요한복음 묵상 【진위의 판별】 20250204(화) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

요한복음 10:1~10 10:1 내가 진실로 진실로 너희에게 이르노니 양의 우리에 문으로 들어가지 아니하고 다른데로 넘어가는 자는 절도며 강도요 10:2 문으로 들어가는 이가 양의 목자라 10:3 문지기는 그를 위하여 문을 열고 양은 그의 음성을 듣나니 그가 자기 양의 이름을 각각 불러 인도하여 내느니라 10:4 자기 양을 다 내어 놓은 후에 앞서 가면 양들이 그의 음성을 아는고로…

요한복음 묵상 【맹목의 죄】 20250203(월) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

요한복음 9:35~41 9:35 예수께서 저희가 그 사람을 쫓아냈다 하는 말을 들으셨더니 그를 만나사 가라사대 네가 인자를 믿느냐 9:36 대답하여 가로되 주여 그가 누구시오니이까 내가 믿고자 하나이다 9:37 예수께서 가라사대 네가 그를 보았거니와 지금 너와 말하는 자가 그이니라 9:38 가로되 주여 내가 믿나이다 하고 절하는지라 9:39 예수께서 가라사대 내가 심판하러 이 세상에 왔으니 보지 못하는 자들은…

ヨハネによる福音書 黙想 【盲目の罪】 20250203(月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ヨハネによる福音書 9:35~41 9:35 イエスは、ユダヤ人たちが彼を外に追い出したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。「あなたは人の子を信じますか。」 9:36 その人は答えた。「主よ、私が信じることができるように教えてください。その人はどなたですか。」 9:37 イエスは彼に言われた。「あなたはその人を見ています。あなたと話しているのが、その人です。」 9:38 彼は「主よ、信じます」と言って、イエスを礼拝した。 9:39 そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」 9:40 パリサイ人の中でイエスとともにいた者たちが、このことを聞いて、イエスに言った。「私たちも盲目なのですか。」 9:41 イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、今、『私たちは見える』と言っているのですから、あなたがたの罪は残ります。」 ヨハネの福音書9章は、イエス様が先天性の視覚障害者を癒された出来事と、それを通して展開される「見ること」と「見えないこと」に関する霊的なメッセージです。イエス様は安息日に盲人を癒され、それがきっかけで、パリサイ人たちとの安息日をめぐる議論が始まりました。パリサイ人たちは証拠を確保するために、その盲人を呼び出して調査しました。しかし、彼はヨハネの福音書5章で登場した38年間病を患っていた人とは異なり、臆病な人物ではありませんでした。そのため、イエス様に不利な証言をすることはありませんでした。自分の目を癒してくださったイエス・キリストに対して、否定的な証言をしたり、事実を歪めたりすることはできなかったからです。パリサイ人たちは、彼が説得や誘導に応じなかったため、ついに彼を追放しました。「追放した」とは、彼を会堂から除名した、すなわちユダヤ社会から排除したことを意味します。これは、住民登録が抹消されるような社会的権利の剥奪でした。彼は再び、社会的な人間としての機会を失ってしまいました。 その知らせを聞いたイエス様は、彼を探し出して、「あなたは人の子を信じるか」と尋ねられました。すると彼は、「主よ、信じたいと思います」と答えました。そして、イエス様がご自身の正体を明かされると、「主よ、私は信じます」と言い、イエス様の前にひれ伏しました。しかし、彼が語る「信じる」という言葉は、改めて考えさせられるものです。見えない人は、信じなければならないことが多くあります。人々が教えてくれることを信じなければなりません。なぜなら、疑ったとしても、それを確かめる手段がないからです。しかし、彼は今や目が見えるようになりました。それでも「信じたい」と言い、「私は信じます」と告白します。彼が語る信仰とは、単に目で見ることとは何の関係もないものでした。 ここでイエス様は、救いの原則について語られます。「見えない者は見えるようになり、見える者は見えなくなる」とおっしゃいました。このような逆説は、聖書の至るところにあります。「神はこの世の愚かな者を選んで、知恵ある者を恥じ入らせる」(コリント第一の手紙1:27)「自分の命を救おうとする者はそれを失い、命を失う者はそれを得る」(マタイの福音書16:25)「先にいる者が後になり、後にいる者が先になる」(マルコの福音書10:31)「自らを高くする者は低くされ、自らを低くする者は高くされる」(マタイの福音書23:12)このような逆説が多いのは、人間が愚かであり、道理に従って生きるのではなく、逆行するからです。 イエス様はパリサイ人たちに、「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、今、『私たちは見える』と言っているのですから、あなたがたの罪は残ります。」と言われました。視覚障害を持ち、学問もなかった盲人は、イエス様を見ることができました。しかし、視力があり、学問のあるパリサイ人たちは、イエス様を見ようとしませんでした。信仰とは、必死のものです。時には、信念が信仰の最大の敵となることもあります。「知っている」という傲慢、「信じている」という自己欺瞞、「見ている」という錯覚──これらから抜け出せなければ、そのまま滅びに至るしかありません。 「盲目」という言葉があります。それは、物事をよく考えずに、ただひたすら何かを信じたり、従ったりする態度を指します。言葉の本来の意味は「目が見えないこと」ですが、日常では「思考の障害」「内省の障害」として使われることが多いです。理性的な判断や主体的な意識、批判的な思考ができないときに使われます。盲目的な信念は、自分自身を滅ぼす罪です。パリサイ人たちは、自らの盲目的な信念を「信仰」だと勘違いしていました。一方、盲人だった彼は、その盲目を脱し、イエス様の人格を信じようとしました。御言葉と内省を通らない信念や情熱は、刃物になり得ます。信仰と信念の違いは、御言葉の前に立つ姿勢と態度の違いにあるのです。 Amazing Grace I once was lost, but now I’m found Was blind, but now I see https://www.youtube.com/watch?v=znMkYqAYq-I

ヨハネの福音書 黙想 【目に見えても】 20250201(土) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

ヨハネの福音書 9:1-12 9:1 さて、イエスは通りすがりに、生まれたときから目の見えない人をご覧になった。 9:2 弟子たちはイエスに尋ねた。「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」 9:3 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。 9:4 わたしたちは、わたしを遣わされた方のわざを、昼のうちに行わなければなりません。だれも働くことができない夜が来ます。 9:5 わたしが世にいる間は、わたしが世の光です。」 9:6 イエスはこう言ってから、地面に唾をして、その唾で泥を作られた。そして、その泥を彼の目に塗って、 9:7 「行って、シロアム(訳すと、遣わされた者)の池で洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗った。すると、見えるようになり、帰って行った。 9:8 近所の人たちや、彼が物乞いであったのを前に見ていた人たちが言った。「これは座って物乞いをしていた人ではないか。」 9:9 ある者たちは、「そうだ」と言い、ほかの者たちは「違う。似ているだけだ」と言った。当人は、「私がその人です」と言った。 9:10 そこで、彼らは言った。「では、おまえの目はどのようにして開いたのか。」 9:11 彼は答えた。「イエスという方が泥を作って、私の目に塗り、『シロアムの池に行って洗いなさい』と言われました。それで、行って洗うと、見えるようになりました。」 9:12 彼らが「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と答えた。  人は目に見えるものに頼ってしまう傾向を持っています。 そのため、何かを認識するために、その対象を見るという行為はとても重要で、大きな意味を持っています。 このようなことで、へブル人への手紙の記者は信仰を通して私たちの目に見えない神様、そしてその約束を信頼し、実際に目の前にあるものを見ているように認識することができると、信仰について説明しました。    その逆に言えば、私たちの目に見えていても、それが全部ではないということにもなります。 実際、私たちは目に見えるものに頼るあまりに、目に見えない本質的なものを見逃してしまうことも良くあります。 今日の箇所の弟子たちや、これまでの箇所の中で登場したユダヤ人律法学者たちがその例です。    彼らは目に見える「律法」を認識し、従っていました。 そのため、今日弟子たちは生まれた時から目の見えない人を見て、その原因がその人の罪、あるいは彼の両親の罪にあると推測しました。 それが彼らが認識していた律法であったからです。    しかし、イエスは目に見える律法を越え、より根本的なところに焦点を合わせました。 まさに神様の意図でした。    生まれた時から目が見えなかった人は、この事件を通して今までイエス様を目で見てきた者たちよりも正確に、確実にイエス様について知ることになったはずです。 他の人々は見られなかったイエス様の本質を、彼は目に見えるものに頼らなかったことで、より正確に知ることができたのです。    今日の箇所の最後の節では、人々がそのイエス様がどこにいるのか、目が見えなかった人に聞きます。 今も彼らはイエス様を目で見ることを望んでいるのです。 しかし、目が見えなかった人はイエス様がどこに行かれたのかは分かりませんでした。    しかし、一つ推測できることは、人々はイエス様がどこに行かれたか探し続けても、目が見えなかった人はこれ以上イエス様がどこに行かれたのか探さなくてもよかったでしょう。 目に見えなくてもイエス様が自分と共にしていることを知ることになったからです。 https://youtu.be/bNQ2CnFGtuU?si=zRuM5llyWRv8Q3SF

요한복음 묵상 【눈에 보여도】 20250201(토) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

요한복음 9:1-12 9:1 예수께서 길을 가실 때에 날 때부터 맹인 된 사람을 보신지라 9:2 제자들이 물어 이르되 랍비여 이 사람이 맹인으로 난 것이 누구의 죄로 인함이니이까 자기니이까 그의 부모니이까 9:3 예수께서 대답하시되 이 사람이나 그 부모의 죄로 인한 것이 아니라 그에게서 하나님이 하시는 일을 나타내고자 하심이라 9:4 때가 아직 낮이매 나를 보내신 이의 일을 우리가…

ヨハネの福音書 黙想 【無駄な真理】 20250131(金) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

ヨハネの福音書 8:48-59 8:48 ユダヤ人たちはイエスに答えて言った。「あなたはサマリア人で悪霊につかれている、と私たちが言うのも当然ではないか。」 8:49 イエスは答えられた。「わたしは悪霊につかれてはいません。むしろ、わたしの父を敬っているのに、あなたがたはわたしを卑しめています。 8:50 わたしは自分の栄光を求めません。それを求め、さばきをなさる方がおられます。 8:51 まことに、まことに、あなたがたに言います。だれでもわたしのことばを守るなら、その人はいつまでも決して死を見ることがありません。」 8:52 ユダヤ人たちはイエスに言った。「あなたが悪霊につかれていることが、今分かった。アブラハムは死に、預言者たちも死んだ。それなのにあなたは、『だれでもわたしのことばを守るなら、その人はいつまでも決して死を味わうことがない』と言う。 8:53 あなたは、私たちの父アブラハムよりも偉大なのか。アブラハムは死んだ。預言者たちも死んだ。あなたは、自分を何者だと言うのか。」 8:54 イエスは答えられた。「わたしがもし自分自身に栄光を帰するなら、わたしの栄光は空しい。わたしに栄光を与える方は、わたしの父です。この方を、あなたがたは『私たちの神である』と言っています。 8:55 あなたがたはこの方を知らないが、わたしは知っています。もしわたしがこの方を知らないと言うなら、わたしもあなたがたと同様に偽り者となるでしょう。しかし、わたしはこの方を知っていて、そのみことばを守っています。 8:56 あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見るようになることを、大いに喜んでいました。そして、それを見て、喜んだのです。」 8:57 そこで、ユダヤ人たちはイエスに向かって言った。「あなたはまだ五十歳になっていないのに、アブラハムを見たのか。」 8:58 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』なのです。」 8:59 すると彼らは、イエスに投げつけようと石を取った。しかし、イエスは身を隠して、宮から出て行かれた。  イエス様が今まで宣べ伝え、教えてきたすべてのことは「真理」でした。 しかし、ユダヤ人たちはそのようなイエス様に向かって「あなたはサマリア人で、悪霊につかれている人」と言っています。 彼らにとってこの言葉は、あなたは不敬虔な人で、狂った者であるというような表現です。ユダヤ人たちがそのように言った理由は、彼らが神様の真理ではなく、無駄な真理に従っていたからです。    ユダヤ人は自分たちの先祖、信仰の父アブラハムを敬っていました。 そのため、彼らは自分たちがアブラハムの時から神様に選ばれた民であることを誇りとし、栄光に思ってきました。そして、そのような自分たちに与えられた神様の律法を記録したモーセを敬ってきました。しかし、彼らが自ら言ったように、アブラハムもモーゼも、結局死んでしまう者でした。 彼らが敬ったアブラハムもモーセも、ただ一人の人間であったからです。    その反面、イエス様は神様を父として敬いました。 そのため、人の律法ではなく神様の御言葉を伝え、自分に栄光を帰せず、 人が作り出した律法ではなく、神様が与えてくださった律法の意図をそのまま実践されたのです。    ユダヤ人たちは自分たちが律法を学び、教え、守ることにその意味を置いて、その行為を通して自分たちに栄光を帰してきました。 そして、そのようなすべてのことの基礎を固めたモーセ、そして信仰の父アブラハムを敬っているとは言いましたが、それでも彼らが教えたこと、自分たちが敬っている彼らと同じものを見ることはできませんでした。 彼らを通して自分たちに栄光を帰し、彼らはそのための手段になってしまったからです。 イエス様が言われた通り、彼らは偽り者だったのです。    キリスト者が背負っていかなければならない十字架は、このような自己否定です。 自分に栄光を帰したい欲求、自分が何かを行うことで神様を知り、その御言葉を守っているように思うのではなく、すべてが神様から出たことを認め、自分の弱さと向き合うこと、ただ神様が言われた御言葉の本質を覚え、その真理を宣べ伝えること、それが私たちに任せられている使命であり、十字架であるのです。    そのような真理を宣べ伝えるということは、世の中が言う真理と真正面に対抗するようなものです。 そのため、その道には常に迫害が伴われます。 しかし、その道に従って行くこと、その十字架を背負ってイエス様と共にに歩んで行くことが、まさに私たちが永遠の命を得る唯一の道です。 https://youtu.be/yITZ4lPLfGk?si=sVxhCSHggFV6sVaT

요한복음 묵상 【헛된 진리】 20250131(금) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

요한복음 8:48-59 8:48 유대인들이 대답하여 이르되 우리가 너를 사마리아 사람이라 또는 귀신이 들렸다 하는 말이 옳지 아니하냐 8:49 예수께서 대답하시되 나는 귀신 들린 것이 아니라 오직 내 아버지를 공경함이거늘 너희가 나를 무시하는도다 8:50 나는 내 영광을 구하지 아니하나 구하고 판단하시는 이가 계시느라 8:51 진실로 진실로 너희에게 이르노니 사람이 내 말을 지키면 영원히 죽음을 보지 아니하리라…

요한복음 묵상 【너희가 내 말에 거하면】 20250130(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

요한복음 8:31~47 8:31 그러므로 예수께서 자기를 믿은 유대인들에게 이르시되 너희가 내 말에 거하면 참 내 제자가 되고 8:32 진리를 알지니 진리가 너희를 자유케 하리라 8:33 저희가 대답하되 우리가 아브라함의 자손이라 남의 종이 된 적이 없거늘 어찌하여 우리가 자유케 되리라 하느냐 8:34 예수께서 대답하시되 진실로 진실로 너희에게 이르노니 죄를 범하는 자마다 죄의 종이라 8:35 종은 영원히…

ヨハネによる福音書 黙想 【わたしのことばにとどまるなら】 20250130(木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ヨハネによる福音書 8:31~47 8:31 イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。 8:32 あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」 8:33 彼らはイエスに答えた。「私たちはアブラハムの子孫であって、今までだれの奴隷になったこともありません。どうして、『あなたがたは自由になる』と言われるのですか。」 8:34 イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。 8:35 奴隷はいつまでも家にいるわけではありませんが、息子はいつまでもいます。 8:36 ですから、子があなたがたを自由にするなら、あなたがたは本当に自由になるのです。 8:37 わたしは、あなたがたがアブラハムの子孫であることを知っています。しかし、あなたがたはわたしを殺そうとしています。わたしのことばが、あなたがたのうちに入っていないからです。 8:38 わたしは父のもとで見たことを話しています。あなたがたは、あなたがたの父から聞いたことを行っています。」 8:39 彼らはイエスに答えて言った。「私たちの父はアブラハムです。」イエスは彼らに言われた。「あなたがたがアブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行うはずです。 8:40 ところが今あなたがたは、神から聞いた真理をあなたがたに語った者であるわたしを、殺そうとしています。アブラハムはそのようなことをしませんでした。 8:41 あなたがたは、あなたがたの父がすることを行っているのです。」すると、彼らは言った。「私たちは淫らな行いによって生まれた者ではありません。私たちにはひとりの父、神がいます。」 8:42 イエスは言われた。「神があなたがたの父であるなら、あなたがたはわたしを愛するはずです。わたしは神のもとから来てここにいるからです。わたしは自分で来たのではなく、神がわたしを遣わされたのです。 8:43 あなたがたは、なぜわたしの話が分からないのですか。それは、わたしのことばに聞き従うことができないからです。 8:44 あなたがたは、悪魔である父から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと思っています。悪魔は初めから人殺しで、真理に立っていません。彼のうちには真理がないからです。悪魔は、偽りを言うとき、自分の本性から話します。なぜなら彼は偽り者、また偽りの父だからです。 8:45 しかし、このわたしは真理を話しているので、あなたがたはわたしを信じません。 8:46 あなたがたのうちのだれが、わたしに罪があると責めることができますか。わたしが真理を話しているなら、なぜわたしを信じないのですか。 8:47 神から出た者は、神のことばに聞き従います。ですから、あなたがたが聞き従わないのは、あなたがたが神から出た者でないからです。」 イエス様が語られるイエス様の弟子とは、御言葉の中にとどまる人のことです。御言葉の中にいることで真理を悟り、真理を見出した人は、非真理によって複雑になった心と魂が解放され、自由になります。しかし、ユダヤ人たちは自分たちの矛盾に気づいていませんでした。彼らは混乱していました。自分たちはアブラハムの子孫だから自由な存在であると主張しましたが、それは宗教的な誇りが生み出した霊的な自己欺瞞であり、虚偽の確信にすぎませんでした。 イエス様は彼らの現実を指摘されます。彼らはアブラハムの子孫ではなく、罪の奴隷であると語られました。神の子は神の言葉を聞くものですが、彼らはそれを聞こうとしませんでした。それによって彼ら自身が神に属していないことを証明してしまったのです。ユダヤ人たちの矛盾を見ながら、驚かずにはいられません。イエス様は彼らを「悪魔の子」と言われましたが、彼らは自分たちがアブラハムの子孫、すなわち神の子だと信じていました。御言葉の前でどのような態度を取るかによって、決まるということは、実に恐ろしいことです。 教会の中には「御言葉」という言葉がどれほど多く語られているでしょうか。しかし、御言葉が真に「御言葉」となるのは、その御言葉と自分自身の関係の中においてです。真の弟子とは、御言葉を受け、自分の生活の場に戻ってその御言葉と格闘せずにはいられない人です。そのような人だけが神の御言葉を内に宿し、この世の束縛から自由にされるのです。基準が明確な人は、流されず、揺るがされることのない自由な人です。御言葉と格闘し、その御言葉が自分を打ち破り、ついにはその御言葉が自分自身となること——その御言葉の中に生きる人こそが自由な人であり、彼こそがイエス・キリストの弟子です。今一度、自分と御言葉との関係を点検しなければなりません。

요한복음 묵상 【너희가 내 말에 거하면】 20250130(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

요한복음 8:21~30 8:21 다시 이르시되 내가 가리니 너희가 나를 찾다가 너희 죄 가운데서 죽겠고 나의 가는 곳에는 너희가 오지 못하리라 8:22 유대인들이 가로되 저가 나의 가는 곳에는 너희가 오지 못하리라 하니 저가 자결하려는가 8:23 예수께서 가라사대 너희는 아래서 났고 나는 위에서 났으며 너희는 이 세상에 속하였고 나는 이 세상에 속하지 아니하였느니라 8:24 이러므로 내가 너희에게…