에스라 묵상 10【믿는 대로 살기】220419(화) 에다가와 사랑의 교회

에스라 8:21~368:21 때에 내가 아하와강 가에서 금식을 선포하고 우리 하나님 앞에서 스스로 겸비하여 우리와 우리 어린것과 모든 소유를 위하여 평탄한 길을 그에게 간구하였으니8:22 이는 우리가 전에 왕에게 고하기를 우리 하나님의 손은 자기를 찾는 모든 자에게 선을 베푸시고 자기를 배반하는 모든 자에게는 권능과 진노를 베푸신다 하였으므로 길에서 적군을 막고 우리를 도울 보병과 마병을 왕에게 구하기를 부끄러워…

エズラ QT9 【賢明な一人】2204019(月) 枝川愛の教会

エズラ 8:1~208:1 アルタクセルクセス王の治世に、バビロンから私と一緒に上って来た一族のかしらと、その系図の記載は次のとおりである。8:2 ピネハス族からはゲルショム。イタマル族からはダニエル。ダビデ族からはハトシュ。8:3 ハトシュはシェカンヤの孫。パルオシュ族からは、ゼカリヤと、系図に記載された同行の者、男子百五十人。8:4 パハテ・モアブ族からは、ゼラフヤの子エルエホエナイと、同行の男子二百人。8:5 ザト族からは、ヤハジエルの子シェカンヤと、同行の男子三百人。8:6 アディン族からは、ヨナタンの子エベデと、同行の男子五十人。8:7 エラム族からは、アタルヤの子エシャヤと、同行の男子七十人。8:8 シェファテヤ族からは、ミカエルの子ゼバデヤと、同行の男子八十人。8:9 ヨアブ族からは、エヒエルの子オバデヤと、同行の男子二百十八人。8:10 バニ族からは、ヨシフヤの子シェロミテと、同行の男子百六十人。8:11 ベバイ族からは、ベバイの子ゼカリヤと、同行の男子二十八人。8:12 アズガデ族からは、ハ・カタンの子ヨハナンと、同行の男子百十人。8:13 アドニカム族からの者は最後の者たちで、その名はエリフェレテ、エイエル、シェマヤ、および彼らと同行の男子六十人。8:14 ビグワイ族からは、ウタイとザクルと、同行の男子七十人。8:15 私はアハワに流れる川のほとりに彼らを集め、私たちはそこに三日間宿営した。私はそこに民と祭司たちを確認したが、レビ人は見つけることができなかった。8:16 それで私は、かしらのエリエゼル、アリエル、シェマヤ、エルナタン、ヤリブ、エルナタン、ナタン、ゼカリヤ、メシュラムと、教師エホヤリブ、エルナタンを呼び集め、8:17 カシフヤ地方のかしらイドについて、彼らに指示した。すなわち、イドとその同僚、またカシフヤ地方にいる宮のしもべたちに対して、私たちの神の宮に仕える者たちを送ってもらうためには何と言えばよいか、彼らにことばを授けた。8:18 私たちの神の恵みの御手が私たちの上にあったので、彼らはイスラエルの子、レビの子、マフリの子のうちから賢明な者、シェレベヤと、その子たち、およびその兄弟たち十八人を私たちのところに連れて来てくれた。8:19 また、ハシャブヤとともに、メラリの子のうちからエシャヤと、その兄弟と、その子たち二十人、8:20 および、ダビデとその高官たちにより、レビ人に奉仕するよう任命されていた宮のしもべたちのうちから、二百二十人の宮のしもべたちを連れて来た。これらの者はみな、指名された者であった。   ゼルバベルの一次帰還に続くエズラの二次帰還です。本文に名前が出てくる人と人数を合わせると1514人です。当時は大人の男だけを数えたので彼らの家族を含めると、二次帰還人口は5千人程度です。ゼルバベルの一次帰還に比べると10分の1ぐらいの規模です。エズラは帰還する人々の中にレビ人が一人もいないことに気づき、責任あるリーダーを送って神様の聖殿に献身する人々を探し求めます。レビ人を求めたのは、礼拝に仕える人を加えるためです。エズラ書は、彼らが「レビの子、マフリの子のうちから賢明な者」を見つけたと言います。一人です。洞察力とリーダーシップを持っている一人です。そしてさらに彼を助ける人材238人を選抜します。   一人のリーダーシップと精鋭メンバーが追加です。人数は重要ではありません。ゼルバベルもエズラも人や人数に頼りません。もちろん神様は人を通して働かれますが、神様の働きにおいて人に頼ってはいけません。エズラの帰還はゼルバベルの帰還よりも少ない人数でしたが、一人の洞察力のあるリーダーと責任ある少数の人で、イスラエル共同体は回復します。重要なのは、人数ではなく、忠誠と賢明の一人です。できるかどうかを悩むのではなく、神様に献身されているかどうかを確認しなければありません。神様の共同体は神様が彼らを通して立てられます。

에스라 묵상 9【명철한 한 사람】220418(월) 에다가와 사랑의 교회

에스라 8:1~208:1 아닥사스다왕이 위에 있을 때에 나와 함께 바벨론에서 올라온 족장들과 그들의 보계가 이러하니라8:2 비느하스 자손 중에서는 게르솜이요 이다말 자손 중에서는 다니엘이요 다윗 자손 중에서는 핫두스요8:3 스가냐 자손 곧 바로스 자손 중에서는 스가랴니 그와 함께 족보에 기록된 남자가 일백 오십명이요8:4 바핫모압 자손 중에서는 스라히야의 아들 엘여호에내니 그와 함께한 남자가 이백명이요8:5 스가냐 자손 중에서는 야하시엘의 아들이니…

枝川愛の教会 受難週 黙想【まだ罪人であったとき】220416土

ローマ人への手紙 5章 6~115:6 私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。5:7 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。5:8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。5:9 ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。5:10 もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。5:11 そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。   自分の欲に満ちた人々はイエス様を殺し、イエス様は彼らを赦すために十字架につけられました。十字架の上で「完了した」と言われ、なくなりました。これで救いのためのイエス様の使命は確かに成就されました。救いのタイミングについて、ローマ人への手紙はこう言います。「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。5:8」十字架は罪人に対する神様の愛ですが、そのタイミングは罪人がまだ罪人である時です。 先に愛したのは神様です。   十字架の事実を知ったからといって、イエス様が成就された救いの装置が自分の中で自動的に完成されるわけではありません。救いが自分の中で確かになるためには「信仰」が必要です。もちろん、イエス様が代わりに受けたので、自分地自身で罪の罰を受けることではありません。しかし、救われる人は自分の罪を持ってきて十字架にかけなければならないです。自分と自分の罪を認め、それを表して十字架にかけなければなりません。赦しは悔い改めを前提とします。悔い改めずに赦しを語るのは、罪をさらに築くことになります。自分の罪を認めなければ、救いの十字架を信じることはできません。十字架は罪人にための赦しの装置だからです。イエス様は口で十字架を負ったことではないです。実際に血を流して死なれました。神様と和解するためには十字架の救いの装置を信じ、その十字架に私の罪をかけなければなりません。  

에다가와 사랑의 교회 고난주간 묵상 【아직 죄인 되었을 때】220416(토)

로마서 5장 6~115:6 우리가 아직 연약할 때에 기약대로 그리스도께서 경건하지 않은 자를 위하여 죽으셨도다5:7 의인을 위하여 죽는 자가 쉽지 않고 선인을 위하여 용감히 죽는 자가 혹 있거니와5:8 우리가 아직 죄인 되었을 때에 그리스도께서 우리를 위하여 죽으심으로 하나님께서 우리에 대한 자기의 사랑을 확증하셨느니라5:9 그러면 이제 우리가 그의 피로 말미암아 의롭다 하심을 받았으니 더욱 그로 말미암아 진노하심에서…

枝川愛の教会 受難週 ヨハネの福音書 黙想5【イエス様の責任】220415金

ヨハネの福音書 19章 23~3019:23 さて、兵士たちはイエスを十字架につけると、その衣を取って四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。また下着も取ったが、それは上から全部一つに織った、縫い目のないものであった。19:24 そのため、彼らは互いに言った。「これは裂かないで、だれの物になるか、くじを引こう。」これは、「彼らは私の衣服を分け合い、私の衣をくじ引きにします」とある聖書が成就するためであった。それで、兵士たちはそのように行った。19:25 イエスの十字架のそばには、イエスの母とその姉妹、そしてクロパの妻マリアとマグダラのマリアが立っていた。19:26 イエスは、母とそばに立っている愛する弟子を見て、母に「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です」と言われた。19:27 それから、その弟子に「ご覧なさい。あなたの母です」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分のところに引き取った。19:28 それから、イエスはすべてのことが完了したのを知ると、聖書が成就するために、「わたしは渇く」と言われた。19:29 酸いぶどう酒がいっぱい入った器がそこに置いてあったので、兵士たちは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝に付けて、イエスの口もとに差し出した。19:30 イエスは酸いぶどう酒を受けると、「完了した」と言われた。そして、頭を垂れて霊をお渡しになった。   イエスが酸いぶどう酒を受けた後、「完了した」と言われてなくなりました。すべてを完了したということがイエス様の最後の遺言です。「完了した」と言われたので、たとえ、苦しみの中で死にましたが、それが失敗ではなく、目的通りに達成したことです。神様が約束した救いのみことばが現実に成就されたことです。これにより、人間の救いは長い準備を経て実行の段階に着きます。   完了、成就と言う根拠は、神様のみことばです。みことばが現実になったからです。私たちが信じるということは、みことばが成し遂げられることを信じることです。みことばが現実になることを信じることが信仰ではないでしょうか。完了したことは、人間の目標や期待ではなく、神様のみことばです。23~24節に軍兵がイエス様の服を分けてくじを引くのは詩篇22編18節の成就であり、28節でイエス様が酸いぶどう酒を口に付けることは、詩篇69編21節の成就です。それを成し遂げたと言われたのです。   イエス様は痛みを瞬間に肉体の母マリアを考えています。公生涯の間に扶養されなかった母親に対する感情を表し、イエス様の死後にマリアの老後を使徒ヨハネに頼みます。使徒ヨハネはその遺言をよく守りました。イエス様は最後まで責任について考えておられます。愛には責任があるからです。十字架につけられたのは、その愛の責任のためです。責任という言葉は以前よりも多く使われていますが、どの時代よりも責任を負わない時代ではないかと思います。しかし、責任の反対語は自由ではありません。自由は責任の中にあるものです。責任はすなわち使命です。みことばを守るというのは使命を守ることであり、それは今日一日に与えられた責任に対して能動的なものではないでしょうか。

에다가와 사랑의 교회 고난주간 요한복음 묵상5 【예수님의 책임】220415(금)

요한복음 19장 23~3019:23 군병들이 예수를 십자가에 못 박고 그의 옷을 취하여 네 깃에 나눠 각각 한 깃씩 얻고 속옷도 취하니 이 속옷은 호지 아니하고 위에서부터 통으로 짠 것이라19:24 군병들이 서로 말하되 이것을 찢지 말고 누가 얻나 제비 뽑자 하니 이는 성경에 저희가 내 옷을 나누고 내 옷을 제비 뽑나이다 한 것을 응하게 하려 함이러라 군병들은…

枝川愛の教会 受難週 ヨハネの福音書 黙想4【我が王、我が主】220414木

ヨハネの福音書 19章 14~2219:14 その日は過越の備え日で、時はおよそ第六の時であった。ピラトはユダヤ人たちに言った。「見よ、おまえたちの王だ。」19:15 彼らは叫んだ。「除け、除け、十字架につけろ。」ピラトは言った。「おまえたちの王を私が十字架につけるのか。」祭司長たちは答えた。「カエサルのほかには、私たちに王はありません。」19:16 ピラトは、イエスを十字架につけるため彼らに引き渡した。彼らはイエスを引き取った。19:17 イエスは自分で十字架を負って、「どくろの場所」と呼ばれるところに出て行かれた。そこは、ヘブル語ではゴルゴタと呼ばれている。19:18 彼らはその場所でイエスを十字架につけた。また、イエスを真ん中にして、こちら側とあちら側に、ほかの二人の者を一緒に十字架につけた。19:19 ピラトは罪状書きも書いて、十字架の上に掲げた。それには「ユダヤ人の王、ナザレ人イエス」と書かれていた。19:20 イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がこの罪状書きを読んだ。それはヘブル語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。19:21 そこで、ユダヤ人の祭司長たちはピラトに、「ユダヤ人の王と書かないで、この者はユダヤ人の王と自称したと書いてください」と言った。19:22 ピラトは答えた。「私が書いたものは、書いたままにしておけ。」   ヨハネによる福音書の1章12節の「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。」の前の節は11節の「この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。」です。世は王が王であることに気づきませんでした。ピラトがイエス様に初めてに聞いたことも「あなたがユダヤ人の王なのか」です。ピラトはイエス様を十字架に付けた後で頭の上に「ナザレのイエス・ユダヤ人の王」という罪状書を書いて付けました。ヘブル語、ラテン語、ギリシア語で書きました。そこには政治的な計算があります。過越祭にはエルサレムに多くの人が集まるから彼らに宣伝するためです。ローマ総督がユダヤ人の王を殺したので、ユダヤに対する嘲笑いではないでしょうか。   大祭司たちが「ナザレのイエス・ユダヤ人の王」と書いた札を見て「自称ユダヤ人の王」と変えてほしいと言いましたが、ピラトはイエス様を嘲笑う代わりにユダヤ人全体を嘲笑おうとしたので文言を変えません。嘲笑はそれだけではありません。ユダヤ人は自分の王を十字架につけて殺す敗輪の民になります。ピラトが死刑を宣告した後、手を洗い、自分と関係がないと言ったのは、ユダヤ人がユダヤ人の王を殺したという論理です。ピラトがイエス様を王と書いたのは、ユダヤ人を嘲笑するためであり、ユダヤ人が自称王としたのは王であることをイエス様嘲笑うためです。だからといって王ではないわけではありません。民は王をたたき、唾を吐き、殺しました。本文の登場人物を批判しながら、私はイエス様を王として仕えているのかを考えざる得ませんでした。キリストの言葉と生き方と十字架の前で告白したいと思います。あなたは私の主、私の王です。

에다가와 사랑의 교회 고난주간 요한복음 묵상4 【나의 왕 나의 주】220414(목)

요한복음 19장 14~2219:14 이 날은 유월절의 예비일이요 때는 제 육시라 빌라도가 유대인들에게 이르되 보라 너희 왕이로다19:15 저희가 소리지르되 없이 하소서 없이 하소서 저를 십자가에 못 박게 하소서 빌라도가 가로되 내가 너희 왕을 십자가에 못 박으랴 대제사장들이 대답하되 가이사 외에는 우리에게 왕이 없나이다 하니19:16 이에 예수를 십자가에 못 박히게 저희에게 넘겨주니라19:17 저희가 예수를 맡으매 예수께서 자기의…

枝川愛の教会 受難週 ヨハネの福音書 黙想3【イエス様の死因】220413月

ヨハネの福音書 19章 1~1319:1 それでピラトは、イエスを捕らえてむちで打った。19:2 兵士たちは、茨で冠を編んでイエスの頭にかぶらせ、紫色の衣を着せた。19:3 彼らはイエスに近寄り、「ユダヤ人の王様、万歳」と言って、顔を平手でたたいた。19:4 ピラトは、再び外に出て来て彼らに言った。「さあ、あの人をおまえたちのところに連れて来る。そうすれば、私にはあの人に何の罪も見出せないことが、おまえたちに分かるだろう。」19:5 イエスは、茨の冠と紫色の衣を着けて、出て来られた。ピラトは彼らに言った。「見よ、この人だ。」19:6 祭司長たちと下役たちはイエスを見ると、「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫んだ。ピラトは彼らに言った。「おまえたちがこの人を引き取り、十字架につけよ。私にはこの人に罪を見出せない。」19:7 ユダヤ人たちは彼に答えた。「私たちには律法があります。その律法によれば、この人は死に当たります。自分を神の子としたのですから。」19:8 ピラトは、このことばを聞くと、ますます恐れを覚えた。19:9 そして、再び総督官邸に入り、イエスに「あなたはどこから来たのか」と言った。しかし、イエスは何もお答えにならなかった。19:10 そこで、ピラトはイエスに言った。「私に話さないのか。私にはあなたを釈放する権威があり、十字架につける権威もあることを、知らないのか。」19:11 イエスは答えられた。「上から与えられていなければ、あなたにはわたしに対して何の権威もありません。ですから、わたしをあなたに引き渡した者に、もっと大きな罪があるのです。」19:12 ピラトはイエスを釈放しようと努力したが、ユダヤ人たちは激しく叫んだ。「この人を釈放するのなら、あなたはカエサルの友ではありません。自分を王とする者はみな、カエサルに背いています。」19:13 ピラトは、これらのことばを聞いて、イエスを外に連れ出し、敷石、ヘブル語でガバタと呼ばれる場所で、裁判の席に着いた。   ヨハネの福音書の19章に進みました。イエス様がピラトの法廷で苦しまれています。その現場にはローマ総督のピラト、ローマ軍兵、ユダヤ人の大祭司、彼らに従うユダヤ人がいます。邪悪な人とそれに従う愚かな人々、そして優柔不断の人と彼の命令に従う人です。大祭司とユダヤ人は、ピラトにイエス様の死を求めますが、ピラトはイエス様を殺したくありませんでした。無罪であることを知っていたからです。しかし、総督ピラトはユダヤ社会を統治という政治的立場を守らなければならなかったので、イエス様を死に渡します。今朝の箴言のみことばは、「血に飢えた者たちは誠実な人を憎み、心の直ぐな人のいのちを狙う箴言29:10」とありました。   私たちは、「イエス様が十字架につけられた理由を私たちの罪のため」と言います。間違っではありませんが、その答えと生き方には距離があり、十字架の実体も、自分の信仰の実体を見つからない時があります。私の罪のために誰かが死んだならば、私の人生は変わらなければならないからです。十字架は実際であり、実体です。抽象的ではありません。イエス様の受難と死の現場を覗き見ると、イエス様が死んだ理由には具体的な実体があります。イエス様の死因は、人々の自分のための利己的な貪欲です。真実を真実と思わず、事実を事実に語らず、ただ自分の利益にこだわる時、イエス様は死にました。自分の目の前の利益をに執着するときにイエスは死に、自分の信仰をも死にます。イエス様の死因はあきらかに人間の自己中心の貪欲です。イエス様が私の罪のために死んだと言っても、まだ欲に支配されているなら、そこで信仰の実体を見つけることはできません。