マタイによる福音書 黙想 【神のための人間の律法、人のための神の安息】 20260209(月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

マタイによる福音書 12:1–21 12:1 そのころ、イエスは安息日に麦畑を通られた。弟子たちは空腹だったので、穂を摘んで食べ始めた。 12:2 するとパリサイ人たちがそれを見て、イエスに言った。「ご覧なさい。あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています。」 12:3 しかし、イエスは言われた。「ダビデと供の者たちが空腹になったときに、ダビデが何をしたか、 12:4 どのようにして、神の家に入り、祭司以外は自分も供の者たちも食べてはならない、臨在のパンを食べたか、読んだことがないのですか。 12:5 また、安息日に宮にいる祭司たちは安息日を汚しても咎を免れる、ということを律法で読んだことがないのですか。 12:6 あなたがたに言いますが、ここに宮よりも大いなるものがあります。 12:7 『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、咎のない者たちを不義に定めはしなかったでしょう。 12:8 人の子は安息日の主です。」 12:9 イエスはそこを去って、彼らの会堂に入られた。 12:10 すると見よ、片手の萎えた人がいた。そこで彼らはイエスに「安息日に癒やすのは律法にかなっていますか」と質問した。イエスを訴えるためであった。 12:11 イエスは彼らに言われた。「あなたがたのうちのだれかが羊を一匹持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それをつかんで引き上げてやらないでしょうか。 12:12 人間は羊よりはるかに価値があります。それなら、安息日に良いことをするのは律法にかなっています。」 12:13 それからイエスはその人に「手を伸ばしなさい」と言われた。彼が手を伸ばすと、手は元どおりになり、もう一方の手のように良くなった。 12:14 パリサイ人たちは出て行って、どうやってイエスを殺そうかと相談し始めた。 12:15 イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。すると大勢の群衆がついて来たので、彼らをみな癒やされた。 12:16 そして、ご自分のことを人々に知らせないように、彼らを戒められた。 12:17 これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。 12:18 「見よ。わたしが選んだわたしのしもべ、わたしの心が喜ぶ、わたしの愛する者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は異邦人にさばきを告げる。 12:19 彼は言い争わず、叫ばず、通りでその声を聞く者もない。 12:20 傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともない。さばきを勝利に導くまで。 12:21 異邦人は彼の名に望みをかける。」 イエス様は安息日をめぐる論争を通して、形骸化し惰性に陥った律法を表に引き出し、それが本来何のために存在しているのかという根本的な問いを示される。問題は律法を守っているかどうかではなく、律法が何を目的として与えられたのかという点にある。イエス様はユダヤの伝統の内側に立ちながら、議論の相手が否定できない形で旧約聖書を根拠として示される。ダビデの事例、そして「わたしはいけにえを喜ばず、慈しみを喜ぶ」というホセアの言葉は、聞く者に反論の余地を残さない。 宗教は本来、目的である命を守るための手段として制度を生み出す。しかし、その制度が目的であるはずの命を抑圧してしまうことがある。制度化された宗教の中では、主と客の関係が容易に逆転する。安息のために規則を設けることは可能である。しかし、規則を守ること自体が安息になることはない。世の中で疲弊した命が、自らの本来の場所を取り戻すために、時間と空間の中に身を置くこと、それが安息の本質である。 人は常に緊張の中に置かれている。規則を正しく守っているか、非難されるようなことをしていないかを、絶えず自己点検し続ける。模範的に生きていると見なされる人よりも、むしろ「十分にできていない」と感じている人のほうが、その強迫は強くなる。安息日を守るという行為は、いつの間にか安息ではなく規則となり、自由ではなく義務となっていく。それは混乱を生む。しかし、その混乱こそが、イエス様が意図的に引き起こされるものである。 真に安息している人とは、すべてを完璧に守り抜いた人ではない。安息の本質、すなわち神の憐れみの内に身を置いている人である。神が「いけにえではなく、憐れみを求める」と語られた言葉は、安息の核心を示している。規則や資格の内側で、人は安息することはできない。憐れみの内においてのみ、人は安息することができる。人間がその憐れみを再び規則へと変えてしまったにすぎない。安息日と安息が重なり、主の日と主ご自身が一致するならば、それは本来あるべき姿である。

마태복음 묵상 【하나님을 위한 인간의 율법, 사람을 위한 하나님의 안식】 20260209(월) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

마태복음 12:1–21 12:1 그 때에 예수께서 안식일에 밀밭사이로 가실쌔 제자들이 시장하여 이삭을 잘라 먹으니 12:2 바리새인들이 보고 예수께 고하되 보시오 당신의 제자들이 안식일에 하지 못할 일을 하나이다 12:3 예수께서 가라사대 다윗이 자기와 그 함께한 자들이 시장할 때에 한 일을 읽지 못하였느냐 12:4 그가 하나님의 전에 들어가서 제사장 외에는 자기나 그 함께한 자들이 먹지 못하는 진설병을…

マタイによる福音書 黙想 【召されたところで】 20260205(木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

マタイによる福音書 10:16~33 10:16 いいですか。わたしは狼の中に羊を送り出すようにして、あなたがたを遣わします。ですから、蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい。 10:17 人々には用心しなさい。彼らはあなたがたを地方法院に引き渡し、会堂でむち打ちます。 10:18 また、あなたがたは、わたしのために総督たちや王たちの前に連れて行かれ、彼らと異邦人に証しをすることになります。 10:19 人々があなたがたを引き渡したとき、何をどう話そうかと心配しなくてもよいのです。話すことは、そのとき与えられるからです。 10:20 話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話される、あなたがたの父の御霊です。 10:21 兄弟は兄弟を、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に逆らって立ち、死に至らせます。 10:22 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。 10:23 一つの町で人々があなたがたを迫害するなら、別の町へ逃げなさい。まことに、あなたがたに言います。人の子が来るときまでに、あなたがたがイスラエルの町々を巡り終えることは、決してありません。 10:24 弟子は師以上の者ではなく、しもべも主人以上の者ではありません。 10:25 弟子は師のように、しもべは主人のようになれば十分です。家の主人がベルゼブルと呼ばれるくらいなら、ましてその家の者たちは、どれほどひどい呼び方をされるでしょうか。 10:26 ですから彼らを恐れてはいけません。おおわれているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずにすむものはないからです。 10:27 わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。あなたがたが耳もとで聞いたことを、屋上で言い広めなさい。 10:28 からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。 10:29 二羽の雀は一アサリオンで売られているではありませんか。そんな雀の一羽でさえ、あなたがたの父の許しなしに地に落ちることはありません。 10:30 あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています。 10:31 ですから恐れてはいけません。あなたがたは多くの雀よりも価値があるのです。 10:32 ですから、だれでも人々の前でわたしを認めるなら、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。 10:33 しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも、天におられるわたしの父の前で、その人を知らないと言います。 イエス様は弟子たちを遣わされるとき、「羊を狼の中に送るようなものだ」と言われました。これは、使命がそのまま危険を取り除いてくれるという約束ではないようです。しかし、それを乗り越えるための道はあります。それが、「蛇のように賢く、鳩のように純粋であれ」ということです。蛇のように賢いとは、ずる賢くなるという意味ではありません。現実を読み取る感覚を持つということです。この世が善意だけで動いていると思うのは、あまりにも素朴な幻想です。だからこそ、鳩のように純粋であれというのも、単なる無邪気さを意味しているのではありません。この世のやり方に染まるな、ということです。蛇が現実認識だとすれば、鳩は自分のアイデンティティです。 弟子たちは、イエス様が遣わされた道の途中で、宗教や社会が作り出した権力や秩序とぶつかり、近しい家族とも感情的に衝突することになるでしょう。信仰は、心や考えの中だけに留まることはできません。信仰が潜伏しているうちは、誰も困らせません。しかし、信仰を公に告白すると、必ず葛藤が生まれます。だからこそ、イエス様は「人の前でわたしを認めるなら」と語られたのです。閉ざされた信仰は、歪められやすいものです。信仰とは沈黙することではなく、歪んだものを握りしめて生きる観念でもありません。信仰は生きている命です。告白し、認め、公に表して、外へ引き出し、呼吸させなければならないのです。 心から信じられない人は、いつの時代にもいます。信じる人より、信じない人のほうが常に多いものです。問題は、信じながらそれを隠して生きている人たちです。「聞かれなかったから答えなかった」という言葉は、結局、恥ずかしくて言えなかったということなのです。信仰のゆえに、世や家族と一度も衝突したことのない人こそ、最も深刻な問題です。恥ずかしいと思うものを信じるはずがなく、自信のないものを信じるはずもありません。それは本当に信仰だったのでしょうか。神様への信頼と、この世に立ち向かう勇気は、同じ意味です。人が神様を恥じるなら、神様もその人を恥じる、と言われました。遣わされた道の上で、信仰のゆえに憎まれ、無視され、損をするとしても、神の人が支えられているのは、信仰の告白と、それを知っておられる神様との関係があるからです。

마태복음 묵상 【부르신 곳에서】 20260205(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

마태복음 10:16~33 10:16 보라 내가 너희를 보냄이 양을 이리 가운데 보냄과 같도다 그러므로 너희는 뱀 같이 지혜롭고 비둘기 같이 순결하라 10:17 사람들을 삼가라 저희가 너희를 공회에 넘겨 주겠고 저희 회당에서 채찍질하리라 10:18 또 너희가 나를 인하여 총독들과 임금들 앞에 끌려 가리니 이는 저희와 이방인들에게 증거가 되게 하려 하심이라 10:19 너희를 넘겨줄 때에 어떻게 또는 무엇을…

マタイによる福音書 黙想 【金貨も銀貨も持たず】 20260204(水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

マタイによる福音書 10:1~15 10:1 イエスは十二弟子を呼んで、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やすためであった。 10:2 十二使徒の名は次のとおりである。まず、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、 10:3 ピリポとバルトロマイ、トマスと取税人マタイ、アルパヨの子ヤコブとタダイ、 10:4 熱心党のシモンと、イエスを裏切ったイスカリオテのユダである。 10:5 イエスはこの十二人を遣わす際、彼らにこう命じられた。「異邦人の道に行ってはいけません。また、サマリア人の町に入ってはいけません。 10:6 むしろ、イスラエルの家の失われた羊たちのところに行きなさい。 10:7 行って、『天の御国が近づいた』と宣べ伝えなさい。 10:8 病人を癒やし、死人を生き返らせ、ツァラアトに冒された者をきよめ、悪霊どもを追い出しなさい。あなたがたはただで受けたのですから、ただで与えなさい。 10:9 胴巻に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはいけません。 10:10 袋も二枚目の下着も履き物も杖も持たずに、旅に出なさい。働く者が食べ物を得るのは当然だからです。 10:11 どの町や村に入っても、そこでだれがふさわしい人かをよく調べ、そこを立ち去るまで、その人のところにとどまりなさい。 10:12 その家に入るときには、平安を祈るあいさつをしなさい。 10:13 その家がそれにふさわしければ、あなたがたの祈る平安がその家に来るようにし、ふさわしくなければ、その平安があなたがたのところに返って来るようにしなさい。 10:14 だれかがあなたがたを受け入れず、あなたがたのことばに耳を傾けないなら、その家や町を出て行くときに足のちりを払い落としなさい。 10:15 まことに、あなたがたに言います。さばきの日には、ソドムとゴモラの地のほうが、その町よりもさばきに耐えやすいのです。 イエス様は弟子たちを遣わされます。弟子たちは、もはや後について歩くだけの者ではなく、遣わされた者となったのです。終わりだから遣わされるのではなく、遣わされて初めて終わるのです。経験より重要な理論はない、そう思わされます。イエス様は弟子たちを遣わすにあたって、金も銀も袋も持たないようにと言われました。使命は人の所有や準備によって始まり、成り立つのではなく、神様への依存によって始まり、築かれるものだからです。準備が多いから成し遂げられるのではなく、信頼が積み重ねられる中で成っていくのです。 このことは、キリスト者であれば誰もが受け入れ、理解できる話でしょう。しかし問題は現実です。献身や従順という言葉は理解できても、現実は常にそれと衝突します。これ以上譲れない必要があり、背負わなければならない責任があり、守り続けなければならない関係があります。効率や合理性の視点から見れば、信仰は無謀に映ります。だから人は、現実と正面衝突しないために、これを象徴的な意味へと和らげてしまいたくなるのです。信仰を捨てたわけでもなく、従わなかったわけでもない。けれども現実の前に立つと、途端に小さくなり、丁寧になってしまう。その結果、信じていることと生きていることの間に生まれる偽善や二重性から、逃れることができなくなります。 その戸惑いや恐れを否定することはできません。しかし、どれほど取捨選択をしてみても、イエス様の言葉は明確です。準備が整ってから行けとは言われず、先に行けと言われるのです。信仰は常に供給よりも先にあります。もし供給の確認を待つなら、確認できる場合もあるでしょう。しかしそのとき、信仰を確認することはできません。イエス様はそれを悟らせるために、弟子たちの背中を押して送り出されるのです。信仰が人生の形になるのは、信仰によって最初の一歩を踏み出した人の場合だけです。その人だけが、神様を知り、神様を経験することになるのです。 金も銀も袋も、収入も自分自身もすべて手放し、裸の手で出て行って、いったい何ができるのでしょうか。それは、私たちが究極的に何を恐れ、不安に思いながら生きているのかを、否定できなくさせるためです。問題はお金だけではありません。弟子たちは歓迎されることもあれば、拒まれることもあります。歓迎は高慢の罠となり、拒絶は被拒絶感や怒りの落とし穴となります。拒まれたときに足の塵を払い落とせと言われたのは、復讐や怒りのためではなく、その結果を自分の責任として抱え込まないための、守りの装置ではないでしょうか。逆さまに生きること。それこそが信仰を実際に使ってみることであり、最終的にそれが神様を経験する通路となるのです。

마태복음 묵상 【금도 은도 가지지 말고】 20260204(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

마태복음 10:1~15 10:1 예수께서 그 열 두 제자를 부르사 더러운 귀신을 쫓아내며 모든 병과 모든 약한 것을 고치는 권능을 주시니라 10:2 열 두 사도의 이름은 이러하니 베드로라 하는 시몬을 비롯하여 그의 형제 안드레와 세베대의 아들 야고보와 그의 형제 요한, 10:3 빌립과 바돌로매, 도마와 세리 마태, 알패오의 아들 야고보와 다대오, 10:4 가나안인 시몬과 및 가룟 유다…

マタイによる福音書 黙想 【収穫の働き手】 20260203(火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

マタイによる福音書 9:27~38 9:27 イエスがそこから進んで行くと、目の見えない二人の人が、「ダビデの子よ、私たちをあわれんでください」と叫びながらついて来た。 9:28 イエスが家に入られると、その人たちがみもとに来た。イエスが、「わたしにそれができると信じるのか」と言われると、彼らは「はい、主よ」と言った。 9:29 そこでイエスは彼らの目にさわって、「あなたがたの信仰のとおりになれ」と言われた。 9:30 すると、彼らの目が開いた。イエスは彼らに厳しく命じて、「だれにも知られないように気をつけなさい」と言われた。 9:31 しかし、彼らは出て行って、その地方全体にイエスのことを言い広めた。 9:32 その人たちが出て行くと、見よ、人々はイエスのもとに、悪霊につかれて口のきけない人を連れて来た。 9:33 悪霊が追い出されると、口のきけない人がものを言うようになった。群衆は驚いて、「こんなことはイスラエルで、いまだかつて起こったことがない」と言った。 9:34 しかし、パリサイ人たちは、「彼は悪霊どものかしらによって悪霊どもを追い出しているのだ」と言った。 9:35 それからイエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やされた。 9:36 また、群衆を見て深くあわれまれた。彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである。 9:37 そこでイエスは弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。 9:38 だから、収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」   イエス様が語られた「収穫」という言葉を理解するにあたって、私たちの中には少なからず誤解がある。ここで語られている収穫とは、生産量が多く希望に満ちた楽観的な状態を指しているのではない。イエス様が群衆をご覧になって抱かれたのは、可能性への期待ではなく、もはやこれ以上放置することのできない限界点に達した人間の現実に対する深い憐れみであった。それを「収穫」と表現された理由は、マタイ福音書9章が描いている状況そのものが説明している。人々はすでに苦しみの中で問いを抱え、道を見失い、さまよっていたからである。 それならば、収穫する働き手が何をなすべきかについても見えてくる。収穫する働き手とは、人を集めて満たす者ではない。イエス様が見ておられるこの現実を、同じまなざしで見ることのできる者である。「働き手が少ない」という言葉は、人がいないという意味でも、能力が足りないという意味でもない。イエス様が群衆をご覧になったときに抱かれた、その憐れみのまなざしを共有できる者が少ない、という意味である。それが失われると、イエス様の慈しみのまなざしは外面的な成果として誤解され、人は動員の手段や数字へと還元されてしまうからである。 したがって、今求められているのは、時代の人々が感じている苦しみを個人の失敗として扱わず、牧者を失ってさまよっている状態であることを認め、もはや先延ばしにできない切迫さと切実さを共に感じ取ることである。今日の本文に登場する苦しみは、見ることができないこと、そして悪霊につかれて語ることができないことである。目があっても見えず、口があっても語ることができない――それは、この時代が患っている障害を示している。それを乗り越えていくすべての営みが収穫であり、その働きを共に担う同労者こそが収穫する働き手である。イエス様はそのために、祈るようにと命じられたのである。

마태복음 묵상 【추수할 일꾼】 20260203(화) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

마태복음 9:27~38 9:27 예수께서 거기서 떠나 가실쌔 두 소경이 따라 오며 소리질러 가로되 다윗의 자손이여 우리를 불쌍히 여기소서 하더니 9:28 예수께서 집에 들어가시매 소경들이 나아오거늘 예수께서 이르시되 내가 능히 이 일 할 줄을 믿느냐 대답하되 주여 그러하오이다 하니 9:29 이에 예수께서 저희 눈을 만지시며 가라사대 너희 믿음대로 되라 하신대 9:30 그 눈들이 밝아진지라 예수께서 엄히…

マタイによる福音書 黙想 【イエス様の共感】 20260202(月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

マタイによる福音書 9:14~26 9:14 それから、ヨハネの弟子たちがイエスのところに来て、「私たちとパリサイ人はたびたび断食をしているのに、なぜあなたの弟子たちは断食をしないのですか」と言った。 9:15 イエスは彼らに言われた。「花婿に付き添う友人たちは、花婿が一緒にいる間、悲しむことができるでしょうか。しかし、彼らから花婿が取り去られる日が来ます。そのときには断食をします。 9:16 だれも、真新しい布切れで古い衣に継ぎを当てたりはしません。そんな継ぎ切れは衣を引き裂き、破れがもっとひどくなるからです。 9:17 また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。そんなことをすれば皮袋は裂け、ぶどう酒が流れ出て、皮袋もだめになります。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れます。そうすれば両方とも保てます。」 9:18 イエスがこれらのことを話しておられると、見よ、一人の会堂司が来てひれ伏し、「私の娘が今、死にました。でも、おいでになって娘の上に手を置いてやってください。そうすれば娘は生き返ります」と言った。 9:19 そこでイエスは立ち上がり、彼について行かれた。弟子たちも従った。 9:20 すると見よ。十二年の間長血をわずらっている女の人が、イエスのうしろから近づいて、その衣の房に触れた。 9:21 「この方の衣に触れさえすれば、私は救われる」と心のうちで考えたからである。 9:22 イエスは振り向いて、彼女を見て言われた。「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、その時から彼女は癒やされた。 9:23 イエスは会堂司の家に着き、笛吹く者たちや騒いでいる群衆を見て、 9:24 「出て行きなさい。その少女は死んだのではなく、眠っているのです」と言われた。人々はイエスをあざ笑った。 9:25 群衆が外に出されると、イエスは中に入り、少女の手を取られた。すると少女は起き上がった。 9:26 この話はその地方全体に広まった。 生布の切れを古い衣に継ぎ当てしてはならないという言葉は、古いものを捨てよという意味ではない。長い時間を生きてきたものを顧みることなく、新しいものを押しつければ、新しいものも傷み、古いものも壊れてしまう、ということである。共に生きるためには、対象への尊重、他者の状態を読み取る感受性が必要なのだ。 新しいぶどう酒と古い皮袋も同じである。新しいぶどう酒は生きていて、内側から膨張する。古い皮袋は、残念ながら、もはやその膨らみに耐えることができない。問題は古さそのものではなく、その古さを無視する無礼さと無知であろう。新しいぶどう酒は大切だが、皮袋を理解しなければ、結局ぶどう酒さえ失ってしまう。 生布の切れも大切であり、古い衣も大切である。新しいぶどう酒も大切であり、古い皮袋もまた大切である。イエスの関心は、どちらが優れているかではなく、どうすれば共に生きられるか、という点にある。どれほど良いものであっても、相手の条件や状態を無視して押し通せば、それは破壊になりうるからである。 イエスが血の止まらない女を癒やされる物語は、会堂長ヤイロの娘を癒やされる物語のただ中に挟み込まれている。この二つの出来事は、それぞれ別々の話ではなく、一つのセットとして語られている。十二年もの間、血の病に苦しんできた女と、十二歳の会堂長ヤイロの娘がいる。一人は社会から排除された存在であり、もう一人は会堂長の娘である。 一人は名前すら知られず、もう一人は少なくとも「ヤイロの娘」という立場をもって登場する。しかし、イエスの前では、この二人は同じ重さで置かれている。娘を生かしてほしいと足早にイエスを導いていたヤイロ。しかしイエスは、心が急いている彼を道の途中に立ち止まらせる。そして群衆の中に身を潜めていた血の病の女と向き合い、語り合われる。 一刻を争うヤイロは、焦りでいっぱいだっただろう。ヤイロは自分の娘のために、イエスさえ憎く、血の病の女さえ憎く思えたに違いない。娘を愛するヤイロの前に立たされた血の病の女は、身の置きどころがなかっただろう。彼女もまた、誰かの娘であったことは間違いない。血の病の女は父親のことを思ったかもしれない。もし物語に登場しないその父親が、その場面を目にしていたなら、どれほど胸が痛んだことだろう。 だからこそ、イエスの共感が最も深く現れる呼びかけは「娘よ」である。「娘よ」という言葉は、本来ヤイロの娘に向けられてもおかしくない呼び名である。しかし孤独と喪失と苦しみを深く受け止められたイエスは、ご自身より年上であったであろう血の病の女を、「娘よ」と呼ばれる。イエスは実に繊細である。結局、イエスは生布の切れと新しいぶどう酒を生かし、ヤイロの娘も生かされる。そして古い衣と古い皮袋を生かすように、血の病の女も生かされる。「娘よ」と呼ばれたイエスの声帯の響きが、今も聞こえてくるようである。

마태복음 묵상 【예수님의 공감】 20260202(월) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

마태복음 9:14~26 9:14 그 때에 요한의 제자들이 예수께 나아와 가로되 우리와 바리새인들은 금식하는데 어찌하여 당신의 제자들은 금식하지 아니하나이까 9:15 예수께서 저희에게 이르시되 혼인집 손님들이 신랑과 함께 있을 동안에 슬퍼할 수 있느뇨  그러나 신랑을 빼앗길 날이 이르리니 그 때에는 금식할 것이니라 9:16 생베 조각을 낡은 옷에 붙이는 자가 없나니 이는 기운 것이 그 옷을 당기어 해어짐이…