스가랴 묵상 【예루살렘의 경계】 20251015(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

스가랴 2:1~13 2:1 내가 또 눈을 들어 본즉 한 사람이 척량줄을 그 손에 잡았기로 2:2 네가 어디로 가느냐 물은즉 내게 대답하되 예루살렘을 척량하여 그 장광을 보고자 하노라 할 때에 2:3 내게 말하는 천사가 나가매 다른 천사가 나와서 그를 맞으며 2:4 이르되 너는 달려가서 그 소년에게 고하여 이르기를 예루살렘에 사람이 거하리니 그 가운데 사람과 육축이 많으므로…

ゼカリヤ 黙想 【四つの角と四人の職人】 20251014 (火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ゼカリヤ 1:7~21 1:7 ダレイオスの第二年、シェバテの月である第十一の月の二十四日に、イドの子ベレクヤの子、預言者ゼカリヤに、次のような主のことばがあった。 1:8 夜、私が見ると、なんと、一人の人が赤い馬に乗っていた。その人は、谷底にあるミルトスの木の間に立っていた。そのうしろには、赤毛や栗毛や白い馬がいた。 1:9 私は「主よ、これらの馬は何ですか」と尋ねた。すると、私と話していた御使いが「これらが何なのか、あなたに示そう」と言った。 1:10 すると、ミルトスの木の間に立っていた人が答えた。「これらは、地を行き巡るために主が遣わされた者たちだ。」 1:11 すると彼らは、ミルトスの木の間に立っている主の使いに答えた。「私たちは地を行き巡りましたが、まさに全地は安らかで穏やかでした。」 1:12 それに答えて主の使いは言った。「万軍の主よ。いつまで、あなたはエルサレムとユダの町々に、あわれみを施されないのですか。あなたが憤られて七十年になります。」 1:13 すると主は、私と話していた御使いに、恵みのことば、慰めのことばで答えられた。 1:14 私と話していた御使いは私に言った。「叫んで言え。『万軍の主はこう言われる。わたしは、エルサレムとシオンを、ねたむほど激しく愛した。 1:15 しかし、わたしは大いに怒る。安逸を貪っている国々に対して。わたしが少ししか怒らないでいると、彼らは欲するままに悪事を行った。』 1:16 それゆえ、主はこう言われる。『わたしは、あわれみをもってエルサレムに帰る。そこにわたしの宮が建て直される。──万軍の主のことば──測り縄がエルサレムの上に張られる。』 1:17 もう一度叫んで言え。『万軍の主はこう言われる。わたしの町々には、再び良いものが満ちあふれ、主は再びシオンを慰め、再びエルサレムを選ぶ。』」 1:18 私が目を上げて見ると、なんと、四つの角があった。 1:19 私と話していた御使いに「これらは何ですか」と尋ねると、彼は言った。「これらは、ユダとイスラエルとエルサレムを散らした角だ。」 1:20 そのとき、主は四人の職人を私に見せてくださった。 1:21 私が「この人たちは、何をしに来たのですか」と尋ねると、主は次のように言われた。「これらはユダを散らして、だれにも頭をもたげさせなかったあの角だ。この人たちは、これらの角を震え上がらせるために、やって来たのだ。ユダの地を散らそうと角をもたげる国々の角を打ち滅ぼすためだ。」   イスラエルの民がバビロン捕囚から帰ってすでに数十年が過ぎていた。神殿の基礎は据えられていたが、人々の信仰は冷め、エルサレムの再建は依然として未完成の廃墟のままであった。主は預言者ゼカリヤを通してこう語られた。 「わたしに立ち帰れ。万軍の主の御告げ。そうすれば、わたしもあなたがたに立ち帰ろう。」主の御心はすでに民に向かっており、人々が目を覚ますならば再び主に向かうことができた。本日の本文は、その約束が歴史の中でどのように実現するかを示している。立ち帰れと招かれた神ご自身が、今や自ら立ち帰られる物語である。 ゼカリヤは夜の中で幻を見た。紅い馬、栗毛の馬、白い馬に乗る者たちがミルトスの木の谷間に立っていた。彼らは神の使いであり、全地を巡って報告していた。「全地は静かで穏やかです」と。確かに帝国の政治的な状況は安定していたかもしれない。しかし、神の都エルサレムは依然として崩れていた。そこで天使が神に問う。「いつまでエルサレムをあわれまれないのですか。」この問いは不平ではなく、沈黙の中で神を信頼して待つ祈りであった。 その問いに対して、神は答えられる。「わたしはエルサレムのためにねたみ、シオンのために激しく憤る。わたしは再びエルサレムに帰り、あわれみを注ぎ、わたしの家はその中に建てられるであろう。」神は「民が立ち帰れば、わたしも帰る」と言われたが、今や「わたしが先に帰る」と言われる。回復は人間の決意から始まるのではない。すべての回復の出発点は神ご自身である。人間の信仰がどれほど大きくても、神の愛に先行することはできない。神のあわれみがまず流れるからこそ、人の悔い改めが目覚める。信仰の主導権は常に神にある。 ゼカリヤはさらにもう一つの幻を見る。四つの角が現れ、それに続いて四人の職人が現れた。角はイスラエルを圧迫した諸帝国――アッシリア、バビロン、ペルシャ、ギリシア――を象徴している。しかし神は、その角を打ち砕くために職人たちを遣わされる。彼らは単なる技術者ではない。神が救いの道具として立てられた人々である。彼らの手によって、傲慢な帝国は砕かれ、崩れた共同体が再び建て直される。回復は職人の繊細な手によって緻密に進められる。神はエルサレムの石を直接積まれはしないが、職人を呼び、その手を通して世の中に働かれる。神はいつも人を通して御業を行われる。 最初の幻は、立ち帰られた神の「心」であり、第二の幻は、その心が世界を癒やす「御手」である。昨日は「主に立ち帰れ」という呼びかけであり、今日は「主が立ち帰られる」という宣言である。愛する者が先に動くように、愛しておられる神が先に立ち上がられる。人の悔い改めと神のあわれみが向かい合う瞬間である。神が先に立ち帰られるからこそ、私たちは立ち帰ることができる。私たちが向きを変えるとき、主は再び私たちの中に満ちてくださる。神の愛は常に先にあり、その愛こそがすべての回復の始まりである。

스가랴 묵상 【네 뿔과 네 공장】 20251014(화) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

스가랴 1:7~21 1:7 다리오왕 이년 십일월 곧 스밧월 이십사일에 잇도의 손자 베레갸의 아들 선지자 스가랴에게 여호와의 말씀이 임하여 이르시니라 1:8 내가 밤에 보니 사람이 홍마를 타고 골짜기 속 화석류나무 사이에 섰고 그 뒤에는 홍마와 자마와 백마가 있기로 1:9 내가 가로되 내 주여 이들이 무엇이니이까 내게 말하는 천사가 내게 이르되 이들이 무엇인지 내가 네게 보이리라 하매…

ローマ人への手紙 黙想【クレジットタイトル】20251011(土) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

ローマ人への手紙 16:1-16 16:1 私たちの姉妹で、ケンクレアにある教会の奉仕者であるフィベを、あなたがたに推薦します。 16:2 どうか、聖徒にふさわしく、主にあって彼女を歓迎し、あなたがたの助けが必要であれば、どんなことでも助けてあげてください。彼女は、多くの人々の支援者で、私自身の支援者でもあるのです。 16:3 キリスト・イエスにある私の同労者、プリスカとアキラによろしく伝えてください。 16:4 二人は、私のいのちを救うために自分のいのちを危険にさらしてくれました。彼らには、私だけでなく、異邦人のすべての教会も感謝しています。 16:5 また彼らの家の教会によろしく伝えてください。キリストに献げられたアジアの初穂である、私の愛するエパイネトによろしく。 16:6 あなたがたのために非常に労苦したマリアによろしく。 16:7 私の同胞で私とともに投獄されたアンドロニコとユニアによろしく。二人は使徒たちの間でよく知られており、また私より先にキリストにある者となりました。 16:8 主にあって私の愛するアンプリアトによろしく。 16:9 キリストにある私たちの同労者ウルバノと、私の愛するスタキスによろしく。 16:10 キリストにあって認められているアペレによろしく。アリストブロの家の人々によろしく。 16:11 私の同胞ヘロディオンによろしく。ナルキソの家の主にある人々によろしく。 16:12 主にあって労苦している、トリファイナとトリフォサによろしく。主にあって非常に労苦した愛するペルシスによろしく。 16:13 主にあって選ばれた人ルフォスによろしく。また彼と私の母によろしく。 16:14 アシンクリト、フレゴン、ヘルメス、パトロバ、ヘルマス、および彼らとともにいる兄弟たちによろしく。 16:15 フィロロゴとユリア、ネレウスとその姉妹、またオリンパ、および彼らとともにいるすべての聖徒たちによろしく。 16:16 あなたがたは聖なる口づけをもって互いにあいさつを交わしなさい。すべてのキリストの教会が、あなたがたによろしくと言っています。    ローマ人への手紙の内容は15章で終わっても不自然ではありませんが、使徒パウロはこの16章の内容をもって手紙をまとめています。    映画やドラマ、あるいは本や資料を見るとき、私たちが目にするのは表面に現れている人々だけです。監督や俳優、著者や推薦者、助手など、私たちはそうした表面的な情報によってそれらを記憶しています。  映画館でクレジットタイトル(エンディングクレジット)が流れるとき、人々が関心を持つのは、その後に追加映像があるかどうかだけです。クレジットタイトルが流れている途中で退場する人がほとんどです。しかし、そのクレジットタイトルには、その作品のために苦労したすべての人々、見えないところで苦労したすべての人々の名前が記されています。彼らの働きがなければ、その作品が完成され、その場で上映されることもなかったでしょう。  今日の箇所の内容は、まさにそのようなものです。私たちが記憶し、認識しているのは、「使徒パウロがローマにいるキリスト者たち宛てに書いた手紙」「彼らへの勧め」という表面的な情報だけです。しかしその背後には、その手紙が届けられるまでに、また使徒パウロのすべての宣教活動がなされるまでに共に労した同労者たちの名前が、クレジットタイトルのように並んでいるのです。  初代教会において、使徒パウロという名前は収益を保証するA級俳優や監督のような存在であったでしょう。その影響力は非常に大きく、その献身もまた偉大なものでした。しかしそのパウロにも同労者たちが存在しました。彼らなしには、私たちが知っている「使徒パウロ」は存在しなかったでしょう。  パウロはその事実を誰よりもよく知っていました。自分が御言葉を伝えることに専念できるよう支え、仕えてくれた多くの同労者たち、そして何よりも、彼らすべてがキリストにあって一つの体、すなわち一つの教会として建てられたという事実です。  そのようなパウロが一貫して強調してきたことは何でしょうか。それは、教会の頭であるイエス・キリストです。自分がどれほど大きな影響力を持っていようとも、尊敬される人物であったとしても、使徒パウロ自身も、また他の誰も、教会の代表にはなれないということです。唯一、キリストだけが教会の代表となることができるのです。  私たちの目には、このローマ書のクレジットタイトルが、使徒パウロを助けた人々の名前のように見えるかもしれません。確かに彼らはパウロを助けました。しかし、これはパウロを助けた者たちの名簿ではありません。キリストの教会に仕えた者たちの名であり、パウロ自身もまたその一人の献身者でした。そして私たちもまた、同じように献身者として、キリストの教会に仕えた者として、神様に記憶されるのです。 https://youtu.be/DTWshVVZrc4?si=P1Bxeo34VyfSNyQV

로마서 묵상【엔딩 크레딧】20251011(토) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

로마서 16:1-16 16:1 내가 겐그레아 교회의 일꾼으로 있는 우리 자매 뵈뵈를 너희에게 추천하노니 16:2 너희는 주 안에서 성도들의 합당한 예절로 그를 영접하고 무엇이든지 그에게 소용되는 바를 도와 줄지니 이는 그가 여러 사람과 나의 보호자가 되었음이라 16:3 너희는 그리스도 예수 안에서 나의 동역자들인 브리스가와 아굴라에게 문안하라 16:4 그들은 내 목숨을 위하여 자기들의 목까지도 내놓았나니 나뿐 아니라…

ローマ人への手紙 黙想【教会と宣教師】20251010(金) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

ローマ人への手紙 15:22-33 15:22 そういうわけで、私は、あなたがたのところに行くのを何度も妨げられてきました。 15:23 しかし今は、もうこの地方に私が働くべき場所はありません。また、イスパニアに行く場合は、あなたがたのところに立ち寄ることを長年切望してきたので、 15:24 旅の途中であなたがたを訪問し、しばらくの間あなたがたとともにいて、まず心を満たされてから、あなたがたに送られてイスパニアに行きたいと願っています。 15:25 しかし今は、聖徒たちに奉仕するために、私はエルサレムに行きます。 15:26 それは、マケドニアとアカイアの人々が、エルサレムの聖徒たちの中の貧しい人たちのために、喜んで援助をすることにしたからです。 15:27 彼らは喜んでそうすることにしたのですが、聖徒たちに対してそうする義務もあります。異邦人は彼らの霊的なものにあずかったのですから、物質的なもので彼らに奉仕すべきです。 15:28 それで私はこのことを済ませ、彼らにこの実を確かに渡してから、あなたがたのところを通ってイスパニアに行くことにします。 15:29 あなたがたのところに行くときは、キリストの祝福に満ちあふれて行くことになると分かっています。 15:30 兄弟たち。私たちの主イエス・キリストによって、また、御霊の愛によってお願いします。私のために、私とともに力を尽くして、神に祈ってください。 15:31 私がユダヤにいる不信仰な人々から救い出され、エルサレムに対する私の奉仕が聖徒たちに受け入れられるように、 15:32 また、神のみこころにより、喜びをもってあなたがたのところに行き、あなたがたとともに、憩いを得ることができるように、祈ってください。 15:33 どうか、平和の神が、あなたがたすべてとともにいてくださいますように。アーメン。    福音を伝えるための宣教において、教会と宣教師の協力は切っても切り離せない関係にあります。近年では、この関係を単なる協力関係としてではなく、それぞれが別々の働きをするのではなく、「宣教」という一つの使命と義務を共有しているものとして捉え、教会を「送り出す宣教師」、そして宣教現場で直接福音を伝える者を「出て行く宣教師」と呼ぶようにもなっています。    その現場で福音を伝え、キリストのからだである教会を建て、信徒を養うこと、その使命を果たすための手段や方法を模索し、実践することなど、出て行く宣教師がすべきことは明確です。  しかし一方で、「送り出す宣教師」である教会の役割は、しばしば曖昧に感じられることがあります。    宣教師のこと、その働きの内容、その対象となる人々、またその地での必要をよく知らないために、自分たちの役割をも明確に理解できない、これが、現代の多くの教会が抱える問題の原因の一つであると言えるでしょう。  その意味で、今日の本文である使徒パウロの手紙の内容は、出て行く宣教師にとっても、送り出す宣教師にとっても重要な教えを与えています。    使徒パウロとローマの教会は、非常に親しい関係にありました。その親しさは、互いに会うことが「喜び」となるほどでした。では、そのような関係はどのようにして続けられていたのでしょうか。    まず第一に、出て行く宣教師であったパウロ自身の努力がありました。彼は、自分を送り出し、物心両面で支えてくれた人々に対して、丁寧な手紙を書き、近況と心を伝え、時には訪問して喜びを分かち合い、自分の働きを詳しく報告する努力を惜しまなかったのです。    また、送り出す宣教師であったローマの信徒たちの努力もありました。彼らは自分たちのもとにはいないものの、福音を伝えるために出て行った信仰の家族、一つのからだである彼のために心を合わせ祈り、彼の働きが進むように心から支援し、そしていつでもパウロが帰って来たときに温かく迎え、共に喜びを分かち合えるように、教会の中に彼の居場所を整えていたのです。    教会と宣教師の関係は、単なる協力関係ではありません。支援者と被支援者の関係でもなく、教会とその代理人のような関係でもありません。まるで学生に奨学金を支給するような関係であってはならないのです。    教会と宣教師は一つのからだです。教会が宣教師であり、宣教師が教会です。教会は、宣教師とその働きについて知らなければなりません。そのために、宣教師は教会に伝えなければなりません。それは働きを検査されたり、評価されたりするためではなく、共に力を合わせて仕える一つのからだ、キリストをかしらとする一つのからだであるためです。その中で共に喜ぶためです。 https://youtu.be/_uwf5_bibcM?si=o6v-k6pL3ExKMNlW

로마서 묵상【교회와 선교사】20251010(금) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

로마서 15:22-33 15:22 그러므로 또한 내가 너희에게 가려 하던 것이 여러 번 막혔더니 15:23 이제는 이 지방에 일할 곳이 없고 또 여러 해 전부터 언제든지 서바나로 갈 때에 너희에게 가기를 바라고 있었으니 15:24 이는 지나가는 길에 너희를 보고 먼저 너희와 사귐으로 얼마간 기쁨을 가진 후에 너희가 그리고 보내주기를 바람이라 15:25 그러나 이제는 내가 성도를 섬기는…

ローマ人への手紙 黙想 【福音の祭司の務め】 20251009 (木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ローマ人への手紙 15:14~21 15:14 私の兄弟たちよ。あなたがた自身、善意にあふれ、あらゆる知識に満たされ、互いに訓戒し合うことができると、この私も確信しています。 15:15 ただ、あなたがたにもう一度思い起こしてもらうために、私は所々かなり大胆に書きました。私は、神が与えてくださった恵みのゆえに、 15:16 異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となったからです。私は神の福音をもって、祭司の務めを果たしています。それは異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた、神に喜ばれるささげ物となるためです。 15:17 ですから、神への奉仕について、私はキリスト・イエスにあって誇りを持っています。 15:18 私は、異邦人を従順にするため、キリストが私を用いて成し遂げてくださったこと以外に、何かをあえて話そうとは思いません。キリストは、ことばと行いにより、 15:19 また、しるしと不思議を行う力と、神の御霊の力によって、それらを成し遂げてくださいました。こうして、私はエルサレムから始めて、イルリコに至るまでを巡り、キリストの福音をくまなく伝えました。 15:20 このように、ほかの人が据えた土台の上に建てないように、キリストの名がまだ語られていない場所に福音を宣べ伝えることを、私は切に求めているのです。 15:21 こう書かれているとおりです。「彼のことを告げられていなかった人々が見るようになり、聞いたことのなかった人々が悟るようになる。」     パウロは自分を「異邦人をささげ物としてささげる福音の祭司の務めを任された者」と語っている。自分を福音を伝える伝道者ではなく、異邦人のために礼拝をささげる祭司と表現したのは、自分が伝道し、教えた異邦人が福音によって変えられ、ローマ書12章に語られるように「生きた供え物」として神にささげられることを意味しているのだろう。ユダヤ的世界観を持たない異邦人を導き、彼らを生きた供え物として神にささげるまでにするには、どれほどの労苦が必要だったことだろう。 私は韓国CCCの金俊坤(キム・ジュンゴン)牧師が、民族福音化のスローガンのもとに雲のように集まった当時の青年たちに向かって、「私はあなたがた全員を神に生きた供え物としてささげたい」と語った説教を印象深く覚えている。その言葉はローマ書12章1節の引用であり、パウロの訴えを再び力強く語ったものでもあった。パウロが異邦人を福音のささげ物として神にささげる祭司として自分を理解したように、金俊坤牧師もまた、時代の青年たちを神にささげる生きた供え物としようとしたのだろう。 私は金俊坤牧師が自分の働きや教会の成功のために人を手段として扱った方ではなかったと信じている。だからこそ、純粋に神のために、多くの若者に従順と献身を求めることができたのだと思う。そうでなければ、青年たちが「生きた供え物」として神の前に立つことはできなかっただろう。献身の背中を見ずに献身することはできない。献身者から献身者が生まれるのは鉄則である。パウロからも、金俊坤牧師からも、福音のために献身する人々が絶えず生まれ続けた。 祭司が供え物を惜しんでささげないなら、それは善い祭司ではなく、悪い祭司である。神の栄光よりも人間の事情を優先し、犠牲や献身の挑戦を語らず、「生きた供え物」としての聖なる重みを示すこともできない私のような牧師は、パウロの雄弁をまねることも、ローマ人への手紙を最後まで読み通すことも難しい。信徒が「生きた供え物」として生きないのは、献身という言葉を耳で聞いただけで、実際に「生きた供え物」として生きる姿を見たことがないからなのだろう。

로마서 묵상 【복음의 제사장 직무】 20251009(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

로마서 15:14~21 15:15 그러나 내가 너희로 다시 생각나게 하려고 하나님께서 내게 주신 은혜를 인하여 더욱 담대히 대강 너희에게 썼노니 15:16 이 은혜는 곧 나로 이방인을 위하여 그리스도 예수의 일군이 되어 하나님의 복음의 제사장 직무를 하게 하사 이방인을 제물로 드리는 그것이 성령 안에서 거룩하게 되어 받으심직하게 하려 하심이라 15:17 그러므로 내가 그리스도 예수 안에서 하나님의 일에…

ローマ人への手紙 黙想 【ローマ人への手紙は「手紙」です】 20251008 (水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ローマ人への手紙 15:1~13 15:1 私たち力のある者たちは、力のない人たちの弱さを担うべきであり、自分を喜ばせるべきではありません。 15:2 私たちは一人ひとり、霊的な成長のため、益となることを図って隣人を喜ばせるべきです。 15:3 キリストもご自分を喜ばせることはなさいませんでした。むしろ、「あなたを嘲る者たちの嘲りが、わたしに降りかかった」と書いてあるとおりです。 15:4 かつて書かれたものはすべて、私たちを教えるために書かれました。それは、聖書が与える忍耐と励ましによって、私たちが希望を持ち続けるためです。 15:5 どうか、忍耐と励ましの神があなたがたに、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを抱かせてくださいますように。 15:6 そうして、あなたがたが心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父である神をほめたたえますように。 15:7 ですから、神の栄光のために、キリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れ合いなさい。 15:8 私は言います。キリストは、神の真理を現すために、割礼のある者たちのしもべとなられました。父祖たちに与えられた約束を確証するためであり、 15:9 また異邦人もあわれみのゆえに、神をあがめるようになるためです。「それゆえ、私は異邦人の間であなたをほめたたえます。あなたの御名をほめ歌います」と書いてあるとおりです。 15:10 また、こう言われています。「異邦人よ、主の民とともに喜べ。」 15:11 さらに、こうあります。「すべての異邦人よ、主をほめよ。すべての国民が、主をたたえるように。」 15:12 さらにまたイザヤは、「エッサイの根が起こる。異邦人を治めるために立ち上がる方が。異邦人はこの方に望みを置く」と言っています。 15:13 どうか、希望の神が、信仰によるすべての喜びと平安であなたがたを満たし、聖霊の力によって希望にあふれさせてくださいますように。     ローマ人への手紙はしばしば「福音の精髄」と呼ばれ、キリスト教神学の完成された神学論文であると言われる。福音理解のための論理が卓越しているという意味であろう。しかし、現代の学問体系において論文とは、事実や解釈を体系的かつ客観的に提示し、検証可能な根拠によって正当化する文章形式である。したがって、このジャンルの本質は客観的叙述であり、必然的に著者の感情や直観は排除されなければならない。 ローマ人への手紙が福音を証しする過程で論理性を持つことは確かである。しかし、それは科学的な論証ではなく、パウロの感情的な訴えを含んでいる。また、それは学問的・言語的体系ではなく、キリスト者の生き方について語っているという点を見落としてはならない。ローマ人への手紙は「手紙」である。パウロは論文を書いたのではなく、ただ手紙を送ったにすぎない。福音を体系化しようとしたのではなく、福音に捕らえられ、その力に導かれてローマ教会に伝えようとしただけである。 ローマ人への手紙は、第1章から第11章までで福音を定義し、第12章から最後までで福音を生きることについて語っている。前半の論理的な雰囲気のために、ローマ人への手紙を神学的論文と呼ぶ人もいるが、実際には後半のほうが重要である。手紙という物語の中で定義されたこと、教理としてまとめられたことは、必ず生活の物語として解きほぐされなければならない。ローマ人への手紙の後半において、福音は学問的命題ではなく、人と人とを和解させる物語であった。論文には、そのようなことは書かれない。 パウロは論理的に理解させようとしたのではなく、その真理に従うように招いた。福音は頭で整理される概念ではなく、人生の中で悟り、応答する力である。自分の福音がどのようなものか言葉で整理できないなら、誰かに伝えてみればわかる。自分の福音が何であるかを確かめたいなら、共同体の中で人々と関わりながら生きてみればよい。ローマ人への手紙を読む正しい姿勢は、理解ではなく従順である。