누가복음 QT47 220303목【부자 청년의 하나님】누가복음 18장 18~30

누가복음 18장 18~3018:18 어떤 관원이 물어 가로되 선한 선생님이여 내가 무엇을 하여야 영생을 얻으리이까18:19 예수께서 이르시되 네가 어찌하여 나를 선하다 일컫느냐 하나님 한분 외에는 선한 이가 없느니라18:20 네가 계명을 아나니 간음하지 말라, 살인하지 말라, 도적질하지 말라, 거짓증거하지 말라, 네 부모를 공경하라 하였느니라18:21 여짜오되 이것은 내가 어려서부터 다 지키었나이다18:22 예수께서 이 말을 들으시고 이르시되 네가 오히려…

ルカの福音書 QT46 220302水【パリサイ人の宗教、取税人の信仰】ルカ 18章 9~17

ルカ 18章 9~1718:9 自分は正しいと確信していて、ほかの人々を見下している人たちに、イエスはこのようなたとえを話された。18:10 「二人の人が祈るために宮に上って行った。一人はパリサイ人で、もう一人は取税人であった。18:11 パリサイ人は立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私がほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します。18:12 私は週に二度断食し、自分が得ているすべてのものから、十分の一を献げております。』18:13 一方、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神様、罪人の私をあわれんでください。』18:14 あなたがたに言いますが、義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。」18:15 さて、イエスに触れていただこうと、人々は幼子たちまで連れて来た。ところが、弟子たちはそれを見て叱った。18:16 しかし、イエスは幼子たちを呼び寄せて、こう言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。邪魔してはいけません。神の国はこのような者たちのものなのです。18:17 まことに、あなたがたに言います。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。」   今朝のたとえ話は、9節でその主題と目的、理由をまとめてから始めます。「自分は正しいと確信していて、ほかの人々を見下している人たちに、イエスはこのようなたとえを話された。 9」イエス様が一貫的に怒っておられる対象は、信じない人ではなく、信じるが、その信仰が曲がってしまった人々です。   取税人は自分を知っているので苦しんでいましたが、パリサイ人はいわゆる自分の信仰に自分がだまされて自分を知らず、自信満々でした。パリサイ人は自分が「奪い取る者、不正な者、姦淫する者と同じではなく、この取税人のようでない」と言いましたが、言い方が巧妙です。「奪い取らない、正しい、姦淫しない」ではなく、「私は彼らと違う」と言いました。   自分を合理化する人です。客観的な事実は認めず、私は彼らとは違うということです。このような宗教を持ったパリサイ人が正義を持って貪らない生き方をしたことに同意することはできません。神様にささげる祈りさえも自らだますことを見ると、その宗教から真実と良心を期待することはできません。   「私は週に二度断食し、自分が得ているすべてのものから、十分の一を献げております。12」パリサイ人は定まった断食を守り、十分の一の献金をささげました。断食と十分の一献金は人の欲の問題です。断食し空腹を覚える時に、神様からの供給の恵みを覚え、大切な収入の十分の一を聖別して神様にささげるたびに、その主権が神様にあることを覚え、告白するのです。   ところが、これが宗教になると、十分の一をささげる人はしない人に対して特権意識を持ち、さらに金額の多い人と少ない人を等級に分けることになります。そこに功労意識があります。自分の十分の一で維持される神殿で敬虔でもなく、信仰もない取税人が入っていることがすでに気に入らないのです。自分は取税人より上にあるべきだと思いますし、自分が注目を受けなければならないと思います。主導権も自分が持たなければならないと思います。   ささげますが、神様に喜んでささげたことでなければ、教会の功労主義者になります。それが誇りになり、恨みになり、争いになって教会は崩れ落ちます。聖徒がささげる大切な献金によって、教会は維持され、礼拝し、宣教していきます。ですから,共同体はその献身にお互い感謝しなければなりません。しかし、本人の立場では神様にささげたものでなければならないのです。神様にささげたものをその手から奪い取ってはいけません。イエス様の結論は、「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。」でした。

누가복음 QT46 220302수【바리새인의 종교, 세리의 신앙】누가복음 18장 9~17

누가복음 18장 9~1718:9 또 자기를 의롭다고 믿고 다른 사람을 멸시하는 자들에게 이 비유로 말씀하시되18:10 두 사람이 기도하러 성전에 올라가니 하나는 바리새인이요 하나는 세리라18:11 바리새인은 서서 따로 기도하여 가로되 하나님이여 나는 다른 사람들 곧 토색, 불의, 간음을 하는 자들과 같지 아니하고 이 세리와도 같지 아니함을 감사하나이다18:12 나는 이레에 두번씩 금식하고 또 소득의 십일조를 드리나이다 하고18:13 세리는…

ルカの福音書 QT45 220301火【不義の裁判官とやもめ】ルカ 18章 1~8

ルカ 18章 1~818:1 いつでも祈るべきで、失望してはいけないことを教えるために、イエスは弟子たちにたとえを話された。18:2 「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。18:3 その町に一人のやもめがいたが、彼のところにやって来ては、『私を訴える人をさばいて、私を守ってください』と言っていた。18:4 この裁判官はしばらく取り合わなかったが、後になって心の中で考えた。『私は神をも恐れず、人を人とも思わないが、18:5 このやもめは、うるさくて仕方がないから、彼女のために裁判をしてやることにしよう。そうでないと、ひっきりなしにやって来て、 私は疲れ果ててしまう。』」18:6 主は言われた。「不正な裁判官が言っていることを聞きなさい。18:7 まして神は、昼も夜も神に叫び求めている、選ばれた者たちのためにさばきを行わないで、いつまでも放っておかれることがあるでしょうか。18:8 あなたがたに言いますが、神は彼らのため、速やかにさばきを行ってくださいます。だが、人の子が来るとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」   今朝は、やもめと不義な裁判官のたとえ話です。このたとえ話は、1節で「いつでも祈るべきで、失望してはいけないことを教えるために」というテーマをあらかじめ出しています。どういう時であっても落ち込まずに祈らなければならないという結論は明らかです。話しはこうです。やもめに悔しいことがあったので、裁判官に繰り返し嘆願しましたが、この裁判官は神を恐れず、人を人とも思わない人なので、弱者の悔しい請願をずっと聞いてくれませんでした。しかし、やもめの執拗さに面倒な心になってそれを聞いてくださるという話しです。   最後の8節で神様が「速やかにさばきを行ってくださいます」と言いましたが、ここで「速やかに」に翻訳されたギリシャ語「エン・タケイ(ἐν τάχει)」には、確かに「速やかに」という意味がありますが、同時に「確かに、必ず」という意味もあります。もし時間を示す「速やかに」という意味でなければ、神様が「必ず、確かに」その悔しさを解いてくださるという意志的な表現になります。実は、そうでなければ、後半節と呼応できません。早いうちに解決できなくても、いつかは必ず解決できる。ところが、誰がその時まで耐え忍び、祈り続けるかという意味で「だが、人の子が来るとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」と言われたのです。   このたとえ話は、たくさん祈り、長く祈れば、神様が面倒で聞いてくださるということではないと思います。不義な裁判官という登場人物に不義ということにも注目する必要があります。ここで不義な裁判官は神様ではありません。神様を恐れない人です。この裁判官は、被害者の悲しみを考えたり、社会的な正義を悩む人ではありません。そうであれば、私たちの祈りを妨げる、祈りを挫折させる霊的な力かも知れません。   イエス様が再び来られるまで、私たちの祈りを妨げるもの、神様を恐れず、弱者を無視し、不義を行うものと戦い、弱者を助け、正義を貫く人が果たしているだろうかということです。やもめの祈りは、裁判官に対する単なる請願ではなく、不義な裁判官の無視にもかかわらず、落ち込まず、義を追い求め、耐え忍ぶ戦いです。「人の子が来るとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか」ここの信仰は、無理やり欲しいことを願い続けることではなく、神様の憐れみと義を実践することではないでしょうか。

누가복음 QT45 220301화【불의한 재판관과 과부】누가복음 18장 1~8

누가복음 18장 1~818:1 항상 기도하고 낙망치 말아야 될 것을 저희에게 비유로 하여18:2 가라사대 어떤 도시에 하나님을 두려워 아니하고 사람을 무시하는 한 재판관이 있는데18:3 그 도시에 한 과부가 있어 자주 그에게 가서 내 원수에 대한 나의 원한을 풀어 주소서 하되18:4 그가 얼마 동안 듣지 아니하다가 후에 속으로 생각하되 내가 하나님을 두려워 아니하고 사람을 무시하나18:5 이 과부가…

ルカの福音書 QT44 220228月【神の国】ルカ 17章 20~37

ルカ 17章 20~3717:20 パリサイ人たちが、神の国はいつ来るのかと尋ねたとき、イエスは彼らに答えられた。「神の国は、目に見える形で来るものではありません。17:21 『見よ、ここだ』とか、『あそこだ』とか言えるようなものではありません。見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです。」17:22 イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたが、人の子の日を一日でも見たいと願っても、見られない日が来ます。17:23 人々は『見よ、あそこだ』とか、『見よ、ここだ』とか言いますが、行ってはいけません。追いかけてもいけません。17:24 人の子の日、人の子は、稲妻がひらめいて天の端から天の端まで光るのと、ちょうど同じようになります。17:25 しかし、まず人の子は多くの苦しみを受け、この時代の人々に捨てられなければなりません。17:26 ちょうど、ノアの日に起こったのと同じことが、人の子の日にも起こります。17:27 ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていましたが、洪水が来て、すべての人を滅ぼしてしまいました。17:28 また、ロトの日に起こったことと同じようになります。人々は食べたり飲んだり、売ったり買ったり、植えたり建てたりしていましたが、17:29 ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降って来て、すべての人を滅ぼしてしまいました。17:30 人の子が現れる日にも、同じことが起こります。17:31 その日、屋上にいる人は、家に家財があっても、それを持ち出すために下に降りてはいけません。同じように、畑にいる人も戻ってはいけません。17:32 ロトの妻のことを思い出しなさい。17:33 自分のいのちを救おうと努める者はそれを失い、それを失う者はいのちを保ちます。17:34 あなたがたに言いますが、その夜、同じ寝床で人が二人寝ていると、一人は取られ、もう一人は残されます。17:35 同じところで臼をひいている女が二人いると、一人は取られ、もう一人は残されます。」17:37 弟子たちが、「主よ、それはどこで起こるのですか」と言うと、イエスは彼らに言われた。「死体のあるところ、そこには禿鷹が集まります。」   神の国がいつ来るかという質問に、イエス様は神の国はすでに来ていると答えられました。イエス様ご自身が今、ここに来ておられるのが神の国が始まっているということです。天国は誰かが描いた花道のようなものではありません。イエス様を信じ、その御言葉に従う聖徒が、今、ここで経験するのが神の国です。聖徒は、終末を恐れず、神様とともに歩む人です。言い換えれば、死を恐れず、御言葉に従って歩む人です。そういう意味で神の国は、まだ完全体ではありません。十字架を負って従う人々を通して建てられていきます。御言葉を求める人々、それに従う人々によって、神の国は建てられます。   神の国は、イエス様とともに始まり、その日の裁きでよって完成されます。イエス様から始めてイエス様によって完成されます。だから、神の国はイエス様の中にある国です。食べて飲んで楽しんで所有物に執着している時、その日に裁きがきます。人々は神の国が見えない、触れないと不平を言いますが、裁きを他人の事だと思います。再び来られるイエス様が本物と偽物を区別されるとき、それは世の中ではなく教会の中です。聖徒は、今、ここでイエス・キリストに従わなければなりません。   福音を二つに分けて保守的な神学は魂の救いのための福音であると言い、いわゆる進歩的な神学は社会正義のための福音だと言いますが、神の国は分断国ではありません。天国は罪のないところなので、この地で福音を携えて生きる聖徒は、自分の中の罪を知り、告白し、救われますが、同時に神の国の民は、世に蔓延している罪に染まらず、それと戦い、この地上に神の国を回復します。やがて二つに分かれるのは、イエス様が来られるその日、本物と偽物です。イエス様の中にいる人とそうではない人が分けられます。神の国はそこにあるのではなく、あそこにあることでもなく、今、ここにあります。  

누가복음 QT44 220228월【하나님의 나라】누가복음 17장 20~37

누가복음 17장 20~3717:20 바리새인들이 하나님의 나라가 어느 때에 임하나이까 묻거늘 예수께서 대답하여 가라사대 하나님의 나라는 볼 수 있게 임하는 것이 아니요17:21 또 여기 있다 저기 있다고도 못하리니 하나님의 나라는 너희 안에 있느니라17:22 또 제자들에게 이르시되 때가 이르리니 너희가 인자의 날 하루를 보고자 하되 보지 못하리라17:23 사람이 너희에게 말하되 보라 저기 있다 보라 여기 있다 하리라…

ルカの福音書 QT43 220226土【骨まで高慢】ルカ 16章 19~31

ルカ 16章 19~3116:19 ある金持ちがいた。紫の衣や柔らかい亜麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。16:20 その金持ちの門前には、ラザロという、できものだらけの貧しい人が寝ていた。16:21 彼は金持ちの食卓から落ちる物で、腹を満たしたいと思っていた。犬たちもやって来ては、彼のできものをなめていた。16:22 しばらくして、この貧しい人は死に、御使いたちによってアブラハムの懐に連れて行かれた。金持ちもまた、死んで葬られた。16:23 金持ちが、よみで苦しみながら目を上げると、遠くにアブラハムと、その懐にいるラザロが見えた。16:24 金持ちは叫んで言った。『父アブラハムよ、私をあわれんでラザロをお送りください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすようにしてください。私はこの炎の中で苦しくてたまりません。』16:25 するとアブラハムは言った。『子よ、思い出しなさい。おまえは生きている間、良いものを受け、ラザロは生きている間、悪いものを受けた。しかし今は、彼はここで慰められ、おまえは苦しみもだえている。16:26 そればかりか、私たちとおまえたちの間には大きな淵がある。ここからおまえたちのところへ渡ろうとしても渡れず、そこから私たちのところへ越えて来ることもできない。』16:27 金持ちは言った。『父よ。それではお願いですから、ラザロを私の家族に送ってください。16:28 私には兄弟が五人いますが、彼らまでこんな苦しい場所に来ることがないように、彼らに警告してください。』16:29 しかし、アブラハムは言った。『彼らにはモーセと預言者がいる。その言うことを聞くがよい。』16:30 金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ。もし、死んだ者たちの中から、だれかが彼らのところに行けば、彼らは悔い改めるでしょう。』16:31 アブラハムは彼に言った。『モーセと預言者たちに耳を傾けないのなら、たとえ、だれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」   イエス様の「乞食ラザロのたとえ話」を読むと、金持ちがラザロに直接に悪を行ったことはないと思われます。ただし、金持ちはすべてに豊かでしたが、その家から落ちる物で食べていたラザロにはけちだったようです。乞食にはラザロという名前がありますが、金持ちには名前がありません。ラザロは、たとえ乞食として生きていましたが、自分の名前が与えられていますが、イエス様は、名が知られていたはずの金持ちには名前を付けてくださいませんでした。彼は自分の名前に代わるものを持って生きたからです。金持ちという名前に置き換えられる「お金」で粘鉄した人生だからです。   金持ちといっても大きい財閥ではありません。町の中で比較的に金持ちです。金持ちは自分で豊かだとは思いません。依然として不足しているものがあり、さらに満たさなければならないという欲を持っています。ということでイエス様は、乞食ラザロを一緒に登場させることによって金持ちがどれだけ祝福されたのがを表します。   ラザロは死後に天国に行き、金持ちは地獄に行きました。聖書は空間的な意味での地獄についてあまり描写していませんが、稀に地獄について描かれたのがここです。ということで、ルカ16章に基づき、「地獄には水一滴の憐れみがないところ」と言っています。渇いた人間に水一滴の慈悲がないなら、地獄というところは、苦痛というより残酷という言葉がもっと似合うかもしれません。金持ちは死んで地獄に行ったのではなく、地獄で生きて地獄に行ったことではないでしょうか。飢え渇いた者に憐れみがないという生き方をして、死んでからその水一滴の慈悲がないところに行ったので地獄であることは変わりません。   金持ちは後悔しているようですが、反省はしていません。金持ちは、自分の家族が地獄に来るかと心配してラザロを自分の家に送ってもらいたいと願います。確かに家族は愛していたようです。アブラハムはこう答えます。「神様のみことばが既にあるので、みことばを読んで守る人は地獄に来ることがありません」と言いますが、金持ちはそうではないと言い張ります。「地獄に行ってそれを経験しなければ、みことばを信じられない」ということです。愚かさが罪です。アブラハムは言います。「モーセと預言者たちに耳を傾けないのなら、たとえ、だれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。」   金持ちは「ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすようにしてください。24」「ラザロを私の家族に送ってください。27」など、いろいろ求めますが、金持ちは、まだ、ラザロが自分の家の前で物乞いをしている乞食であると思っているようです。地獄の中であっても高ぶります。骨まで高慢で地獄の中でも人を差別し、自分勝手に動かそうとする金持ちを見ると、果たして地獄は地獄かと思いました。神様が悔い改めない人を地獄を送って悔い改めさせるのではなく、地獄に行っても悔い改めない人が集まる所が地獄であることが分かりました。  

누가복음 QT43 220226토【뼛속까지 교만】누가복음 16장 19~31

누가복음 16장 19~3116:19 한 부자가 있어 자색 옷과 고운 베옷을 입고 날마다 호화로이 연락하는데16:20 나사로라 이름한 한 거지가 헌데를 앓으며 그 부자의 대문에 누워16:21 부자의 상에서 떨어지는 것으로 배불리려 하매 심지어 개들이 와서 그 헌데를 핥더라16:22 이에 그 거지가 죽어 천사들에게 받들려 아브라함의 품에 들어가고 부자도 죽어 장사되매16:23 저가 음부에서 고통 중에 눈을 들어 멀리…

ルカの福音書 QT42 220225金【不義の管理者の知恵】ルカ 16章 1~18

ルカ 16章 1~1816:1 イエスは弟子たちに対しても、次のように語られた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この管理人が主人の財産を無駄遣いしている、という訴えが主人にあった。16:2 主人は彼を呼んで言った。『おまえについて聞いたこの話は何なのか。会計の報告を出しなさい。もうおまえに、管理を任せておくわけにはいかない。』16:3 管理人は心の中で考えた。『どうしよう。主人は私から管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力はないし、物乞いをするのは恥ずかしい。16:4 分かった、こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、人々が私を家に迎えてくれるようにすればよいのだ。』16:5 そこで彼は、主人の債務者たちを一人ひとり呼んで、最初の人に、『私の主人に、いくら借りがありますか』と言った。16:6 その人は『油百バテ』と答えた。すると彼は、『あなたの証文を受け取り、座ってすぐに五十と書きなさい』と言った。16:7 それから別の人に、『あなたは、いくら借りがありますか』と言うと、その人は『小麦百コル』と答えた。彼は、『あなたの証文を受け取り、八十と書きなさい』と言った。16:8 主人は、不正な管理人が賢く行動したのをほめた。この世の子らは、自分と同じ時代の人々の扱いについては、光の子らよりも賢いのである。16:9 わたしはあなたがたに言います。不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうすれば、富がなくなったとき、彼らがあなたがたを永遠の住まいに迎えてくれます。16:10 最も小さなことに忠実な人は、大きなことにも忠実であり、最も小さなことに不忠実な人は、大きなことにも不忠実です。16:11 ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなければ、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょうか。16:12 また、他人のものに忠実でなければ、だれがあなたがたに、あなたがた自身のものを持たせるでしょうか。16:13 どんなしもべも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは、神と富とに仕えることはできません。」16:14 金銭を好むパリサイ人たちは、これらすべてを聞いて、イエスをあざ笑っていた。16:15 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、人々の前で自分を正しいとするが、神はあなたがたの心をご存じです。人々の間で尊ばれるものは、神の前では忌み嫌われるものなのです。16:16 律法と預言者はヨハネまでです。それ以来、神の国の福音が宣べ伝えられ、だれもが力ずくで、そこに入ろうとしています。16:17 しかし、律法の一画が落ちるよりも、天地が滅びるほうが易しいのです。16:18 だれでも妻を離縁して別の女と結婚する者は、姦淫を犯すことになり、夫から離縁された女と結婚する者も、姦淫を犯すことになります。   今朝の本文では、一人の管理者がオーナーから預けた資本をうまく管理することができず、無駄にしたことで解雇されます。解雇によって生活が困難になる管理者は、オーナーにお金を借りた人々を呼んで部分的ですが、その債務額を免除しました。それは、自分がオーナーに追い出されても彼らが恵みを忘れずに、助けてくれると思ったからです。確かに越権行為で文書偽造です。ところが、オーナーはむしろ彼を賢いといって褒めます。これが職場を移動するときに会社公金を流用するまたは会計操作することが賢いということではないでしょう。   このたとえ話は難しいです。注釈の意見を探してみましたが、どんな解釈もどこか理解できない部分が残ります。ただ、このたとえ話を通して語られる結論的なメッセージは、まず、小さなことに忠実であること、次はお金に仕えないこと、最後は人の上に立たないことです。しかし、たとえ話の解釈をその結論を一致させることは難しいです。この本文はこれからの課題にしてもう少し勉強してみたいと思います。   できる限りを考えると、ここでイエス様は物質の世俗的な属性を認めています。それは腐敗しやすく、汚れやすいものです。お金が不義ではなく、人間の不義がお金に触れるので、お金が不義になります。人間に貪欲がある限り、お金は不義になる危険にさらされています。お金を利子なしで貸し、物を利益なしで売ることはありません。利率を策定することも返済期日を定めることもオーナーではなく、オーナーに委任された管理者です。ユダヤ社会に高利貸し業は律法で禁止されており、高利によって人々の心を失い、資金回転を鈍らせるなら収益率は落ちてしまいます。それらすべてが管理者の責任です。   管理者が債務者の債務を一部減免してくれたのは、もしかして管理者が金額を正し、会計精算をしたことかもしれません。「不正の富で、自分のために友をつくりなさい」という言葉は、お金は不義になりやすいですが、それでも神様の管理者はそれを持って善用しなければならないということです。管理者の解雇を人間の死と考えると、理解しやすいです。お金とともにこの地に生きていますが、人間は死後を考えなければなりません。経済活動は不可欠なことでありますが、それに貪り、執着してはいけません。与えられた財政と権限を自分の欲望ではなく神様が委任されたことに善用しなければなりません。管理者が解雇されたのは、貪欲という他の主人に仕えていたからかもしれません。   このたとえ話を通して、イエス様が整理してくださった三つの結論はすでにいいました。小さなことに忠実であること、お金に仕えないこと、人の上に立たないことです。小さなことだから忠実しないことと、お金にこだわること、自分が人より優れていると思うことはすべて欲から出るものです。「どんなしもべも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは、神と富とに仕えることはできません。」その欲心を捨てて管理者になるとき、賢くなります。