누가복음 QT57 220315화【형벌의 날】누가복음 21장 10~24

누가복음 21장 10~2421:10 또 이르시되 민족이 민족을 나라가 나라를 대적하여 일어나겠고21:11 처처에 큰 지진과 기근과 온역이 있겠고 또 무서운 일과 하늘로서 큰 징조들이 있으리라21:12 이 모든 일 전에 내 이름을 인하여 너희에게 손을 대어 핍박하며 회당과 옥에 넘겨 주며 임금들과 관장들 앞에 끌어 가려니와21:13 이 일이 도리어 너희에게 증거가 되리라21:14 그러므로 너희는 변명할 것을 미리…

ルカの福音書 QT56 220314月【二枚のレプタ】ルカ 21章 1~9

ルカ 21章 1~921:1 イエスは目を上げて、金持ちたちが献金箱に献金を投げ入れているのを見ておられた。21:2 そして、ある貧しいやもめが、そこにレプタ銅貨を二枚投げ入れるのを見て、21:3 こう言われた。「まことに、あなたがたに言います。この貧しいやもめは、だれよりも多くを投げ入れました。21:4 あの人たちはみな、あり余る中から献金として投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っていた生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。」21:5 さて、宮が美しい石や奉納物で飾られている、と何人かが話していたので、イエスは言われた。21:6 「あなたがたが見ているこれらの物ですが、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることのない日が、やって来ます。」21:7 そこで彼らはイエスに尋ねた。「先生、それでは、いつ、そのようなことが起こるのですか。それが起こるときのしるしは、どのようなものですか。」21:8 イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れて、『私こそ、その者だ』とか『時は近づいた』とか言います。そんな人たちの後について行ってはいけません。21:9 戦争や暴動のことを聞いても、恐れてはいけません。まず、それらのことが必ず起こりますが、終わりはすぐには来ないからです。」   今日の本文は「やもめの二枚のレプタ銅貨」の話です。金持ちと貧しいやもめがそれぞれ献金をしましたが、金持ちは一定金額をささげ、やもめは財産の全部であるレプタ銅貨の二枚をささげました。金持ちの金額は分かりませんが、相対的な価値で持ち物の全部をささげたやもめの献金を注目するようになります。しかし、イエス様が献金について語られることは、「欲」の問題を扱われるからです。金額の絶対的な価値ということもあるので、金額が少なすぎると、その中に欲が働く余地はありません。例えば、一万円を持っている人が一千円の什分の一献金をすることは難しくありませんが、十億円を持つ人が一億の什分の一献金をすることは難しいでしょう。   もちろん、貧しいやもめの二枚のレプタの献身は大切です。しかし、金持ちが自分の財産に比べて比較的少ない金額をささげたということで非難されることではないと思います。文脈に従ってイエス様が言われようとする意図を探さなければなりません。昨日の本文の20章は、高慢で腐敗した宗教指導者と、それにやられている貧しい人々の話で終わります。「律法学者たちには用心しなさい。彼らは長い衣を着て歩き回ることが好きで、広場であいさつされることや会堂の上席、宴会の上座を好みます。また、やもめの家を食い尽くし、見栄を張って長く祈ります。こういう人たちは、より厳しい罰を受けるのです。20:46,47 」   そして今朝の本文の21章からその話を続けます。当時、パリサイ人やサドカイ人などの政治的かつ宗教的な既得権者は、貧しい人々のお金を悪意的または構造的に搾取していました。それで、やもめは貧さの中で残っていたものの全部をを神様にささげました。イエス様はそれについて社会的に告発し、宗教的に懲らしめられたのです。これを聞いていた人々は、21章5節で資本の大切さを語ります。「さて、宮が美しい石や奉納物で飾られている 21:5」つまり、「わたしたちがたくさんの献金をしたので,あの大きくて派手な神殿が建てられたのだ」ということです。「レプタの二枚なんていわないでください。そんなもので、こんなに大きな神様の働きなんてできません」という抗弁です。しかし、イエス様は、その宗教の建物はすぐに粉々に崩れ落ちると言われます。そして、実際にそうなりました。人々は宗教を作り上げ、神様はそれを壊します。人間の献身で建てられたと思うものは、人間が虚しくなるとき、一緒に崩れ落ちます。  

누가복음 QT56 220314월【두 렙돈】누가복음 21장 1~9

누가복음 21장 1~921:1 예수께서 눈을 들어 부자들이 연보 궤에 헌금 넣는 것을 보시고21:2 또 어떤 가난한 과부의 두 렙돈 넣는 것을 보시고21:3 가라사대 내가 참으로 너희에게 말하노니 이 가난한 과부가 모든 사람보다 많이 넣었도다21:4 저들은 그 풍족한 중에서 헌금을 넣었거니와 이 과부는 그 구차한 중에서 자기의 있는바 생활비 전부를 넣었느니라21:5 어떤 사람들이 성전을 가리켜 그…

ルカの福音書 QT55 220312土【復活しないこと】ルカ 20章 27~40

ルカ 20章 27~4020:27 復活があることを否定しているサドカイ人たちが何人か、イエスのところに来て質問した。20:28 「先生、モーセは私たちのためにこう書いています。『もし、ある人の兄が妻を迎えて死に、子がいなかった場合、その弟が兄嫁を妻にして、兄のために子孫を起こさなければならない。』20:29 ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎え、子がないままで死にました。20:30 次男も、20:31 三男もその兄嫁を妻とし、七人とも同じように、子を残さずに死にました。20:32 最後に、その妻も死にました。20:33 では復活の際、彼女は彼らのうちのだれの妻になるのでしょうか。七人とも彼女を妻にしたのですが。」20:34 イエスは彼らに言われた。「この世の子らは、めとったり嫁いだりするが、20:35 次の世に入るのにふさわしく、死んだ者の中から復活するのにふさわしいと認められた人たちは、めとることも嫁ぐこともありません。20:36 彼らが死ぬことは、もうあり得ないからです。彼らは御使いのようであり、復活の子として神の子なのです。20:37 モーセも柴の箇所で、主を『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』と呼んで、死んだ者がよみがえることを明らかにしました。20:38 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。神にとっては、すべての者が生きているのです。」20:39 律法学者たちの何人かが、「先生、立派なお答えです」と答えた。20:40 彼らはそれ以上、何もあえて質問しようとはしなかった。   サドカイ人たは政治的な群れであり、常に権力の近くにいた人々です。彼らは天使もなく、復活もなく、目に見えない霊的な世界はないと思っていました。パリサイ人とサドカイ人は根本的に対立していましたが、イエス様を殺すことについては超越して協力しました。パリサイ人と律法学者がイエス様に勝てなかったので、今回はサドカイ人がイエス様を落とし穴にいれようとして質問します。   1人の女性が7人の兄弟の長子と結婚しましたが、夫が死んで女性は夫の弟と再婚しました。これは変な話しではありません。当時、「兄死娶嫂(レビラト婚)」は家族の義務でした。弟が兄の代わりに代を引き継ぐことであり,未亡人を社会的に保護するためのことです。ところが、サドカイ人の話は、7人の兄弟が皆死んだということです。その場合、天国では、「その女性は7人の兄弟のうちの誰の妻になるのか」ということです。   イエス様は、「この世の子らは、めとったり嫁いだりするが、次の世に入るのにふさわしく、死んだ者の中から復活するのにふさわしいと認められた人たちは、めとることも嫁ぐこともありません。彼らが死ぬことは、もうあり得ないからです。彼らは御使いのようであり、復活の子として神の子なのです。34-36」と言われます。サドカイ人は天国を肉体の延長線と考えたようですが、イエス様の答えは、次元の異なる世界を語っています。天国は、地上の肉体の質をもって行けるところではありません。ですから、天国ではサドカイ人が言っているような肉体の葛藤は起こりません。   私たちが天国を慕い求めるのは、生を延長したいという願望によるものではありません。天国を望むというのは、死を恐れているからではなく、自分の罪を悟り、知っているからです。イエス様は、「死ぬことは、もうあり得ないからです」と言われましたが、もし肉体の罪を持って死ぬことがなく永遠に生きるとすれば、それは天国でも救いでもありません。呪いです。この肉体をもって永遠に生きるなら、それは救いではありません。贖われ、罪が洗われ、新しいものによみがえられることで罪の肉体を脱ぐことが救いの完成です。天国では、決して罪は復活しません。その天国を願望します。

누가복음 QT55 220312토【부활하지 않는 것】누가복음 20장 27~40

누가복음 20장 27~4020:27 부활이 없다 주장하는 사두개인 중 어떤이들이 와서20:28 물어 가로되 선생님이여 모세가 우리에게 써 주기를 사람의 형이 만일 아내를 두고 자식이 없이 죽거든 그 동생이 그 아내를 취하여 형을 위하여 후사를 세울지니라 하였나이다20:29 그런데 칠 형제가 있었는데 맏이 아내를 취하였다가 자식이 없이 죽고20:30 그 둘째와 세째가 저를 취하고20:31 일곱이 다 그와 같이 자식이…

ルカの福音書 QT54 220311金【Imago Dei】ルカ 20章 20~26

ルカ 20章 20~2620:20 さて、機会を狙っていた彼らは、義人を装った回し者を遣わした。イエスのことばじりをとらえて、総督の支配と権威に引き渡すためであった。20:21 彼らはイエスにこう質問した。「先生。私たちは、あなたがお話しになること、お教えになることが正しく、またあなたが人を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられることを知っています。20:22 ところで、私たちがカエサルに税金を納めることは、律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか。」20:23 イエスは彼らの悪巧みを見抜いて言われた。20:24 「デナリ銀貨をわたしに見せなさい。だれの肖像と銘がありますか。」彼らは、「カエサルのです」と言った。20:25 すると、イエスは彼らに言われた。「では、カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。」20:26 彼らは、民の前でイエスのことばじりをとらえることができず、答えに驚嘆して黙ってしまった。   サンヘドリンがイエス様を訴える目的でイエス様に「カエサルに税金を納めることは、律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか。」と尋ねます。この質問をしたのは、当時、ユダヤ人がローマに払わなければならない税金が多くて民たちが苦労していたからです。イエス様が税金を払わなければならないと言えば、民はイエス様に失望しますし、税金を払わなくてもいいと言えば、反ローマ勢力に追いやられて訴えられたからです。実際、彼らこそが親ローマ勢力で民を苦しめる張本人であります。   イエス様は彼らが掘り下げた落とし穴をよく知って答えられます。「デナリ銀貨をわたしに見せなさい。だれの肖像と銘がありますか。彼らは、カエサルのです」と言った。すると、イエスは彼らに言われた。では、カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。24,25」コインには皇帝の顔があり、「ティベリウス皇帝アウグストゥス、神であるアウグストゥスの子」という文が刻まれています。25節の「カエサルのもの」と24節の「カエサルのもの」が同じです。つまり、コインに刻まれている形象はカエサルであり、それはカエサルに返しなさいということです。カエサルの形をしたあなたたちは、形状に行きなさいということです。   そして、イエス様の答えはそれで終わりませんでした。続いて「神のものは神に返しなさい」とあります。コインでカエサルの形を確認しましたので、神様の形も確認しなければならないと思います。今朝の黙想のタイトルを「Imago Dei」と付けましたが、ラテン語で「神様の形」という言葉です。神様の形は人にあります。神様は、神様の形象で人を造られました。皇帝の形象があるお金は国家権力に捧げられますが、神様の形象を持った人は全人的に神様にささげられます。   この「カエサルのものと神様のもの」は、「国家の税金と教会の献金」の話ではありません。献金の話は出てきません。被支配植民地ですが、イエス様は基本的に納税の義務を否定しませんでした。しかし、神様の中に人がおり、人の中にお金があります。問題は、人が神様を捨ててお金と権力に仕えるということです。俗と聖は独立して区別されません。国家や権力が神様と対立していることではありません。税金も国家も皇帝もみな神様に属しています。   権力者を追従すると国家主義に流れます。一人によって戦争が起こり、数多くの人が苦しまれます。私たちはいつでも起こられる国家主義に警戒しなければなりません。国家のために死ぬことは偉大なことですが、国家が国民を死なないように守らなければならないことがさらに重要です。神様の形象は人にあります。国民は国家に税金を払いますが、国家は統治者のものではなく国民のものです。国民の財産と命を守らない国は存在意味がありません。税金は払わなければならず、教育も受けなければならず、兵役もしなければなりませんが、それは国家のためではなく国民のためであり、それは神様にささげられることです。神様の形象を持って神様にささげられる人は、社会で自分の責任を果たし、民主な尊厳を守る市民であると思います。

누가복음 QT54 220311금【Imago Dei】누가복음 20장 20~26

누가복음 20장 20~2620:20 이에 저희가 엿보다가 예수를 총독의 치리와 권세 아래 붙이려하여 정탐들을 보내어 그들로 스스로 의인인 체하며 예수의 말을 책잡게 하니20:21 그들이 물어 가로되 선생님이여 우리가 아노니 당신은 바로 말씀하시고 가르치시며 사람을 외모로 취치 아니하시고 오직 참으로써 하나님의 도를 가르치시나이다20:22 우리가 가이사에게 세를 바치는 것이 가하니이까 불가하니이까 하니20:23 예수께서 그 간계를 아시고 가라사대20:24 데나리온…

ルカの福音書 QT53 220310木【ぶどう園の農夫の錯覚】ルカ 20章 9~19

ルカ 20章 9~1920:9 また、イエスは人々に対してこのようなたとえを話し始められた。「ある人がぶどう園を造り、それを農夫たちに貸して、長い旅に出た。20:10 収穫の時になったので、彼は農夫たちのところに一人のしもべを遣わした。ぶどう園の収穫の一部を納めさせるためであった。ところが農夫たちは、そのしもべを打ちたたき、何も持たせないで帰らせた。20:11 そこで別のしもべを遣わしたが、彼らはそのしもべも打ちたたき、辱めたうえで、何も持たせないで帰らせた。20:12 彼はさらに三人目のしもべを遣わしたが、彼らはこのしもべにも傷を負わせて追い出した。20:13 ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。そうだ、私の愛する息子を送ろう。この子なら、きっと敬ってくれるだろう。』20:14 ところが、農夫たちはその息子を見ると、互いに議論して『あれは跡取りだ。あれを殺してしまおう。そうすれば、相続財産は自分たちのものになる』と言った。20:15 そして、彼をぶどう園の外に放り出して、殺してしまった。こうなったら、ぶどう園の主人は彼らをどうするでしょうか。20:16 主人はやって来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるでしょう。」これを聞いた人たちは、「そんなことが起こってはなりません」と言った。20:17 イエスは彼らを見つめて言われた。「では、『家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった』と書いてあるのは、どういうことなのですか。20:18 だれでもこの石の上に落ちれば、粉々に砕かれ、またこの石が人の上に落ちれば、その人を押しつぶします。」20:19 律法学者たちと祭司長たちは、このたとえ話が自分たちを指して語られたことに気づいた。それでそのとき、イエスに手をかけて捕らえようとしたが、民を恐れた。   昨日の本文にユダヤの宗教指導者たちはイエス様の権威の根拠を問題にしました。イエス様はそれについてもう一つの例え話をされました。それは説得ではなく警告です。ぶどう園の所有者が他国に行くことになり、農夫たちにその管理を委任しました。時間が経つにつれて、主人が収穫を決算するためにしもべを送りましたが、ぶどう園の農夫が主人のしもべたちを打ちたたき、辱めたうえで、何も持たせないで帰らせました。マタイの福音書とマルコの福音書には,しもべを石打ちで殺したと伝えます。   ここに、ぶどう園の主人は、最後の手段として、息子を送ります。それは主人の息子なら尊重するだろうと思ったからです。しかし、ぶどう園の農夫たちは、息子をも殺しました。息子が死んだら、主人の遺産を継承する人がいなくなるので、息子を殺し、財産を自分たちのものにしようとしたことであります。それを聞いたぶどう園の主人は農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えます。   この恐くてあきれる話は錯覚から始まります。任せられたものなのに、それが自分のものだと思い込っだのです。悪意は自覚しますが、錯覚は自覚できないまま確信になります。ぶどう園の農夫たちが恐れもなくしもべと息子を殺し続けることを見ると、何かに確信に満ちています。自分が神様と戦っているというを自覚はせず、貪欲によって錯覚し、それを確信に満ちた信念としているのです。律法学者と祭司たちは、イエス様が自分たちのことを言われたことに気が付きましたが、かえってイエス様を捕まえ、殺そうとしました。まことに恐いのは、息子を殺した話を聞き、息子を殺そうとしているのです。聞ける耳が生ける恵みです。

누가복음 QT53 2203010목【포도원 지기의 착각】누가복음 20장 9~19

누가복음 20장 9~1920:9 이 비유로 백성에게 말씀하시되 한 사람이 포도원을 만들어 농부들에게 세로 주고 타국에 가서 오래 있다가20:10 때가 이르매 포도원 소출 얼마를 바치게 하려고 한 종을 농부들에게 보내니 농부들이 종을 심히 때리고 거저 보내었거늘20:11 다시 다른 종을 보내니 그도 심히 때리고 능욕하고 거저 보내었거늘20:12 다시 세번째 종을 보내니 이도 상하게 하고 내어 쫓은지라20:13 포도원…

ルカの福音書 QT52 220309水【教える権威、学べない人】ルカ 20章 1~8

ルカ 20章 1~820:1 ある日、イエスが宮で人々を教え、福音を宣べ伝えておられると、祭司長たちと律法学者たちが長老たちと一緒にやって来て、20:2 イエスに言った。「何の権威によって、これらのことをしているのか、あなたにその権威を授けたのはだれなのか、教えてくれませんか。」20:3 イエスは彼らに答えられた。「わたしも一言尋ねましょう。それに答えなさい。20:4 ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、それとも人から出たのですか。」20:5 すると、彼らは論じ合った。「もし天からと言えば、どうしてヨハネを信じなかったのかと言うだろう。20:6 だが、もし人からと言えば、民はみな私たちを石で打ち殺すだろう。ヨハネは預言者だと確信しているのだから。」20:7 そこで、「どこから来たのか知りません」と答えた。20:8 するとイエスは彼らに言われた。「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに言いません。」   祭司長、律法学者、長老たちというのは、サンヘドリン公議の議員をいいます。彼らはイエス様が神殿の中で人々を教えていることに抗議していましら。確かに彼らが正式な免許を持ち、ユダヤ社会で先生と言われる人々です。ところが、イエス様は、制度圏で教育を受けたこともなく、公的な任命されたこともないです。彼らの話は、「そのようなあなたがどういう権威をもって神殿で教えているのか」ということです。それでも、武力で追い出されずに、話ができることは、イエス様に従う人々が大勢いたからです。実は、彼らの抗議している本音は、イエス様の教授権の問題ではなく、神殿の商売をやめさせたことのゆえです。それによって彼らの独占的な収益がなくなっていました。   イエス様は彼らに聞き返します。「ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、それとも人から出たのですか。4」彼らの頭は悪くありません。質問の意図を直ちに把握します。バプテスマのヨハネも制度圏の外にいた預言者だからです。「もし天からと言えば、どうしてヨハネを信じなかったのかと言うだろう。だが、もし人からと言えば、民はみな私たちを石で打ち殺すだろう。ヨハネは預言者だと確信しているのだから。5,6」ということです。彼らはイエス様が投げたジレンマに陥り、「どこから来たのか知りません」と答えました。すると、イエス様も「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに言いません。」と言われます。言っても信じないからです。   信仰を論理的に説明することはできません。同様に、信じないことも論理的には説明できません。信仰の人には真理が伝えられますが、信じない人には伝える仕方がありません。聞こうとしない人には何を言っても伝われないからです。イエス様は、いわゆる神様を信じると言いながら、全く聞かない人をこれ以上は教えられません。イエス様は、不信仰の非論理について議論しなかったのです。自分の思い込みと利益を貫くために神様を利用する人々は、最終的にジレンマに陥ります。彼らはイエスに答えることをあきらめますし、イエスも彼らに教えられません。