々を乳と蜜の流れる地から導き出し、荒野で死なせようとするのか」と言いましたが、ここでいう「乳と蜜の流れる地」とは、神が約束されたカナンではなく、かつて奴隷として生きていたエジプトを指しているのです。圧迫されていた地を、かえって豊かな地であったかのように語る彼らの言葉は、救いの恵みを否定し、罪に満ちた過去を懐かしむ歪んだ記憶の表れです。人間の絶望は、この無知と歪みを疑うことなく確信してしまうところにあります。 心理学では、自らを抑圧し苦しめた対象に愛着を抱く現象を「ストックホルム症候群」と呼びます。これは生存のための自己正当化の一種であり、現実を否認するために、過去に自分を苦しめた相手を、かえって善なる存在だったと合理化してしまう心の動きです。現実を耐えきれない心が、過去を美化し、救いの恵みを否定する方向へと人間を導くのです。 荒野での苦難が深まるにつれ、モーセへの不満も次第に高まっていきました。モーセが共同体のために尽力していたすべての努力さえも、「王になりたがっている」という歪んだ解釈にすり替えられました。誰かを非難することで自己正当化しようとする試みは、絶えず繰り返されます。しかし本来問われるべきは、自らの正当性をまず証明することです。もし彼らが本当にイスラエル共同体を案じていたのであれば、モーセを引きずり下ろすことではなく、より良い代案と具体的な計画を提示すべきだったはずです。自らの思考や意識に責任を持たず、嫌悪と非難に陥った人間は、もはや教育することも、変革の可能性を見出すこともできません。サイモン&ガーファンクルが歌ったように、「語らずに語る人々、聞かずに聞く人々(People talking…

민수기 묵상 【기억의 왜곡, 현실의 이탈】 20250429(화) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

민수기 16:12~35 16:12 모세가 엘리압의 아들 다단과 아비람을 부르러 보내었더니 그들이 가로되 우리는 올라가지 않겠노라 16:13 네가 우리를 젖과 꿀이 흐르는 땅에서 이끌어 내어 광야에서 죽이려 함이 어찌 작은 일이기에 오히려 스스로 우리 위에 왕이 되려 하느냐 16:14 이뿐 아니라 네가 우리를 젖과 꿀이 흐르는 땅으로 인도하여 들이지도 아니하고 밭도 포도원도 우리에게 기업으로 주지 아니하니…

民数記 黙想 【身分か、役割か】 20250424(木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

民数記 16:1-11 16:1 レビの子であるケハテの子イツハルの子コラは、ルベンの子孫であるエリアブの子ダタンとアビラム、およびペレテの子オンと共謀して、 16:2 モーセに立ち向かった。イスラエルの子らで、会衆の上に立つ族長たち、会合から召し出された名のある者たち二百五十人も、彼らと一緒であった。 16:3 彼らはモーセとアロンに逆らって結集し、二人に言った。「あなたがたは分を超えている。全会衆残らず聖なる者であって、主がそのうちにおられるのに、なぜ、あなたがたは主の集会の上に立つのか。」 16:4 モーセはこれを聞いてひれ伏した。 16:5 それから、コラとそのすべての仲間とに告げた。「明日の朝、主は、だれがご自分に属する者か、だれが聖なる者かを示し、その人をご自分に近寄せられる。主は、ご自分が選ぶ者をご自分に近寄せられるのだ。 16:6 こうしなさい。コラとそのすべての仲間よ。あなたがたは火皿を取り、 16:7 明日、主の前でその中に火を入れ、その上に香を盛りなさい。主がお選びになるその人が、聖なる者である。レビの子たちよ、あなたがたが分を超えているのだ。」 16:8 モーセはコラに言った。「レビの子たちよ、よく聞きなさい。 16:9 あなたがたは、何か不足があるのか。イスラエルの神が、あなたがたをイスラエルの会衆から分けて、主の幕屋の奉仕をするように、また会衆の前に立って彼らに仕えるように、ご自分に近寄せてくださったのだ。 16:10 こうしてあなたを、そして、あなたの同族であるレビ族をみな、あなたと一緒に近寄せてくださったのだ。それなのに、あなたがたは祭司の職まで要求するのか。 16:11 事実、一つになって主に逆らっているのは、あなたとあなたの仲間全員だ。アロンが何だからといって、彼に対して不平を言うのか。」   レビ族のコラとルベン族のダタン、アビラム、オンがモーセに逆らって反乱を起こしました。この本文を読むにあたり、いわゆる霊的立場や宗教的立場について整理する必要があると感じます。一般的に、モーセが主のしもべであるように、牧師もまた主のしもべであり、レビ人が神殿で奉仕する区別された献身者であるように、牧師もレビ人に対応すると比喩的に解釈されることがあります。しかし、今日の本文では、そのレビ人がモーセに反旗を翻しました。そうすると、牧師はモーセにあたるのでしょうか、それともレビ人にあたるのでしょうか?これを明確にしなければ、論理的矛盾に陥り、霊的秩序も曖昧になります。   共同体のリーダーとしての役割において牧師をモーセに比することは可能です。しかし、身分の意味においてモーセと牧師を同一視することは、神学的に不可能です。モーセは制度化された宗教の指導者ではなく、神の救済計画を実現するために特別に召された救済史的リーダーでした。彼はイスラエルの民をエジプトから解放し、律法を授かり、イスラエル共同体の政治・外交・軍事・立法・司法・行政・宗教を総括する特別な役割を担いました。ヘブライ人への手紙3章では、モーセをイエス・キリストの型として説明しています。これはモーセがキリストと完全に同一であるという意味ではなく、キリストを指し示す不完全な影像としての役割を担ったことを意味します。現代のプロテスタント教会制度において、身分的にモーセに対応する宗教的ポジションは存在しません。   むしろ反乱を起こしたレビ族のコラこそ、今日の牧師や教会のリーダー像により近いと言えるでしょう。とはいえ、レビ人がすなわち牧師であると言っているわけではありません。レビ人の全体的な職務と、牧師の職務は同一ではありません。コラは幕屋奉仕という特別で聖なる使命を与えられていながら、より権威と影響力のある祭司の地位を求め、反乱を起こしました。みことばを教え、礼拝を導くべき牧会者が、自らの職分と役割以上を欲したときに生まれる傲慢の構造と、コラの反乱の構造は同じです。一部の人々は、信徒に対して牧師をモーセのような存在として逆らわないように説きますが、神は職分を奉仕のためではなく、身分や支配の道具として用いようとする傲慢と貪欲を厳しく警告されます。 牧師には教会の代表者としてみことばを教え、礼拝を導く権威があります。その権威は当然尊重されるべきです。しかし、その権威を強調するあまり一線を越えてはなりません。教皇が先日、逝去されました。プロテスタント信徒である私としては、教皇無謬説や使徒ペテロの後継者、地上におけるキリストの代理者という特別な霊的身分には同意も信仰もしていません。ただし、彼の弱者への愛と平和への奉仕の役割には深い敬意を表します。霊的身分や立場を論じることは、実は本質的ではありません。信じる者が信徒であり、身をささげる者が献身者であり、使命を実践する者が使命者であり、みことばを読み、解釈し、教える者が牧師です。誰であれ、謙虚にその役割に忠実であるとき、その人は主のしもべです。そして、どんな場合においても、教会のかしらはイエス・キリストご自身です。

民数記 黙想 【罪を悟らせる恵】 20250426(土) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生 (복제)

民数記 15:22-31 15:22 あなたがたが迷い出て、主がモーセに告げたこれらすべての命令、 15:23 すなわち、主が命じた日以後、代々にわたって、主がモーセを通してあなたがたに命じたすべてのことを行わないとき、 15:24 もしそのことが、会衆が気づかずになされたのなら、全会衆は、主への芳ばしい香りのための全焼のささげ物として若い雄牛一頭、また、定めにかなう穀物のささげ物と注ぎのささげ物、さらに罪のきよめのささげ物として雄やぎ一匹を献げなければならない。 15:25 祭司がイスラエルの全会衆のために宥めを行うなら、彼らは赦される。それは過失であり、彼らが自分たちの過失のために、自分たちのささげ物、すなわち主への食物のささげ物と罪のきよめのささげ物を、主の前に持って来たからである。 15:26 イスラエルの全会衆も、あなたがたの間に寄留している者も赦される。それは民全体の過ちだからである。 15:27 もし個人が気づかずに罪に陥ってしまったのなら、一歳の雌やぎ一匹を罪のきよめのささげ物として献げなければならない。 15:28 祭司は、気づかずに罪に陥ってしまった者のために、主の前で宥めを行う。彼のために宥めを行い、その人は赦される。 15:29 イスラエルの子らのうちのこの国に生まれた者でも、あなたがたの間に寄留している者でも、気づかずに罪を行ってしまった者には、あなたがたと同一のおしえが適用されなければならない。 15:30 この国に生まれた者でも、寄留者でも、故意に違反する者は主を冒瀆する者であり、その人は自分の民の間から断ち切られる。 15:31 主のことばを侮り、その命令を破ったのであるから、必ず断ち切られ、その咎を負う。」  モーセを通してイスラエルの民に与えられた神様の約束は、それまでの約束とは少し異なる点がありました。それは、「条件付きの約束」であったということです。私たちには無条件の約束の方がむしろ馴染みがないかもしれませんが、それまで神様はご自身の民に一方的な無条件の約束を与えてこられたため、モーセを通じて与えられたこの新たな約束は、当時の人々にとってはむしろ戸惑いを感じさせ、厳しく受け取られたかもしれません。    しかし、アダム以降の人間は、このような神様の条件付きの約束や命令を完全に守ることができませんでした。人の内には常に罪が存在していたからです。人々は自分でも気づかないうちに、神様の命令を破っていたことでしょう。    今日の箇所に書いてあるように、過って罪を犯した者がいた場合、祭司は神様のもとに贖罪のささげ物をささげなければなりませんでした。このような贖罪の儀式は、民の目の前で毎日行われていたことでしょう。    そのささげ物を見ながら、「今日も誰かが知らずに罪を犯してしまったのだな」と考えることもあったでしょうし、「もしかしてそれは自分だったのではないか」と不安に感じた人もいたかもしれません。むしろ、自分の罪に敏感な人ほど、この贖罪の儀式を通して自らの罪に気づかされることになったでしょう。    このように、敬虔な人ほど、その儀式を見守る心はより一層痛ましく、つらいものであったはずです。そして、それまで気づかずに犯していた罪や、わかっていながらも犯してしまう自分自身の姿に、深い絶望を感じたかもしれません。わかっていて犯す罪はすべて「故意」です。それは人の弱さなどで言い訳できない事実です。    しかし神様は、そのような者たちにこそ、より厳しい罰を約束されます。実際、どこまでが意図的な罪であるかを明確に見極めることはできません。また、どれだけ多くの人々がその罪によってイスラエルの民から断たれてしまったのかも、私たちには知る由がありません。しかし私たちは、過去に何があったかに焦点を当てるよりも、今、自分たちが知りうること、今の私たちに起きていることに目を向けるべきです。    私たちは、自らが罪人であることを認めながら、それでも罪を犯し続けています。知らずに犯してしまう罪もありますが、明らかに罪だと知りつつも犯してしまう罪も、数えきれないほど存在します。そのような私たちには、より厳しい刑罰が待っているのです。しかし、だからこそ、私たちはその中にあって、イエス・キリストの福音をいっそう喜ぶことができるのです。自分の惨めさを悟るその場所で、私たちはさらに大きな恵みを体験することができるでしょう。 https://youtu.be/1zLJXJXwkjo?si=NuDUhmVmcYgJ-3Ac

민수기 묵상 【신분인가 역할인가】 20250428(월) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

민수기 16:1~11 16:1 레위의 증손 고핫의 손자 이스할의 아들 고라와 르우벤 자손 엘리압의 아들 다단과 아비람과 벨렛의 아들 온이 당을 짓고 16:2 이스라엘 자손 총회에 택함을 받은 자 곧 회중에 유명한 어떤 족장 이백 오십 인과 함께 일어나서 모세를 거스리니라 16:3 그들이 모여서 모세와 아론을 거스려 그들에게 이르되 너희가 분수에 지나도다 회중이 다 각각 거룩하고…

民数記 黙想 【罪を悟らせる恵】 20250426(土) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

民数記 15:22-31 15:22 あなたがたが迷い出て、主がモーセに告げたこれらすべての命令、 15:23 すなわち、主が命じた日以後、代々にわたって、主がモーセを通してあなたがたに命じたすべてのことを行わないとき、 15:24 もしそのことが、会衆が気づかずになされたのなら、全会衆は、主への芳ばしい香りのための全焼のささげ物として若い雄牛一頭、また、定めにかなう穀物のささげ物と注ぎのささげ物、さらに罪のきよめのささげ物として雄やぎ一匹を献げなければならない。 15:25 祭司がイスラエルの全会衆のために宥めを行うなら、彼らは赦される。それは過失であり、彼らが自分たちの過失のために、自分たちのささげ物、すなわち主への食物のささげ物と罪のきよめのささげ物を、主の前に持って来たからである。 15:26 イスラエルの全会衆も、あなたがたの間に寄留している者も赦される。それは民全体の過ちだからである。 15:27 もし個人が気づかずに罪に陥ってしまったのなら、一歳の雌やぎ一匹を罪のきよめのささげ物として献げなければならない。 15:28 祭司は、気づかずに罪に陥ってしまった者のために、主の前で宥めを行う。彼のために宥めを行い、その人は赦される。 15:29 イスラエルの子らのうちのこの国に生まれた者でも、あなたがたの間に寄留している者でも、気づかずに罪を行ってしまった者には、あなたがたと同一のおしえが適用されなければならない。 15:30 この国に生まれた者でも、寄留者でも、故意に違反する者は主を冒瀆する者であり、その人は自分の民の間から断ち切られる。 15:31 主のことばを侮り、その命令を破ったのであるから、必ず断ち切られ、その咎を負う。」  モーセを通してイスラエルの民に与えられた神様の約束は、それまでの約束とは少し異なる点がありました。それは、「条件付きの約束」であったということです。私たちには無条件の約束の方がむしろ馴染みがないかもしれませんが、それまで神様はご自身の民に一方的な無条件の約束を与えてこられたため、モーセを通じて与えられたこの新たな約束は、当時の人々にとってはむしろ戸惑いを感じさせ、厳しく受け取られたかもしれません。    しかし、アダム以降の人間は、このような神様の条件付きの約束や命令を完全に守ることができませんでした。人の内には常に罪が存在していたからです。人々は自分でも気づかないうちに、神様の命令を破っていたことでしょう。    今日の箇所に書いてあるように、過って罪を犯した者がいた場合、祭司は神様のもとに贖罪のささげ物をささげなければなりませんでした。このような贖罪の儀式は、民の目の前で毎日行われていたことでしょう。    そのささげ物を見ながら、「今日も誰かが知らずに罪を犯してしまったのだな」と考えることもあったでしょうし、「もしかしてそれは自分だったのではないか」と不安に感じた人もいたかもしれません。むしろ、自分の罪に敏感な人ほど、この贖罪の儀式を通して自らの罪に気づかされることになったでしょう。    このように、敬虔な人ほど、その儀式を見守る心はより一層痛ましく、つらいものであったはずです。そして、それまで気づかずに犯していた罪や、わかっていながらも犯してしまう自分自身の姿に、深い絶望を感じたかもしれません。わかっていて犯す罪はすべて「故意」です。それは人の弱さなどで言い訳できない事実です。    しかし神様は、そのような者たちにこそ、より厳しい罰を約束されます。実際、どこまでが意図的な罪であるかを明確に見極めることはできません。また、どれだけ多くの人々がその罪によってイスラエルの民から断たれてしまったのかも、私たちには知る由がありません。しかし私たちは、過去に何があったかに焦点を当てるよりも、今、自分たちが知りうること、今の私たちに起きていることに目を向けるべきです。    私たちは、自らが罪人であることを認めながら、それでも罪を犯し続けています。知らずに犯してしまう罪もありますが、明らかに罪だと知りつつも犯してしまう罪も、数えきれないほど存在します。そのような私たちには、より厳しい刑罰が待っているのです。しかし、だからこそ、私たちはその中にあって、イエス・キリストの福音をいっそう喜ぶことができるのです。自分の惨めさを悟るその場所で、私たちはさらに大きな恵みを体験することができるでしょう。 https://youtu.be/1zLJXJXwkjo?si=NuDUhmVmcYgJ-3Ac

민수기 묵상 【죄를 아는 은혜】 20250426(토) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

민수기 15:22-31 15:22 너희가 그릇 범죄하여 여호와가 모세에게 말씀하신 이 모든 명령을 지키지 못하되 15:23 곧 여호와께서 모세를 통하여 너희에게 명령한 모든 것을 여호와께서 명령한 날 이후부터 너희 대대에 지키지 못하여 15:24 회중이 부지중에 범죄하였거든 온 회중은 수송아지 한 마리를 여호와께 향기로운 화제로 드리고 규례대로 소제와 전제를 드리고 숫염소 한 마리를 속죄제로 드릴 것이라 15:25…

民数記 黙想 【神様のレシピ】 20250425(金) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

民数記 15:1-21 15:1 主はモーセにこう告げられた。 15:2 「イスラエルの子らに告げよ。わたしがあなたがたに与えて住まわせる地にあなたがたが入り、 15:3 食物のささげ物を主に献げるとき、すなわち、特別な誓願を果たすためであれ、進んで献げるものとしてであれ、例祭としてであれ、牛か羊の群れから全焼のささげ物かいけにえをもって、主に芳ばしい香りを献げるとき、 15:4 そのささげ物をする者は、穀物のささげ物として、油四分の一ヒンを混ぜた小麦粉十分の一エパを、主に献げなければならない。 15:5 また全焼のささげ物、またはいけにえに添えて、子羊一匹のための注ぎのささげ物として、四分の一ヒンのぶどう酒を献げなければならない。 15:6 雄羊の場合には、穀物のささげ物として、油三分の一ヒンを混ぜた小麦粉十分の二エパを献げ、 15:7 さらに注ぎのささげ物として、ぶどう酒三分の一ヒンを献げなければならない。これは、主への芳ばしい香りである。 15:8 また、あなたが特別な誓願を果たすために、若い牛を全焼のささげ物、もしくはいけにえとする場合、あるいは交わりのいけにえとして主に献げる場合は、 15:9 その若い牛に添えて、油二分の一ヒンを混ぜた小麦粉十分の三エパの穀物のささげ物を献げ、 15:10 また注ぎのささげ物として、ぶどう酒二分の一ヒンを献げなければならない。これは主への食物のささげ物、芳ばしい香りである。 15:11 牛一頭、雄羊一匹、いかなる羊、やぎについても、このようにしなければならない。 15:12 あなたがたが献げる数に応じて、それらの数にしたがって、一頭、一匹ごとにこのようにしなければならない。 15:13 すべてこの国に生まれた者が、主への芳ばしい香りの、食物のささげ物を献げるには、このようにこれらのことを行わなければならない。 15:14 また、あなたがたのところに寄留している者、あるいは、あなたがたのうちに代々住んでいる者が、主への芳ばしい香りである、食物のささげ物を献げる場合には、あなたがたがするようにその人もしなければならない。 15:15 一つの集会として、掟はあなたがたにも、寄留している者にも同一であり、代々にわたる永遠の掟である。主の前には、あなたがたも寄留者も同じである。 15:16 あなたがたにも、あなたがたのところに寄留している者にも、同一のおしえ、同一のさばきが適用されなければならない。」 15:17 主はモーセにこう告げられた。 15:18 「イスラエルの子らに告げよ。わたしがあなたがたを導き入れようとする地にあなたがたが入り、 15:19 その地のパンを食べるようになったら、あなたがたは主に奉納物を献げなければならない。 15:20 初物の麦粉で作った輪形パンを奉納物として献げ、打ち場からの奉納物として献げなければならない。 15:21 初物の麦粉のうちから、あなたがたは代々にわたり、主に奉納物を献げなければならない。  料理を作るとき、特にベーカリーの分野では、計量とレシピが非常に重要です。少しでもレシピと違うと、味が大きく変わってしまったり、最悪の場合、まともに食べられない結果物ができてしまうこともあります。だからこそ、私たちはその料理を食べて喜んでくれる人たちを思い浮かべながら、心を込めて丁寧に作るのです。    今日の箇所では、神様がご自身にささげるいけにえの「レシピ」を教えてくださっています。そしてそのレシピ通りにささげられたささげものを、「芳ばしい香り」と表現されています。他の言い方にすれば、「喜ばしいもの」とも訳せます。    神様はご自身の民に、神様を喜ばせる方法を教えてくださったのです。イスラエルの民はこのレシピを通して、神様を喜ばせる礼拝、神様にとって芳ばしいささげものを捧げることができました。彼らのささげものは、自分たちのためのものではありませんでした。神様のためのものであり、神様を喜ばせるためのものであり、同時にそれが彼ら自身にとっても良いものだと知っていました。  このようなレシピは、旧約時代のイスラエルの民だけでなく、私たちにも与えられています。神様は、神様が喜ばれる礼拝の「レシピ」を私たちにも教えてくださいました。私たちはそのレシピに従って、神様を喜ばせる礼拝を捧げなければならないのです。なぜなら、礼拝の中心は、私たちではなく、神様であるからです。  また、神様を喜ばせる礼拝を、日曜日に、教会で行われる礼拝だけとして理解してはいけません。神様は、私たちのすべての日常が、神様にささげられる芳ばしいささげものであると言われました。私たちは毎瞬間、神様を喜ばせるための礼拝を捧げているのです。  食べる人のことを考えず、自分だけを考えて作った料理には、心が込められていません。しかし、食べる人のことを心から思って作る料理には、自然と心が込められ、その気持ちが料理に現れます。それと同じように、私たちの礼拝もそうです。  もし礼拝が「自分のための時間」になってしまうのなら、その礼拝には心が込められません。神様のことを思い、神様を喜ばせるための礼拝であることをきちんと認識し、神様のために礼拝を捧げるならば、そこには心が込められ、丁寧さが込められるはずです。神様が教えてくださったレシピを忠実に守り、最も良いものをささげようと努力するようになるのです。 https://youtu.be/VX9bvWtj4v8?si=OdMYTAx-96eLQ_L0

민수기 묵상 【하나님의 레시피】 20250425(금) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

민수기 15:1-21 15:1 여호와께서 모세에게 말씀하여 이르시되 15:2 이스라엘 자손에게 말하여 그들에게 이르라 너희는 내가 주어 살게 할 땅에 들어가서 15:3 여호와께 화제나 번제나 서원을 갚는 제사나 낙헌제나 정한 절기제에 소나 양을 여호와께 향기롭게 드릴 때에 15:4 그러한 헌물을 드리는 자는 고운 가루 십분의 일에 기름 사분의 일 힌을 섞어 여호와께 소제로 드릴 것이며 15:5…

民数記 黙想 【遅れた従順は不従順】 20250424(木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

民数記 14:39~45 14:39 モーセがこれらのことばを、すべてのイスラエルの子らに告げると、民は嘆き悲しんだ。 14:40 翌朝早く、彼らは山地の峰の方に上って行こうとして言った。「われわれはここにいるが、とにかく主が言われた場所へ上って行ってみよう。われわれは罪を犯してしまったのだ。」 14:41 モーセは言った。「あなたがたはいったいなぜ、主の命令を破ろうとするのか。それは成功しない。 14:42 上って行ってはならない。主があなたがたのうちにおられないのだから。あなたがたは敵に打ち負かされてはならない。 14:43 そこには、あなたがたの前にアマレク人とカナン人がいて、あなたがたは剣で倒される。あなたがたが主に背いたから、主はあなたがたとともにはおられない。」 14:44 しかし、彼らはかまわずに山地の峰の方に上って行った。主の契約の箱とモーセは、宿営の中から動かなかった。 14:45 山地に住んでいたアマレク人とカナン人は、下って来て彼らを討ち、ホルマまで彼らを追い散らした。 神様の裁きの宣言を聞いたイスラエルの民は、急に悲しみ始め、今さらながらカナンの地へ上ろうと言い出します。しかしそれは、すでに従順とは言えません。罰が恐ろしくてそれを免れようとするのは、従順ではありません。従順にも“時”があります。神様が望まれるのは、他の選択肢があっても、神の御心を選ぶという人格的な従順です。従順は、裁きの恐怖の中でなされるものではなく、日常の中で人格的な対話と交わりの中でなされるべきものです。日常の人格を失い、卑怯な暴力や不信の扇動に翻弄されたとき、彼らはすでに従順の機会を失っていたのです。 彼らは神様の怒りと懲らしめを聞いて悲しんだとあります。しかしその悲しみも、自分自身のための悲しみです。悲しんだというのは、責任感からではなく、結果への恐れからでした。悔い改めとは、結果を恐れる感情ではなく、罪そのものを悲しむ態度です。民は失敗を挽回するための苦肉の策として、今からでもカナンに上ろうと言いました。モーセは、神様が共におられず、必ず敗れるから上ってはならないと警告します。しかし民はまたもやその警告を無視し、山地へと上って行き、アマレク人とカナン人に敗れて命を落としました。契約の箱は共に上りませんでした。御言葉が上らなかったのならば、彼らも止まるべきだったのです。 カナンに向かう道は同じ道です。神様が命じられたときに従って進んでいたならば、神が共におられたので、約束の地を得ることができたはずです。しかし、「上れ」と言われたときには興奮して拒み、「上るな」と言われたときにはあえて上って敗れました。ヘブライ人への手紙3章15節にはこうあります。「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない。」これは詩篇95篇の引用であり、その背景は出エジプトの荒野での不従順です。信仰は二つのことだけで十分に成り立ちます。それは、神様の御声を聞くこと、そしてその御声に従うことです。私たちが努力すべきなのは、この二つの力を養うことです。そして、結果は神様の中にあります。