누가복음 QT52 220309수【가르칠 권세, 배우지 못하는 사람】누가복음 20장 1~8

누가복음 20장 1~820:1 하루는 예수께서 성전에서 백성을 가르치시며 복음을 전하실새 대제사장들과 서기관들이 장로들과 함께 가까이 와서20:2 말하여 가로되 당신이 무슨 권세로 이런 일을 하는지 이 권세를 준 이가 누구인지 우리에게 말하라20:3 대답하여 가라사대 나도 한 말을 너희에게 물으리니 내게 말하라20:4 요한의 세례가 하늘로서냐 사람에게로서냐20:5 저희가 서로 의논하여 가로되 만일 하늘로서라 하면 어찌하여 저를 믿지 아니하였느냐…

ルカの福音書 QT51 220308火【隠されている平和】ルカ 19章 41~48

ルカ 19章 41~4819:41 エルサレムに近づいて、都をご覧になったイエスは、この都のために泣いて、言われた。19:42 「もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたら──。しかし今、それはおまえの目から隠されている。19:43 やがて次のような時代がおまえに来る。敵はおまえに対して塁を築き、包囲し、四方から攻め寄せ、19:44 そしておまえと、中にいるおまえの子どもたちを地にたたきつける。彼らはおまえの中で、一つの石も、ほかの石の上に積まれたまま残してはおかない。それは、神の訪れの時を、おまえが知らなかったからだ。」19:45 それからイエスは宮に入って、商売人たちを追い出し始め、19:46 彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家でなければならない』と書いてある。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にした。」19:47 イエスは毎日、宮で教えておられた。祭司長たち、律法学者たち、そして民のおもだった者たちは、イエスを殺そうと狙っていたが、19:48 何をしたらよいのか分からなかった。人々がみな、イエスのことばに熱心に耳を傾けていたからである。   イエス様が子ろばに乗ってエルサレムに入ってエルサレムを見て涙を流しながら預言された話しです。イエス様はまもなく十字架に付けられます。年代にすれば今は紀元後33年であり、エルサレムがローマによって完全に滅亡するのは紀元後70年です。ですから36年後にエルサレムは崩れ、ユダヤという国は滅びます。それは歴史的に実現されました。   36年後まで生きてその患難に遭う人もいると思いますが,彼らの子ごもの世代は皆それを経験しなければなりません。「おまえの子どもたちを地にたたきつける。彼らはおまえの中で、一つの石も、ほかの石の上に積まれたまま残してはおかない。44」ローマ軍に包囲され、城の中で食べもののがなくなったユダヤは、人間性を失い死んでいきました。ローマはユダヤを支配するために来たのではなく、完全に破壊するために来たのです。死んだ人が100万人を超え、生き残った人は皆散らばれ、奴隷として売られていきました。   「それは、神の訪れの時を、おまえが知らなかったからだ。44」ルカの福音書が書かれたのは、ローマによるユダヤの滅亡の以降です。ルカはその預言の成就をすでに見ており、それを恐れをもって書きました。彼らが悔いて、悲しむこともイエス様は知っておられました。しかし、今、彼らは今イエス様の話しを聞こうとはしません。「もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたら──。しかし今、それはおまえの目から隠されている。42」高慢と貪欲のゆえに今、平和があってもその平和を自覚しません。結局に滅び、平和を失われます。   当時の時代像は、続いて出てくる神殿のきよめのことから端的に現れます。神殿で商売をしていたことは、貧しい人々が礼拝を捧げようとする心を悪用し、宗教権力が違法な独占事業をしたことであります。まもなく死ぬ運命、もうすぐに崩れる神殿の中で宗教権力は貪欲に目がくらんでお金を稼いでいたのです。イエス様は滅びる都を見て涙を流し、堕落した宗教について怒りました。宗教権力は自分たちの利益を妨げるイエス様を殺しました。イエス様は殺されたのが、宗教であることを覚えなければなりません。36年の後にユダヤが滅びなければならならなかったように、人生は定まった時間を生きてから死ななければなりません。貪欲を止め、今日、みことばに生き、今日、隠された平和を見つけ出したいと思います。

누가복음 QT51 220308화【숨기워진 평화】누가복음 19장 41~48

누가복음 19장 41~4819:41 가까이 오사 성을 보시고 우시며19:42 가라사대 너도 오늘날 평화에 관한 일을 알았더면 좋을 뻔하였거니와 지금 네 눈에 숨기웠도다19:43 날이 이를지라 네 원수들이 토성을 쌓고 너를 둘러 사면으로 가두고19:44 또 너와 및 그 가운데 있는 네 자식들을 땅에 메어치며 돌 하나도 돌 위에 남기지 아니하리니 이는 권고 받는 날을 네가 알지 못함을 인함이니라…

ルカの福音書 QT50 220307月【主がお入り用なのです】ルカ 19章 28~40

ルカ 19章 28~4019:28 これらのことを話してから、イエスはさらに進んで、エルサレムへと上って行かれた。19:29 オリーブという山のふもとのベテパゲとベタニアに近づいたとき、イエスはこう言って、二人の弟子を遣わされた。19:30 「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばが、つながれているのに気がつくでしょう。それをほどいて、連れて来なさい。19:31 もし『どうして、ほどくのか』とだれかが尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」19:32 使いに出された二人が行って見ると、イエスが言われたとおりであった。19:33 彼らが子ろばをほどいていると、持ち主たちが、「どうして、子ろばをほどくのか」と彼らに言った。19:34 弟子たちは、「主がお入り用なのです」と言った。19:35 二人はその子ろばをイエスのもとに連れて来た。そして、その上に自分たちの上着を掛けて、イエスをお乗せした。19:36 イエスが進んで行かれると、人々は道に自分たちの上着を敷いた。19:37 イエスがいよいよオリーブ山の下りにさしかかると、大勢の弟子たちはみな、自分たちが見たすべての力あるわざについて、喜びのあまりに大声で神を賛美し始めて、19:38 こう言った。「祝福あれ、主の御名によって来られる方、王に。天には平和があるように。栄光がいと高き所にあるように。」19:39 するとパリサイ人のうちの何人かが、群衆の中からイエスに向かって、「先生、あなたの弟子たちを叱ってください」と言った。19:40 イエスは答えられた。「わたしは、あなたがたに言います。もしこの人たちが黙れば、石が叫びます。」   イエス様は、エルサレムに入る前に弟子たちにある村につながれている子ろばをほどいて連れて来るように言われます。イエス様は、それに乗ってエルサレムに入ります。もちろん、子ろばの飼い主が自分の財産である子ろばをほどいて連れていく弟子たちに理由を尋ねるはずです。その時、子ろばの飼い主に「主がお入り用なのです」と言えばいいというです。事前の約束があったり、取り引きや契約ではありません。子ろばをほどいて連れていく時に聞かれると、そのように言いなさいと言われ、そのように言ったら、飼い主は何も言わずに子ろばをを出してくださったのです。   この一話で、イエス様は他人の財産を勝手に使われるのかというイエス様の私有財産認識に問題を提起する人もいるかもしれません。それは一理ある話ですが、それなら人間も神様の財産について認めなければなりません。神様のものではないものがあるでしょうか?根源的な所有権は神様にあり、それを引き受けた人間の従順によってすべての資源は神様の働きに用いられます。   笑い話ですが、ある人が紙を引き裂く習慣がありました。どんな心理療法と精神療法を使っても彼が紙を引き裂くくせを直すことができませんでした。この人はなぜ紙を引き裂くのだろうか。どのような傷を受けたのかについて分析し、どのようにすれば、紙を引き裂かないようにするかを研究しましたが、やめさせることはできず、彼は引き裂き続きました。そこで、一人の医者がこう言いました。「紙を引き裂かないでください」すると、紙を引き裂くのをやめました。彼は一度も紙を引き裂かないようにと言われたことがないからです。原因と方法については悩みましたが、宣言しなかったのです。   弟子たちは、子ろばの飼い主にどのように説明し、説得するかを悩みながら行ったかもしれません。しかし、彼らがしなければならなかったことは「主がお入り用なのです」という宣言でした。説明や説得ではありません。私たちは「イエス様を信じてください。イエス様に献身してください。自分のことを神様にささげてください」ということをどのように説明し、どのように動機づけようかと悩みますが、イエス様は「主がお入り用なのです」という宣言で充分であると言われるのです。それによって縛られていた子ろばは神様の道具になります。   福音は、説明したり、説得するものではありません。献身は、やり取りしたり、お願いするものではありません。どのようにすれば説得して信じさせることができるだろうか?どのようにすれば献身に導くことができるだろうか?と悩みますが、私たちがまだ、してないことは、「主がお入り用なのです」と言うことです。弟子たちは、説明せずに、説得せずに、宣言しました。飼い主は、それを聞いて従い、子ろばは神様の道具になりました。使徒の働きのパウロの堂々とした宣教の言葉を思い出します。私もそれに従って宣言したいと思います。「主イエスを信じなさい!」  

누가복음 QT50 220307월【주가 쓰시겠다 하라】누가복음 19장 28~40

누가복음 19장 28~4019:28 예수께서 이 말씀을 하시고 예루살렘을 향하여 앞서서 가시더라19:29 감람원이라는 산의 벳바게와 베다니에 가까이 왔을 때에 제자 중 둘을 보내시며19:30 이르시되 너희 맞은편 마을로 가라 그리로 들어가면 아직 아무 사람도 타 보지 않은 나귀 새끼의 매여 있는 것을 보리니 풀어 끌고 오너라19:31 만일 누가 너희에게 어찌하여 푸느냐 묻거든 이렇게 말하되 주가 쓰시겠다 하라…

ルカの福音書 QT49 220305土【上を見上げて】ルカ 19章 1~10

ルカ 19章 1~1019:1 それからイエスはエリコに入り、町の中を通っておられた。19:2 するとそこに、ザアカイという名の人がいた。彼は取税人のかしらで、金持ちであった。19:3 彼はイエスがどんな方かを見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。19:4 それで、先の方に走って行き、イエスを見ようとして、いちじく桑の木に登った。イエスがそこを通り過ぎようとしておられたからであった。19:5 イエスはその場所に来ると、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。」19:6 ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。19:7 人々はみな、これを見て、「あの人は罪人のところに行って客となった」と文句を言った。19:8 しかし、ザアカイは立ち上がり、主に言った。「主よ、ご覧ください。私は財産の半分を貧しい人たちに施します。だれかから脅し取った物があれば、四倍にして返します。」19:9 イエスは彼に言われた。「今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。19:10 人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」   ザアカイは背が低くて収税人だったので社会的に拒絶される自尊心の低い人だったかも知れません。自分のハンディキャップを経済的な成果で補いたいと思う人です。ザアカイは、イエス様が自分の町であるエリコを通られたとき、人々の間に入れませんでした。背の高い人々の間にかかとを上げ、あごをそらしてもイエス様を見ることができませんでした。収税人だからであって、背が低いからでもあります。律法主義者はザアカイのハンディキャップを見ます。彼の職業を見、彼の不道徳を見ます。しかし、イエス様は、かかとを上げている背の低いザアカイに関心を持っておられます。   ザアカイは桑の上に這い上がってイエス様を見ようとしました。そこでイエス様とザアカイの目が遭遇しました。イエス様は群衆の中に入れなかった背の低いひとりぼっちのザアカイの名を呼ばれました。「イエスはその場所に来ると、上を見上げて彼に言われた。ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。5」イエス様はザアカイに特別待遇をしてくださったのです。そういえばすべての救いの証しは特別待遇を受けた経験です。   イエス様の特別待遇は、ザアカイにおいて破格的なことであり、ザアカイの反応も破格的でした。「ザアカイは立ち上がり、主に言った。主よ、ご覧ください。私は財産の半分を貧しい人たちに施します。だれかから脅し取った物があれば、四倍にして返します。8」財産の半分を社会に還元し、だましとったお金に関しては、被害者にその4倍を補償すると宣言します。価値が変わらないと、こういう決意と実践はできません。誰一人、ザアカイを認めない中、自分を守るのは、ただお金でした。しかし、イエス様がザアカイの名前を呼んでくださったときに、お金で補わなければならに価値は消えてしまったのです。   ザアカイの回心には、恵みの感激の上に意志的な勇気があります。勇気のない人は神様を信じることができないと思います。しかし、ザアカイが勇気を出し、悔い改めた後、イエス様がザアカイを呼び、ザアカイの家に入られたことではありません。イエス様が先に彼を見、彼の名を呼び、彼の家に入られた後、ザアカイは変わりました。ザアカイが大した勇気を出したのではなく、本物のイエス様に出会ったからです。神様の恵みが先です。神様が私を見て、私の名前を呼んで、ともにおられるという恵みの上に、私が持っている偶像を捨てることができます。それによって神様と私は、一つの価値を共有することができます。   春です。ザアカイを読むたびにキム・チュンス(金春洙)詩人の「花」を思い出します。私の名を呼んでくださるイエス様の優しい声を聞く春になることを祈ります。 わたしがその名を呼ぶまではあなたはただひとつの仕草にすぎなかった わたしがその名を呼んだときあなたはわたしのもとで花になった わたしがその名を呼んだようにわたしのこの色とかおりにふさわしいだれかわたしの名を呼んでくださいその人のもとでわたしもそのひとの花になりたい わたしたちはみんな何かになりたいあなたはわたしの わたしはあなたの忘れられない ひとつの意味になりたい 金春洙 花

누가복음 QT49 220305토【우러러 보시고】누가복음 19장 1~10

누가복음 19장 1~1019:1 예수께서 여리고로 들어 지나가시더라19:2 삭개오라 이름하는 자가 있으니 세리장이요 또한 부자라19:3 저가 예수께서 어떠한 사람인가 하여 보고자 하되 키가 작고 사람이 많아 할 수 없어19:4 앞으로 달려가 보기 위하여 뽕나무에 올라가니 이는 예수께서 그리로 지나가시게 됨이러라19:5 예수께서 그 곳에 이르사 우러러 보시고 이르시되 삭개오야 속히 내려오라 내가 오늘 네 집에 유하여야 하겠다…

ルカの福音書 QT48 220304金【私をあわれんでください】ルカ 18章 31~43

ルカ 18章 31~4318:31 さて、イエスは十二人をそばに呼んで、彼らに話された。「ご覧なさい。わたしたちはエルサレムに上って行きます。人の子について、預言者たちを通して書き記されているすべてのことが実現するのです。18:32 人の子は異邦人に引き渡され、彼らに嘲られ、辱められ、唾をかけられます。18:33 彼らは人の子をむちで打ってから殺します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」18:34 弟子たちには、これらのことが何一つ分からなかった。彼らにはこのことばが隠されていて、話されたことが理解できなかった。18:35 イエスがエリコに近づいたとき、一人の目の見えない人が道端に座り、物乞いをしていた。18:36 彼は群衆が通って行くのを耳にして、これはいったい何事かと尋ねた。18:37 ナザレ人イエスがお通りになるのだと人々が知らせると、18:38 彼は大声で、「ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください」と言った。18:39 先を行く人たちが、黙らせようとしてたしなめたが、その人はますます激しく「ダビデの子よ、私をあわれんでください」と叫んだ。18:40 イエスは立ち止まって、彼を連れて来るように命じられた。彼が近くに来ると、イエスはお尋ねになった。18:41 「わたしに何をしてほしいのですか。」するとその人は答えた。「主よ、目が見えるようにしてください。」18:42 イエスは彼に言われた。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救いました。」18:43 その人はただちに見えるようになり、神をあがめながらイエスについて行った。これを見て、民はみな神を賛美した。   今朝の本文の並行記事であるマルコの福音書では、目の見えない人の名前がバルティマイであると伝えています。バルティマイは盲人で乞食でした。目が見えないので、教育を受けることもできず、職業を持つこともできませんでした。ある日、バルティマイが物乞いをしていたときに、町にイエス様が来られるということを聞きます。イエス様は憐れみ深い方なので、食べものをもらえるかもしれませんし、人々がたくさん集まるので、お金が与えれるかもしれません。しかし、バルティマイは食べ物とお金ではなく、目が見えることを願望しました。当然のようですが、実際に多くの人は自分の悲惨さを知らず、目の前を見ておらず、食べ物のみを追い求めます。バルティマイはイエス様なら自分を見るようにしてくださると信じていました。   バルティマイはイエス様に出ていくために何かを準備します。彼は知識もなく、名誉もなく、お金もありません。社会的な意味で人らしさがありません。彼がイエス様の前に出ていくことは、自分の悲惨さを認め、イエス様に憐れんでもらうように叫ぶことでした。ここには2つの告白があると思います。イエス様は憐れみ深い方であること、もう一つは自分は悲惨な存在であることです。神殿でのパリサイ人の宗教的な誇りが祈りになれなかったことを思い出します。神様の憐れみを認めなければ、救いを願いうことができません。神様が憐れんてくださらなければ見ることはできません。バルティマイの祈りである「キリエ・エリエソン(Κύριε ἐλέησον, Kyrie eleison, 主と、私をあわれんでください)は、罪深い悲惨な人間が神様に出て行くときの最高の信仰告白であると思っています。神様が私を憐れんでくださいますように祈ります。 Mozart’s Kyrie eleison https://www.youtube.com/watch?v=7xorDJqfI5Q

누가복음 QT48 220304금【나를 불쌍히 여기소서】누가복음 18장 31~43

누가복음 18장 31~4318:31 예수께서 열 두 제자를 데리시고 이르시되 보라 우리가 예루살렘으로 올라가노니 선지자들로 기록된 모든 것이 인자에게 응하리라18:32 인자가 이방인들에게 넘기워 희롱을 받고 능욕을 받고 침 뱉음을 받겠으며18:33 저희는 채찍질하고 죽일 것이니 저는 삼 일만에 살아나리라 하시되18:34 제자들이 이것을 하나도 깨닫지 못하였으니 그 말씀이 감취었으므로 저희가 그 이르신 바를 알지 못하였더라18:35 여리고에 가까이 오실…

ルカの福音書 QT47 220303木【金持ち青年の神】ルカ 18章 18~30

ルカ 18章 18~3018:18 また、ある指導者がイエスに質問した。「良い先生。何をしたら、私は永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。」18:19 イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『良い』と言うのですか。良い方は神おひとりのほか、だれもいません。18:20 戒めはあなたも知っているはずです。『姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない。偽りの証言をしてはならない。あなたの父と母を敬え。』」18:21 するとその人は言った。「私は少年のころから、それらすべてを守ってきました。」18:22 イエスはこれを聞いて、彼に言われた。「まだ一つ、あなたに欠けていることがあります。あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」18:23 彼はこれを聞いて、非常に悲しんだ。大変な金持ちだったからである。18:24 イエスは彼が非常に悲しんだのを見て、こう言われた。「富を持つ者が神の国に入るのは、なんと難しいことでしょう。18:25 金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。」18:26 それを聞いた人々は言った。「それでは、だれが救われることができるでしょう。」18:27 イエスは言われた。「人にはできないことが、神にはできるのです。」18:28 すると、ペテロが言った。「ご覧ください。私たちは自分のものを捨てて、あなたに従って来ました。」18:29 イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに言います。だれでも、神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子どもを捨てた者は、18:30 必ずこの世で、その何倍も受け、来たるべき世で、永遠のいのちを受けます。」   最近、金持ちの青年の話が何度も繰り返されました。個人的にみことばが繰り返されるか、つながるときは、神様の御声がのボリュームが大きくなることだと思っています。みことばの共同体は、私たちに与えられている大切なものが偶像に変質しないように、それを用いてイエス・キリストに従うべきです。「イエスは彼が非常に悲しんだのを見て、こう言われた。富を持つ者が神の国に入るのは、なんと難しいことでしょう。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。24,25」人間の欲がらくだのように大きいから、天国の門は針の穴のように狭くなります。どう考えても天国の入り口の大きさの問題ではなく、人間の欲の大きさの問題です。   まず、イエス様はお金の力について認められました。確かにお金は大きい力を持っています。お金の力よりも神様のみとこばの力を信じる人がそれほどいないということです。教会ではいつもお金が全部ではないということを繰り返していいますが、そのような話をする人もお金に力があることを知っています。お金は充分に信じられるようなものになります。お金があるかどうかによって、世と神様に対する人間の態度も変わります。   イエス様が社会的な人間がお金を求めることを悪いと言われていることではないと思います。聖書はお金と富について偏って話していません。富が貪欲になれば悪いことになるですが、富は神様がくださるものです。自立できる経済力は基本的な人らしさです。私たちは日常にそれを満たさなければなりません。しかし、お金を作る人はいません。時代の上に自分の役割をしてお金を受け取るのです。時代にお金がなければ、お金を稼ぐ方法もありません。金持ちの青年は青年ですから、確かに環境と機会の助けの上で金持ちになりました。自分の力で金持ちになったと思うことは、お金と自分について理解してないことです。   お金そのものを悪魔視しないように、お金を偶像視することをしてはいけません。お金が信じられるのは、それを所有し、蓄積する時です。神様のみことばに聞き従い、挑戦することによって、神様を経験することはできます。神様を経験した証しが積み重ねれば重ねるほど、信仰は大きくなります。同様に、お金が蓄積されるされるほど、それを信じる信仰も大きくなります。神様のみことばを信じる信仰は小さくなり、自分が信じられるものを信じるようになります。偶像はそのようにして神様の座を占めます。イエス様は金持ちの青年に、単刀直入に言われます。お金を貧しい人々に分け与えてから従いなさいと。偶像を捨てて神様に従いなさいということです。しかし、金持ち青年は拒絶しました。彼はお金を信じているので、イエス様のみことばを信じて従うことはできなかったからです。お金の力を信じる信仰が神様のみことばを信じる信仰よりも大きくなることを堅く拒絶します。