시편 묵상24【Before Psalm 23】220627(월) 에다가와 사랑의 교회

시편 23:1~623:1 여호와는 나의 목자시니 내가 부족함이 없으리로다23:2 그가 나를 푸른 초장에 누이시며 쉴만한 물 가으로 인도하시는도다23:3 내 영혼을 소생시키시고 자기 이름을 위하여 의의 길로 인도하시는도다23:4 내가 사망의 음침한 골짜기로 다닐지라도 해를 두려워하지 않을 것은 주께서 나와 함께 하심이라 주의 지팡이와 막대기가 나를 안위하시나이다23:5 주께서 내 원수의 목전에서 내게 상을 베푸시고 기름으로 내 머리에 바르셨으니…

詩篇 黙想23【認めざる得ない存在の絶望】220625(土) 枝川愛の教会

詩篇 22:1~2122:1 わが神わが神どうして私をお見捨てになったのですか。私を救わず遠く離れておられるのですか。私のうめきのことばにもかかわらず。22:2 わが神昼に私はあなたを呼びます。しかしあなたは答えてくださいません。夜にも私は黙っていられません。22:3 けれどもあなたは聖なる方御座に着いておられる方イスラエルの賛美です。22:4 あなたに私たちの先祖は信頼しました。彼らは信頼しあなたは彼らを助け出されました。22:5 あなたに叫び彼らは助け出されました。あなたに信頼し彼らは恥を見ませんでした。22:6 しかし私は虫けらです。人間ではありません。人のそしりの的民の蔑みの的です。22:7 私を見る者はみな私を嘲ります。口をとがらせ頭を振ります。22:8 「主に身を任せよ。助け出してもらえばよい。主に救い出してもらえ。彼のお気に入りなのだから。」22:9 まことにあなたは私を母の胎から取り出した方。母の乳房に拠り頼ませた方。22:10 生まれる前から私はあなたにゆだねられました。母の胎内にいたときからあなたは私の神です。22:11 どうか私から遠く離れないでください。苦しみが近くにあり助ける者がいないのです。22:12 多くの雄牛が私を取り囲みバシャンの猛者どもが私を囲みました。22:13 彼らは私に向かって口を開けています。かみ裂く吼えたける獅子のように。22:14 水のように私は注ぎ出され骨はみな外れました。心はろうのように私のうちで溶けました。22:15 私の力は土器のかけらのように乾ききり舌は上あごに貼り付いています。死のちりの上にあなたは私を置かれます。22:16 犬どもが私を取り囲み悪者どもの群れが私を取り巻いて私の手足にかみついたからです。22:17 私は自分の骨をみな数えることができます。彼らは目を凝らし私を見ています。22:18 彼らは私の衣服を分け合い私の衣をくじ引きにします。22:19 主よあなたは離れないでください。私の力よ早く助けに来てください。22:20 救い出してください。私のたましいを剣から。私のただ一つのものを犬の手から。22:21 救ってください。獅子の口から野牛の角から。あなたは私に答えてくださいました。   昨年7月まで読んで中断した詩篇の黙想が再開され、今朝は22章を読みます。この詩篇は、読むだけで息苦しいです。状況は絶望であり、希望は全く見えません。神様の助けがありません。助けてくださいと哀願していましたが、その叫びさえも疲れ果てています。「うめきのことば1」「あなたに叫び5」「水のように注ぎ出され、骨はみな外れ、心はろうのように溶けました14」この苦難の詩篇は、イザヤ53章と共にキリストの十字架を表わす代表的な詩篇です。「わが神わが神どうして私をお見捨てになったのですか1」は、イエス・キリストが十字架の苦しみから吐き出されたうめき声であり、「彼らは私の衣服を分け合い私の衣をくじ引きにします18」を言い換えれば、イエス・キリストは裸になっていることです。 十字架の下で起きた嘲笑と蔑視の事です。   神様がイエス・キリストを十字架の苦しみと、その悲惨な死までに与えたのは、罪を担当させたからです。この苦みは人を救うためであり、生かすためです。罪というものは責任を負わなければならず、その罪の責任のゆえに贖いになって代わりに死ななければなりません。罪の報酬は死だからです。イエス・キリストが今その代わりになったので、苦しみの中から抜け出ることができません。嘲笑って無視され、まるで自分が「虫けら6」であるという実存を発見します。「水のように注ぎ出され、骨はみな外れ、心はろうのように溶けました14」「犬どもが私を取り囲み16」「乾ききり舌は上あごに貼り付いています15」あの死のちりの上に藻掻く多くの苦しみの言語がこの詩を読む自分のものでなければ、十字架を通していただく贖いの恵みも自分のものにはできません。一日を救いと回復の恵みの中で生きるためには、底の絶望を直視しなければなりません。

시편 묵상23【인정할 수밖에 없는 존재의 절망】220625(토) 에다가와 사랑의 교회

시편 22:1~2122:1 내 하나님이여 내 하나님이여 어찌 나를 버리셨나이까 어찌 나를 멀리하여 돕지 아니하옵시며 내 신음하는 소리를 듣지 아니하시나이까22:2 내 하나님이여 내가 낮에도 부르짖고 밤에도 잠잠치 아니하오나 응답지 아니하시나이다22:3 이스라엘의 찬송 중에 거하시는 주여 주는 거룩하시니이다22:4 우리 열조가 주께 의뢰하였고 의뢰하였으므로 저희를 건지셨나이다22:5 저희가 주께 부르짖어 구원을 얻고 주께 의뢰하여 수치를 당치 아니하였나이다22:6 나는 벌레요…

エステル 黙想12【恵みを覚える方法】220624(金) 枝川愛の教会

エステル 9:29~10:39:29 アビハイルの娘である王妃エステルと、ユダヤ人モルデカイは、プリムについてのこの第二の書簡を全権をもって書き記し、確かなものとした。9:30 この書簡は、平和と誠実のことばをもって、クセルクセスの王国の百二十七州にいるすべてのユダヤ人に送られ、9:31 ユダヤ人モルデカイと王妃エステルがユダヤ人に命じたとおり、また、ユダヤ人が自分たちとその子孫のために、断食と哀悼に関して定めたとおり、このプリムの両日を定まった時期に守るようにした。9:32 エステルの命令はこのプリムに関する事柄を義務づけ、書物に記された。10:1 クセルクセス王は本土と海の島々に苦役を課した。10:2 彼の権威と勇気によるすべての功績、王に重んじられたモルデカイの偉大さについての詳細、それは『メディアとペルシアの王の歴代誌』に確かに記されている。10:3 実に、ユダヤ人モルデカイはクセルクセス王の次の位にあって、ユダヤ人にとっては大いなる者であり、多くの同胞たちに敬愛された。彼は自分の民の幸福を求め、自分の全民族に平和を語る者であった。   エステルが女王候補の時代に王室の人々の間で敬愛されように、モルデカイはすべてのユダヤ人に敬愛され、政治的な支持を受けました。モルドカイは、少数民族の出身で虐殺の危機を経験した人でしたが、彼が総理になってからは「自分の民の幸福を求め、自分の全民族に平和を語る者であった。」と言われます。君臨したことではなく、全民族の平和のために勤めました。権力を持ち、弱い者を苦しめるハマンのように卑怯ではなく、むしろ権力を通じて弱者を保護するまことの強者です。そういえば、モルデカイがハマンの一党をしっかりと取り除いたのは、ペルシャの平和と安定のためです。   エステルとモルデカイが記念日を制定したのは、恵みを覚えるためです。覚えて記念しなければ、忘却され、状況によってまた揺れてしまうからます。モルデカイが恵みを覚える方法は、プリム祭の制定でもありましたが、神様の恵みの精神を社会に反映することです。モルデカイはハマンの卑怯と暴政を覚えていたので、すべての民の平安と少数民族の権利保障という政策を実施することで神様の恵みを覚えました。それによって全民族に神様の恵みを覚えさせました。モルデカイの端正さというは、自分の身のことだけではなく、総理としての政策にも反映されたのです。エステルの救いは人生の救いで終わらず、救われた民の責任と使命となって続けます。

에스더 묵상12【은혜를 기억하는 방법】220624(금) 에다가와 사랑의 교회

에스더 9:29~10:39:29 아비하일의 딸 왕후 에스더와 유다인 모르드개가 전권으로 글을 쓰고 부림에 대한 이 둘째 편지를 굳이 지키게 하되9:30 화평하고 진실한 말로 편지를 써서 아하수에로의 나라 일백 이십 칠도에 있는 유다 모든 사람에게 보내어9:31 정한 기한에 이 부림일을 지키게 하였으니 이는 유다인 모르드개와 왕후 에스더의 명한 바와 유다인이 금식하며 부르짖은 것을 인하여 자기와 자기 자손을…

エステル 黙想11【救いを記念するジャンチ】220623(木) 枝川愛の教会

エステル9:17~289:17 神は嵐をもって私を傷つけ、理由もなく傷を増し加え、9:18 私に息もつかせず、私を苦しみで満たされる。9:19 もし、力のことなら、見よ、神は強い。もし、さばきのことなら、だれが私を呼び出すのか。9:20 たとえ私が正しくても、私自身の口が私を不義に定める。たとえ私が誠実でも、神は私を曲がった者とされる。9:21 私は誠実だ。しかし私には自分が分からない。私は自分のいのちを憎む。9:22 みな同じことだ。だから私は言う。神は誠実な者も悪い者も、ともに絶ち滅ぼされると。9:23 突然、にわか水が出て人を死なせると、神は潔白な者の受ける試練を嘲られる。9:24 地は悪しき者の手に委ねられ、神は地のさばき人らの顔をおおわれる。神がなさるのでなければ、だれがそうするのか。9:25 私の日々は飛脚よりも速い。それは飛び去って、幸せを見ることはない。9:26 それは葦の舟のように通り過ぎる。獲物をめがけて舞い降りる鷲のように。9:27 たとえ「不平を忘れ、悲しい顔を捨てて明るくふるまいたい」と私が言っても、9:28 自分のあらゆる苦痛に私はおびえています。私はよく知っています。あなたが私を潔白な者となさらないことを。   ユダヤ人たちがハマンの虐殺の計略から救われた喜びを記念する日が「プリム祭」です。イスラエルでは、今でもプリム祭を国家的な祝日として守られています。モルデカイはこの記念日にジャンチ(宴会)を開き、お互いにプレゼントを交わし、貧しい人々に慈善を施すように命じました。それで、今でもユダヤ人は毎年の早春のプリム祭になると、エステルを読み、喜びのプレゼントを送り、貧しい人に対する慈善を施すことを守っています。そしておいしい食事をもって晩餐を楽しみます。   本来、ユダヤ人の三大祭は、過越祭(Passover)と七七節(Pentecost)、そして庵の祭り(Tabernacles)です。これはモーセが律法で定めたものであり,安息日のように聖なる日になります。ところが、プリム祭は律法が定めた季節ではないので、ユダヤ人はプリム祭に働いても、商売をしても、買い物をしてもよいのです。ですから、いつもの祭りとは異なり、町は盛大な楽しみの祭りになります。   エステルには「ジャンチ」がたくさん出てきます。初めからジャンチでした。元王妃ワシュティが廃墟され、エステルが王妃になる時もジャンチであって、ジャンチでハマンを殺し、救われた後もジャンチでその日を記念します。しかし、ユダヤ人はイエス・キリストのない救いを記念しています。モルデカイによる救いは永遠の救いではありません。それはしるしです。神様はイエス・キリストを通して救いの装置を完成しました。   イスラエルはハマンの虐殺から救われましたが、ローマとナチスの虐殺にまた犠牲になりました。救いは歴史の出来事ではなく、魂の永遠の約束です。プリム祭にイスラエルに行かなくても、私たちは毎週のように救いの喜びを覚え、ジャンチを開き、お祝いしています。聖徒とともに晩餐をとり、みことばと生活を分かち合い、主の聖餐にあずかる礼拝が、プリム祭よりも盛大なジャンチなのです。私たちは、食べて、飲んで、また、分かち合って、仕え合うジャンチを通して、プリム祭が知らないイエス・キリストの救いを伝えます。

에스더 묵상11【구원을 기념하는 잔치】220623(목) 에다가와 사랑의 교회

에스더 9:17~28에09:17 아달월 십 삼일에 그 일을 행하였고 십 사일에 쉬며 그 날에 잔치를 베풀어 즐겼고에09:18 수산에 거한 유다인은 십 삼일과 십 사일에 모였고 십 오일에 쉬며 이 날에 잔치를 베풀어 즐긴지라에09:19 그러므로 촌촌의 유다인 곧 성이 없는 고을 고을에 거하는 자들이 아달월 십 사일로 경절을 삼아 잔치를 베풀고 즐기며 서로 예물을 주더라에09:20 모르드개가 이…

エステル 黙想10【モルデカイの根性】220622(水) 枝川愛の教会

エステル 9:1~169:1 第十二の月、すなわちアダルの月の十三日、この日に王の命令と法令が実施された。ユダヤ人の敵がユダヤ人を征服しようと望んでいたまさにその日に、逆に、ユダヤ人のほうが自分たちを憎む者たちを征服することとなった。9:2 ユダヤ人たちは、自分たちに害を加えようとする者たちを手にかけようと、クセルクセス王のすべての州にある自分たちの町々で集まったが、だれもユダヤ人に抵抗する者はいなかった。彼らへの恐れが、すべての民族に下ったからである。9:3 諸州の首長、太守、総督、王の役人もみなユダヤ人たちを支援した。モルデカイへの恐れが彼らに下ったからである。9:4 実際、モルデカイは王宮で勢力があり、その名声はすべての州に広がっていた。実に、この人物モルデカイは、ますます勢力を伸ばしたのであった。9:5 ユダヤ人たちは彼らの敵をみな剣で打ち殺し、虐殺して滅ぼし、自分たちを憎む者を思いのままに処分した。9:6 ユダヤ人はスサの城でも五百人を殺して滅ぼし、9:7 また、パルシャンダタ、ダルフォン、アスパタ、9:8 ポラタ、アダルヤ、アリダタ、9:9 パルマシュタ、アリサイ、アリダイ、ワイザタを、9:10 すなわち、ハメダタの子でユダヤ人を迫害する者ハマンの子、十人を虐殺した。しかし、略奪品には手を出さなかった。9:11 その日、スサの城で殺された者の数が王に報告されると、9:12 王は王妃エステルに言った。「ユダヤ人はスサの城で、五百人とハマンの息子十人を殺して滅ぼした。王のほかの諸州では、彼らはどうしたであろう。ところで、あなたは何を願っているのか。それを授けてやろう。あなたのさらなる望みは何か。それをかなえてやろう。」9:13 エステルは答えた。「もしも王様がよろしければ、明日も、スサにいるユダヤ人に、今日の法令どおりにすることをお許しください。そして、ハマンの息子十人を柱にかけてください。」9:14 そこで王は、そのように実施するように命じた。法令がスサで布告され、ハマンの息子十人は柱にかけられた。9:15 スサにいるユダヤ人はアダルの月の十四日にも集まって、スサで三百人を殺した。しかし、略奪品には手を出さなかった。9:16 王の諸州にいる残りのユダヤ人たちも団結して、自分たちのいのちを守り、敵からの安息を得た。すなわち、自分たちを憎む者七万五千人を殺した。しかし、略奪品には手を出さなかった。   モルデカイは、ハマンに付いてユダヤ人を殺そうとしたあらゆる勢力を滅ぼし、ハマンの息子を殺し、死体を柱にかけました。すべてを殺すことを見ると残酷だと思うかもしれませんが、神様の完全なる勝利という意味で読まなければなりません。この間、モルデカイとハマンの関係を言いながら遡って彼らの先祖であるサウル王とアマレクの王アガクの話をしました。神様はサウロ王にアマレクとアガク王を滅ぼすように命じましたが、サウルはなくさずに残しました。これこそが不従順です。サウルはアマレクの王アガクを捕らえ、その功績で展示し、殺すべき牛と羊の中で良いものは殺さずに残し、保管していました。サムエルに攻められたら、神様にささげる供物であると言い訳をしましたが、それに対してサムエルが言った有名な言葉は、「主は、全焼のささげ物やいけにえを、主の御声に聞き従うことほどに喜ばれるだろうか。」です。それがサウルが滅びる始まりでした。   モルデカイは少しの火種も残さずに整理し、法的に奪取できるように許可されていた敵の財産には触れませんでした。モルデカイは一緒にいるユダヤ人たちにもそれを教育しました。誰も敵の財産に触れませんでした。歴史を知っている人です。ただ全滅するだけです。今日の本文で「略奪品には手を出さなかった。」を3回繰り返しています。モルドッグの仕事はきれいです。後難を残しません。モルデカイの「端正」は成功と執権の後にも輝きます。彼が「端正」なのは、神様に向けた目的意識があるからです。自分のための目的を持っている人は「端正」に生きることができません。自分の中にいる「欲」が「端正」に生きるように放っておけないからです。

에스더 묵상10【모르드개의 강단】220622(수) 에다가와 사랑의 교회

에스더 9:1~169:1 아달월 곧 십이월 십삼일은 왕의 조명을 행하게 된 날이라 유다인의 대적이 저희를 제어하기를 바랐더니 유다인이 도리어 자기를 미워하는 자를 제어하게 된 그날에9:2 유다인들이 아하수에로왕의 각 도, 각 읍에 모여 자기를 해하고자 하는 자를 죽이려 하니 모든 민족이 저희를 두려워하여 능히 막을 자가 없고9:3 각 도 모든 관원과 대신과 방백과 왕의 사무를 보는 자들이…

エステル 黙想9【救いの広がり】220621(火) 枝川愛の教会

エステル 8:11~178:11 その中で王は、どの町にいるユダヤ人たちにも、自分のいのちを守るために集まって、自分たちを襲う民や州の軍隊を、子どもも女たちも含めて残らず根絶やしにし、虐殺し、滅ぼし、彼らの家財をかすめ奪うことを許した。8:12 このことは、クセルクセス王のすべての州において、第十二の月、すなわちアダルの月の十三日に、一日のうちに行うようにということであった。8:13 各州に法令として発布される、この文書の写しが、すべての民族に公示された。それは、ユダヤ人が自分たちの敵に復讐するこの日に備えるためであった。8:14 御用馬の早馬に乗った急使は、王の命令によってせき立てられて、急いで出て行った。この法令はスサの城で発布された。8:15 モルデカイは青色と白色の王服を着て、大きな金の冠をかぶり、白亜麻布と紫色のマントをまとって、王の前から出て来た。すると、スサの都は喜びの声にあふれた。8:16 ユダヤ人にとって、それは光と喜び、歓喜と栄誉であった。8:17 王の命令と法令が届いたところは、どの州、どの町でも、ユダヤ人は喜び楽しみ、祝宴を張って、祝日とした。この地の諸民族の中で大勢の者が、自分はユダヤ人であると宣言した。それはユダヤ人への恐れが彼らに下ったからである。   1849年、ロシアで反体制の容疑で検挙されたある若き囚人の死刑が執行されようとした瞬間、伝令が皇帝の死刑停止特令をもって急ぎで駆けつけました。そして死刑は中止されました。死刑の直前に生き残ったその若者の名前はドストエフスキーです。もちろん、皇帝が恐怖を与えようとした演劇のようなものでしたが、ドストエフスキーはその事実を知りませんでした。ドストエフスキーは死の絶望に陥り、再び生きて生きる場に這い上がってきたわけであります。5分後には終わると思っていたドストエフスキーの人生は、数多くの作品を残しながら、30年をも生きました。ドストエフスキーは、救いが何であるかを身をもって経験した人です。   ユダヤ人はまもなく死ぬと思っていました。絶望の中にありましたが、馬に乗って来た王の命令は、ユダヤ人を生かし、むしろユダヤ人を害する人を罰する命令でした。スサの都をはじめ、すべての帝国に散らばったユダヤ人は、この救いの知らせを聞いて喜び、「ジャンチ」を開き、その日を記念日としました。死の恐れと絶望に置かれていた彼らにとって馬に乗って来た救いの知らせとモルデカイの栄光とはどれほど嬉しいことだったのでしょうか。人が死の前に立たずに救いを経験することができるでしょうか?死を思う事もしないのに救いの喜びを知ることができるでしょうか? ドストエフスキーは死ぬと思いましたが、皇帝は殺すつもりはありませんでした。ユダヤ人は死ぬと思っていましたが、神様は彼らを死に放っておくつもりはありませんでした。ただ、その危機と絶望の中で救われる神様であることを現すためでした。神様の救いが現されるのに、神様を信じないと言う人はいません。「…この地の諸民族の中で大勢の者が、自分はユダヤ人であると宣言した。それはユダヤ人への恐れが彼らに下ったからである。17」。力のない少数民族であるユダヤ人を殺そうとした本土の人々がユダヤ人を恐れ、ユダヤ人になりました。ユダヤ人でなくても割礼を受け、ユダヤ教に改宗すればユダヤ人になることができたからです。神様の救いが世を現されるなら、人々は確かに神様の民になりたく願います。わたしを救った神様の力が証しされた時、わたしが生きるこの時代とその中に生きる人々に救いが広がることを祈ります。