エゼキエル 黙想 【罠にかかった若獅子、折られたぶどうの枝】 20250818 (月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

エゼキエル 19:1~14 19:1 「あなたはイスラエルの君主たちのためにこの哀歌を唱えよ。 19:2 あなたの母は何であったのか。雌獅子だ。彼女は雄獅子の間に伏し、若い獅子の間で子獅子を養った。 19:3 雌獅子は子獅子のうちの一頭を取り上げた。それは若い獅子となり、獲物をかみ裂くことを習い、人を食い滅ぼすようになった。 19:4 諸国の民はその獅子のうわさを聞いた。その獅子は落とし穴で捕らえられた。彼らはこれに鉤をつけ、エジプトの地へ引いて行った。 19:5 雌獅子は待ちくたびれて、自分の望みが消え失せたことを知ったとき、子獅子のうちのほかの一頭を取り、若い獅子と定めた。 19:6 これも雄獅子の間を歩き回り、若い獅子となって、獲物をかみ裂くことを習い、人を食い滅ぼすようになった。 19:7 この獅子は、やもめたちを犯し、町々を廃墟とした。その吼える声のために、地とそこに満ちているものは、おののいた。 19:8 そこで、諸国の民は周りの州から攻め上り、その獅子に彼らの網を打ちかけた。その獅子は彼らの落とし穴で捕らえられた。 19:9 彼らはそれに鉤をかけて檻に入れ、バビロンの王のもとに引いて行った。彼らはそれを砦に閉じ込め、二度とその声がイスラエルの山々に聞こえないようにした。 19:10 あなたの母は、水のほとりに植えられた、あなたのぶどう園のぶどうの木のようだった。水が豊かなために実りが良く、枝も茂った。 19:11 その強い枝は王の杖となり、その背丈は茂みの中でひときわ高く、多くの小枝をつけて、際立って見えた。 19:12 しかし、激しい憤りをもってそれは引き抜かれ、地に投げ捨てられ、東風はその実を枯らした。その強い枝も折られて枯れ、火がそれを焼き尽くした。 19:13 今や、それは荒野に、乾いた、潤いのない地に移し植えられ、 19:14 火がその枝から出て、その若枝と実を焼き尽くした。もう、それには王の杖となる強い枝がなくなった。」これは悲しみの歌、哀歌となった。   エゼキエル書19章は、イスラエルの指導者たちのための哀歌である。雌獅子が子獅子を育てて王のようにしたが、その権威を守り切れず、罠にかかって捕らえられ、捕囚として引きずられて行った。もう一匹の子を立てたが、彼もまた町々を荒らし、ついにはバビロンに捕らえられて行った。ぶどうの木は、かつて水のほとりに植えられ、力強く豊かであったが、今はその繁栄も権威も失われてしまった。雌獅子とぶどうの木はユダの全盛期を象徴する。しかし後の世代はその栄光を守り切ることができなかった。 このアイロニーはユダの歴史だけではない。ある世代は汗を流して種を蒔くが、栄光を受けることはできない。別の世代は先の世代の献身の上に繁栄と権利を受けながらも、それを放蕩に消費し、自ら滅びていく。人類の歴史の中で、この逆説は繰り返されてきた。 種を蒔く者と刈り取る者が違っても、不満に思う理由はない。神は種を蒔く者の誠実を知っておられ、刈り取る者の労苦をも知っておられる。そして、与えられた恵みを浪費した世代の無責任と怠惰も決して神の御前に隠れることはできない。神はすべての労苦と犠牲を覚えておられ、同時に無責任さと怠慢もご存じである。世が与える報酬に一喜一憂しないなら、私たちはより価値ある道を選ぶことができる。 では、どの道を選ぶのか。夜明けを切り開く世代となるのか、それとも夜の闇に消え、瓦礫の中に立ち尽くす世代となるのか。私たちが今享受しているものは、自分の努力や実力によるものではなく、時代の恵みを受けているにすぎない。その時代を築いた人々は献身したが、すべての恵みを享受することはできなかった。時代が後退していると思いながら、実はなお残されたものを享受していると考えると、自分はまるで罠にかかった若獅子のようであり、枯れゆくぶどうの木のようであり、恐ろしくなる。

에스겔 묵상 【함정에 걸린 사자 새끼, 꺾인 포도나무 가지】 20250818(월) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

에스겔 19:1~14 19:1 너는 이스라엘 방백들을 위하여 애가를 지어 19:2 부르기를 네 어미는 무엇이냐 암사자라 그가 사자들 가운데 엎드리어 젊은 사자 중에서 그 새끼를 기르는데 19:3 그 새끼 하나를 키우매 젊은 사자가 되어 식물 움키기를 배워 사람을 삼키매 19:4 이방이 듣고 함정으로 그를 잡아 갈고리로 꿰어끌고 애굽 땅으로 간지라 19:5 암사자가 기다리다가 소망이 끊어진 줄을…

エゼキエル 黙想 【明確な神の御声】 20250814 (木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

エゼキエル 17:1~10 17:1 次のような主のことばが私にあった。 17:2 「人の子よ。イスラエルの家に謎をかけ、たとえを語れ。 17:3 『神である主はこう言われる。大きな翼、長い羽、色とりどりの豊かな羽毛の大鷲が、レバノンに飛んで来て、杉のこずえを取り去り、 17:4 その若枝の先を摘み取り、それをカナンの地へ運び、商人の町に置いた。 17:5 また、その地の種も取って来て、肥えた土地に植え、豊かな水のそばに柳のように植えた。 17:6 それは生長し、丈は低いが、よく生い茂るぶどうの木となった。その枝は鷲の方に向き、根は鷲の下に張り、こうして、ぶどうの木となって、枝を作り、若枝を出した。 17:7 さて、大きな翼と豊かな羽毛を持つもう一羽の大鷲がいた。すると、このぶどうの木は、潤いを得るために根をその鷲の方に向けて伸ばし、その枝を、自分が植わっているところからその鷲の方に伸ばした。 17:8 このぶどうの木は、枝を伸ばし、実を結んで見事なぶどうの木となるように、水の豊かな良い地に植えられていた。』 17:9 言え。『神である主はこう言われる。それはうまく育つであろうか。その根は抜き取られ、その実は摘み取られ、芽の付いた若枝はことごとく枯れないだろうか。それは枯れる。それを根こそぎ引き抜くのに、大きな力や多くの人々を必要としない。 17:10 見よ。それは植えられたが、うまく育つだろうか。東風がそれに吹きつけると、すっかり枯れてしまわないだろうか。その芽を出した苗床で、それは枯れてしまう。』」   本文は、バビロンとエジプトという大国に挟まれたイスラエルの緊迫した国際情勢を比喩した啓示である。近東は、エジプトが衰退し、バビロンが支配する秩序へと再編されるだろう。ゆえに、イスラエル最後の王ゼデキヤの責任は重大であった。しかしゼデキヤは、同盟国であるエジプトとの間で右往左往した。大義や義理を考えたのかもしれないが、それ以上に重要な「民の命」という優先順位を守ることができなかった。 神はエレミヤとエゼキエルを通して、バビロンを刺激してはならないというメッセージを繰り返し与えられた。それは「誰が味方か」という陣営選択の問題ではない。ゼデキヤは、最優先で民を生かす道を探さなければならなかった。神の御心は、国際情勢の判断や政治的分析の上に、神の啓示と御言葉によって養われた識別力を通して聞こえる。バビロンに仕えよと仰せられたのは敗北主義ではなく、一人でも多くの民を救うための道であった。 その時、近東のゼデキヤは地の変化を読み取ることができなかった。別の時代、極東の半島でも同じことがあった。明から清へ、清から日本帝国へと秩序が再編されるたびに、守旧派は事大の観念に囚われていた。義理や伝統、感情や人脈に縛られ、民がより多く死なねばならない道を選んだ。それが不従順であり、背信である。民を生かす道こそが従順であり、信仰である。 信仰があると言いながらも、命に対する責任と良心がなく、救わねばならないという使命がないなら、それは信仰ではなかったことの証明である。ゼデキヤが滅んだのは政治的判断を誤ったからではなく、民を救うべき良心と使命に目を閉じたからであり、その結果として目をえぐられたのだ。神の御声を聞くということは、神の心にかなった思いを抱くことであり、現実を認識する土台の上に良心と使命が生きているとき、神の御声は聞こえるのである。

에스겔 묵상 【선명한 하나님의 음성】 20250814(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

에스겔 17:1~10 17:1 여호와의 말씀이 내게 임하여 가라사대 17:2 인자야 너는 수수께끼와 비유를 이스라엘 족속에게 베풀어 17:3 이르기를 주 여호와의 말씀에 채색이 구비하고 날개가 크고 깃이 길고 털이 숱한 큰 독수리가 레바논에 이르러 백향목 높은 가지를 취하되 17:4 그 연한 가지 끝을 꺾어 가지고 장사하는 땅에 이르러 상고의 성읍에 두고 17:5 또 그 땅의 종자를…

エゼキエル 黙想 【悔い改め、その恥の告発】 20250813水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

エゼキエル 16:53~63 16:53 わたしは彼女たちを元どおりにする。ソドムとその娘たち、サマリアとその娘たち、また彼女たちの中にいるあなたを元どおりにする。 16:54 こうして、あなたは自分自身の恥辱を負い、あなたが彼女たちを慰めたときにしたすべてのことによって、辱めを受ける。 16:55 あなたの姉妹たち、ソドムとその娘たちは元のところに帰り、サマリアとその娘たちも元のところに帰り、あなたとあなたの娘たちも元のところに帰って来る。 16:56 あなたは、高ぶっていたときには、あなたの妹ソドムを悪いうわさの種にしていたではないか。 16:57 しかしそれは、あなたの悪がさらけ出される前のことであって、今はアラムの娘たちや、その周りのすべての者、およびペリシテ人の娘たちのそしりの的となっている。彼女たちはあなたを四方から侮っている。 16:58 あなたは、自分の淫らな行いと忌み嫌うべきわざの報いを受けている──主のことば。 16:59 まことに、神である主はこう言われる。わたしは、あなたがしたとおりのことをあなたに返す。あなたは誓いを蔑んで、契約を破ったのだ。 16:60 だが、わたしは、あなたが若かった日々にあなたと結んだ契約を覚えて、あなたと永遠の契約を立てる。 16:61 わたしがあなたの姉と妹を選び取って、あなたとの契約には含まれていないものの、わたしが彼女たちをあなたの娘としてあなたに与えるとき、あなたは自分の生き方を思い出し、恥じることになる。 16:62 わたしがあなたとの契約を新たにするとき、あなたは、わたしが主であることを知る。 16:63 こうして、わたしが、あなたの行ったすべてのことについてあなたを赦すとき、あなたはそれらを思い出して恥を見、もう自分の恥辱のために口を開くことはない──神である主のことば。』」   エゼキエル書16章は、神がエルサレムを契約の妻として選ばれたにもかかわらず、その妻が淫行と裏切りを犯したことを告発している。神は裁かれるが、その裁きの後には回復も約束された。ただし、回復はすぐには訪れない。まずエルサレムは自分の恥を覚え、その恥に向き合わなければならない。恥を認め、責任を受け入れる場所でこそ、恵みが真実に経験されるからである。恥を知ってこそ、それを覆ってくださる感謝を知り、絶望を知ってこそ、救いの喜びが何であるかを知ることができる。 人は本能的に恥ずかしいことを隠したくなる。だから私たちは回避する。言い訳をしたり、状況や他人のせいにしたりする。そして自分自身をも欺く。しかし、だからといって恥の根が消えるわけではない。それは手のひらで空を覆い、目隠しして「見えていないふり」をしているに過ぎない。 信仰は、恥に向き合う勇気を必要とする。だから常に痛みが伴う。自分自身を認めることは苦しいことだからである。しかし、人が神の前で恥をさらけ出す瞬間、ただ神のご性質にだけ頼ることになる。自分の恥を神に告げることのできる勇気ある人の欠点を、神が覆ってくださるのだ。神の前で自分の恥を隠したままで保てるものは何もない。ゆえに、魂が正直でない者は悔い改めることができない。 「この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び…」(ヘブル12:2)イエス様も恥を受けられた。十字架は侮辱的で恥ずかしい刑罰であった。イエス様は人類の罪を背負われただけではなく、私が認め、告白する私自身の恥を代わりに背負われたのである。そのためにキリストは恥を避けられなかった。それを告白できないなら、十字架はまだ私のものではない。 しかし、私たちは十字架の前でさえ、自分の恥を告白する勇気を持たない。悔い改めの祈りと言っても、多くの場合「聖なる言葉」で飾られている。口では罪人だと告白しながらも、その告白がかえって敬虔な人だという拍手を受けることになる。安全に見えるが、真実ではない。それは恥に向き合うのではなく、巧みに隠すことだ。だから、恥をさらして祈ることは非常に難しく、真の悔い改めの祈りは稀である。必要なのは自己憐憫ではなく、悔い改めである。悔い改めは、人前で言葉にするものではなく、静かな時の中で深い内面において行うものである。

에스겔 묵상 【회개, 그 수치의 고발】 20250813(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

에스겔 16:53~63 16:53 내가 그들의 사로잡힘 곧 소돔과 그 딸들의 사로잡힘과 사마리아와 그 딸들의 사로잡힘과 그들 중에 너의 사로잡힌 자의 사로잡힘을 돌이켜서 16:54 너로 네 수욕을 담당하고 너의 행한 모든 일을 인하여 부끄럽게 하리니 이는 네가 그들에게 위로가 됨이라 16:55 네 아우 소돔과 그 딸들이 옛 지위를 회복할 것이요 사마리아와 그 딸들도 그 옛 지위를…

エゼキエル 黙想 【無責任が負う責任】 20250812 (火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

エゼキエル 16:35~52 16:35 それゆえ、遊女よ、主のことばを聞け。 16:36 神である主はこう言われる。あなたは愛人たちや忌み嫌うべき偶像と姦淫をして、自分の恥ずかしいところを見せ、自分の裸をあらわにし、それらに自分の子を献げて血を流したのだ。 16:37 それゆえ、見よ。わたしは今、あなたが戯れたすべての愛人たちや、あなたが恋した者や、憎んだ者をすべて寄せ集め、彼らを四方から集めて、あなたの裸を彼らにさらけ出す。彼らは丸裸のあなたを見る。 16:38 わたしは、姦通した女と殺人を犯した女に下す罰によってあなたをさばき、ねたみと憤りをもってあなたの血に報いる。 16:39 わたしはあなたを彼らの手に委ねる。彼らはあなたの祭儀台を壊し、高台を打ち壊し、あなたの着ている物をはぎ取り、あなたの美しい品々を奪い取り、あなたを丸裸にしておく。 16:40 彼らは集団をあおってあなたを襲わせ、石であなたを打ち殺し、剣であなたを八つ裂きにする。 16:41 そのうえ、あなたの家々を火で焼き、多くの女たちの目の前であなたにさばきを下す。こうして、わたしはあなたの淫行をやめさせる。あなたはもう報酬を支払わなくなる。 16:42 わたしはあなたに対する憤りを収めるので、わたしのねたみはあなたから離れる。わたしは安んじて、二度と怒ることはない。 16:43 あなたが、自分の若かった日々を思い出さず、かえって、これらすべてのことでわたしを怒らせたので、見よ、わたしもまた、あなたの頭上にあなたの行いを返す──神である主のことば──。あなたはすべての忌み嫌うべきわざに、淫らな行いを加えなかったか。 16:44 見よ。ことわざを用いる者は、あなたについてこういうことわざを用いる。「あの母にして、この娘あり」と。 16:45 あなたは、自分の夫と子どもを嫌った母の娘。自分たちの夫や子どもを嫌った姉妹があなたの姉妹。あなたがたの母はヒッタイト人、あなたがたの父はアモリ人であった。 16:46 あなたの姉は、その娘たちと一緒にあなたの北に住んでいるサマリアであり、あなたの妹は、その娘たちと一緒にあなたの南に住んでいるソドムである。 16:47 あなたは彼女たちの道に歩み、彼女たちのした忌み嫌うべきわざをまねなかっただろうか。ほんのわずかの間に、あなたはすべての道において彼女たちよりも堕落してしまった。 16:48 わたしは生きている──神である主のことば──。あなたの妹ソドムとその娘たちさえ、あなたと、あなたの娘たちがしたほどのことを決してしなかった。 16:49 だが、あなたの妹ソドムの咎はこのようだった。彼女とその娘たちは高慢で、飽食で、安逸を貪り、乏しい人や貧しい人に援助をしなかった。 16:50 彼女たちは高ぶって、わたしの前で忌み嫌うべきことをしたので、わたしはこれを見たとき、彼女たちを取り除いた。 16:51 サマリアも、あなたの罪の半分ほども罪深くはなかった。あなたが彼女たち以上に多くの忌み嫌うべきことをしたので、あなたのしたすべての忌み嫌うべきことが、あなたの姉妹たちを正しいとした。 16:52 あなたも、あなたの姉妹たちをかばった恥辱を負え。あなたが彼女たちよりも忌み嫌うべきことをして、罪が重かったため、彼女たちはあなたよりも正しいとされた。あなたも恥じて、あなたの姉妹たちを正しいとした恥辱を負え。   エルサレムは神の愛と恵みの頂点にあったが、その栄光は長く続かなかった。それは神が気まぐれだったからではなく、エルサレム自身が招いた結果である。恵みは神から受けながら、あらゆる真心と情熱は偶像に注ぎ込んだ。偶像とは単なる宗教的なオブジェではない。今、心と情熱を注いでいるその対象こそが偶像である。神は、堕落の象徴であったソドムやサマリアよりも、エルサレムがさらに悪く堕落した状態にあると評価された。 クリスチャンが世よりも悪くなり得るのは、神の啓示と恵みが生活の中に内面化されず、かえって宗教的特権意識だけが強調され、信仰が自己の不条理を正当化する道具へと変質してしまうからである。それは自己反省を遮断し、仮想の敵を作り、その敵を非難することで「自分はよく信じている」という自己欺瞞の構造を生み出す。信仰とは内面の価値によって証明されるものであり、誰かを憎むことで証明できるものではない。 その結果、対話は断絶し、互換性を失い、孤立が深まる。神の絶対性、イエス・キリストによる救いの唯一性と、宗教的独断や閉鎖性とは別のものである。批判されるべき行動ゆえに非難されながら、それを「義のために苦難を受けている」という自己憐憫に置き換えることは証しではない。外面的な敬虔さや祭儀がますます大きく華やかになることは、むしろ内面の腐敗を裏付けている。良心と理性は次第に麻痺し、いつの間にか世よりも破廉恥で非倫理的な集団へと転落するという逆説が生じる。 その無責任さに対して責任を取らなければならない。神は堕落したエルサレムに向かって裁きを宣告される。人間の視点からすれば、それは滅亡のように見えるが、実際は刷新のための神の最後の手段である。苦しむ人間は「なぜ」と訴えるが、神が語られるときには耳を傾けず、身体が苦しくなると「なぜ」と声を荒らげる。しかし停止は破壊ではなく、方向を再設定するための過程である。持続的な疾走は慣性によって可能だが、止まるときには大きなエネルギーが必要であり、停止後に再び加速するにはさらに大きなエネルギーが必要である。だからこそ、残っている力があるなら、無意味な慣性の疾走を止めるために用いるべきである。走り続ければ続けるほど感覚は鈍くなり、熱心さよりも停止の中でこそ道が見えてくるかもしれない。

에스겔 묵상 【무책임이 져야 할 책임】 20250812(화) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

에스겔 16:35~52 16:35 그러므로 너 음부야 여호와의 말을 들을지어다 16:36 나 주 여호와가 말하노라 네가 네 누추한 것을 쏟으며 네 정든 자와 행음함으로 벗은 몸을 드러내며 또 가증한 우상을 위하여 네 자녀의 피를 그 우상에게 드렸은즉 16:37 내가 저의 즐거워하는 정든 자와 사랑하던 모든 자와 미워하던 모든 자를 모으되 사방에서 모아 너를 대적하게 할 것이요…

에스겔 묵상 【사랑할 수 있을 때까지】 20250811(월) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

에스겔 16:15~34 16:15 그러나 네가 네 화려함을 믿고 네 명성을 인하여 행음하되 무릇 지나가는 자면 더불어 음란을 많이 행하므로 네 몸이 그들의 것이 되도다 16:16 네가 네 의복을 취하여 색스러운 산당을 너를 위하여 만들고 거기서 행음하였나니 이런 일은 전무후무하니라 16:17 네가 또 나의 준 금 은 장식품으로 너를 위하여 남자 우상을 만들어 행음하며 16:18 또…

エゼキエル 黙想 【愛せる時まで】 20250811 (月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

エゼキエル 16:15~34 16:15 ところが、あなたは自分の美しさに拠り頼み、自分の名声に乗じて姦淫を行い、通りかかる人がいれば、だれにでも身を任せて姦淫をした。 16:16 あなたはまた、自分の衣服を取り出して、自分のために、斑に色どった高き所を造り、その上で淫行を行った。このようなことはかつてなく、あってはならないことだ。 16:17 あなたは、わたしが与えた金や銀の美しい品々を取って、自分のために男の像を造り、それらと姦淫を行った。 16:18 あなたはまた、あや織りの衣を取って、それらの像をおおい、わたしの油と、わたしの香をその前に供えた。 16:19 あなたは、わたしが与えたわたしのパンや、あなたに食べさせた上等の小麦粉や、油や蜜までも、その前に供えて芳ばしい香りとした。そうではなかったか──神である主のことば──。 16:20 あなたはまた、わたしのために産んだ自分の息子や娘たちを取り、それらの像にいけにえとして献げて食べさせた。これでもまだ、あなたは姦淫が十分ではないかのように、 16:21 わたしの子どもたちを殺し、これを焼いて、ささげ物とした。 16:22 あらゆる忌み嫌うべきことや姦淫をしているとき、あなたは、かつて自分が丸裸のまま、血の中でもがいていた若いころのことを思い出さなかった。 16:23 あなたはこのすべての悪行の後で──ああ、何ということか。神である主のことば── 16:24 どの広場にも自分のために祭儀台を設け、高台を造り、 16:25 道のどの分かれ目にも高台を築き、通りかかるすべての人に身を任せ、姦淫を重ねて、自分の美しさを汚した。 16:26 あなたは、良いからだをした隣のエジプト人と姦通し、ますます姦淫を重ねて、わたしの怒りを引き起こした。 16:27 見よ、わたしは、あなたに手を伸ばして、あなたの食糧を減らした。そして、あなたを憎み、あなたの淫らな行いによって辱めを受けたペリシテ人の娘たちの欲望にあなたを委ねた。 16:28 あなたは飽き足りず、アッシリア人と姦通した。彼らと姦通しても、まだ飽き足りず、 16:29 商業の地カルデアとますます姦淫を重ねたが、それでも、あなたは飽き足りなかった。 16:30 あなたの心は、なんと燃え盛っていることか──神である主のことば──。厚かましい遊女のするようなこれらのことを、ことごとく行うとき。 16:31 あなたはどの通りの角にも自分の祭儀台を設け、どの広場にも高台を造った。しかし、あなたは報酬を嘲ったので、遊女のようではなかった。 16:32 姦婦は自分の夫の代わりに、ほかの男と通じるものだ。 16:33 すべて遊女には代価が支払われるのに、あなたは自分のほうから愛人たちすべてに持参金を与え、贈り物もして、四方からあなたのところに来させて姦淫をした。 16:34 だから、あなたの姦淫はほかの女の場合と反対だ。だれも、あなたを求めて姦淫をする者はいなかった。あなたが報酬を支払い、あなたには、だれも報酬を支払わなかった。あなたは反対のことをしたのだ。   神は捨てられた孤児のようなイスラエルを選び、洗い、着せ、立たせてくださった。神の愛は崇高であったが、人々はその愛を当然のように受けて享受した。愛を受ける者は、愛を与える者の真心をよく理解しない。「好意が繰り返されれば権利だと思う」という皮肉は、人間の本性をよく突いている。神から愛を受けても、神を愛する生き方をしなければ、その受けた愛を覚えていることはできない。彼らは神から多くのものを受けたのに、何ひとつ返さなかった。 自分にないものは神に求めたが、すでに受けたものは神ではなく偶像に捧げた。愛を当然と思う人間は、簡単に別の主人を探す。すでに受けた愛と恵みを世の欲望と引き換えにし、神にはさらに多く、さらに良いものを求める。それは、愛情深い配偶者に、自分の不倫のためにさらに多くを要求するようなものだ。 片想いの悲劇がどれほど切なくても、愛し合うという完全さには到達できない。愛が完成する瞬間は、一方が与えた愛に対して、もう一方が愛で応える時である。受けた愛を愛で返すとき、初めて「愛の関係」が形づくられる。神が望まれる愛は、片想いの孤独な純愛物語ではない。神が計画された愛は、互いを尊び合う契約のラブストーリーだ。 神の愛は大きく、親の愛も献身的である。しかし真実の愛は、その一方通行にとどまらず、関係の中で完成される。信徒が神を愛し、子が親を愛するところまで行って、愛の実践と教育は完成する。愛を受けるだけで返さない風潮が蔓延する現実の中でも、愛の関係という目的と理想を捨ててはならない。 子どもたちは母の日に何も準備していなかった。私は子どもたちを家から追い出し、プレゼントを買ってくるように言った。受けることが当然ではないことを知らせたかったからだ。母の日であったが、そのおかげで私もついでにプレゼントをもらった。子どもたちを家から追い出す時、プレゼント代は私が渡した。「自分で仕掛けて自分で感謝される」ようなものだったが、良いことをしたと思っている。愛にも緊張感が必要だ。子どもたちが愛を表し、その思いを差し出すべき時になれば、もう少し緊張して準備するのではないだろうか。 神の愛を最後まで悟らず、最後までその愛への告白と実践をしなかった人は、神の愛が何であるかを知らない人である。告白せず、表さず、実践しなかった愛は、まだ未完成のまま残っている。神の愛について抽象的に語るだけで、神との愛の関係が何であるかを知らない。そのような人が、神の愛の結論である救いを正しく理解しているだろうか。信じれば救われるというが(ローマの信徒への手紙 10章9〜10節)、愛は信仰よりも大きいともいう(コリントの信徒への手紙一 13章13節)…信仰という馴染み深い言葉の中で、愛とは何かを考えるべき時である。