民数記 黙想 【断られる道】 20250507(水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

民数記 20:14~21 20:14 さて、モーセはカデシュからエドムの王のもとに使者たちを遣わして言った。「あなたの兄弟、イスラエルはこう申します。あなたは私たちに降りかかったすべての困難をご存じです。 20:15 私たちの先祖はエジプトに下り、私たちはエジプトに長年住んでいました。しかしエジプトは私たちや先祖を虐待しました。 20:16 私たちが主に叫ぶと、主は私たちの声を聞いて、一人の御使いを遣わし、私たちをエジプトから導き出されました。今、私たちはあなたの領土の境界にある町、カデシュにおります。 20:17 どうか、あなたの土地を通らせてください。私たちは、畑もぶどう畑も通りません。井戸の水も飲みません。私たちは『王の道』を行き、あなたの領土を通過するまでは、右にも左にもそれません。」 20:18 しかし、エドムはモーセに言った。「私のところを通ってはならない。通るなら、私は剣をもっておまえを迎え撃つ。」 20:19 イスラエルの子らはエドムに言った。「私たちは大路を上って行きます。私たちと私たちの家畜があなたの水を飲むことがあれば、その代価を払います。歩いて通り過ぎるだけですから、何事でもないでしょう。」 20:20 しかし、エドムは、「通ってはならない」と言って、強力な大軍勢を率いて彼らを迎え撃つために出て来た。 20:21 こうして、エドムはイスラエルにその領土を通らせることを拒んだので、イスラエルは彼のところから向きを変えた。   モーセはカデシュで渇きに苦しむ民のために水を出さなければなりませんでした。神様の命令では、岩に向かって語るだけでよかったのですが、モーセは不平を言う民に対する怒りを抑えきれず、岩を二度打ち叩いてしまいました。この出来事をきっかけに、神様はモーセがカナンの地に入ることはできないと宣言されました。モーセはまさに神様の預言者であり、代理人でした。民の前に神様の聖さと御心を表す存在であったのです。神様は、モーセがご自身の聖さを表せなかったことに対して、その責任を問われたのです。 怒りの感情を制することが重要な教訓であるのは言うまでもありません。しかし私は、モーセの立場に立って弁護したくなります。彼がどれほど多くを耐えてきたかを知っているからです。民はまるで蚊の群れのように執拗にモーセを責め立てました。モーセはエジプトの王子であった時代から短気で、エジプト人を打ち殺したこともあります。出エジプト後、荒野の中で彼は何度も感情を爆発させました。モーセとはそういう人だったのです。私たちは、時が経ち、訓練を積めば彼は柔和になったと期待しますが、私たち自身がそうでないように、モーセも完全に変わることはなかったのです。モーセを低く見るつもりはありません。むしろ、変わったと言い切る人の言葉を私は信じません。 ある牧師が自分を神様の代理人、そして他の誰とも共有しない「主のしもべ」と呼ぶならば、その真偽を問わず、彼は神様のすべてを反映する鏡のような立場に立たざるを得ません。それが善意であれ、悪意であれ、知らずにであれ、彼の言葉、態度、感情は神様を映し出す反射面となります。権威を主張するならば、責任も免れられません。そして、そのような指導者に教育された人々は、彼を通して神様の力、公義、慈しみ、忍耐、愛を期待するのです。しかし、その期待は時に指導者を神格化し、また時には失望と怒りをもたらして共同体を傷つけることになります。鏡が著しく歪められたならば、神様はその鏡を砕かれることもあります。そしてその破片は共同体を刺し、血を流させるのです。 反対側もまた反省すべきです。民もモーセに対する態度において節度と尊重が必要でした。指導者に多くの責任が求められるのは当然のことですが、尊敬なしに不平と非難だけがあったとすれば、モーセの爆発は時間の問題だったのです。もし民が神様を恐れる心を持ち、モーセを敬う態度で接していたならば、モーセもその瞬間の感情を抑えることができたかもしれません。モーセ自身もまた「神の聖さを表さねばならない」という強迫観念ではなく、民をより深く愛し、敬意を持って包み込んでいたならば、結果は変わっていたかもしれません。互いの責任の中で神の聖さをともに反映するべきだったのです。すべてのクリスチャンは、神の聖さをこの世に映し出す存在として召された聖徒です。信仰とは、完全さに到達した状態ではなく、不完全さの中を共に歩む旅路です。 驚くべきことに、その旅路の果てにおいて神様はモーセを「モーセという人は、地の上のだれにもまさって柔和であった。民数記12:3」。これは、モーセが感情を完全に制御できたという意味ではありません。挫折と失敗、怒りと後悔がありましたが、彼は神様を見失わず、信仰を貫いた人だったのです。神様の基準における「柔和」とは、感情を抑圧し切ることではなく、神の重い使命を担いながらもそれに耐え続けた魂の向きであると言えるでしょう。本日の本文から私たちが受け取るべき教訓は、「怒れば裁かれる」という非現実的な要求ではありません。むしろ、神を畏れる心と、互いに対する敬意と尊重の現実的な配慮の中で、共同体と使命が守られるのだということなのです。

민수기 묵상 【거절의 길】 20250507(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

민수기 20:14~21 20:14 모세가 가데스에서 에돔 왕에게 사자를 보내며 이르되 당신의 형제 이스라엘의 말에 우리의 당한 모든 고난을 당신도 아시거니와 20:15 우리 열조가 애굽으로 내려갔으므로 우리가 애굽에 오래 거하였더니 애굽인이 우리 열조와 우리를 학대하였으므로 20:16 우리가 여호와께 부르짖었더니 우리 소리를 들으시고 천사를 보내사 우리를 애굽에서 인도하여 내셨나이다 이제 우리가 당신의 변방 모퉁이 한 성읍 가데스에…

민수기 묵상 【분노와 거룩 사이】 20250506(화) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

민수기 20:1~13 20:1 정월에 이스라엘 자손 곧 온 회중이 신 광야에 이르러서 백성이 가데스에 거하더니 미리암이 거기서 죽으매 거기 장사하니라 20:2 회중이 물이 없으므로 모여서 모세와 아론을 공박하니라 20:3 백성이 모세와 다투어 말하여 가로되 우리 형제들이 여호와 앞에서 죽을 때에 우리도 죽었더면 좋을 뻔 하였도다 20:4 너희가 어찌하여 여호와의 총회를 이 광야로 인도하여 올려서 우리와…

民数記 黙想 【怒りと聖さのはざまで】 20250506(火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

民数記 20:1~13 20:1 イスラエルの全会衆は、第一の月にツィンの荒野に入った。民はカデシュにとどまった。ミリアムはそこで死んで葬られた。 20:2 そこには、会衆のための水がなかった。彼らは集まってモーセとアロンに逆らった。 20:3  民はモーセと争って言った。「ああ、われわれの兄弟たちが主の前で死んだとき、われわれも死んでいたらよかったのに。 20:4 なぜ、あなたがたは主の集会をこの荒野に引き入れ、われわれと、われわれの家畜をここで死なせようとするのか。 20:5 なぜ、あなたがたはわれわれをエジプトから連れ上り、このひどい場所に引き入れたのか。ここは穀物も、いちじくも、ぶどうも、ざくろも育つような場所ではない。そのうえ、飲み水さえない。」 20:6 モーセとアロンは集会の前から去り、会見の天幕の入り口にやって来て、ひれ伏した。すると主の栄光が彼らに現れた。 20:7 主はモーセに告げられた。 20:8 「杖を取れ。あなたとあなたの兄弟アロンは、会衆を集めよ。あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す。彼らのために岩から水を出して、会衆とその家畜に飲ませよ。」 20:9 そこでモーセは、主が彼に命じられたとおりに、主の前から杖を取った。 20:10 モーセとアロンは岩の前に集会を召集し、彼らに言った。「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から、われわれがあなたがたのために水を出さなければならないのか。」 20:11 モーセは手を上げ、彼の杖で岩を二度打った。すると、豊かな水が湧き出たので、会衆もその家畜も飲んだ。 20:12 しかし、主はモーセとアロンに言われた。「あなたがたはわたしを信頼せず、イスラエルの子らの見ている前でわたしが聖であることを現さなかった。それゆえ、あなたがたはこの集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。」 20:13 これがメリバの水である。イスラエルの子らが主と争った場所であり、主はご自分が聖であることを彼らのうちに示されたのである。   モーセはカデシュで渇きに苦しむ民のために水を出さなければなりませんでした。神様の命令では、岩に向かって語るだけでよかったのですが、モーセは不平を言う民に対する怒りを抑えきれず、岩を二度打ち叩いてしまいました。この出来事をきっかけに、神様はモーセがカナンの地に入ることはできないと宣言されました。モーセはまさに神様の預言者であり、代理人でした。民の前に神様の聖さと御心を表す存在であったのです。神様は、モーセがご自身の聖さを表せなかったことに対して、その責任を問われたのです。 怒りの感情を制することが重要な教訓であるのは言うまでもありません。しかし私は、モーセの立場に立って弁護したくなります。彼がどれほど多くを耐えてきたかを知っているからです。民はまるで蚊の群れのように執拗にモーセを責め立てました。モーセはエジプトの王子であった時代から短気で、エジプト人を打ち殺したこともあります。出エジプト後、荒野の中で彼は何度も感情を爆発させました。モーセとはそういう人だったのです。私たちは、時が経ち、訓練を積めば彼は柔和になったと期待しますが、私たち自身がそうでないように、モーセも完全に変わることはなかったのです。モーセを低く見るつもりはありません。むしろ、変わったと言い切る人の言葉を私は信じません。 ある牧師が自分を神様の代理人、そして他の誰とも共有しない「主のしもべ」と呼ぶならば、その真偽を問わず、彼は神様のすべてを反映する鏡のような立場に立たざるを得ません。それが善意であれ、悪意であれ、知らずにであれ、彼の言葉、態度、感情は神様を映し出す反射面となります。権威を主張するならば、責任も免れられません。そして、そのような指導者に教育された人々は、彼を通して神様の力、公義、慈しみ、忍耐、愛を期待するのです。しかし、その期待は時に指導者を神格化し、また時には失望と怒りをもたらして共同体を傷つけることになります。鏡が著しく歪められたならば、神様はその鏡を砕かれることもあります。そしてその破片は共同体を刺し、血を流させるのです。 反対側もまた反省すべきです。民もモーセに対する態度において節度と尊重が必要でした。指導者に多くの責任が求められるのは当然のことですが、尊敬なしに不平と非難だけがあったとすれば、モーセの爆発は時間の問題だったのです。もし民が神様を恐れる心を持ち、モーセを敬う態度で接していたならば、モーセもその瞬間の感情を抑えることができたかもしれません。モーセ自身もまた「神の聖さを表さねばならない」という強迫観念ではなく、民をより深く愛し、敬意を持って包み込んでいたならば、結果は変わっていたかもしれません。互いの責任の中で神の聖さをともに反映するべきだったのです。すべてのクリスチャンは、神の聖さをこの世に映し出す存在として召された聖徒です。信仰とは、完全さに到達した状態ではなく、不完全さの中を共に歩む旅路です。 驚くべきことに、その旅路の果てにおいて神様はモーセを「モーセという人は、地の上のだれにもまさって柔和であった。民数記12:3」。これは、モーセが感情を完全に制御できたという意味ではありません。挫折と失敗、怒りと後悔がありましたが、彼は神様を見失わず、信仰を貫いた人だったのです。神様の基準における「柔和」とは、感情を抑圧し切ることではなく、神の重い使命を担いながらもそれに耐え続けた魂の向きであると言えるでしょう。本日の本文から私たちが受け取るべき教訓は、「怒れば裁かれる」という非現実的な要求ではありません。むしろ、神を畏れる心と、互いに対する敬意と尊重の現実的な配慮の中で、共同体と使命が守られるのだということなのです。

민수기 QT에세이 【죽음에 닿은 사람들】 20250505(월) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

민수기 19:11~22 19:11 사람의 시체를 만진 자는 칠 일을 부정하리니 19:12 그는 제 삼 일과 제 칠 일에 이 잿물로 스스로 정결케 할 것이라 그리하면 정하려니와 제 삼 일과 제 칠 일에 스스로 정결케 아니하면 그냥 부정하니 19:13 누구든지 죽은 사람의 시체를 만지고 스스로 정결케 아니하는 자는 여호와의 성막을 더럽힘이라 그가 이스라엘에서 끊쳐질 것은 정결케…

民数記 QTエッセイ 【死に触れた人々】 20250505(月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

民数記 19:11~22 19:11 死人に触れる者は、それがどの人のものであれ、七日間汚れる。 19:12 その者は三日目と七日目に、先の水で身の汚れを除いて、きよくなる。三日目と七日目に身の汚れを除かなければ、きよくならない。 19:13 死人、すなわち死んだ人間のたましいに触れ、身の汚れを除かない者はみな、主の幕屋を汚す。その者はイスラエルから断ち切られる。その者は汚れを除く水を振りかけられていないので汚れていて、その者の中になお汚れがあるからである。 19:14 人が天幕の中で死んだ場合のおしえは次のとおりである。その天幕に入る者と、天幕の中にいる者はみな、七日間汚れる。 19:15 ふたをしていない口の開いた器もみな、汚れる。 19:16 また、野外で、剣で刺し殺された者、死人、人の骨、墓に触れる者はみな、七日間汚れる。 19:17 この汚れた者のためには、罪のきよめのために焼いて作った灰を取り、器に入れ、それに新鮮な水を加える。 19:18 きよい人がヒソプを取ってこの水に浸し、それを天幕に、すべての器の上に、そこにいた者の上に、また骨、刺し殺された者、死人、墓に触れた者の上にかける。 19:19 そのきよい人が、それを汚れた者に三日目と七日目に振りかけ、七日目にその人の汚れを除くことになる。その人は衣服を洗い、水を浴びる。その人は夕方にはきよくなる。 19:20 汚れた者が身の汚れを除かなければ、その人は集会の中から断ち切られる。主の聖所を汚したからである。汚れを除く水がその人に振りかけられなかったので、その人は汚れている。 19:21 これは彼らに対する永遠の掟となる。汚れを除く水をかけた者は、その衣服を洗わなければならない。汚れを除く水に触れた者は夕方まで汚れる。 19:22 汚れた者が触れるものは、すべて汚れる。それに触れた者も夕方まで汚れる。」   死の現実を前にして、人はその喪失に悲しみながらも、同時に死体の腐敗を恐れる。人の肉体は死ぬとすぐに腐敗が始まり、分解されていく。冷凍や防腐処理をしなければ、一日も持たずに腐り始める。冷凍技術がなかった時代、人々は納棺の儀式を通して葬儀の期間中に腐敗を遅らせ、衣を着替えさせ、火葬し、埋葬する手続きを守っていた。それは荘厳な儀式のように見えながらも、同時に死者の肉体を迅速に処理して、生者を守ろうとする生存のためのシステムでもあった。葬儀とは、生きていた者への哀悼であると同時に、すでに死んだ者を隔離する処理の過程でもある。人は死を悲しむが、生者が死と共に生きることはできないのだ。 本文は、死体に触れた者は汚れており、神様との断絶状態にあると断固として宣言する。死体に触れることは確かに危険な行為だが、それは単なる衛生上の問題にとどまる話ではない。これは霊的状態を象徴する比喩である。民数記の律法は、「死体」という死の象徴を物語の中に意図的に取り込んでいるのだ。死体とは、生物学的な死の結果ではなく、罪の結果である。死という状態は、すなわち神様との断絶にほかならない。民数記19章の律法は、死んだ人間の腐っていく遺体を生きている人間の前に突きつけ、死を免れ得ない存在としての限界と絶望を告発する神学的パフォーマンスなのである。その実存を赤裸々に直視した者であれば、吐き気を覚えたに違いない。 しかし、律法はその断絶を終わりとしては語らない。むしろ、回復の可能性を残している。死は避けられないが、その死との接触によって汚れてしまった者が、再び清くされる道が示されている。その道は、人間の努力や決意によるものではなく、ただ神様が定めた方法によってのみ可能なのだ。第三者、すなわち「清い者」が、赤い雌牛の灰を流れる水に混ぜて、それを汚れた者に注がなければならない。私でもなく、あなたでもなく、「彼」でなければならないのだ。彼の死は、死を打ち破った死である。墓から復活したとき、亜麻布は整えられたままであり、彼の肉体は腐敗しなかった。彼こそが、清めを行う神様の方法そのものであり、私たちのもとに来られたのだ。死と死体、罪と滅びの実体を正直に直視する者だけが、彼が清めの枠組みの中に入られて「すべてを成し遂げた」と言われた、その福音の重さと深さを感じ取ることができる。再び、自分自身について、そして恵みについて、告白せずにはいられない。

民数記 黙想 【アロンの杖】 20250501(木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

民数記 17:1~13 17:1 主はモーセに告げられた。 17:2 「イスラエルの子らに告げ、彼らから杖を、部族ごとに一本ずつ、彼らの部族のすべての族長から十二本の杖を取れ。その杖に各自の名を書き記さなければならない。 17:3 レビの杖にはアロンの名を書き記さなければならない。彼らの部族のかしらにそれぞれ一本の杖とするからだ。 17:4 あなたはそれらを、会見の天幕の中の、わたしがそこであなたがたに会うあかしの箱の前に置け。 17:5 わたしが選ぶ人の杖は芽を出す。こうしてわたしは、イスラエルの子らがあなたがたに向かって言い立てている不平を、わたし自身から遠ざけ、鎮める。」 17:6 モーセがイスラエルの子らにこのように告げたので、彼らの族長たちはみな、部族ごとに、族長一人に一本ずつの杖、十二本を彼に渡した。アロンの杖も彼らの杖の中にあった。 17:7 モーセはそれらの杖を、主の前、すなわちあかしの天幕の中に置いた。 17:8 その翌日、モーセはあかしの天幕に入って行った。すると見よ。レビの家のためのアロンの杖が芽を出し、つぼみをつけ、花を咲かせて、アーモンドの実を結んでいた。 17:9 モーセがそれらの杖をみな、主の前からすべてのイスラエルの子らのところに持って来たので、彼らは見て、それぞれ自分の杖を取った。 17:10 主はモーセに言われた。「アロンの杖をあかしの箱の前に戻して、逆らう者たちへの戒めのために、しるしとせよ。彼らの不平をわたしから全くなくせ。彼らが死ぬことのないようにするためである。」 17:11 モーセはそのようにした。主が命じられたとおりにしたのである。 17:12 しかし、イスラエルの子らはモーセに言った。「ああ、われわれは死んでしまう。われわれは滅びる。全員が滅びるのだ。 17:13 すべて近づく者、 主の幕屋に近づく者が死ななければならないとは。ああ、われわれはみな、死に絶えなければならないのか。」   神様は、アロンの杖に芽と実がなるという奇跡を通して、アロンこそが神様に近づく唯一の仲保者であることを確証されました。これは神様の任命権と聖なる秩序を明らかにすると同時に、民が神様に近づくための恵みの通路を示す啓示でした。神様がアロンを立てられた目的は、人々の接近を拒むためではなく、定められた秩序の中で神様へと近づかせるための招きだったのです。 しかし、いつの時代も人間はその恵みを正しく理解できず、誤解してしまいます。彼らは、うわさや聞きかじりの言葉に振り回され、「神に近づくことは死を意味する」と思い込み、「自分たちは滅びるしかない」と嘆きました。神様の招きを、裁きと誤って解釈してしまったのです。彼らは、すべての部族の杖に「成績順」に芽が出るとでも思っていたのでしょう。福音を信じる人よりも、自分中心の偏見を信仰として掲げる人の方が常に多いのです。 人間の本性の中に根深く潜む、この自分中心の歪みを私たちは「罪」と呼びます。問題は、この罪の唯一の解決であるはずの神の恵み、すなわち福音さえも、その自己中心性によってねじ曲げられてしまうことです。そのねじれは律法主義、道徳主義、功績主義などの形で表れます。信仰をただの規則や義務に還元し、善行で自分を正当化し、熱心な活動によって神の承認を得ようとします。しかしそれは敬虔ではなく、むしろ福音に敵対する「宗教の退行」なのです。 聖化を誤って理解すると、この問題はさらに深刻になります。肉体をもつ人間は常に自分に失望し、ついには宗教的罪悪感と自己検閲によって自分自身を縛ってしまいます。現代社会においては、その罪悪感を利用して人を支配しようとする宗教が、福音よりも幅を利かせています。人々は神の招待状を、まるで捜査令状や逮捕状のように受け取るのです。神様はアロンを通して道を開いてくださったのに、民の目にはそれが見えませんでした。今、十字架が至るところにあっても、自分自身に正直でなければ、福音の真理には気づけないのです。 悔い改めとは、繰り返された行動への反省ではなく、自分の存在そのものの発見であり、告発です。肉体に打ち勝ったなどという愚かな自己欺瞞の証しを信じてはなりません。そういう人たちは、肉体の本質も、福音の真理も知らないのです。彼らはただ、人が集まる仕組みだけを知っているにすぎません。敬虔な肉体が神に近づくのではありません。アロンの杖に芽が出たように、挫折し、絶望した肉体こそが、ただイエス・キリストにより頼み、神の御前に出ることができるのです。それこそが福音なのです。

민수기 묵상 【아론의 지팡이】 20250501(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

민수기 17:1~13 17:1 여호와께서 모세에게 일러 가라사대 17:2 너는 이스라엘 자손에게 고하여 그들 중에서 각 종족을 따라 지팡이 하나씩 취하되 곧 그들의 종족대로 그 모든 족장에게서 지팡이 열 둘을 취하고 그 사람들의 이름을 각각 그 지팡이에 쓰되 17:3 레위의 지팡이에는 아론의 이름을 쓰라 이는 그들의 종족의 각 두령이 지팡이 하나씩 있어야 할 것임이니라 17:4 그…

民数記 QT エッセイ 【死んだ者たちと生きている者たちとの間に立つ】 20250430(水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

民数記 16:36~50 16:36 主はモーセに告げられた。 16:37 「あなたは、祭司アロンの子エルアザルに命じて、炎の中から火皿を取り出し、火を遠くにまき散らさせよ。それらは聖なるものとなっているから。 16:38 いのちを失うことになったこれらの罪人たちの火皿は、打ちたたいて延べ板とし、祭壇のためのかぶせ物とせよ。それらは、主の前に献げられたので、聖なるものとなっているからである。これらはイスラエルの子らに対するしるしとなる。」 16:39 そこで祭司エルアザルは、焼き殺された者たちが献げた青銅の火皿を取り、それを打ち延ばして祭壇のためのかぶせ物とし、 16:40 そのことがイスラエルの子らに覚えられるようにした。これは、アロンの子孫以外の資格のない者が、主の前に進み出て香をたくことのないようにするため、その人が、コラやその仲間のような目にあわないようにするためである。主がモーセを通してエルアザルに言われたとおりである。 16:41 その翌日、イスラエルの全会衆は、モーセとアロンに向かって不平を言った。「あなたがたは主の民を殺した。」 16:42 会衆がモーセとアロンに逆らって結集したとき、二人が会見の天幕の方を振り向くと、見よ、雲がそれをおおい、主の栄光が現れた。 16:43 モーセとアロンは会見の天幕の前に来た。 16:44 主はモーセに告げられた。 16:45 「あなたがたはこの会衆から離れ去れ。わたしはこの者どもをたちどころに絶ち滅ぼす。」二人はひれ伏した。 16:46 モーセはアロンに言った。「火皿を取り、祭壇から火を取ってそれに入れ、その上に香を盛りなさい。そして急いで会衆のところへ持って行き、彼らのために宥めを行いなさい。主の前から激しい御怒りが出て来て、神からの罰がもう始まっている。」 16:47 モーセが命じたとおり、アロンが火皿を取って集会のただ中に走って行くと、見よ、神の罰はすでに民のうちに始まっていた。彼は香をたいて、民のために宥めを行った。 16:48 彼が死んだ者たちと生きている者たちとの間に立ったとき、主の罰は終わった。 16:49 コラの事件で死んだ者とは別に、この主の罰で死んだ者は、一万四千七百人であった。 16:50 アロンが会見の天幕の入り口にいるモーセのところへ戻ったときに、主の罰は終わっていた。   神はコラの反逆を裁かれましたが、民はなおもモーセとアロンを恨んでいました。彼らには、いったい何が起こっているのか、まだ理解できていなかったのです。民はコラの死の理由と意味を解釈しようとせず、モーセを責め、その論理に確信を持ち、敵意を燃やしました。世論と群衆心理に飲み込まれた人々はざわめき、囁き合いながら不満と陰謀を広めていきました。真実が何であるかも知らず、扇動され歪められた人々は、なおも憎しみと怒りに満ちていたのです。しかし生き残った者たちは、コラ一派の死の理由を思い巡らすべきだったでしょう。民数記16章の世界は、欺瞞と誤解、憎悪と怒声によって血に塗れた世界でした。 「リトリートセンター・伊東」で一夜を過ごしてきました。東京とは違う自然の中で、普段よりゆったりとした朝の時間を持ちました。同行者たちは口を揃えて、スローなテンポとぼんやりする時間の有益さを讃えました。リトリートセンターの庭では、竹の子が雨後の筍のように天を目指して伸びており、夕方には空から静かに雨が降ってきました。鉄格子の外を憧れる囚人のように、窓に張り付き、竹林が雨に濡れていく「雨ぼんやり」の時間を味わいました。混沌とした世のエンジンをひととき停止させる時間、それは魂のエンジンが回り出す時間なのです。ハイデガーは、「存在するものたち」によって「存在すること」を忘れてしまうと指摘しました。誰もが利益を見つければ目を凝らします。しかし、「火を見つめ」「雨を見つめる」時間には、焦点をぼかします。だからこそ、魂に焦点を合わせることができるのです。 スマートフォンからは、忘れた頃に刃と汚泥が飛び出してきます。一時的にでも電源を切る勇気がなければ、自分の魂のために時間を捧げる勇気など持てないでしょう。リトリートセンターの寝室の枕元では、一晩中、温泉水がチョロチョロと流れる音がしていました。穏やかで一定のリズムでした。私たちが開けておいた流し温泉のせいでしょう。村上春樹の小説『ノルウェイの森』で、主人公ワタナベが友人の死をきっかけに生と死を思い悩んだとき、聞こえていた小川のせせらぎのように——私が聞いたその水音にも、意味を付与したくなりました。流されるようにではなく、流れるように生きていける気がして、ほっとしたのです。朝には決まって鳥たちが窓辺でさえずっていましたが、あえて聞こえないふりをして、一日ぐらいは寝坊を楽しむ怠惰も特別な慰めとなりました。ゴロゴロしながら、そのありのままの自然の音で耳を清めるべきなのです。雨上がりの空を見上げながら、それでもこの世界は生きるに値し、神の御国は美しいと、改めて宣言しなければなりませんでした。 心に余裕を持てなかった民数記16章の人々、信念もなく翻弄され、責任も持たずに他人を責める世の中に、再び神の怒りが下りました。民は疫病によって次々に死んでいきました。死の思考が伝染するこの世界で、誰が公義によって裁かれる神を責めることができるでしょうか。人間は最後まで自分を省みることなく、悔い改めることもありませんでした。本質的に、人間は悔い改めにおいて無能なのです。彼らの運命はモーセの心にかかっていました。モーセとアロンは、民に憎まれた被害者でした。心の中はぐちゃぐちゃだったことでしょう。それゆえ、彼らを苦しめた者たちが疫病で倒れていくのを、腕組みして見下ろしたくなかったでしょうか。神に「もっと滅ぼしてください」と願いたくなかったでしょうか。しかし、モーセがモーセである理由がそこにあります。傷ついたモーセが急いでアロンに贖罪を指示すると、傷ついたアロンは、まるで007作戦のように急いで香炉を手に取り、自分を傷つけた民のために贖罪のいけにえを捧げたのです。 こうして、民は救われました。その災いを食い止めることができた唯一の方法は、代わりに謝罪し、赦しを乞う贖罪だけでした。神が民を赦される仕組みは、実に人間的でありすぎるほど人間的なものでした。神の憐れみと愛を反映する人間の愛と憐れみがなければ、代わりに責任を引き受ける執り成しの犠牲がなければ、贖罪は起こりませんでした。使徒信条で「かしこより来たりて、生ける者と死せる者とを審きたまわん」と告白するとき、その裁きを免れる唯一の道は、続く使徒信条の中にある贖罪の恵みの告白にあります。生ける者と死せる者の間に立って執り成すことのできた贖罪こそが、人を人たらしめ、社会を人が生きるに値する場所にしたのです。モーセとアロンも心身ともに疲弊していたでしょう。そんな彼らが贖罪に駆け出したのは、他人の痛みに共感したからでしょうか。それとも、神の御心に共感したからでしょうか。

민수기 QT 에세이 【살아 있는 자와 죽은 자 사이에서】 20250430(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

민수기 16:36~50 16:36 여호와께서 모세에게 일러 가라사대 16:37 너는 제사장 아론의 아들 엘르아살을 명하여 붙는 불 가운데서 향로를 취하여다가 그 불을 타처에 쏟으라 그 향로는 거룩함이니라 16:38 사람들은 범죄하여 그 생명을 스스로 해하였거니와 그들이 향로를 여호와 앞에 드렸으므로 그 향로가 거룩하게 되었나니 그 향로를 쳐서 제단을 싸는 편철을 만들라 이스라엘 자손에게 표가 되리라 하신지라 16:39…