빌립보서 묵상9【바울의 마지막 축도】230120(금) 에다가와 사랑의 교회

빌립보서 4:14~234:14 그러나 너희가 내 괴로움에 함께 참예하였으니 잘하였도다4:15 빌립보 사람들아 너희도 알거니와 복음의 시초에 내가 마게도냐를 떠날 때에 주고 받는 내 일에 참예한 교회가 너희 외에 아무도 없었느니라4:16 데살로니가에 있을 때에도 너희가 한번 두번 나의 쓸것을 보내었도다4:17 내가 선물을 구함이 아니요 오직 너희에게 유익하도록 과실이 번성하기를 구함이라4:18 내게는 모든 것이 있고 또 풍부한지라 에바브로디도…

ピリピ人への手紙 黙想8【パウロのマスターキー】230119(木) 枝川愛の教会

ピリピ 4:8~134:8 最後に、兄弟たち。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて評判の良いことに、また、何か徳とされることや称賛に値することがあれば、そのようなことに心を留めなさい。4:9 あなたがたが私から学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことを行いなさい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。4:10 私を案じてくれるあなたがたの心が、今ついによみがえってきたことを、私は主にあって大いに喜んでいます。あなたがたは案じてくれていたのですが、それを示す機会がなかったのです。4:11 乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満足することを学びました。4:12 私は、貧しくあることも知っており、富むことも知っています。満ち足りることにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。4:13 私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。   知能指数のIQ、感情指数のEQ、その以外にもAQなどの指数もあります。場合によっては適応指数(Adaptability Quotient)といい、あるいは逆境指数(Adversity Quotient)と言います。「適応指数」とは変わる状況に適応し、対処できる力で、「逆境指数」とは文字通り逆境にも屈せずに最後まで挑戦して目標を達成する力です。融通性と臨機応変、根気と根性の能力です。標準化され、マニュアル化されていく時代に信頼できる能力です。 そのような人が組織の中にいるなら幸いです。   勉強ができるIQと、関係ができるEQも大切ですが、急変する時代に対応する力、失敗しても再び起きあがるAQはさらに大切になってきます。投資銀行であるゴールドマンサックスが投資するスタートアップ会社を選ぶ際、最も重要視するのがAQ指数だそうです。歯がなければ歯茎で噛む、転んでもまた起きあがる力です。状況の変化と挑戦を読み取り、それと立ち向かう勇気とついに状況を乗り越え、勝ち抜く力が必要です。   使徒パウロは、個人的にも時代的にも手に負えない程の変化と挑戦に直面していました。しかし、パウロはそれに応戦しまうs。それによって新しいキリスト教の時代を切り開きました。お金がなくて宣教ができないことはなく、お金がなくて神様の働きができないことは決してありません。ある人はお金がないからできないと言いますが、神様は挑戦する人がいないからお金を支給されないのです。お金は神様の決裁が終わったら一番最後に来ます。   パウロは高い地位と富を持ったことがあり、貧しい伝道者の生活をしたこともあります。パウロは状況に応じて適応し、モードを切り替え、対処できるAQが優れていました。「乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満足することを学びました。私は、貧しくあることも知っており、富むことも知っています。満ち足りることにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。11,12」パウロはそれを「秘訣の心得」と言いました。マスターキーです。お金はあってもなくても、状況がよくても悪くても、適応能力というマスターキーがあれば、やがて状況を変えていく力を発揮します。   パウロは「秘訣の心得」を公開しました。「私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。4:13」けちすぎる金持ちも、無駄遣いする貧乏もみな愚かです。富んでいるときは施し、貧しい時は帯を締めます。この御言葉は文脈に沿って読みたいと思います。パウロは自分がどんな状況に置かれても神様の働きを完遂するという責任感と自信感のことを言っているのです。パウロの言葉の順番を変えてみます。「私がすべての状況の中ですべてに挑戦をする時、神様が私にすべてができる能力を与えてくださいます。」

빌립보서 묵상8【바울의 마스터키】230119(목) 에다가와 사랑의 교회

빌립보서 4:8~134:8 종말로 형제들아 무엇에든지 참되며 무엇에든지 경건하며 무엇에든지 옳으며 무엇에든지 정결하며 무엇에든지 사랑할만하며 무엇에든지 칭찬할만하며 무슨 덕이 있든지 무슨 기림이 있든지 이것들을 생각하라4:9 너희는 내게 배우고 받고 듣고 본 바를 행하라 그리하면 평강의 하나님이 너희와 함께 계시리라4:10 내가 주 안에서 크게 기뻐함은 너희가 나를 생각하던 것이 이제 다시 싹이 남이니 너희가 또한 이를 위하여…

ピリピ人への手紙 黙想7【求めるべきこと】230118(水) 枝川愛の教会

ピリピ 4:1~74:1 ですから、私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ。このように主にあって堅く立ってください。愛する者たち。4:2 ユウオディアに勧め、シンティケに勧めます。あなたがたは、主にあって同じ思いになってください。4:3 そうです、真の協力者よ、あなたにもお願いします。彼女たちを助けてあげてください。この人たちは、いのちの書に名が記されているクレメンスやそのほかの私の同労者たちとともに、福音のために私と一緒に戦ったのです。4:4 いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。4:5 あなたがたの寛容な心が、すべての人に知られるようにしなさい。主は近いのです。4:6 何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。4:7 そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。   パウロはピリピ教会の聖徒たちに向かって「私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ」と言いながら「このように主にあって堅く立ってください」とお勧めします。「このように」ということは、昨日の本文のことです。それは「自分の欲望のために生きることではなく、神の国の市民権者の自負心を持って福音のために生きること」です。   それを言うパウロに気になる人がいたようです。「ユウオディアに勧め、シンティケに勧めます。あなたがたは、主にあって同じ思いになってください。2」ユウオディアとシンティケはパウロに協力し、ピリピ教会を建てあげた功労者たちですが、彼女たちは葛藤を起こし、対立していました。   功労が多いだけに愛着も多かったはずです。従って葛藤と対立も多くなります。教会が自分のものになれば、他人のすることは何でも気に入らないわけです。教会の中に混乱が生じ、争いに広がります。争っている教会に和解ができないのは、自分の思いが神様の御旨だと信じるからです。だから争いが使命になって恥知らずに戦い合います。   ソロモンの知恵を思い起こしました。互いに自分の赤ちゃんだと言い張っていた二人の女性に、ソロモン王が赤ちゃんを二つに分け与えるように命令すると、実の母が赤ちゃんを愛しているので母親であるという主張をあきらめます。そこで愛の真偽が明らかになりました。平和は正義よりも寛容に近いです。「あなたがたの寛容な心が、すべての人に知られるようにしなさい。主は近いのです。5」   「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。6」の文章で、その結果は「心と思いの平安」であるから求めるべきものが何なのかは明らかです。心配せずに求めるべきもののは「心と思いの平安 7」です。   さかのぼるとそのためには「寛容の心5」が必要で、さらに遡ると「いつも喜ぶ信仰4」が必要です。罪深い人間が罪を持っている人間を愛することがいかに大変なことかはよく知っています。愛することでなくても。長い間を憎むことを止められるなら、それが愛に近いものです。心と思いの平安を守れるようにお祈ります。

빌립보서 묵상7【구해야 할 것】230118(수) 에다가와 사랑의 교회

빌립보서 4:1~74:1 그러므로 나의 사랑하고 사모하는 형제들, 나의 기쁨이요 면류관인 사랑하는 자들아 이와 같이 주 안에 서라4:2 내가 유오디아를 권하고 순두게를 권하노니 주 안에서 같은 마음을 품으라4:3 또 참으로 나와 멍에를 같이한 자 네게 구하노니 복음에 나와 함께 힘쓰던 저 부녀들을 돕고 또한 글레멘드와 그 위에 나의 동역자들을 도우라 그 이름들이 생명책에 있느니라4:4 주 안에서…

ピリピ人への手紙 黙想6【前のものに向かって身を伸ばし】230117(火) 枝川愛の教会

ピリピ 3:10~213:10 私は、キリストとその復活の力を知り、キリストの苦難にもあずかって、キリストの死と同じ状態になり、3:11 何とかして死者の中からの復活に達したいのです。3:12 私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追求しているのです。そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。3:13 兄弟たち。私は、自分がすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、3:14 キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。3:15 ですから、大人である人はみな、このように考えましょう。もしも、あなたがたが何か違う考え方をしているなら、そのことも神があなたがたに明らかにしてくださいます。3:16 ただし、私たちは到達したところを基準にして進むべきです。3:17 兄弟たち。私に倣う者となってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。3:18 というのは、私はたびたびあなたがたに言ってきたし、今も涙ながらに言うのですが、多くの人がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。3:19 その人たちの最後は滅びです。彼らは欲望を神とし、恥ずべきものを栄光として、地上のことだけを考える者たちです。3:20 しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。3:21 キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。   走馬加鞭といって走る馬に鞭を打つという言葉があります。糞畑に転がる豚を走らせるために鞭を打つことはありません。働いている人にもっと多くのことをさせるようになっていて、働かない人に大切なことはさせないです。神様もそうです。働かない人は本来持っていた賜物も失い、働く人はより多くの能力と賜物を受けて力を得ます。それには限界がありません。信仰の服従による知恵の賜物は、自分が知らなかった領域まで広げることになるからです。社会には責任を負わないために仕事を回避する社員が多いと言われていますが、彼らの能力と機会は結局に縮小され、社会と組織はそのような人を回避することになるでしょう。   恵まれたいとよく言われますが、当たり前のこと、信仰のないところには恵みが与えられません。福音のために走っているところでは、どこを刺しても恵みがあふれます。しかし、動かず、活動せず、溜まってしまった福音は、力を発揮できません。聞いただけの福音では物足らないです。神様の御言葉をただ説教という形に依存しますが、実際に説教の言葉を聞くことはしません。もし説教がなければ、神様の御言葉である聖書を自分の知性と霊性で読み始めると思います。牧師という人は信じることができず、説教は聞いたり、しゃべったりしましたが、それも同じです。自分の口に入れて噛み砕いてない御言葉は1日経ったら覚えません。   長い間に信仰生活をしてきても、自分の唇で伝えた福音がなければ福音は理解しできていません。信仰生活の必須要件として伝道が含まれるのは、人々を集めるためのことではなく、福音を伝えなければ福音が何なのか分からないためです。伝えてみれば、自分が福音をどれほど表面的なものであるかに気づきます。パウロはピリピ教会にさらに熱心に走ることを勧めます。教会が肥満になり、福音が剥製されている時代に、パウロの福音のための走りの決意を読み、恥ずかしくなります。   18節でいう「キリストの十字架の敵」というのは教会の外の人のことではありません。福音が活動しなくなる主な原因を提供する人です。彼らの特徴は19節が語ります「その人たちの最後は滅びです。彼らは欲望を神とし、恥ずべきものを栄光として、地上のことだけを考える者たちです。19」福音が動かずに止まってしまうことは福音を伝えなければならない聖徒が経済活動と悩みに没頭しているからです。一人から一人に福音が伝わるところには必ず聖霊がおられます。私もそこにいてほしいのです。  

빌립보서 묵상6【앞에 있는 것을 잡으려고】230117(화) 에다가와 사랑의 교회

빌립보서 3:10~213:10 내가 그리스도와 그 부활의 권능과 그 고난에 참예함을 알려하여 그의 죽으심을 본받아3:11 어찌하든지 죽은 자 가운데서 부활에 이르려 하노니3:12 내가 이미 얻었다 함도 아니요 온전히 이루었다 함도 아니라 오직 내가 그리스도 예수께 잡힌 바 된 그것을 잡으려고 좇아가노라3:13 형제들아 나는 아직 내가 잡은 줄로 여기지 아니하고 오직 한 일 즉 뒤에 있는 것은…

ピリピ人への手紙 黙想5【肉に頼る人】230116(月) 枝川愛の教会

ピリピ 3:1~93:1 最後に、私の兄弟たち、主にあって喜びなさい。私は、また同じことをいくつか書きますが、これは私にとって面倒なことではなく、あなたがたの安全のためにもなります。3:2 犬どもに気をつけなさい。悪い働き人たちに気をつけなさい。肉体だけの割礼の者に気をつけなさい。3:3 神の御霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇り、肉に頼らない私たちこそ、割礼の者なのです。3:4 ただし、私には、肉においても頼れるところがあります。ほかのだれかが肉に頼れると思うなら、私はそれ以上です。3:5 私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエル民族、ベニヤミン部族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法についてはパリサイ人、3:6 その熱心については教会を迫害したほどであり、律法による義については非難されるところがない者でした。3:7 しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。3:8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています。それは、私がキリストを得て、3:9 キリストにある者と認められるようになるためです。私は律法による自分の義ではなく、キリストを信じることによる義、すなわち、信仰に基づいて神から与えられる義を持つのです。   1節の「最後に」ということは、パウロが強調して結論的に言いたいということですが、それは「主にあって喜びなさい」いうことです。パウロのこの切ない願いを肝に銘じなければなりません。私たちはいかなる方法を使っても福音の感激を現在の喜びとして楽しまなければなりません。それだけが救い信仰を証明することです。パウロは、それをどんなに強調して繰り返してもそれは過言ではないと言い、ピリポの聖徒にもそれが最も安全なことだと言いました。   パウロは救いの感激を現在の喜びとすることのために割礼問題に言及します。ユダヤ人出身のキリスト教徒、もう少し具体的に分類すると、福音のまともに理解ができてないユダヤ宗教の優越論者、ユダヤ出身の既得権者、宗教的な階級主義者がいました。彼らは非ユダヤ人に割礼を求めていました。パウロはそれに怒っていたのです。福音の普遍性を踏みにじる無知のせいだからです。それでパウロは彼らに向かって「犬」と「悪い働き人」という言葉を用いました。   パウロ自身は誰よりも高い階級的地位と既得権を持っていました。しかし、パウロはキリスト・イエスを知っていることのすばらしさに比べてすべてがちりあくたにすぎないと告白します。もちろん信仰のためには知識が必要であり、それは大切なことです。しかし、知識があるからといって、信仰があることではありません。信じなければ聞いても聞こえないし、見ても見えないからです。神学を勉強した人や神学者の知識が必ずしも信仰に比例するとは思いません。神学は教会のためのものでなければならないと思っています。福音は自分自身を詳しく観察することで明確に理解できる普遍的なものです。   教会は信仰がないから滅びることではなく、信仰があるという人々の階級意識と特権意識のために滅びます。牧師だから、長老だから、または有力者だからといって特別であると考える人々は、パウロの厳しい叱責を受けなければなりません。そのようなことに息が詰まって窒息するのは福音です。  

빌립보서 묵상5【육체를 신뢰하는 사람들】230116(월) 에다가와 사랑의 교회

빌립보서 3:1~93:1 종말로 나의 형제들아 주 안에서 기뻐하라 너희에게 같은 말을 쓰는 것이 내게는 수고로움이 없고 너희에게는 안전하니라3:2 개들을 삼가고 행악하는 자들을 삼가고 손할례당을 삼가라3:3 하나님의 성령으로 봉사하며 그리스도 예수로 자랑하고 육체를 신뢰하지 아니하는 우리가 곧 할례당이라3:4 그러나 나도 육체를 신뢰할만하니 만일 누구든지 다른이가 육체를 신뢰할 것이 있는 줄로 생각하면 나는 더욱 그러하리니3:5 내가 팔일만에…

ピリピ人への手紙 黙想4【キリスト・イエスのうちにある思い】230113(金) 枝川愛の教会

ピリピ 2:1~112:1 ですから、キリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、2:2 あなたがたは同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。2:3 何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。2:4 それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。2:5 キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。2:6 キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、2:7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、2:8 自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。2:9 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。2:10 それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、2:11 すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。   厳しい時代に「聖徒の協力」と「信頼を脅かすことに対する勇気」を語ったパウロは、今や共同体の一致のための「謙遜」を語ります。「何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。3」パウロは共同体の中に対立や葛藤がある時、まず相手の意見をもっと尊重しなさいと言うのです。争っている人は、ある事案に対する主張のではなく、自分の意見が尊重されないという自尊心のためです。だから知恵はまず他人を尊重し、自分より他人をもっと優れたと考えなさいということです。片方だけでも先にこれが実践できれば、葛藤は感情を抑え、落ち着きます。パウロはその力を「謙遜」と言いました。   「そそれぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。4」そしてさらに自分ではなく他人のことを顧みるようにと勧めます。神様を信じるということは口では言えますが、利他的な隣人愛においては口の言葉は空しいです。生き方がその真実を明らかにするからです。利己心は自分のものを満たそうとする欲ですが、共同体の中で利他心はついに皆を満たせます。利己的な人も利他的な配慮の中で利他心を学びます。法で利他心を規定することはできないからです。5節ではそれを「キリスト・イエスのうちにある思い」と言いました。キリストは神様であり、罪を知らない方ですが、人の罪の過ちを問わず、自ら低くなり、十字架でその罪の代価を代わりに払われました。キリストは私を尊重し、私のために代わりに死ぬという利他的な生き方をされました。イエス·キリストにある思いが教会の中で記念され、記憶され、実践されることを願います。