요한복음 묵상 【그 이름을 믿는 자】 20250102(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

요한복음 1:9~18 1:9 참빛 곧 세상에 와서 각 사람에게 비취는 빛이 있었나니 1:10 그가 세상에 계셨으며 세상은 그로 말미암아 지은바 되었으되 세상이 그를 알지 못하였고 1:11 자기 땅에 오매 자기 백성이 영접지 아니하였으나 1:12 영접하는 자 곧 그 이름을 믿는 자들에게는 하나님의 자녀가 되는 권세를 주셨으니 1:13 이는 혈통으로나 육정으로나 사람의 뜻으로 나지 아니하고 오직…

ヨハネによる福音書 黙想 【その名を信じた人々】 20250102(木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ヨハネによる福音書 1:9~18 1:9 すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。 1:10 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。 1:11 この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。 1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。 1:13 この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。 1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。 1:15 ヨハネはこの方について証しして、こう叫んだ。「『私の後に来られる方は、私にまさる方です。私より先におられたからです』と私が言ったのは、この方のことです。」 1:16 私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。 1:17 律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。 1:18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。   創造、受肉、十字架、復活はすべて神が直接行われたことです。そして、再臨も神ご自身が直接なさることでしょう。しかし、人間はそれを知りませんでした。そして、今もなお知ることができていません。神はこの問題を解決するために、直接被造物の一員としてこの世界に来られましたが、人々は依然としてそれを理解していません。神は誰もが否定できない神的な権能をもって現れたのではありませんでした。言葉をもって真理を伝えられ、それを聞いて信じる者にのみ、救いの権利を与えられたのです。神が決して介入せずに人間に委ねられた唯一の領域は「信仰」です。受け入れる者、すなわちその御名を信じる信仰です。救いのために人間が果たすべき役割はそれだけです。 その御名を信じ受け入れるためには、まず自分自身を認める必要があります。この世界をすべて理解できない不完全な被造物である自分の本質を認識しなければなりません。神が人となられた受肉という出来事を信じるかどうかに関わらず、自分は神になれないということを認めるべきです。どのような手段を尽くしても、自分の罪を自分で解決することはできないこと、また、自分で死を克服することはできないという、明確でありながら厳しい現実を認識することが、御名を信じ受け入れる者となるための第一歩です。神を信じないのは、結局のところ、自分自身を正しく認識していないからなのです。 「この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。1:13」 この御言葉は、ユダヤ人の伝統的な救済観を解体し、救いの対象を再構築するものです。救いはユダヤ人の血統に基づくものではありません。社会的あるいは宗教的な所属でもありません。人間の意思によるものでもありません。救いはただ神の招きから始まるのです。 神の予定と人間の意思という長年の議論は、単純な二元論では解決できない問題です。神が選び、招かれるとき、人間は応答します。しかし、その応答さえも神の計画と摂理、すなわち予定の中に含まれているのです。人間は予定を測り知ることはできませんが、信仰の意思を通して神の予定の一部となるのです。アウグスティヌスは次のように述べています。「すべてが神にかかっているかのように祈りなさい。そして、すべてがあなたにかかっているかのように行動しなさい。」この言葉は、神の主権と人間の信仰意思を説明したものです。知性、感情、意思を通じて、「この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々12」が、すなわち「ただ、神によって生まれた者13」なのです。

요한복음 묵상 【태초에 말씀이 계시니라】 20250101(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

요한복음 1:1~8 1:1 태초에 말씀이 계시니라 이 말씀이 하나님과 함께 계셨으니 이 말씀은 곧 하나님이시니라 1:2 그가 태초에 하나님과 함께 계셨고 1:3 만물이 그로 말미암아 지은바 되었으니 지은 것이 하나도 그가 없이는 된 것이 없느니라 1:4 그 안에 생명이 있었으니 이 생명은 사람들의 빛이라 1:5 빛이 어두움에 비취되 어두움이 깨닫지 못하더라 1:6 하나님께로서 보내심을 받은…

ヨハネによる福音書 黙想 【初めにことばがあった】 20250101(水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ヨハネによる福音書 1:1~8 1:1 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。 1:2 この方は、初めに神とともにおられた。 1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。 1:4 この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。 1:5 光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。 1:6 神から遣わされた一人の人が現れた。その名はヨハネであった。 1:7 この人は証しのために来た。光について証しするためであり、彼によってすべての人が信じるためであった。 1:8 彼は光ではなかった。ただ光について証しするために来たのである。     ヨハネによる福音書の冒頭は、創世記の冒頭を思い起こさせます。創世記1章1節「はじめに神が天と地を創造された」という御言葉は、万物の根源的な起源について語っています。この世界の始まりを生み出したのは「言葉(ロゴス、λόγος)」であり、ヨハネによる福音書はそのロゴスの正体が何であるかを明らかにしています。ヨハネによる福音書1章1節から4節にかけて、「この方」という存在が登場します。この「この方」という代名詞は、いったい誰を指しているのでしょうか。2節では神とともにおられた方、3節では万物を造られた方、4節では命であり光であると言われるこの代名詞「「この方」は誰でしょうか。文脈から考えれば、それはイエス・キリストを直接指すのではありません。この代名詞「「この方」は、「言葉(ロゴス、λόγος)」を指しているのです。言葉が神とともにおられ、言葉が世界を造り、言葉のうちに命があると宣言されているのです。 ヨハネによる福音書の始まりは、個人的に最も好きな箇所の一つです。なぜなら、遠く難解に思われがちな神が、具体的で現実的な形で私たちと出会う道を示しているからです。神が言葉そのものであるというならば、言葉を理解することはすなわち神を理解することにほかなりません。私にも言語が与えられている以上、自分の言葉を通して言葉である神と出会うことができるのです。ここで言う「言葉」は、守るべき規則として記された律法のことではありません。また、宗教的な聖典を指すのでもありません。神が言葉そのものである以上、言語を持つ人間は、自分自身の言語体系を通して、自分が理解できる形で啓示された神と人格的な交わりを持つことができます。しかし、現実にはクリスチャンの大多数がこれを放棄し、牧師の説教に頼り切った生活を送っています。けれども、神の言葉と自分の言葉が交わることこそが、私たち自身が神と出会う瞬間なのです。 難しいのは神ではありません。難しさの原因は、自分の言葉を適切に使わないことにあります。人間は言葉を通して思考を整理します。自分の中に言葉が少なければ、考えもまた少なくなります。思考も言葉によって成り立つからです。そして当然のことながら、一人の人間の中に神の言葉が少なければ、その人の神に対する理解も乏しくなります。言語は単なるコミュニケーションの手段ではなく、人間の思考様式やアイデンティティ、存在のあり方に直接的に関与する現実です。神の言葉を読まず、文章を読まず、知的な対話を持たず、言葉を取り入れることも引き出すこともせず、ただイメージによる情報消費だけに依存する世界では、神への認識は停滞します。それはすなわち、人の内に神が不在であるということにほかなりません。 本日の本文では、神とともにおられ、万物を創造された命であり光である存在が「言葉」であると述べられています。これは文脈上、確かな事実です。しかし、その文脈はさらに続いていきます。7節と8節に登場する「彼」はバプテスマのヨハネを指しており、10節以降に出てくる代名詞「この方」はようやくイエス・キリストを指しています。そして、14節でその正体が明確に示されます。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。1:14」 言葉が肉体を持たれた出来事、それが先週私たちが祝ったクリスマスです。言葉こそがイエス・キリストなのです。創世記の冒頭では光と命を生み出す創造の物語に驚かされますが、ヨハネ福音書では言葉であるイエス・キリストの受肉という神秘に驚かされます。新年の朝、私は「パンタ・キリスト(キリストがすべて、πάντα Χριστῷ)」と再び告白し、一年を始めたいと思います。

요한계시록 묵상 【마라나타】 20241231(화) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

요한계시록 22:6~21 22:6 또 그가 내게 말하기를 이 말은 신실하고 참된지라 주 곧 선지자들의 영의 하나님이 그의 종들에게 결코 속히 될 일을 보이시려고 그의 천사를 보내셨도다 22:7 보라 내가 속히 오리니 이 책의 예언의 말씀을 지키는 자가 복이 있으리라 하더라 22:8 이것들을 보고 들은 자는 나 요한이니 내가 듣고 볼때에 이 일을 내게 보이던 천사의…

黙示録 黙想 【マラナタ】 20241231(火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

黙示録 22:6~21 22:6 御使いは私に言った。「これらのことばは真実であり、信頼できます。」預言者たちに霊を授ける神である主は、御使いを遣わして、すぐに起こるべきことをしもべたちに示された。 22:7 「見よ、わたしはすぐに来る。この書の預言のことばを守る者は幸いである。」 22:8 これらのことを聞き、また見たのは、私ヨハネである。私は、聞いたり見たりした後に、これらのことを示してくれた御使いの足もとにひれ伏して、礼拝しようとした。 22:9 すると、御使いは私に言った。「いけません。私はあなたや、預言者であるあなたの兄弟たち、この書のことばを守る人々と同じしもべです。神を礼拝しなさい。」 22:10 また私に言った。「この書の預言のことばを封じてはなりません。時が近いからです。 22:11 不正を行う者には、ますます不正を行わせ、汚れた者は、ますます汚れた者とならせなさい。正しい者には、ますます正しいことを行わせ、聖なる者は、ますます聖なる者とならせなさい。」 22:12 「見よ、わたしはすぐに来る。それぞれの行いに応じて報いるために、わたしは報いを携えて来る。 22:13 わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」 22:14 自分の衣を洗う者たちは幸いである。彼らはいのちの木の実を食べる特権が与えられ、門を通って都に入れるようになる。 22:15 犬ども、魔術を行う者、淫らなことを行う者、人を殺す者、偶像を拝む者、すべて偽りを好み、また行う者は、外にとどめられる。 22:16 「わたしイエスは御使いを遣わし、諸教会について、これらのことをあなたがたに証しした。わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。」 22:17 御霊と花嫁が言う。「来てください。」これを聞く者も「来てください」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水が欲しい者は、ただで受けなさい。 22:18 私は、この書の預言のことばを聞くすべての者に証しする。もし、だれかがこれにつけ加えるなら、神がその者に、この書に書かれている災害を加えられる。 22:19 また、もし、だれかがこの預言の書のことばから何かを取り除くなら、神は、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、その者の受ける分を取り除かれる。 22:20 これらのことを証しする方が言われる。「しかり、わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。 22:21 主イエスの恵みが、すべての者とともにありますように。   御使いは、預言の言葉はすべて真実であり確実で、必ず成就すると言いまう。その時、イエス様の御声が聞こえ、再び来られるその日まで、御言葉を守る者は幸いであると言われます。御使いは預言の言葉を封じてはならないと命じ、御言葉を聞いた者たちはその行いに応じて裁かれるようになります。再臨を待ち望みつつ、御言葉を守りながら生きるべきです。驚いたヨハネが御使いの足元にひれ伏して礼拝しようとしますが、御使いは自分は礼拝を受けるべき存在ではなく、しもべにすぎないと語り、ただ神にだけ礼拝をささげるよう促します。 御使いの言葉とイエス様の言葉が入り混じっており、語り手を区別するのは難しいですが、12節から16節にかけての語り手は再びイエス様です。イエス様はご自身を「アルファでありオメガ、初めであり終わり、始まりであり終わり」と紹介されます。「終わり」であるオメガとなられるには、再び来られなければなりません。再臨されたときには、救われる者とそうでない者を分けられるでしょう。生きる者と死に至る者を裁かれるのです。その前にイエス様は教会のために使者を送り、御言葉をお与えになるでしょう。しかし、たとえ使者を通して語られても、御言葉にまったく関心を持たない世代が救いを得ることはありません。 17節では聖霊が語られます。「「来てください。」これを聞く者も「来てください」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水が欲しい者は、ただで受けなさい。」と勧められます。これは神からの招きです。いのちの水を受けるために来る者なら、誰でも渇きを覚える者でしょう。渇きを覚えることは幸いです。渇きを覚えない人は危険です。満腹したライオンは狩りをせず、渇いた鹿は水の流れを切に求めます。 最後の21節は、御使いでも聖霊でもイエス様でもなく、ヨハネが語った言葉です。「主イエスの恵みが、すべての者とともにありますように。」渇きを覚え、イエス様のもとに来るすべての人がいのちの水を受けるのです。20節の語り手はイエス様とヨハネの対話です。「しかり、わたしはすぐに来る。」と言われる主に、ヨハネは応答します。「アーメン。主イエスよ、来てください。」世は海水のようなもので、渇きを覚える者は「マラナタ(主よ、来てください)」とイエス様の再臨を待ち望みます。主の再臨の前に新しい年が先に来るでしょう。この与えられた特別な時を迎えながら、主イエスが早く来られることを願いつつ、渇く人々にいのちの水を分かち与えたいと願います。

요한계시록 묵상 【최고의 장래희망】 20241230(월) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

요한계시록 22:1~5 22:1 또 저가 수정같이 맑은 생명수의 강을 내게 보이니 하나님과 및 어린 양의 보좌로부터 나서 22:2 길 가운데로 흐르더라 강 좌우에 생명 나무가 있어 열 두가지 실과를 맺히되 달마다 그 실과를 맺히고 그 나무 잎사귀들은 만국을 소성하기 위하여 있더라 22:3 다시 저주가 없으며 하나님과 그 어린 양의 보좌가 그 가운데 있으리니 그의 종들이…

黙示録 黙想 【最高の将来希望】 20241230(月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師

黙示録 22:1~5 22:1 御使いはまた、水晶のように輝く、いのちの水の川を私に見せた。川は神と子羊の御座から出て、 22:2 都の大通りの中央を流れていた。こちら側にも、あちら側にも、十二の実をならせるいのちの木があって、毎月一つの実を結んでいた。その木の葉は諸国の民を癒やした。 22:3 もはや、のろわれるものは何もない。神と子羊の御座が都の中にあり、神のしもべたちは神に仕え、 22:4 御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の御名が記されている。 22:5 もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、ともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは世々限りなく王として治める。     黙示録21章では、天と地、そして悪を象徴していた海が消え去り、新しい天と新しい地が創造されます。この新しい天と新しい地は、イザヤの預言の延長線上にあります。「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。先のことは思い出されず、心に上ることもない。イザヤ65:17」ここで語られているのは、単なる補完や修復ではありません。完全に新たに作り直される創造です。それは、あのしつこい罪の罠が一切存在しない世界です。これは真の聖徒が待ち望む、完全なる救いの境地です。救いとは、罪のない人々が、罪のない人々と共に、罪のない場所に住むことです。その場所は、イエスを信じるがゆえに苦難を通り抜け、信仰を守り通した神の民が与る栄光の世界です。 イザヤとヨハネが描く理想郷の共通点は、神のものでないものが完全に取り除かれた後、新しい創造を通じて完全な秩序が成り立つという点です。神のものであるものと、神のものでないものを区別するのは小羊です。小羊を信じる信仰によって苦難を乗り越えた民だけが神のものとなるのです。イザヤ書65章では、不従順のゆえに滅び、残された者だけが救いに入ります。そして黙示録20章では、最後の審判の後、いのちの書に名前が記されていない者たちは除外され、新天新地が到来します。イザヤ書65章ではエルサレムが神の喜びとなり、ヨハネの黙示録21章では、神が従順な民の涙を拭ってくださいます。 この世と命を創造されたお方がおられます。そのお方が新しい世界を創造されるのです。その場所にはもはや罪も、呪いもありません。罪深い人間を悩ませてきた古いものは、もはや思い起こされることもありません。悲しみも、苦しみも、病も、死も、喪失も、孤独も存在しません。平和の中であらゆる実りを味わい、神の民はついに神の御顔を見ることができるのです。そして永遠に神と共にいることができるのです。これ以上に良い場所、これ以上に良い状態は、この世にも聖書にも存在しません。この素晴らしい場所への希望を、宗教的で抽象的なものだと考える人がいるならば、その人は現実的に、具体的に絶望と滅びを経験することでしょう。それは、信じるにふさわしく、追い求めるにふさわしく、入るべき場所なのです。

ヨハネの黙示録 黙想 【新しいエルサレム】 20241228(土) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

ヨハネの黙示録 21:9-21 21:9 また、最後の七つの災害で満ちた、あの七つの鉢を持っていた七人の御使いの一人がやって来て、私に語りかけた。「ここに来なさい。あなたに子羊の妻である花嫁を見せましょう。」 21:10 そして、御使いは御霊によって私を大きな高い山に連れて行き、聖なる都エルサレムが神のみもとから、天から降って来るのを見せた。 21:11 都には神の栄光があった。その輝きは最高の宝石に似ていて、透き通った碧玉のようであった。 21:12 都には、大きな高い城壁があり、十二の門があった。門の上には十二人の御使いがいた。また、名前が刻まれていたが、それはイスラエルの子らの十二部族の名前であった。 21:13 東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。 21:14 都の城壁には十二の土台石があり、それには、子羊の十二使徒の、十二の名が刻まれていた。 21:15 また、私に語りかけた御使いは、都とその門と城壁を測るために金の測り竿を持っていた。 21:16 都は四角形で、長さと幅は同じである。御使いが都をその竿で測ると、一万二千スタディオンあった。長さも幅も高さも同じである。 21:17 また城壁を測ると、百四十四ペキスあった。これは人間の尺度であるが、御使いの尺度も同じであった。 21:18 都の城壁は碧玉で造られ、都は透き通ったガラスに似た純金でできていた。 21:19 都の城壁の土台石はあらゆる宝石で飾られていた。第一の土台石は碧玉、第二はサファイア、第三はめのう、第四はエメラルド、 21:20 第五は赤縞めのう、第六は赤めのう、第七は貴かんらん石、第八は緑柱石、第九はトパーズ、第十はひすい、第十一は青玉、第十二は紫水晶であった。 21:21 十二の門は十二の真珠であり、どの門もそれぞれ一つの真珠からできていた。都の大通りは純金で、透明なガラスのようであった。  イエス様が再び来られるその日に天から降りて来る新しいエルサレムについて、ヨハネは「夫のために飾られた花嫁よう」だと描写しました。 そして今日の箇所が、その新しいエルサレムの姿を表現しています。    新しいエルサレムについての表現を見ると、多くの門と宝石で派手な、長さと幅が約2300kmに至る巨大な城があるところ、果たして神様がこの地で苦労したご自分の民たちのために用意されたところと言えるほどです。    しかし、そのエルサレムにとって最も貴重なもの、そのすべての華やかさと偉大さを表しているのは、このような表面的な物ではありませんでした。何よりも、そこにある神様の栄光でした。    新しいエルサレムにある多くの宝石と巨大な城は、その神様の栄光を少しでも表現しようとしている物に過ぎません。 むしろ神様の栄光がそこにあるからこそ、この宝石たちと門、城は素晴らしい物とされるのことができるのです。    聖書は聖徒たちをイエス・キリストの花嫁として描いています。 そして、それは今日の箇所の新しいエルサレムも同様でした。 このエルサレムと同じく、私たちが持っている全ての良いもの、貴重なもの、そのようなことよりも私たちにとって最も貴重なことは、私たちのただ中にある神様の栄光、神のかたちです。    私たちが持っているものは、そのような神の栄光を表すためのものです。その栄光なしにはイエス・キリストの再臨の日に過ぎ去ってしまう以前の天と以前の地のように、イエス様が再び来られるその日に私たちが神様より貴重にしていたものは、過ぎ去ってしまうのでしょう。 https://youtu.be/hIYNZMpQF1U?si=D46JEKUigR96fz1M

요한계시록 묵상 【새로운 예루살렘】 20241228(토) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

요한계시록 21:9-21 21:9 일곱 대접을 가지고 마지막 일곱 재앙을 담은 일곱 천사 중 하나가 나아와서 내게 말하여 이르되 이리 오라 내가 신부 곧 어린 양의 아내를 네게 보이리라 하고 21:10 성령으로 나를 데리고 크고 높은 산으로 올라가 하나님께로부터 하늘에서 내려오는 거룩한 성 예루살렘을 보이니 21:11 하나님의 영광이 있어 그 성의 빛이 지극히 귀한 보석 같고…