누가복음 QT67 220326토【구원받은 사형수】누가복음 23장 33~43

누가복음 23장 33~4323:33 해골이라 하는 곳에 이르러 거기서 예수를 십자가에 못 박고 두 행악자도 그렇게 하니 하나는 우편에 하나는 좌편에 있더라23:34 이에 예수께서 가라사대 아버지여 저희를 사하여 주옵소서 자기의 하는 것을 알지 못함이니이다 하시더라 저희가 그의 옷을 나눠 제비 뽑을쌔23:35 백성은 서서 구경하며 관원들도 비웃어 가로되 저가 남을 구원하였으니 만일 하나님의 택하신 자 그리스도여든 자기도…

ルカの福音書 QT65 220325金【クレネ人シモンの十字架】ルカ 23章 26~32

ルカ 23章 26~3223:26 彼らはイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというクレネ人を捕まえ、この人に十字架を負わせてイエスの後から運ばせた。23:27 民衆や、イエスのことを嘆き悲しむ女たちが大きな一群をなして、イエスの後について行った。23:28 イエスは彼女たちの方を振り向いて言われた。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣いてはいけません。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのために泣きなさい。23:29 なぜなら人々が、『不妊の女、子を産んだことのない胎、飲ませたことのない乳房は幸いだ』と言う日が来るのですから。23:30 そのとき、人々は山々に向かって『私たちの上に崩れ落ちよ』と言い、丘に向かって『私たちをおおえ』と言い始めます。23:31 生木にこのようなことが行われるなら、枯れ木には、いったい何が起こるでしょうか。」23:32 ほかにも二人の犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために引かれて行った。   イエス様は、十字架の苦しみの道を歩きますが、イエス様のために泣く人々のために、イエス様は悲しまれました。彼らが遭遇する患難と苦しみのゆえです。イエス様は、ご自身をたたき、嘲笑する軍兵たちに対しても、一緒に十字架につけられた罪人たちに対しても最後の瞬間まで利他的でした。ユダヤの宗教は、自分の貪欲のために罪のない人を十字架につけて殺していますが、イエス様は自分のために生きた方ではありません。   今朝の本文の中には、イエス・キリストの十字架に参加した一人が出ます。グレネ人シモンです。グレネは北アフリカのリビアです。遠いところで過越の祭を迎え、エルサレムの上がった人です。「彼らはイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというクレネ人を捕まえ、この人に十字架を負わせてイエスの後から運ばせた。26」この人は、うかうかとイエス様の十字架の代わりに負けてゴルゴダの丘まで行った人です。   彼はイエス様に会ったことがありません。通り過ぎる道に十字架を背負っていくイエス様のを見、ローマ軍兵がその人に無理やり十字架を負わせたのです。イエス様はもはや気力がなく、十字架を背負わなかったからです。彼はわけもわからないまま、強制する軍兵によって十字架を負いました。そして、その十字架をゴルゴダ落とし、十字架で死んでいくイエス様を見ました。   マルコの福音書にはこの内容をこう伝えます。「兵士たちは、通りかかったクレネ人シモンという人に、イエスの十字架を無理やり背負わせた。彼はアレクサンドロとルポスの父で、田舎から来ていた。15:21」マルコはグレネ人シモンがアレキサンダーとルポスの父であることを語っています。ローマ書にもこの人の情況が出てきます。「主にあって選ばれた人ルポスによろしく。また彼と私との母によろしく。16:13」ルポスの母はグレネ人シモンの妻です。   彼は、十字架の現場でイエス様に出会って帰ってきてから初代教会の時代に北アフリカでイエス様の福音の伝える人になりました。今でもリビア地方にはこのシモンの信仰と業績を記念しています。イエス様の十字架の代わりに背負ったグレネ人シモンと彼の家族は、自分の十字架を負う道を歩きました。偶然ではないと思います。イエス・キリストの十字架を発見した人は、自分の十字架を背負って生きます。

누가복음 QT66 220325금【구레네 사람 시몬의 십자가】누가복음 23장 26~32

누가복음 23장 26~3223:26 저희가 예수를 끌고 갈 때에 시몬이라는 구레네 사람이 시골로서 오는것을 잡아 그에게 십자가를 지워 예수를 좇게 하더라23:27 또 백성과 및 그를 위하여 가슴을 치며 슬피 우는 여자의 큰 무리가 따라 오는지라23:28 예수께서 돌이켜 그들을 향하여 가라사대 예루살렘의 딸들아 나를 위하여 울지 말고 너희와 너희 자녀를 위하여 울라23:29 보라 날이 이르면 사람이 말하기를…

ルカの福音書 QT65 220324木【十字架の逆説】ルカ 23章 13~25

ルカ 23章 13~2523:13 ピラトは、祭司長たちと議員たち、そして民衆を呼び集め、23:14 こう言った。「おまえたちはこの人を、民衆を惑わす者として私のところに連れて来た。私がおまえたちの前で取り調べたところ、おまえたちが訴えているような罪は何も見つからなかった。23:15 ヘロデも同様だった。私たちにこの人を送り返して来たのだから。見なさい。この人は死に値することを何もしていない。23:16 だから私は、むちで懲らしめたうえで釈放する。」23:18 しかし彼らは一斉に叫んだ。「その男を殺せ。バラバを釈放しろ。」23:19 バラバは、都に起こった暴動と人殺しのかどで、牢に入れられていた者であった。23:20 ピラトはイエスを釈放しようと思って、再び彼らに呼びかけた。23:21 しかし彼らは、「十字架だ。十字架につけろ」と叫び続けた。23:22 ピラトは彼らに三度目に言った。「この人がどんな悪いことをしたというのか。彼には、死に値する罪が何も見つからなかった。だから私は、むちで懲らしめたうえで釈放する。」23:23 けれども、彼らはイエスを十字架につけるように、しつこく大声で要求し続けた。そして、その声がいよいよ強くなっていった。23:24 それでピラトは、彼らの要求どおりにすることに決めた。23:25 すなわち、暴動と人殺しのかどで牢に入れられていた男を願いどおりに釈放し、他方イエスを彼らに引き渡して好きなようにさせた。   聖書にはパラドックスがあふれます。パラドックスは、論理的に矛盾するか、表面的に反対ですが、二重に強調するメッセージがあります。聖書は,「弱さが強さことであり,与えることが受けるよりも幸いであり,低くなることが高くなることであり,死ぬことが生きることである」と語ります。その中で「十字架の死が救いになる」ということは、パラドックスの中でパラドックスです。   今日の本文でパラドックスがたくさん見えます。毎年、過越の祭になると、総督が囚人一人を特別赦免する習慣がありました。ユダヤ人はバラバを解放し、イエス様を十字架につけろと叫びます。バラバのフルネームは「イエス・バラバ(Jesus Barabbas)」です。 「キリストというイエス」と「バラバラのイエス」のうちの1人だけが釈放されます。実際、バラバは治安犯ではなく、政治犯です。バラバは、ユダヤの急進的な革命の勢力である熱心党に属するユダヤ民族主義の指導者です。   イエス様を憎んだ人々、失望した人々、扇動された人々は、バラバに期待し、イエス様を殺せと叫んでいます。彼らの喪失と怒りは殺人的な狂気に変わっています。ユダヤ人はイエス様を十字架につけようと叫び、ローマ総督はイエス様を無罪釈放しようと思っています。しかし、ユダヤ人の殺意に圧倒されたローマ総督は、ローマに危険な人物であるバラバを釈放するまで、ユダヤ人の世論に引っ張られています。理解のできないパラドックスが混じっています。   ここでもう一つのパラドックスは、「十字架につけろという人々の叫び」です。バラバというイエスは釈放し、キリストというイエスを十字架につけろと叫びます。どうかイエスを十字架につけてほしいということです。「彼らは一斉に叫んだ。その男を殺せ。バラバを釈放しろ。18」「十字架だ。十字架につけろと叫び続けた。21」「彼らはイエスを十字架につけるように、しつこく大声で要求し続けた。23」   イエスを十字架に付けてくださるという哀願みたい、かつ叫びみたいな声がパラドックスに聞こえました。イエス様を十字架につけた人々を正当にすることはありません。しかし、その十字架がなければ誰も希望を持つことはできません。 2人のイエスの中では、死ぬことによて生きるべきイエスがいます。死ぬことによって生かされるイエスがいます。イエス様はそのようなパラドックスを通って、呪われた十字架で罪人を救われるパラドックスを成し遂げました。使徒の働き2章でこのパラドックスは続きます。「神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。そこで、ペテロは彼らに言った。「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。2:36-38」イエスを殺した人々はイエス様を信じて救われました。 パラドックスは今でも続きます。 罪を告白するところに恵みが臨みます。 滅びを認めるところに救いの希望が与えられます。「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。ローマ5:20」

누가복음 QT65 220324목【십자가의 역설】누가복음 23장 13~25

누가복음 23장 13~2523:13 빌라도가 대제사장들과 관원들과 백성을 불러 모으고23:14 이르되 너희가 이 사람을 백성을 미혹하는자라 하여 내게 끌어 왔도다 보라 내가 너희 앞에서 사실하였으되 너희의 고소하는일에 대하여 이 사람에게서 죄를 찾지 못하였고23:15 헤롯이 또한 그렇게 하여 저를 우리에게 도로 보내었도다 보라 저의 행한 것은 죽일 일이 없느니라23:16 그러므로 때려서 놓겠노라23:17 (없 음)23:18 무리가 일제히 소리질러…

ルカの福音書 QT64 220323水【政治論理の狭間】ルカ 23章 1~12

ルカ 23章 1~1223:1 集まっていた彼ら全員は立ち上がり、イエスをピラトのもとに連れて行った。23:2 そしてイエスを訴え始めて、こう言った。「この者はわが民を惑わし、カエサルに税金を納めることを禁じ、自分は王キリストだと言っていることが分かりました。」23:3 そこでピラトはイエスに尋ねた。「あなたはユダヤ人の王なのか。」イエスは答えられた。「あなたがそう言っています。」23:4 ピラトは祭司長たちや群衆に、「この人には、訴える理由が何も見つからない」と言った。23:5 しかし彼らは、「この者は、ガリラヤから始めてここまで、ユダヤ全土で教えながら民衆を扇動しているのです」と言い張った。23:6 それを聞いたピラトは、この人はガリラヤ人かと尋ね、23:7 ヘロデの支配下にあると分かると、イエスをヘロデのところに送った。ヘロデもそのころ、エルサレムにいたのである。23:8 ヘロデはイエスを見ると、非常に喜んだ。イエスのことを聞いていて、ずっと前から会いたいと思い、またイエスが行うしるしを何か見たいと望んでいたからである。23:9 それで、いろいろと質問したが、イエスは何もお答えにならなかった。23:10 祭司長たちと律法学者たちはその場にいて、イエスを激しく訴えていた。23:11 ヘロデもまた、自分の兵士たちと一緒にイエスを侮辱したり、からかったりしてから、はでな衣を着せてピラトに送り返した。23:12 この日、ヘロデとピラトは親しくなった。それまでは互いに敵対していたのである。   大祭司たちは、イエス様に対する三つの疑いを持って、ピラトに訴え、死刑を求めます。疑いは「民を惑わし、カエサルに税金を納めることを禁じ、自分は王キリストだと言っていること」です。三つとも政治的なことです。しかし、ピラトは事実を知っていました。「民を惑わした」ということは、危機を感じていたサンヘドリンの立場で言っていることであって、イエス様が「納税を禁じる」といった反政治的行為をしたこともないということを既に知っていました。しかし、人々の抵抗が激しです。政治的には、イエス様を殺すというユダヤ人の要求を握り潰すことはできないほどです。総督は植民地の安定のために派遣された公務員です。真実や正義より、騒ぎや争いが起こらないように、人心を失わないようにしなければなりませんでした。   ピラトは、「この人はガリラヤ人か 6」と尋ねたのは、管轄を確認したものです。ガリラヤはヘロデの管轄だからです。ここでヘロデというのは、領主アンティパスを言います。ピラトはユダヤ総督としてローマ政府から派遣された公務員で、ヘロデはユダヤの領主、つまり王です。しかし、ヘロデはユダヤ人ではありません。エドムの王族ですが、エドムのヘロデ王家がローマの実権者アウグストゥス(オクタビアヌス)に忠誠を誓い、ローマからユダヤ支配権を受けたからです。ユダヤは外交的な失敗で二重支配を受けていました。ですから、総督と王はローマ皇帝の部下であり、ピラト総督とヘロデ王の統治権はあいまいに重なります。それで、お互いの政治的利害のために領域を区別したようです。ピラトはイエス様の事件をヘロデに送り、ヘロデはイエスを嘲笑し、再びピラトに戻します。どういうわけか、このことで彼らの関係が良くなり、親しくなります。イエス様をお互い返しながら判決の権限を認める尊重の関係が作られたかもしれません。総督と王の政治的利益、そして貪欲なユダヤ宗教の既得権という政治的関数は、イエス様を十字架で処刑することにつながります。

누가복음 QT64 220323수【정치논리의 틈바구니】누가복음 23장 1~12

누가복음 23장 1~1223:1 무리가 다 일어나 예수를 빌라도에게 끌고 가서23:2 고소하여 가로되 우리가 이 사람을 보매 우리 백성을 미혹하고 가이사에게 세 바치는 것을 금하며 자칭 왕 그리스도라 하더이다 하니23:3 빌라도가 예수께 물어 가로되 네가 유대인의 왕이냐 대답하여 가라사대 네 말이 옳도다23:4 빌라도가 대제사장들과 무리에게 이르되 내가 보니 이 사람에게 죄가 없도다 하니23:5 무리가 더욱 굳세게…

ルカの福音書 QT63 220322火【法廷での身分提示】ルカ 22章 63~71

ルカ 22章 63~7122:63 さて、イエスを監視していた者たちは、イエスをからかい、むちでたたいた。22:64 そして目隠しをして、「当ててみろ、おまえを打ったのはだれだ」と聞いた。22:65 また、ほかにも多くの冒瀆のことばをイエスに浴びせた。22:66 夜が明けると、民の長老会、祭司長たちや律法学者たちが集まり、イエスを彼らの最高法院に連れ出して、こう言った。22:67 「おまえがキリストなら、そうだと言え。」しかしイエスは言われた。「わたしが言っても、あなたがたは決して信じないでしょう。22:68 わたしが尋ねても、あなたがたは決して答えないでしょう。22:69 だが今から後、人の子は力ある神の右の座に着きます。」22:70 彼らはみな言った。「では、おまえは神の子なのか。」イエスは彼らに答えられた。「あなたがたの言うとおり、わたしはそれです。」22:71 そこで彼らは「どうして、これ以上証言が必要だろうか。私たち自身が彼の口から聞いたのだ」と言った。   犯罪の疑いがあるということで容疑者を逮捕したのであれば、その容疑を告知しなければなりませんが、彼らは逮捕してきてから疑惑を捕まえるための誘導尋問を始めます。イエス様がからかいにされ、鞭で殴られること、罪を被せるための拙速裁判を見ているとあきれますが、事実、大祭司とサンヘドリン公会はイエス様が疑いを認めるようにと願っていることであり、イエス様は少しの卑屈もなく、彼らが求めていることを認めてあげる構図です。   大祭司の目的はイエス様を殺すことであり、イエス様の目的は十字架にかかって死なれることでありますから、その間に衝突は起こりません。確かにこの本文でユダヤの宗教の暴力性とイエス様の受難が明らかになっていますが、彼らの暴力性によってイエス様が蹂躙されているということより、十字架の出来事のピースが動いているということです。   ここで重要なのは、イエス様が供え物となる法的準備をしておられるということです。イエス様が彼らを刺激しているのではなく、法的に供え物になる完全なる資格と身分を公表しているのです。彼らは殺すために神性冒涜という疑いを被せていますが、イエス様は、キリスト、人の子、神の右の座に着くという身分を明らかにし、救いのための供え物として捧げられる資格を示されます。   その宣言を聞いた人は聞かなければなりませんでした。なぜ、キリストなのか、なぜ神の子であり、何の根拠で神の右の座に着くのかを尋ねなければなりません。しかし、彼らは全てを否定し、殺したいことに夢中です。信じられないということが結論ではなく、信じないことが前提です。「わたしが言っても、あなたがたは決して信じないでしょう。わたしが尋ねても、あなたがたは決して答えないでしょう。67,68」殺そうとする人は、イエス様が目の前で宣言しても信じず、耳で聞こえても聞かず、目に見えても見ませんが、見えなく、聞こえなくても信じて救われる人々のために、イエス様は十字架に向かって進まれます。

누가복음 QT63 220322화【법정에서의 신분 제시】누가복음 22장 63~71

누가복음 22장 63~71 22:63 지키는 사람들이 예수를 희롱하고 때리며22:64 그의 눈을 가리우고 물어 가로되 선지자 노릇 하라 너를 친 자가 누구냐 하고22:65 이 외에도 많은 말로 욕하더라22:66 날이 새매 백성의 장로들 곧 대제사장들과 서기관들이 모이어 예수를 그 공회로 끌어들여22:67 가로되 네가 그리스도여든 우리에게 말하라 대답하시되 내가 말할지라도 너희가 믿지 아니할 것이요22:68 내가 물어도 너희가 대답지…

ルカの福音書 QT62 220321月【ペテロのトラウマ】ルカ 22章 54~62

ルカ 22章 54~6222:54 彼らはイエスを捕らえ、引いて行き、大祭司の家に連れて入った。ペテロは遠く離れてついて行った。22:55 人々が中庭の真ん中に火をたいて、座り込んでいたので、ペテロも中に交じって腰を下ろした。22:56 すると、ある召使いの女が、明かりの近くに座っているペテロを目にし、じっと見つめて言った。「この人も、イエスと一緒にいました。」22:57 しかし、ペテロはそれを否定して、「いや、私はその人を知らない」と言った。22:58 しばらくして、ほかの男が彼を見て言った。「あなたも彼らの仲間だ。」しかし、ペテロは「いや、違う」と言った。22:59 それから一時間ほどたつと、また別の男が強く主張した。「確かにこの人も彼と一緒だった。ガリラヤ人だから。」22:60 しかしペテロは、「あなたの言っていることは分からない」と言った。するとすぐ、彼がまだ話しているうちに、鶏が鳴いた。22:61 主は振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」と言われた主のことばを思い出した。22:62 そして、外に出て行って、激しく泣いた。   人は、否定的な記憶を長く持ち続けます。かなり時間が過ぎた後にも、危なかった記憶を思い出してくらっとしたり、失敗した記憶、誰かに非難された記憶、恥ずかしかった記憶を忘れずに覚え、後々まで苦しみます。精神医学では、自己防御のために脳が働く基本原理を「生存指向性(survivalorientation)」といいますが、否定的な経験を長い間、覚えるのは、自分を防御して生き残るための脳の戦略であると言います。私たちがよく使う精神的な外傷という意味の「トラウマ(trauma)」は、痛みやショックの記憶を持ち続け、再びそのような状況が再現されると恐れる症状です。それも自分を守ろうとする生存指向性であると思います。個人的に私もトリウマというものがあると思いますが、人々がトラウマという言葉と適用を乱発して日常に消極的に変わる傾向はないかという疑いを持っています。   アドラーの『嫌われる勇気』という本では、フロイトの根本的な思想であるトラウマを否定します。フロイトは「あなたがトラウマのために苦しんでいるのは、あなたには間違いではありません」と言うのです。つまり、原因が自分にあるのではなく、状況にあるということです。ですからトラウマ云々する人は状況と人の言い訳をします。これに対してアドラーは「人生を決めるのはトラウマではなく、過去の経験、特に否定的な経験にどのような意味を与えるかによるもの」と言います。精神分析と心理学については、いくつかを引用するだけで知識はありませんが、確かなことは、自分以外は誰も、何も、覚えていないということです。イエス様がマタイ16章でペテロに教会を立てるという使命を与えられたとき、「あなたが地上でつなぐことは天においてもつながれ、あなたが地上で解くことは天においても解かれます19」と言われました。ペテロは地上で縛られたものを地上で解かなければならないことを迎えました。   つい直前までイエス様が執権すれば、自分たちが要職を占めるという勢いを持っていた弟子たちは、信じていたイエス様が無力に逮捕されるとたまがって逃げました。ペテロは,自分が共犯とみなされるとイエス様を知らないと三度否定し,それを正当化するためにイエス様について呪いの言葉までかけました。それを聞いたイエス様は、裏切られた悲しみより、ペテロが背負って生きなければならない自責の重さのために悲しまれたと思います。イエス様の預言どおり、鶏が泣く前に、ペテロはイエスを三度否定し、ペテロの呪いの言葉が終わると、夜明けに鶏が泣きました。   肉体は弱いです。ペテロは恐かったから裏切りましたが、その裏切りは自分自身に苦しめ、外に出て激しく泣きました。ペテロは生涯にこれを覚えて苦しんでいました。夜明けに鶏が泣くたびに、そのことが思い出し、庭に出て泣いたと伝えられます。しかし、ペテロは「トラウマに閉じ込められず、その経験に意味を与え」やがて教会を建てました。ペテロが教会を立てた根拠は、自分の完全無欠、忠誠奉仕の信仰ではなく、罪人を赦し、召される福音のためです。泣くならば自己憐憫のために泣かず、福音のために泣かなければならないと思うところです。失敗せず、自分に挫折せず、肉体に絶望せずに福音を知るというのはありません。私たちには、福音があり、倒れる絶望のたびに起き上がる希望も与えられています。信仰の根拠は弱いからです。