로마서 묵상 【행위보다 큰 믿음, 믿음보다 큰 하나님】 20250909(화) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

로마서 4:1~8 4:1 그런즉 육신으로 우리 조상된 아브라함이 무엇을 얻었다 하리요 4:2 만일 아브라함이 행위로써 의롭다 하심을 얻었으면 자랑할 것이 있으려니와 하나님 앞에서는 없느니라 4:3 성경이 무엇을 말하느뇨 아브라함이 하나님을 믿으매 이것이 저에게 의로 여기신바 되었느니라 4:4 일하는 자에게는 그 삯을 은혜로 여기지 아니하고 빚으로 여기거니와 4:5 일을 아니할지라도 경건치 아니한 자를 의롭다 하시는 이를…

ローマ人への手紙 黙想 【ローマ人への手紙が伝える福音の密度】 20250908 (月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ローマ人への手紙 3:21~31 3:21 しかし今や、律法とは関わりなく、律法と預言者たちの書によって証しされて、神の義が示されました。 3:22 すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。そこに差別はありません。 3:23 すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、 3:24 神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。 3:25 神はこの方を、信仰によって受けるべき、血による宥めのささげ物として公に示されました。ご自分の義を明らかにされるためです。神は忍耐をもって、これまで犯されてきた罪を見逃してこられたのです。 3:26 すなわち、ご自分が義であり、イエスを信じる者を義と認める方であることを示すため、今この時に、ご自分の義を明らかにされたのです。 3:27 それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それは取り除かれました。どのような種類の律法によってでしょうか。行いの律法でしょうか。いいえ、信仰の律法によってです。 3:28 人は律法の行いとは関わりなく、信仰によって義と認められると、私たちは考えているからです。 3:29 それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもあるのではないでしょうか。そうです。異邦人の神でもあります。 3:30 神が唯一なら、そうです。神は、割礼のある者を信仰によって義と認め、割礼のない者も信仰によって義と認めてくださるのです。 3:31 それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。決してそんなことはありません。むしろ、律法を確立することになります。   新約聖書における「律法」という言葉は、古代イスラエル社会を支えていた政治的・宗教的な規範だけを意味するのではない。それは、人間が自らの力で神の前に義とされようとして築き上げてきたあらゆる制度や規律、そして自分を守ろうとする意志をも包含するのである。その熱心さも純粋なものではなく、もともと成り立たないものであり、今なお不可能である。人間の本性は罪の状態から離れたことがなく、その内から義が生まれることはない。だから神はそれを要求されなかった。それは失望や放棄ではなく、人間存在の限界を明確に示される方法であった。人間は「他者より自分の方がましだ」という相対的な義を追い求めたが、神はその道を閉ざし、まったく別の道を開かれた。その道以外の道は、初めから存在しなかった。 その道とは、律法の外で起こり成就した神の義、すなわちイエス・キリストを通した救いであった。そしてそれは、人間の行いを排除しなければならないという前提を持っていた。だから救いの条件はただ信仰である。救いは信仰によってのみ与えられる。ゆえに信仰を定義しなければならない。信仰とは感情や非理性的な態度ではない。信仰は人間の省察と内面的な深みを通して開かれる最も高貴な能力である。しかしそれすらも自ら生み出すことはできない。信仰は神が恵みの通路として与えてくださるものである。すべての人が罪の下にあるゆえに、誰も神の栄光に到達できない。しかし城門の外のキリストの十字架において、神は義と愛を同時に示された。罪を裁きつつ罪人を義とされるという、矛盾のように見える出来事が十字架で完成したのである。この無理に見えながらも完全な法的解決の根拠は神の愛である。神はご自身で忍耐し、ご自身で苦しみを担い、ご自身で血を流すことによってこの業を成し遂げられた。 ゆえに人間には誇るべきものがない。いや、誇ることはできる。イエス・キリストを誇ることはできる。ただしそれを当然のように、堂々と誇ることはできない。誰かが身代わりに死んだことで生き残った人間が、どうして胸を張ることができるだろうか。この救いは悟った者から次の悟る者へと伝わり、さらに新しい救いを生み出していく。それが宣教であり、その間に働くものは常に信仰である。その信仰を恥じない人々によって伝えられていくのである。こうして伝えられた信仰を通して、神はユダヤ人の神であるだけでなく、異邦人の神としても現れる。信仰は律法を廃するのではなく、完成させる。人間が誤っただけで、律法そのものが誤ったことは一度もないからである。律法の究極の目的は、人間を超越する何かではなく、最も人間らしい生き方であった。福音の中に生きることが救われた生であり、それこそが最も人間らしい生き方なのである。

로마서 묵상 【로마서가 전하는 복음의 밀도】 20250908(월) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

로마서 3:21~31 3:21 이제는 율법 외에 하나님의 한 의가 나타났으니 율법과 선지자들에게 증거를 받은 것이라 3:22 곧 예수 그리스도를 믿음으로 말미암아 모든 믿는 자에게 미치는 하나님의 의니 차별이 없느니라 3:23 모든 사람이 죄를 범하였으매 하나님의 영광에 이르지 못하더니 3:24 그리스도 예수 안에 있는 구속으로 말미암아 하나님의 은혜로 값 없이 의롭다 하심을 얻은 자 되었느니라 3:25…

ローマ人への手紙 黙想【御言葉が指し示す方向】20250906(土) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

ローマ人への手紙 3:1-8 3:1 それでは、ユダヤ人のすぐれている点は何ですか。割礼に何の益があるのですか。 3:2 あらゆる点から見て、それは大いにあります。第一に、彼らは神のことばを委ねられました。 3:3 では、どうですか。彼らのうちに不真実な者がいたなら、その不真実は神の真実を無にするのでしょうか。 3:4 決してそんなことはありません。たとえすべての人が偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。「それゆえ、あなたが告げるとき、あなたは正しくあられ、さばくとき、勝利を得られます」と書いてあるとおりです。 3:5 では、もし私たちの不義が神の義を明らかにするのなら、私たちはどのように言うべきでしょうか。私は人間的な言い方をしますが、御怒りを下す神は不義なのでしょうか。 3:6 決してそんなことはありません。もしそうなら、神はどのようにして世界をさばかれるのですか。 3:7 では、もし私の偽りによって神の真理がますます明らかにされて、神の栄光となるのなら、どうして私はなおも罪人としてさばかれるのですか。 3:8 「善をもたらすために悪を行おう」ということになりませんか。私たちがそう言っていると、ある者たちから中傷されています。そのように中傷する者たちが、さばきを受けるのは当然です。    ユダヤ人、割礼、律法といった旧約聖書の重要なキーワードは、新約聖書に至り、まるで否定されてしまうように感じられることがあります。しかも、その中心には、ユダヤ人であり、割礼を受けた律法学者出身の使徒パウロがいました。    しかし、今日のの箇所の冒頭で、使徒パウロはそれらが単に否定されるべきものではないと、はっきり語っています。それらはあらゆる点で多くの益をもたらしますが、何よりも第一に、彼らは神様の御言葉を委ねられたという事実です。イスラエルを通して神様の御言葉が伝えられたことです。    神様はイスラエルを選び、彼らに割礼の規定と律法を与え、その歴史を通して、また規定と律法を通して、ご自身の民に何を望んでおられるのか、どのような御業をなされたか、そして、神様ご自身がどのような方であるのかを、絶えず示してくださいました。    では、なぜ私たちは律法を守ることができないのでしょうか。それは、律法が完全な神様の法であるからです。罪によって神様から離れてしまった人間は、当然ながらその法を守ることができなくなってしまうのです。しかし神様は、私たちが律法を守れないという事実を通してさえ、ご自身の義を明らかにされるのです。    律法を守れない者たちに下される神様の御怒りを通しても、そしてその御怒りをすべて人間に負わせないために神様がなされた一切の御業を通しても、律法は確かに神様を指し示しているのです。そこに人間の義が入り込む余地はなく、人間はそもそもそのような義を持ち合わせてはいません。    私たちの偽りを通しても神様の真実が現れ、私たちの不義を通しても神様の義が明らかにされています。けれども、ここで使徒パウロが語るように、世の人々の言葉に惑わされ、それに従って生きてはなりません。私たちの偽りや不義が神様を現すのだから、好き勝手に生きてもよい、ということにはならないのです。    私たちと同じ弱い肉体を持って来られ、しかし罪はなかったイエス・キリストの模範に従い、私たちもまたその方に似た者となっていくこと、そして、イエス・キリストを通して折にかなった助けをいただくために、恵みの御座に近づいていくこと。これこそが私たちに与えられた使命であり、私たちが歩むべき道なのです。それが神様の律法、御言葉が指し示している方向です。 https://youtu.be/CvVj2_Lhg7A?si=KSMvp41dy7OuhFlJ

로마서 묵상【말씀이 가리키는 방향】20250906(토) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

로마서 3:1-8 3:1 그런즉 유대인의 나음이 무엇이며 할례의 유익이 무엇이냐 3:2 범사에 많으니 우선은 그들이 하나님의 말씀을 맡았음이니라 3:3 어떤 자들이 믿지 아니하였으면 어찌하리요 그 믿지 아니함이 하나님의 미쁘심을 폐하겠느냐 3:4 그럴 수 없느니라 사람은 다 거짓되되 오직 하나님은 참되시다 할지어다 기록된 바 주께서 주의 말씀에 의롭다 함을 얻으시고 판단 받으실 때에 이기려 하심이라 함과…

ローマ人への手紙 黙想【心の割礼】20250905(金) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

ローマ人への手紙 2:17-29 2:17 あなたが自らユダヤ人と称し、律法を頼みとし、神を誇り、 2:18 みこころを知り、律法から教えられて、大切なことをわきまえているなら、 2:19  また、律法のうちに具体的に示された知識と真理を持っているので、目の見えない人の案内人、闇の中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師だ、と自負しているなら、 2:20 [前節と合節] 2:21 どうして、他人を教えながら、自分自身を教えないのですか。盗むなと説きながら、自分は盗むのですか。 2:22 姦淫するなと言いながら、自分は姦淫するのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿の物をかすめ取るのですか。 2:23 律法を誇りとするあなたは、律法に違反することで、神を侮っているのです。 2:24 「あなたがたのゆえに、神の御名は異邦人の間で汚されている」と書いてあるとおりです。 2:25 もしあなたが律法を行うなら、割礼には価値があります。しかし、もしあなたが律法の違反者であるなら、あなたの割礼は無割礼になったのです。 2:26 ですから、もし割礼を受けていない人が律法の規定を守るなら、その人の無割礼は割礼と見なされるのではないでしょうか。 2:27 からだは無割礼でも律法を守る人が、律法の文字と割礼がありながらも律法に違反するあなたを、さばくことになります。 2:28 外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上のからだの割礼が割礼ではないからです。 2:29 かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による心の割礼こそ割礼だからです。その人への称賛は人からではなく、神から来ます。    イスラエルは神の契約の民であり、彼らには特別な「律法」が与えられました。その律法こそがイスラエルを神の民とする証であり、それを守ることが神の民として生きることだと律法は語っています。そして、その律法に入る出発点、契約の民としてのアイデンティティを示すのが割礼でした。   しかし、よく知られているように、人間はそのすべての律法を守り続けることができません。人の内には罪があるからです。それでも律法を教えられ、それを守ろうとしながら、日々その律法の中でつまずき続けること、それがイスラエルの民、ユダヤ人の生き方でした。    神様はすでにそのことをご存じで、新しい契約を与えてくださいました。今度は、人が自分の力で律法を守ろうとするのではなく、人の心の内に置かれた御霊によって、神様の御言葉に従って生きることができるようにされたのです。    肉の割礼を受け、肉の律法に従って生きる者は、どうしても倒れるしかありません。イスラエルの長い歴史がそのことを証言しており、御言葉もまたそれを示しています。だからこそ、神様が人の心に置かれた御霊に従って生きるならば、心の割礼を受けるならば、もはや律法の条文に縛られる必要はありません。もはや人の行いが彼らを神の民とするのではないからです。    いまや自分の内におられる神様の御霊、その御霊によってこそ、神の民としてのアイデンティティを表すことができるのです。自分の力で必死に律法を守り、自分が神の民であることを証明しようとすれば、帰ってくるのは失敗と裁きだけでしょう。    もし私たちの誇りが善い行いであるならば、私たちがその善い行いを続けられなくなったとき、つまずいたときに、ただ裁くしかありません。しかし、私たちの誇りが、内におられる聖霊であるならば、たとえ倒れることがあっても、私たちは内におられる聖霊によって希望を持ち、再び立ち上がることができるのです。 https://youtu.be/sgYgHSJP-q8?si=uTzwf8Sdb583-pQ5

로마서 묵상【마음의 할례】20250905(금) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

로마서  2:17-29 2:17 유대인이라 불리는 네가 율법을 의지하며 하나님을 자랑하며 2:18 율법의 교훈을 받아 하나님의 뜻을 알고 지극히 선한 것을 분간하며 2:19 맹인의 길을 인도하는 자요 어둠에 있는 자의 빛이요 2:20 율법에 있는 지식과 진리의 모본을 가진 자로서 어리석은 자의 교사요 어린 아이의 선생이라고 스스로 믿으니 2:21 그러면 다른 사람을 가르치는 네가 네 자신은 가르치지…

ローマ人への手紙 黙想 【律法と良心】 20250904 (木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師

ローマ人への手紙 2:1~16 2:1 ですから、すべて他人をさばく者よ、あなたに弁解の余地はありません。あなたは他人をさばくことで、自分自身にさばきを下しています。さばくあなたが同じことを行っているからです。 2:2 そのようなことを行う者たちの上に、真理に基づいて神のさばきが下ることを、私たちは知っています。 2:3 そのようなことを行う者たちをさばきながら、同じことを行っている者よ、あなたは神のさばきを免れるとでも思っているのですか。 2:4 それとも、神のいつくしみ深さがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かないつくしみと忍耐と寛容を軽んじているのですか。 2:5 あなたは、頑なで悔い改める心がないために、神の正しいさばきが現れる御怒りの日の怒りを、自分のために蓄えています。 2:6 神は、一人ひとり、その人の行いに応じて報いられます。 2:7 忍耐をもって善を行い、栄光と誉れと朽ちないものを求める者には、永遠のいのちを与え、 2:8 利己的な思いから真理に従わず、不義に従う者には、怒りと憤りを下されます。 2:9 悪を行うすべての者の上には、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、苦難と苦悩が下り、 2:10 善を行うすべての者には、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。 2:11 神にはえこひいきがないからです。 2:12 律法なしに罪を犯した者はみな、律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯した者はみな、律法によってさばかれます。 2:13 なぜなら、律法を聞く者が神の前に正しいのではなく、律法を行う者が義と認められるからです。 2:14 律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じることを行う場合は、律法を持たなくても、彼ら自身が自分に対する律法なのです。 2:15 彼らは、律法の命じる行いが自分の心に記されていることを示しています。彼らの良心も証ししていて、彼らの心の思いは互いに責め合ったり、また弁明し合ったりさえするのです。 2:16 私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって、人々の隠された事柄をさばかれるその日に行われるのです。     ユダヤ人にとって、律法の遵守はすなわち救いの条件であり、揺るぎない確信でした。 一方、異邦人には律法がなかったため、ユダヤ人は彼らに対して「では、あなたがたの救いの根拠は何か」と問わずにはいられませんでした。これに対してパウロは「律法を持たなくても、自ら律法の働きを行う人々がいる」(ローマ2:14)と言いました。律法主義者にとっては挑戦的な発言でした。 しかしパウロは律法の目的から少しも外れてはいませんでした。律法の本来の目的は、抑圧や宗教的形式にあるのではなく、人間の尊厳を守り、社会の秩序を保つための最小限のものでした。それは決して最大限のものにはなり得ません。律法のない社会、すなわち異邦人社会にも法や制度が存在し、それは良心と相互に作用しながら機能していました。 良心は普遍的な道徳秩序を支える内的な力です。したがって、律法を持っていると誇るユダヤ人であっても、その律法が良心と切り離されてしまうならば、それはむしろ毒となり、剣となってしまうのです。結局、律法も良心も人間性を守るための装置にすぎず、決して救いの道ではありません。 その意味でパウロは「ユダヤ人は律法によって、異邦人は良心によって裁かれる」と言いました。ここで言う「裁き」とは刑罰の執行を意味するのではなく、人生を評価することを意味すると理解するのが正しいでしょう。ユダヤ人は律法を基準に、異邦人は人間の良心に基づいて形成されたその社会の法律・道徳・慣習といった規範に従って評価を受けるのです。どの時代、どの社会においても同じです。善人は善として、悪人は悪として明らかにされます。 それは確かですが、その評価がそのまま救いを保証するわけではありません。パウロは良心を救いの条件として立てようとしたのでもなく、律法を固く握りしめよと勧めたのでもありません。パウロの要点は単純です。「律法と良心はそれぞれの背景において人間を評価する基準となるが、それらは本質的に同じものであり、救いはただイエス・キリストのうちにのみ与えられる。」

로마서 묵상 【율법과 양심】 20250904(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

로마서 2:1~16 2:1 그러므로 남을 판단하는 사람아 무론 누구든지 네가 핑계치 못할 것은 남을 판단하는 것으로 네가 너를 정죄함이니 판단하는 네가 같은 일을 행함이니라 2:2 이런 일을 행하는 자에게 하나님의 판단이 진리대로 되는줄 우리가 아노라 2:3 이런 일을 행하는 자를 판단하고도 같은 일을 행하는 사람아 네가 하나님의 판단을 피할 줄로 생각하느냐 2:4 혹 네가 하나님의…

ローマ人への手紙 黙想 【見捨てられること】 20250902 (火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師

ローマ人への手紙 1:18~32 1:18 というのは、不義によって真理を阻んでいる人々のあらゆる不敬虔と不義に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。 1:19 神について知りうることは、彼らの間で明らかです。神が彼らに明らかにされたのです。 1:20 神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められるので、彼らに弁解の余地はありません。 1:21 彼らは神を知っていながら、神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その鈍い心は暗くなったのです。 1:22 彼らは、自分たちは知者であると主張しながら愚かになり、 1:23 朽ちない神の栄光を、朽ちる人間や、鳥、獣、這うものに似たかたちと替えてしまいました。 1:24 そこで神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡されました。そのため、彼らは互いに自分たちのからだを辱めています。 1:25 彼らは神の真理を偽りと取り替え、造り主の代わりに、造られた物を拝み、これに仕えました。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。 1:26 こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、彼らのうちの女たちは自然な関係を自然に反するものに替え、 1:27 同じように男たちも、女との自然な関係を捨てて、男同士で情欲に燃えました。男が男と恥ずべきことを行い、その誤りに対する当然の報いをその身に受けています。 1:28 また、彼らは神を知ることに価値を認めなかったので、神は彼らを無価値な思いに引き渡されました。それで彼らは、してはならないことを行っているのです。 1:29 彼らは、あらゆる不義、悪、貪欲、悪意に満ち、ねたみ、殺意、争い、欺き、悪巧みにまみれています。また彼らは陰口を言い、 1:30 人を中傷し、神を憎み、人を侮り、高ぶり、大言壮語し、悪事を企み、親に逆らい、 1:31 浅はかで、不誠実で、情け知らずで、無慈悲です。 1:32 彼らは、そのような行いをする者たちが死に値するという神の定めを知りながら、自らそれを行っているだけでなく、それを行う者たちに同意もしているのです。     パウロは、人間が神を拒み、その不義によって神の真理を押し止めることこそが、すでに裁きの下にあることを示していると語った。神はご自身を創造の世界を通して明らかにされたが、人間は神を栄光に帰さず、感謝することもなく、かえって偶像に陥ってしまったのである。神は彼らを「見捨てられた(任せられた)」と言われたが、それは神がその人間の生活に介入されないという、裁きの一つの方式である。人間はその裁きを自由だと誤解し、それを享受する。しかし実際には、罪と欲望を幸福や人生の目的だと錯覚しながら生きているのだ。 ここでの「神が見捨てられる」という概念は、一見すると神の主権的な救い、あるいは聖徒の堅忍という神学的理解と衝突するように見える。もし神が機会を与えられたにもかかわらず、人々が最後まで拒み、結局神が彼らを見捨てられたのだとすれば、それは神の全的な救いや、最後まで支えてくださる恵みに反するのではないか、という問いを抱かざるを得ない。 しかし、パウロの文脈はそうではない。聖徒の堅忍とは、神が選ばれた者を最後まで支えてくださるという約束である。ここで重要なのは「最後まで支える」ということばであると同時に、それ以上に「選ばれた者」という対象である。そしてローマ書1章でパウロが語っている対象は、神に選ばれ召された再生した聖徒ではなく、神を拒む人類一般についてなのである。したがって、「見捨てられること」とは本来、恵みの外にあった者に与えられる裁きであり、すでに恵みの中にある聖徒の堅忍を否定するものではない。 ゆえに、神の主権的な救いと聖徒の堅忍は矛盾しない。むしろ裁きを行われる義の神と、救いを与えられる恵みの神が並んで現されており、互いをより鮮明にしているのである。パウロは救いの確実性を揺るがしているのではない。むしろ、神の恵みなしには人間が自ら救いに達することは絶対に不可能であることを強調しているのだ。 人はよく「イエスを信じなければ地獄に行く」と言うが、その表現は改めるべきである。聖書はすべての人間がすでに罪の中に生まれ、滅びの下にあるという事実を前提にしている。したがって、地獄とはイエスを信じないから新しく定められた罰ではなく、罪の中にある人間に与えられ、定められた結末なのである。それに対して天国とは、イエスを信じたことへの報酬ではなく、全く神の恵みによって新たに与えられる救いの賜物である。ゆえに「イエスを信じないから地獄に行く」という言い方は誤りであり、「イエスを信じて救われ、天国に行く」というのが正しい言い方なのである。