고린도전서 묵상20【유니버셜 처치】220528(토) 에다가와 사랑의 교회

고린도전서 12:12~2012:12 몸은 하나인데 많은 지체가 있고 몸의 지체가 많으나 한 몸임과 같이 그리스도도 그러하니라12:13 우리가 유대인이나 헬라인이나 종이나 자유자나 다 한 성령으로 세례를 받아 한 몸이 되었고 또 다 한 성령을 마시게 하셨느니라12:14 몸은 한 지체뿐 아니요 여럿이니12:15 만일 발이 이르되 나는 손이 아니니 몸에 붙지 아니하였다 할지라도 이로 인하여 몸에 붙지 아니한 것이…

Ⅰコリント 黙想19【聖徒の彩色】220527(金) 枝川愛の教会

Ⅰコリント 12:1~1112:1 さて、兄弟たち。御霊の賜物については、私はあなたがたに知らずにいてほしくありません。12:2 ご存じのとおり、あなたがたが異教徒であったときには、誘われるまま、ものを言えない偶像のところに引かれて行きました。12:3 ですから、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも「イエスは、のろわれよ」と言うことはなく、また、聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。12:4 さて、賜物はいろいろありますが、与える方は同じ御霊です。12:5 奉仕はいろいろありますが、仕える相手は同じ主です。12:6 働きはいろいろありますが、同じ神がすべての人の中で、すべての働きをなさいます。12:7 皆の益となるために、一人ひとりに御霊の現れが与えられているのです。12:8 ある人には御霊を通して知恵のことばが、ある人には同じ御霊によって知識のことばが与えられています。12:9 ある人には同じ御霊によって信仰、ある人には同一の御霊によって癒やしの賜物、12:10 ある人には奇跡を行う力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。12:11 同じ一つの御霊がこれらすべてのことをなさるのであり、御霊は、みこころのままに、一人ひとりそれぞれに賜物を分け与えてくださるのです。   同じ一つの御霊からそれぞれの賜物が出てくるのは、一つの御霊がそれぞれ異なる賜物を通して一つを成すためです。枝が伸びるのは木をなすためであり、賜物の目的は教会です。賜物はそれを建てるために必要な道具です。宣教の主である聖霊が聖徒に賜物を与えることは、教会を立てるためです。問題は、自分が持っている賜物と秘められている賜物に気づかず、開発せず、活用しないことです。現金化できる才能は競争的に育てますが、教会に仕えるための賜物は育てようとしないようです。   ある人は聖霊を抽象的い言い、ある人は文字の中に聖霊を閉じ込めますが、聖霊は神様の霊ですから、人間の秩序の中に現れることがあれば、その外で働くこともあります。謙遜な者には弱さを変え、強くすることができますが、誇り高ぶる者の強さは弱くすることもできます。聖霊の賜物と聖徒の従順が合わされるとき、弱いものが強くなる奇跡は起こります。   パウロは「御霊の賜物については、私はあなたがたに知らずにいてほしくありません1」と言います。聖霊の力を認め、受け入れ、それを求めなければなりません。私は聖霊の賜物を慕い求めます。愚かなときに知恵を、根拠が見つからないときに知識を、恐れ震えるたときに信仰を、聖徒が病むときには癒しの賜物を、悪霊につかれ、人間性を失ったもののために悪霊を追い払う力を、預言する権威を、欺くことにわきまえる力を、神様の御心の祈りを、それを知らせる信頼を…慕い求めます。   しかし、すべてが与えられることではないかもしれません。12色の絵の具がそれぞれ美しいですが、パレットに絞って混ぜると、泥沼の色になります。それぞれが別々になっているときがきれいです。それを揃えてみるとされにきれいです。黄は赤の隣にあってきれいで、赤は青の隣にあって美しいです。今までパウロの雄弁のハッシュタグは#調和と配慮だったと思います。それぞれ異なる賜物がありますが、お互いを認め合い、配慮し、調和すれば、教会と聖徒はさらに成長していきます。

고린도전서 묵상19【성도의 채색】220527(금) 에다가와 사랑의 교회

고린도전서 12:1~1112:1 형제들아 신령한 것에 대하여는 내가 너희의 알지 못하기를 원치아니하노니12:2 너희도 알거니와 너희가 이방인으로 있을 때에 말 못하는 우상에게로 끄는 그대로 끌려 갔느니라12:3 그러므로 내가 너희에게 알게 하노니 하나님의 영으로 말하는 자는 누구든지 예수를 저주할 자라 하지 않고 또 성령으로 아니하고는 누구든지 예수를 주시라 할 수 없느니라12:4 은사는 여러 가지나 성령은 같고12:5 직임은 여러…

Ⅰコリント 黙想18【ガチョウの夢】220526(木) 枝川愛の教会

Ⅰコリント 11:27~3411:27 したがって、もし、ふさわしくない仕方でパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。11:28 だれでも、自分自身を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。11:29 みからだをわきまえないで食べ、また飲む者は、自分自身に対するさばきを食べ、また飲むことになるのです。11:30 あなたがたの中に弱い者や病人が多く、死んだ者たちもかなりいるのは、そのためです。11:31 しかし、もし私たちが自分をわきまえるなら、さばかれることはありません。11:32 私たちがさばかれるとすれば、それは、この世とともにさばきを下されることがないように、主によって懲らしめられる、ということなのです。11:33 ですから、兄弟たち。食事に集まるときは、互いに待ち合わせなさい。11:34 空腹な人は家で食べなさい。あなたがたが集まることによって、さばきを受けないようにするためです。このほかのことについては、私が行ったときに決めることにします。   33節の「ですから」は、コリント教会の聖餐式に現れた問題をまとめる結論的な勧告のための接続詞です。そして「ですから、兄弟たち。食事に集まるときは、互いに待ち合わせなさい。」と言います。時間とお金がある豊かな人はは食べ物を持って先に来ますが、貧しくて忙しい労働者は手ぶらでしかも遅く来ます。パウロの結論は、兄弟たちが来るのを待ち合わせるということです。お互いを待ち合わせるということは、お互いのために待つということでしょう。全員が聖餐に参加するためです。もし、食べ物を作る集まりでしたら、皆が早くから来て互いに奉仕するように進められたと思います。ともにするということは、必ず誰かの犠牲が伴うことだからです。パウロはそれが最も大切なことだと思ったので、残りは後で教えるということで省きます。   みんなで聖餐に参加するために待ち合わせるということから、ある神学者の遺言が思い出されました。チェコのプラハ広場にはヤン・フス(Jan Hus)という神学者の像があります。ヤン・フスは15世紀に堕落した教会の時代にみことばと聖餐を改革しようとしたことで、異端とされ、火型された人です。彼が死んだのは、司祭だけが受けていた聖餐の杯をすべての聖徒に分け、さらにチェコ語で説教したからです。チェコ語でHusはガチョウです。人々はヤン・フスの改革的な説教をガチョウのきゃあきゃあの音だとからかいました。ヤン・フスは遺言を残しました。「ガチョウの夢は叶わなかったが、いつかガチョウの夢は必ず叶えられて空を飛ぶだろう」彼の死後、100年後に宗教改革が起こり、ガチョウの夢は叶われました。「ですから、互いに待ち合わせなさい」…教会は、すべての人に聖餐を配餐されるガチョウの夢を見ながら待ち合わせます。

고린도전서 묵상18【거위의 꿈】220526(목) 에다가와 사랑의 교회

고린도전서 11:27~3411:27 그러므로 누구든지 주의 떡이나 잔을 합당치 않게 먹고 마시는 자는 주의 몸과 피를 범하는 죄가 있느니라11:28 사람이 자기를 살피고 그 후에야 이 떡을 먹고 이 잔을 마실지니11:29 주의 몸을 분변치 못하고 먹고 마시는 자는 자기의 죄를 먹고 마시는 것이니라11:30 이러므로 너희 중에 약한 자와 병든 자가 많고 잠자는 자도 적지 아니하니11:31 우리가 우리를…

Ⅰコリント 黙想17【害になる集まり】220525(水) 枝川愛の教会

Ⅰコリント 11:17~2611:17 ところで、次のことを命じるにあたって、私はあなたがたをほめるわけにはいきません。あなたがたの集まりが益にならず、かえって害になっているからです。11:18 まず第一に、あなたがたが教会に集まる際、あなたがたの間に分裂があると聞いています。ある程度は、そういうこともあろうかと思います。11:19 実際、あなたがたの間で本当の信者が明らかにされるためには、分派が生じるのもやむを得ません。11:20 しかし、そういうわけで、あなたがたが一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにはなりません。11:21 というのも、食事のとき、それぞれが我先にと自分の食事をするので、空腹な者もいれば、酔っている者もいるという始末だからです。11:22 あなたがたには、食べたり飲んだりする家がないのですか。それとも、神の教会を軽んじて、貧しい人たちに恥ずかしい思いをさせたいのですか。私はあなたがたにどう言うべきでしょうか。ほめるべきでしょうか。このことでは、ほめるわけにはいきません。11:23 私は主から受けたことを、あなたがたに伝えました。すなわち、主イエスは渡される夜、パンを取り、11:24 感謝の祈りをささげた後それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」11:25 食事の後、同じように杯を取って言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」11:26 ですから、あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、主が来られるまで主の死を告げ知らせるのです。   パウロの一貫した口調は断固とした懲らしめの言葉ですが、一方、一貫した主題は共同体の中のお互いへの配慮です。言い換えれば、配慮することができない人々への断固たる懲らしめです。教会に分派ができるということは自然となるものではありません。配慮のどころか誰かの欲と誇りと離間をはかるによります。そのような人々によって教会は分裂されます。   福音と共同体は弱虫ではありません。福音の中には、赦しと厳しさ両方があります。パウロは彼らに、「神の教会を軽んじて22」と叱責しました。赦しの福音を語るパウロですが,共同体を妨げ、悔い改めなしで済むことにだまされたことはありません。悔い改めがない赦しは愛ではなく無責任です。愛と卑怯を区別しなければなりません。   どのような時代にも貧富の差はあります。コリントもそうでした。確かに聖書は集まることを励ましていますが,パウロはコリントの集まりを「益にならず、かえって害になっている」と言います。コリントの人々は何を間違ったのでしょうか?主の晩餐の日は、聖徒がそれぞれ自分の食べものを持ちよって集まるポトルックパーティー(Potluck Party)でした。すでに分派を形成している裕福な人々は、良い食べ物と良いぶどう酒を持ってきて酔うまで楽しみ、貧しい人々は食べ物がなかったので、何も食べずに帰りました。「あなたがたには、食べたり飲んだりする家がないのですか。それとも、神の教会を軽んじて、貧しい人たちに恥ずかしい思いをさせたいのですか。22」   パウロだけが厳しい訳ではありません。私が読み、知っているイエス様も厳しい方です。イエス様であったなら、彼らの食卓をひっくり返し、教会から追い出したと思います。お金が多いというのは、世では誇るべきことかもしれません。しかし、それをもって教会の中で誇るものなら、教会では未熟児です。彼らは当然として教会の食事や交わりのために、より多くの財政を担当しなければなりませんでした。それは自律という名より、良心と常識という言葉がよりよく似合います。   今日の本文に出てきた主の晩餐とは、礼拝後の食事ではありません。初代教会では聖餐と愛餐会が区別されていませんでした。金持ちが酔うまで飲み、貧しい人が何も食べずに帰ったその集まりはすなわち聖餐式でした。主の日に主の血と肉を犯す罪を犯したのではないでしょうか。しかし、彼らはこれが恐ろしい警告であることかが分かりませんでした。今朝もこのコリントの手紙のパウロの怒りの警告が与えられています。恐れをもって反省したいと思います。

고린도전서 묵상17【고린도의 해로운 모임】220525(수) 에다가와 사랑의 교회

고린도전서 11:17~2611:17 내가 명하는 이 일에 너희를 칭찬하지 아니하나니 이는 저희의 모임이 유익이 못되고 도리어 해로움이라11:18 첫째는 너희가 교회에 모일 때에 너희 중에 분쟁이 있다 함을 듣고 대강 믿노니11:19 너희 중에 편당이 있어야 너희 중에 옳다 인정함을 받은 자들이 나타나게 되리라11:20 그런즉 너희가 함께 모여서 주의 만찬을 먹을 수 없으니11:21 이는 먹을 때에 각각 자기의…

Ⅰコリント 黙想16【美しい配慮】220524(火) 枝川愛の教会

Ⅰコリント 11:2~1611:2 さて、私はあなたがたをほめたいと思います。あなたがたは、すべての点で私を覚え、私があなたがたに伝えたとおりに、伝えられた教えを堅く守っているからです。11:3 しかし、あなたがたに次のことを知ってほしいのです。すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です。11:4 男はだれでも祈りや預言をするとき、頭をおおっていたら、自分の頭を辱めることになります。11:5 しかし、女はだれでも祈りや預言をするとき、頭にかぶり物を着けていなかったら、自分の頭を辱めることになります。それは頭を剃っているのと全く同じことなのです。11:6 女は、かぶり物を着けないのなら、髪も切ってしまいなさい。髪を切り、頭を剃ることが女として恥ずかしいことなら、かぶり物を着けなさい。11:7 男は神のかたちであり、神の栄光の現れなので、頭にかぶり物を着けるべきではありません。一方、女は男の栄光の現れです。11:8 男が女から出たのではなく、女が男から出たからです。11:9 また、男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られたからです。11:10 それゆえ、女は御使いたちのため、頭に権威のしるしをかぶるべきです。11:11 とはいえ、主にあっては、女は男なしにあるものではなく、男も女なしにあるものではありません。11:12 女が男から出たのと同様に、男も女によって生まれるのだからです。しかし、すべては神から出ています。11:13 あなたがたは自分自身で判断しなさい。女が何もかぶらないで神に祈るのは、ふさわしいことでしょうか。11:14 自然そのものが、あなたがたにこう教えていないでしょうか。男が長い髪をしていたら、それは彼にとって恥ずかしいことであり、11:15 女が長い髪をしていたら、それは彼女にとっては栄誉なのです。なぜなら、髪はかぶり物として女に与えられているからです。11:16 たとえ、だれかがこのことに異議を唱えたくても、そのような習慣は私たちにはなく、神の諸教会にもありません。   パウロは引き続き、教会の中で混乱や紛争のない成熟した秩序を維持するために、公的な礼拝での姿勢と服装、聖餐などについてお勧めします。今日は服装についてです。すでにコリント教会はユダヤ人の会堂ではありません。ユダヤ教と分離したクリスチャンだけの礼拝をささげていました。ユダヤ人の会堂では、男性だけが礼拝を導く役割を担い、女性には制限されました。礼拝も男女が分けて別に差し上げました。明らかに、女性の権限は制限され尊重されていません。   しかし、クリスチャンは男性と女性が一緒に礼拝しました。教会と礼拝と宣教のために女性がどれほど重要な役割を果たしたかは、パウロの手紙で登場する女性を通して知ることができます。それは女性にとって社会的な解放であり、尊重でした。同等の資格が与えられたのです。女性たちに礼拝に仕える役割が与えられたのは、パウロの性認知感受性(Gender Sensitivity)が先進的に開放されていたからです。問題は、女性が公的礼拝で奉仕の役割をするときに頭にかぶり物を使わなかったことで起こりました。同等になったという自意識が頭にかぶり物を着けるという形式をも捨てたのです。私たちが見ると、それも十分に可能な変化だと思います。今は頭にかぶり物を着けません。   しかし、パウロは反対します。パウロの性認知が後退して女性は劣等だから、頭にかぶり物を着けるということではありません。このような話が確かに性差別的に誤解される余地はありますが、パウロは一貫して当時の露骨な性差別的文化の中で女性を解放していることを認めなければなりません。当時、1世紀にローマが支配する社会で結婚した女性は、誰もが頭にかぶり物を着けなければなりませんでした。   私たちは、コリントの堕落した性的文化についてパウロが心配していることを知っています。コリントの売春婦は公共の場所で頭に何もかぶらずに男性を誘惑しました。当時、それは刺激的な露出であるわけです。明らかに脱線的なイメージでした。そのような文化の中で、公的礼拝の間に女性がかぶり物を着けないことは、男性に混乱を引き起こす可能性が十分にあります。このようなことは、女性の権利伸長にかえって良くない世論を作ります。ですから、パウロは上品さを守り、お互いを配慮するために頭にかぶり物を着けるように言ったのです。   原理と目的を見つければ良いのです。公的礼拝でお互いを配慮し、端正して礼拝に参加することは、律法的な規定と変化する時代のファッションを超えて常に必要とする徳目です。男性優越思想に反対し、女性人権の伸長に賛成します。しかし、男女は敵ではありません。過激なフェミニズムは、むしろ逆効果を呼ぶかもしれません。お互いの役割と尊厳を認め、配慮することが、神様の創造秩序に従うことです。

고린도전서 묵상16【단정한 배려】220524(화) 에다가와 사랑의 교회

고린도전서 11:2~1611:2 너희가 모든 일에 나를 기억하고 또 내가 너희에게 전하여 준대로 그 유전을 너희가 지키므로 너희를 칭찬하노라11:3 그러나 나는 너희가 알기를 원하노니 각 남자의 머리는 그리스도요 여자의 머리는 남자요 그리스도의 머리는 하나님이시라11:4 무릇 남자로서 머리에 무엇을 쓰고 기도나 예언을 하는 자는 그 머리를 욕되게 하는 것이요11:5 무릇 여자로서 머리에 쓴 것을 벗고 기도나 예언을…

Ⅰコリント 黙想15【神の栄光のために】220522(月) 枝川愛の教会

Ⅰコリント 10:23~11:110:23 「すべてのことが許されている」と言いますが、すべてのことが益になるわけではありません。「すべてのことが許されている」と言いますが、すべてのことが人を育てるとはかぎりません。10:24 だれでも、自分の利益を求めず、ほかの人の利益を求めなさい。10:25 市場で売っている肉はどれでも、良心の問題を問うことをせずに食べなさい。10:26 地とそこに満ちているものは、主のものだからです。10:27 あなたがたが、信仰のないだれかに招待されて、そこに行きたいと思うときには、自分の前に出される物はどれも、良心の問題を問うことをせずに食べなさい。10:28 しかし、だれかがあなたがたに「これは偶像に献げた肉です」と言うなら、そう知らせてくれた人のため、また良心のために、食べてはいけません。10:29 良心と言っているのは、あなた自身の良心ではなく、知らせてくれた人の良心です。私の自由が、どうしてほかの人の良心によってさばかれるでしょうか。10:30 もし私が感謝して食べるなら、どうして私が感謝する物のために悪く言われるのでしょうか。10:31 こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。10:32 ユダヤ人にも、ギリシア人にも、神の教会にも、つまずきを与えない者になりなさい。10:33 私も、人々が救われるために、自分の利益ではなく多くの人々の利益を求め、すべてのことですべての人を喜ばせようと努めているのです。11:1 私がキリストに倣う者であるように、あなたがたも私に倣う者でありなさい。   パウロはすべてが可能ですが、すべてが徳を高めることではないと言います。つまり、口正しい言葉はありますが、それより上位の言葉は徳を高める言葉です。自分の主張や立場を貫くよりは、他人の立場をより配慮することです。とういうことでパウロは他人の良心のために食べなさいと言います。コリントに色々な人々が様々な問題を起こしていました。徳を立てるというのは、そのようなコリントでパウロが伝える最善の言葉かも知れません。パウロにも怒りがあり、失望がありますが、教会のためにお互いを受け入れることをお勧めしています。   昨日の礼拝でレビ記の食べ物規定を読みましたが、コリント教会はその問題で苦しんでいます。パウロは、食事に招かれた場合に食べ物を区別せずに、与える人を考えて食べ物の規定を問わずに食べなさいと言います。それは律法を破ることでもなく、人を疑うことでもなく、失礼を犯すことでもないからです。しかし、誰かがそれが偶像に使った供え物であると言うならば、事実が確認されたので、それを言ってくれた人の信仰と立場のために食べてはいけないということです。様々な人々を抱きたいというパウロの努力です。   偶像崇拝の問題,食べ物規定の問題の間で争いが起き,理解がぶつかり,信仰の段階が教会の中で葛藤を起こすとき,パウロは徳を高めるということで問題を解決するようにと勧めます。それが神様の栄光のために食べ、また飲むことになります。「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。ユダヤ人にも、ギリシア人にも、神の教会にも、つまずきを与えない者になりなさい。31,32」複雑な神学的問題の解決策は、聖徒の成熟した意識です。立場と意識はそれぞれ異なります。しかし、徳を高める信仰を持ち、教会の一致を妨げてはいけません。世のものを食べても、教会のものを食べても、すべてを神様の栄光のためにそれを食べ、また飲みたいと思います。