여호수아 묵상【모두를 위한 크리스마스】20251226(금) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

여호수아 22:21-34 22:21 르우벤 자손과 갓 자손과 므낫세 반 지파가 이스라엘 천천의 수령들에게 대답하여 이르되 22:22 전능하신 자 하나님 여호와, 전능하신 자 하나님 여호와께서 아시나니 이스라엘도 장차 알리라 이 일이 만일 여호와를 거역함이거나 범죄함이거든 주께서는 오늘 우리를 구원하지 마시옵소서 22:23 우리가 제단을 쌓은 것이 돌이켜 여호와를 따르지 아니하려 함이거나 또는 그 위에 번제나 소제를 드리려…

クリスマス黙想 【魂の慰め】 20251225(木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ルカ 2:25~35 2:25 そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルが慰められるのを待ち望んでいた。また、聖霊が彼の上におられた。 2:26 そして、主のキリストを見るまでは決して死を見ることはないと、聖霊によって告げられていた。 2:27 シメオンが御霊に導かれて宮に入ると、律法の慣習を守るために、両親が幼子イエスを連れて入って来た。 2:28 シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。 2:29 「主よ。今こそあなたは、おことばどおり、しもべを安らかに去らせてくださいます。 2:30 私の目があなたの御救いを見たからです。 2:31 あなたが万民の前に備えられた救いを。 2:32 異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの栄光を。」 2:33 父と母は、幼子について語られる様々なことに驚いた。 2:34 シメオンは両親を祝福し、母マリアに言った。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れたり立ち上がったりするために定められ、また、人々の反対にあうしるしとして定められています。 2:35 あなた自身の心さえも、剣が刺し貫くことになります。それは多くの人の心のうちの   ― 12月20日 枝川愛の教会・「故郷の家・東京」 高齢者合同キャンドルサービス説教 「神に出会う時間」より ― 人生は出会いによって形づくられます。数えきれない人々の中で、私たちは自分の両親と出会い、配偶者と出会い、そして子どもと出会いました。偶然のように見えますが、奇跡と言わずにはいられません。喜びに満ちた出会いもあれば、心を痛める出会いもありました。しかし、そのすべての出会いが、今の私をここまで導いてきた人生のかけらです。人生を形づくってきた出会いは、思っているほど多くはありません。けれども、その少ない出会いが、私たちの人生全体を作り上げてきたのです。誰と出会うかということは、それほどまでに大切なことなのです。 ルカによる福音書のイエスの誕生物語には、前後の説明もなく、シメオンという一人の老人が登場します。聖書は彼について多くを語りません。ただ彼が「イスラエルの慰めを待ち望んでいた人」であったと記しています。ルカは、彼が死ぬ前にメシアを見るという啓示を受けていたと伝えます。彼の人生にも多くの出会いがあったことでしょう。しかし彼は、最後に残された一つの出会いを待っていました。必ず出会わなければならないお方を、待ち続けていたのです。 シメオンは聖霊の導きによって神殿に入り、ちょうど両親の腕に抱かれた幼子イエスと出会います。彼はその瞬間、幼子を見てすぐに悟りました。シメオンは幼子を抱き、神を賛美して言います。「主よ、今こそ、あなたのお言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。」それは、この出会いによって何かが完成したという宣言でした。同時に、避けることのできない人生の苦労の果てに神の慰めに出会った彼には、もはや執着すべきものは何も残っていなかったのです。 クリスマスは今年も変わらず巡ってきました。そして今もなお、その出会いを待ち続けている人々がいます。あまりに遅くなる前に、死ぬ前に、必ず出会わなければならないお方。まだ出会っていないけれど、必ず出会うべき出会いです。シメオンが待ち望んだ慰めは、人生と死の間に境界のない慰めでした。その慰めに出会ってこそ、苦労の多かった人生をも安らかに手放すことができるのです。過ぎ去ってしまう季節の高揚ではなく、永遠に終わることのない魂の慰めを受け取るクリスマスとなることを、心から願っています。

크리스마스 묵상 【영혼의 위로】 20251225(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

누가복음 2:25~35 2:25 예루살렘에 시므온이라 하는 사람이 있으니 이 사람이 의롭고 경건하여 이스라엘의 위로를 기다리는 자라 성령이 그 위에 계시더라 2:26 저가 주의 그리스도를 보기 전에 죽지 아니하리라 하는 성령의 지시를 받았더니 2:27 성령의 감동으로 성전에 들어가매 마침 부모가 율법의 전례대로 행하고자 하여 그 아기 예수를 데리고 오는지라 2:28 시므온이 아기를 안고 하나님을 찬송하여 가로되…

クリスマス黙想 【クリスマスの聖餐器】 20251224(水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師

ルカ 2:8~20 2:8 さて、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた。 2:9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。 2:10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。 2:11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。 2:12 あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」 2:13 すると突然、その御使いと一緒におびただしい数の天の軍勢が現れて、神を賛美した。 2:14 「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」 2:15 御使いたちが彼らから離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは話し合った。「さあ、ベツレヘムまで行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見届けて来よう。」 2:16 そして急いで行って、マリアとヨセフと、飼葉桶に寝ているみどりごを捜し当てた。 2:17 それを目にして羊飼いたちは、この幼子について自分たちに告げられたことを知らせた。 2:18 聞いた人たちはみな、羊飼いたちが話したことに驚いた。 2:19 しかしマリアは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。 2:20 羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。   ―12月21日 ETC礼拝説教「飼い葉桶の平和」より― 厩(うまや)にある飼い葉桶とは、馬が餌を食べるための器である。それは馬の生存のために、毎日使われる生活の道具だ。イエスが生まれて最初に横たえられた場所は、その飼い葉桶であった。食べて生きるための器、その中にはあらゆる汚れが共存している。排泄物が跳ね入り、馬が舐めた唾液や残った飼料、飼い葉の屑が混ざり合い、腐敗を引き起こす細菌の塊となる。衛生的に言えば、厩の糞溜めも飼い葉桶も大差はない。生まれたばかりのイエスは、そこに横たえられたのである。 人として来られた神は、その劣悪な環境に困惑したり驚いたりはされなかった。なぜなら、その事実を知らずに来られたのではないからだ。そこに来られること自体が、神の目的であったからである。クリスマスに、人々が良い宿を提供せず、安全な病院で迎えなかったことに対して、私たちは罪悪感を覚える必要はない。その日、ベツレヘムの人々がイエスを拒んだことは、人間の無情さを非難するためではなく、神に対する人間の神学的状態を語っているに過ぎないからである。 人間もまた、欲に駆られて食べ、飲み、悪臭を放ち、汚れを排泄しながら生きている。人間の飼い葉桶の中にも、欲望と羞恥が細菌のように蠢いている。したがって、飼い葉桶とは牧歌的な場所ではなく、イエスの誕生における貧しさや欠乏を象徴するものでもない。それは、欺くことも、美化することもできない「生存の現実」を語る場所なのである。幼子イエスが横たえられた飼い葉桶は、その日の夕方、馬が餌を食べていた桶だったかもしれない。まだ湿り気を帯びたその飼い葉桶は、人間と世界の現実を、そのまま露わにする場所であった。 神が人間を救うために来られたとき、最初に横たえられたのは「食べて生きるための器」であった。神はその上に、受肉(インカネーション)を打ち立てられた。餌を入れる飼い葉桶、私の飯碗――生存のために冷酷になり、欲望のために露骨になるその場所に、神は横たえられたのである。幼子イエスが飼い葉桶に置かれたことの意味は、神の受肉が、人間の条件を全面的に、そしてありのままに引き受けられたということだ。 イエスはご自身を「いのちのパン」と呼ばれ、ついには十字架において、その身体をご自身で差し出された。飼い葉桶を満たす餌は、馬に食べられるためのものであり、飼い葉桶に横たえられた、天から来た「いのちのパン」は、人間に食べられるためのものであった。受肉とは、神がご自身を糧として差し出される出来事である。クリスマスの悲劇とは、これを受け取らず、なおもより多くの飼い葉桶の餌だけを求め続ける人間の現実にある。クリスマスとは、私の貪欲で欲深い飯碗の中を、イエス・キリストの身体によって満たしてくださった、聖なる聖餐なのである。

크리스마스 묵상 【크리스마스의 성찬기】 20251224(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

누가복음 2:8~20 2:8 그 지경에 목자들이 밖에서 밤에 자기 양떼를 지키더니 2:9 주의 사자가 곁에 서고 주의 영광이 저희를 두루 비취매 크게 무서워하는지라 2:10 천사가 이르되 무서워 말라 보라 내가 온 백성에게 미칠 큰 기쁨의 좋은 소식을 너희에게 전하노라 2:11 오늘날 다윗의 동네에 너희를 위하여 구주가 나셨으니 곧 그리스도 주시니라 2:12 너희가 가서 강보에 싸여…

クリスマス黙想 【戦場の幼子】 20251223(火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

イザヤ 9:1~7 9:1 しかし、苦しみのあったところに闇がなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は辱めを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦の民のガリラヤは栄誉を受ける。 9:2 闇の中を歩んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝く。 9:3 あなたはその国民を増やし、その喜びを増し加えられる。彼らは、刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの御前で喜ぶ。 9:4 あなたが、彼が負うくびきと肩の杖、彼を追い立てる者のむちを、ミディアンの日になされたように打ち砕かれるからだ。 9:5 まことに、戦場で履いたすべての履き物、血にまみれた衣服は焼かれて、火の餌食となる。 9:6 ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。 9:7 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。   イザヤが語る「闇」は、一見すると政治的なもののように見える。しかし実際には、政治的敗北や植民地的被支配状態そのものを指しているのではない。戦場のような背景とは、破壊され、支配されてしまった人間の内的状態を意味しているのである。「死の陰の地」とは、死の論理が人生全体を支配している現実である。闇とは政治的現実ではなく、人間の現実に対する認識が、もはや希望を持つことのできない状態を指す。それは自分自身についての、歓迎したくもなく、できれば避けたい知である。しかし、絶望という自己認識を前提としない救いは存在しない。 これと対照的に現れる「大いなる光」もまた、体制改革や政治的解決策ではない。そのように言えるのは、続いて語られる出来事のゆえである。「ひとりの幼子が、わたしたちのために生まれた。」幼子という存在は、その始まりからして、武力や暴力を拒否している。光は闇を打ち砕くのではなく、その本質において闇を光へと変えていく。光は闇と戦わない。ただ光として存在するだけである。この光は、自己認識を欠いたまま抱く根拠なき楽観主義ではない。人間の絶望という部屋を、外側から照らし出す、具体的で現実的な救いの光である。 メシアの統治は、権力の秩序の上に成り立つものではない。その誤解は、すでにイエスが自ら払拭し、結論づけて行かれた。イザヤもまた、政治的解法を提示しようとしたのではない。 「不思議な助言者」であり「助言者」ではあるが、帝国のための戦争戦略家ではなく、神でありながら幼子の姿を取っている。「平和の君」は、暴力によって平和を作り出すことはない。戦場のような、人間が自壊していく現実のただ中へ、神は幼子として入り込まれたのである。もはや、クリスマスを「知っている」とは言えないだろう。毎年、変化し、より深められていく自己認識こそが、クリスマスとは何であるかを証しするのである。

크리스마스 묵상 【전쟁터의 아기】 20251223(화) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

이사야 9:1~7 9:1 전에 고통하던 자에게는 흑암이 없으리로다 옛적에는 여호와께서 스불론 땅과 납달리 땅으로 멸시를 당케 하셨더니 후에는 해변길과 요단 저편 이방의 갈릴리를 영화롭게 하셨느니라 9:2 흑암에 행하던 백성이 큰 빛을 보고 사망의 그늘진 땅에 거하던 자에게 빛이 비취도다 9:3 주께서 이 나라를 창성케 하시며 그 즐거움을 더하게 하셨으므로 추수하는 즐거움과 탈취물을 나누는 때의 즐거움…

ヨシュア 黙想 【誤解の理解】 20251222(月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ヨシュア 22:10~20 22:10 ルベン族、ガド族、マナセの半部族はカナンの地のヨルダン川の流域まで来たとき、そこ、ヨルダン川のそばに一つの祭壇を築いた。それは遠くから見えるほど大きな祭壇であった。 22:11 イスラエルの子らは、「ルベン族、ガド族、マナセの半部族がカナンの地の国境、ヨルダン川のイスラエルの子らの側の流域に、祭壇を築いた」と聞いた。 22:12 イスラエルの子らがそれを聞いたとき、イスラエルの全会衆は彼らと戦おうとシロに集まった。 22:13 イスラエルの子らは、ギルアデの地のルベン族、ガド族、マナセの半部族のところに祭司エルアザルの子ピネハスを送った。 22:14 彼に同行したのは、イスラエルの全部族の中から一族につき族長一人ずつ、計十人の族長であった。彼らはみな、イスラエルの分団の中で一族のかしらであった。 22:15 彼らはギルアデの地のルベン族、ガド族、およびマナセの半部族のところに行き、彼らに告げた。 22:16 「主の全会衆はこう言っている。『これは何事か。あなたがたが今日、主に従うことをやめてイスラエルの神の信頼を裏切るとは。あなたがたは自分のために祭壇を築いて、今日、主に反逆したのだ。 22:17 ペオルでの不義は、私たちにとって小さなことだっただろうか。私たちは今日まで、あの不義から身をきよめていないではないか。そのために神の罰が主の会衆の上に下ったのだ。 22:18 あなたがたは今日、主に従うことをやめようとしている。あなたがたは今日、主に反逆しようとしている。明日、イスラエルの全会衆に向かって主は怒られるだろう。 22:19 ただし、あなたがたの所有地が汚れているのなら、主の幕屋が建つ主の所有地に渡って来て、私たちの間に所有地を得なさい。私たちの神、主の祭壇のほかに自分たちのために祭壇を築いて、主に反逆してはならない。私たちに反逆してはならない。 22:20 ゼラフの子アカンが、聖絶の物のことで主の信頼を裏切り、イスラエルの全会衆の上に御怒りが下ったではないか。彼の不義によって死んだ者は彼一人ではなかった。』」 第21章は、「主のすべての約束は、一つとして残らず成就した」と宣言して締めくくられている。そこには、イスラエルに何らかの責任が生じたことが暗示されている。今度は、イスラエルが約束を守る番だからである。 多くの悲劇的な問題は、状況が変わったあとに考えを変えてしまった人々によって引き起こされる。第22章の危機は、外部からの脅威ではなく、内部から生じた問題であった。それは一つの出来事として明確に規定できるものではなく、誤解が生み出した危機であった。意思疎通が鈍り、誤解が増幅される中で、共同体全体が戦争寸前にまで追い込まれていったのである。しかし、このような過程は、適切に対処されるならば、さまざまな危機とその克服を通して、共同体をより堅固にする機会ともなり得る。 ヨルダン川東岸の諸部族が、自分たちの領域に大きな祭壇を築いたのを見て、西岸の部族たちは、事実関係や意図を確認しないまま、即座に怒りを燃やした。なぜなら、聖所はシロにあり、礼拝は中央聖所であるシロにおいてのみ行われるべきだとされていたからである。それにもかかわらず、東岸の部族だけが独自の礼拝施設を建てることは、礼拝共同体の分裂を助長し、神への反逆であると解釈されたのである。西岸の人々は、中央聖所の権威を揺るがす東岸の部族に対し、戦争をも辞さない集団的対応を決議した。感情的な高ぶりも否定できないが、彼らの危機認識の背後には、正当な神学的緊張感が横たわっていた。この出来事を、ブアル・ペオルの集団的偶像礼拝や、アカンの罪という、共同体への裏切りによってもたらされた失敗と同じ系列のものだと考えたからである。 西岸の部族たちは、祭司ピネハスと部族の長たちを遣わし、東岸の部族を公式に叱責した。西岸の部族が共同体全体を案じていたことは明らかである。「あなたがたの罪が、どうしてあなたがただけの問題であり得ようか」という言葉は、イスラエル共同体は一つであり、東岸の問題はすなわち西岸の責任でもある、という意味を持っている。西岸の部族は、東岸の部族が不純な動機で祭壇を築いたと考えていた。ブアル事件やアカン事件のように、共同体性を損なう行為は、イスラエル全体が神の怒りを招くことになると理解していたからである。 しかし、今日の本文においては、まだ東岸の部族の弁明は語られていない。西岸の部族はすでに「反逆」という結論に到達しており、東岸の部族は、まだ語る機会すら与えられていなかった。真の危機とは、出来事そのものではなく、意思疎通と立場の空白のあいだで膨れ上がっていく誤解である。事実確認が不十分なまま解釈が先行し、双方向の対話よりも一方的な信念が強く働くとき、存在しない出来事のために血が流されることさえある。悪魔の最も効果的な方法は、問題を起こすことではなく、誤解を生み出すことである。誤解を用いれば、敵意と分裂の局面へと容易に人々を追い込むことができる。日本語では「思い込み」と言う。ひとりで考え、想像を重ねながら、誤解を育てていくのである。それが深まれば妄想となり、さらに進めば被害妄想に至る。思考の扉を開いて換気しなければ、人は窒息する。呼吸ができなければ、死に至る。共同体の問題を、自分の閉ざされた空間の中に持ち込み、誤解の種に水をやり続けるなら、私の内側で悪魔が育っていくのである。

여호수아 묵상 【오해의 이해】 20251222(월) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

여호수아 22:10~20 22:10 르우벤 자손과 므낫세 반 지파가 가나안 땅 요단 언덕 가에 이르자 거기서 요단 가에 단을 쌓았는데 볼 만한 큰 단이었더라 22:11 이스라엘 자손이 들은즉 이르기를 르우벤 자손과 갓 자손과 므낫세 반 지파가 가나안 땅의 맨 앞편 요단 언덕 가 이스라엘 자손에게 속한 편에 단을 쌓았다 하는지라 22:12 이스라엘 자손이 이를 듣자 곧…

ヨシュア記 黙想【レビ人と逃れの町】20251219(金) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

ヨシュア記 21:8-26 21:8 イスラエルの子らは、主がモーセを通して命じられたとおりに、次の町々とその放牧地をくじによってレビ人に与えた。 21:9 ユダ部族、シメオン部族からは次に名を挙げる町を与えた。 21:10 これらは、レビ族に属するケハテ人諸氏族の一つ、アロンの子らのものになった。最初のくじが彼らに当たったからである。 21:11 彼らにはユダの山地にあるキルヤテ・アルバ、すなわちヘブロンとその周囲の放牧地を与えた。アルバはアナクの父である。 21:12 しかし、この町の畑と村々はエフンネの子カレブに、その所有地として与えた。 21:13 祭司アロンの子らに与えられたのは、殺人者の逃れの町ヘブロンとその放牧地、リブナとその放牧地、 21:14 ヤティルとその放牧地、エシュテモアとその放牧地、 21:15 ホロンとその放牧地、デビルとその放牧地、 21:16 アインとその放牧地、ユタとその放牧地、ベテ・シェメシュとその放牧地。これら二部族から与えられた九つの町である。 21:17 またベニヤミン部族の中からのギブオンとその放牧地、ゲバとその放牧地、 21:18 アナトテとその放牧地、アルモンとその放牧地の四つの町である。 21:19 アロンの子らである祭司たちの町は、全部で十三の町とその放牧地である。 21:20 レビ人であるケハテ人諸氏族に属する、ケハテ人の残りには、エフライム部族から、くじによって次の町々が与えられた。 21:21 彼らに与えられたのは、エフライムの山地にある殺人者の逃れの町シェケムとその放牧地、ゲゼルとその放牧地、 21:22 キブツァイムとその放牧地、ベテ・ホロンとその放牧地の四つの町。 21:23 またダン部族からエルテケとその放牧地、ギベトンとその放牧地、 21:24 アヤロンとその放牧地、ガテ・リンモンとその放牧地の四つの町。 21:25 またマナセの半部族からタアナクとその放牧地、ガテ・リンモンとその放牧地の二つの町。 21:26 残りのケハテ族の諸氏族には、全部で十の町とその放牧地が与えられた。    神様は、イスラエルの子らの中で、過失によって人を殺してしまった者たちが逃れることのできる場所として、逃れの町を定められました。そして、その逃れの町を任され、管理する役割を担ったのが、レビの子孫たちでした。    私たちが最もよく知っているレビの子孫たちの役割は、「祭司の務め」です。彼らのいるところには、神様にささげられるいけにえがあり、神様への献身があります。そして、そのような場所に、殺人者も、復讐する者も集って来るのです。    一般的に、この逃れの町は、イエス・キリストの模型として理解され、イエス様のもとに逃れる者にはいのちがある、という教えとしてよく語られています。確かに、逃れの町はその役割を十分に果たしています。しかし、ただ逃れの町に逃げ込んだというだけで、完全ないのちが与えられるわけではありません。なぜなら、彼らはいつか、再び町の外へ出て行かなければならないからです。その後に起こる出来事について、逃れの町そのものが責任を負うことはできません。    それゆえに、その町にはレビ人たちが置かれていたのです。逃れの町に身を寄せた人々も、復讐する者たちも、そこで絶えずささげられるいけにえを目にし、レビ人たちの献身を見る中で、彼ら自身もまた、神様を見上げ続けることになるでしょう。その御前にあって、殺人者も復讐する者も、真の悔い改めと、真の赦しを経験することになるのです。    私たちは、レビの子孫たちのような役割を担っていると同時に、殺人者や復讐する者のような存在でもあります。私たちは、イエス様という逃れの町に集まったという事実だけで、いのちを得るのではありません。そこでささげられる信仰の告白と、礼拝といういけにえを通して、いのちにあずかるのです。そして、私たちがささげるその礼拝を通して、新たに教会に集って来る人々に、イエス様を伝えていかなければなりません。    また私たちは、やがて世に出て行かなければならない者たちでもあります。逃れの町でささげた信仰の告白と礼拝を通して、真の悔い改めと赦しの心を与えられ、それぞれの置かれた場所へと帰って行くのです。そして、その場所において、再びイエス様の姿を現していく者とされるのです。 https://youtu.be/cVVqk9HoC90?si=CMt0_4DvNvTQTP1h