누가복음 QT12 220121금【산상팔복과 평지사복】누가복음 6장 12~26

누가복음 6장 12~266:12 이 때에 예수께서 기도하시러 산으로 가사 밤이 맞도록 하나님께 기도하시고6:13 밝으매 그 제자들을 부르사 그 중에서 열 둘을 택하여 사도라 칭하셨으니6:14 곧 베드로라고도 이름 주신 시몬과 및 그 형제 안드레와 및 야고보와 요한과 빌립과 바돌로매와6:15 마태와 도마와 및 알패오의 아들 야고보와 및 셀롯이라 하는 시몬과6:16 및 야고보의 아들 유다와 및 예수를 파는…

ルカの福音書 QT11 22020木【安息日を守るということの意味】ルカ 6章 1~11

ルカ 6章 1~116:1 ある安息日に、イエスが麦畑を通っておられたときのことである。弟子たちは穂を摘んで、手でもみながら食べていた。6:2 すると、パリサイ人のうちの何人かが言った。「なぜあなたがたは、安息日にしてはならないことをするのですか。」6:3 イエスは彼らに答えられた。「ダビデと供の者たちが空腹になったとき、ダビデが何をしたか、6:4 どのようにして、神の家に入り、祭司以外はだれも食べてはならない臨在のパンを取って食べ、供の者たちにも与えたか、読んだことがないのですか。」6:5 そして彼らに言われた。「人の子は安息日の主です。」6:6 別の安息日に、イエスは会堂に入って教えておられた。そこに右手の萎えた人がいた。6:7 律法学者たちやパリサイ人たちは、イエスが安息日に癒やしを行うかどうか、じっと見つめていた。彼を訴える口実を見つけるためであった。6:8 イエスは彼らの考えを知っておられた。それで、手の萎えた人に言われた。「立って、真ん中に出なさい。」その人は起き上がり、そこに立った。6:9 イエスは彼らに言われた。「あなたがたに尋ねますが、安息日に律法にかなっているのは、善を行うことですか、それとも悪を行うことですか。いのちを救うことですか、それとも滅ぼすことですか。」6:10 そして彼ら全員を見回してから、その人に「手を伸ばしなさい」と言われた。そのとおりにすると、手は元どおりになった。6:11 彼らは怒りに満ち、イエスをどうするか、話し合いを始めた。   イエス様の弟子たちは人の畑の穂を摘んで手でもみながら食べました。パリサイ人はこれを問題視します。人のものを勝手に食べたからではありません。イスラエルには、空腹の旅人が畑の穂を手で切って食べてもよいという憐れみの律法がありました。パリサイ人が問題にしたのは、その日が安息日だったからです。安息日に穂を摘んだというのは、収穫行為であり、手でもみすりをしたというのは、脱穀行為であり、それは労働に当たり、安息日に働いてはいけないという律法を破ったということです。このようなことを公に問題にしていることを見ると、当時に律法がどのように解釈され、信仰という名で人をどのように押し付けていたのかが分かります。   本質を失うと、本末は転倒します。不当であると思われると、上位の価値に上がって本質を確める必要があります。イエス様は安息日の神学的な整理をしてくださいます。「人の子は安息日の主です。」と言われました。安息日の主人は、イエス様であるということです。安息日が主人ではなく、神様が主人です。礼拝のために安息日を聖く守り、共同体がそれを守らせることは重要なことです。   安息日は、六日を働き、七日目の一日を休むようにとされた神様の制度です。神様が安息日を定めて人を休ませたのは人間性のためです。休まず働く人は人間性を損ないます。体だけ休むのではなく、欲も休まなければなりません。安息日には、地に執着していた人間が息を切り替え、天を仰ぎ、神様を礼拝する日です。それで、欲を捨て、人間性を保ち、信仰を続けます。   言い換えれば、安息日は安息日の主である神様が最も大切にされる人のためのものです。それが安息日の最も上位にある目的です。人を愛して人として来られ、人を大切に思って十字架にかかり、人を憐れんで病気の人々を癒してくださいました。ところが、人のために作った安息日が、安息日を守らない人を押し付けることになっていました。イエス様はそれを指摘します。   私たちが日曜日に礼拝するのは、律法に定められた安息日だからではありません。私たちの主日は、旧約聖書の安息日ではありません。主日の礼拝を聖守しなければ地獄に行くからではありません。神様のふところの中で休むためです。神様が遣わされた所で一週間を働き、主の日には神様の家に帰るためです。だから、礼拝も人のためのものです。人を大切にする礼拝が、すなわち神様を礼拝することです。   旅人が人の畑の穂をとって食べてもよいという律法の意図は、私有財産を保護しないということではなく、空腹の人の食べる権利を与えるためです。生きる権利、食べる権利は神様から与えられています。休む権利も神様からです。安息日を守らなければならないのは義務ではなく、人らしさに戻って礼拝する権利のためです。自分を空にして、神様のみことばで入れ替え、人に仕え、人と分け与え、人に奉仕しながら神様を礼拝する日が主日礼拝です。それが自分自身を守る日です。聖徒が優先順位を決めるとき、もちろん自分より神様を優先しなければなりません。ただ、神様を優先する人は、神様が愛され、大切に思われる人を優先します。

누가복음 QT11 220120목【안식일을 지킨다는 것의 의미】누가복음 6장 1~11

누가복음 6장 1~116:1 안식일에 예수께서 밀밭 사이로 지나가실새 제자들이 이삭을 잘라 손으로 비비어 먹으니6:2 어떤 바리새인들이 말하되 어찌하여 안식일에 하지 못할 일을 하느뇨6:3 예수께서 대답하여 가라사대 다윗이 자기와 및 함께한 자들이 시장할 때에 한 일을 읽지 못하였느냐6:4 그가 하나님의 전에 들어가서 다만 제사장 외에는 먹지 못하는 진설병을 집어 먹고 함께한 자들에게도 주지 아니하였느냐6:5 또 가라사대…

ルカの福音書 QT10 22019水【マタイを召されたことは】ルカ 5章 27~39

ルカ 5章 27~395:27 その後、イエスは出て行き、収税所に座っているレビという取税人に目を留められた。そして「わたしについて来なさい」と言われた。5:28 するとレビは、すべてを捨てて立ち上がり、イエスに従った。5:29 それからレビは、自分の家でイエスのために盛大なもてなしをした。取税人たちやほかの人たちが大勢、ともに食卓に着いていた。5:30 すると、パリサイ人たちや彼らのうちの律法学者たちが、イエスの弟子たちに向かって小声で文句を言った。「なぜあなたがたは、取税人たちや罪人たちと一緒に食べたり飲んだりするのですか。」5:31 そこでイエスは彼らに答えられた。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人です。5:32 わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです。」5:33 また彼らはイエスに言った。「ヨハネの弟子たちはよく断食をし、祈りをしています。パリサイ人の弟子たちも同じです。ところが、あなたの弟子たちは食べたり飲んだりしています。」5:34 イエスは彼らに言われた。「花婿が一緒にいるのに、花婿に付き添う友人たちに断食させることが、あなたがたにできますか。5:35 しかし、やがて時が来て、花婿が取り去られたら、その日には彼らは断食します。」5:36 イエスはまた一つのたとえを彼らに話された。「だれも、新しい衣から布切れを引き裂いて、古い衣に継ぎを当てたりはしません。そんなことをすれば、その新しい衣を裂くことになり、新しい衣から取った布切れも古い衣には合いません。5:37 まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は皮袋を裂き、ぶどう酒が流れ出て、皮袋もだめになります。5:38 新しいぶどう酒は、新しい皮袋に入れなければなりません。5:39 まただれも、古いぶどう酒を飲んでから、新しい物を望みはしません。『古い物が良い』と言います。」   イエス様は、もう一人の弟子を召されます。レビという取税人です。この人はマタイの福音書を書いたマタイです。マタイはユダヤ人であり、レビ族です。出エジプトとレビ記で読んだように、レビ人は礼拝のために召された人々です。そんなマタイが取税人になって収税所にいるということです。周知のように、取税人というのは、単なる税金徴収員ではなく、不正に金銭を横取り、当時イスラエルの民たちから恨まれていた人でした。民を神様に導かなければならないレビ人が民を搾取していたのですから、かなり間違っていた時代です。ルカがマタイという名前を使わずにレビと書いたのも、このような社会を告発していることかも知れません。     数年前にカラバッジョの「マタイを召されるイエス(The Calling of St Matthew, Caravaggio)」という作品を持って水曜礼拝で説教をしたことがありますが、上の写真です。イエス様が収税所に現れており、5人取税人のが座っています。2人はイエス様を見ていますが、その訪問に関心がないようです。もう2人は、イエス様が来られたことに気付かず、お金を数えるのに夢中です。その中で最も若く見える一人の取税人は、机に頭を突っ込んでお金を数えています。5人の真ん中に座っているひげの長い人が指で自分を指しながら「私を呼んでいるのですか?」のように反問しています。イエス様が来てもお金にはまっている人はそれが見えず、また聞こえないのですが、マタイは、自分を呼んでおられるイエス様をちゃんと見つめているということでした。   あの時は確かにそのように解釈しましたが、今朝のQ.Tのためにもう一度見てみたら、解釈が間違ったかもしれないことに気が付きました。詳しく見ると、マタイだと思ったひげの人が指で指している位置がその人自身ではないようです。「私ですか?」ではなく「この人ですか?」のようにとなりを指しています。それで、カラバッジョが絶妙に残したイエス様の視線を確認してみると、イエス様の視線も、ひげの人ではありません。それからイエス様の指も彼に向かっていません。イエス様の視線と指の方向、そしてひげの人が指している方向は、イエス様が来たことさえも気づかず、頭を突っ込んでお金を数えている画面の一番左にある若い取税人です。闇の中に描かれている彼の目つきは、どんなにお金に集中しているのでしょうか。   「マタイがイエス様に召される」ことと、その後に続く「イエス様が来たのは、病者と罪人のためである」ということは別々の話ではないです。マタイは、まだお金を数えていましたが、イエス様は彼を呼んでおられます。私たちがイエス様に出会ったのは、目を上げてイエス様を仰いだ時ではなく、まだ地上に頭を突っ込んでいた時です。病者であって、罪人であったまま生きていた時、わたしが求めたのではなく、先にイエス様が訪ねて来られたのです。パウロもそうでした。パウロがローマ人への手紙5章で語った私たちの救いの時点を再確認しましょう。「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。ローマ5:8」

누가복음 QT10 220119수【마태를 부르신 것은】누가복음 5장 27~39

  예수님은 27절에서 또 한 명의 제자를 부르십니다. 레위라 하는 세리입니다. 이 사람은 마태복음을 쓴 마태입니다. 마태는 유대인이고 레위지파 사람입니다. 출애굽기와 레위기에서 읽었듯이 레위지파는 성전의 예배를 위해서 부름받은 사람들입니다. 그런데 그런 마태가 세리가 되어 세관에 앉아있는 것입니다. 우리가 알듯이 세리는 단순한 세금징수원이 아니라 부정으로 금전으로 취하여 당시 백성들의 원성을 받던 몰염치한 사람들이었습니다. 백성들을 하나님에게로 인도해야…

ルカの福音書 QT9 220118火【腐っていくもの、臥しているもの】ルカ 5章 12~26

ルカ 5章 12~265:12 さて、イエスがある町におられたとき、見よ、全身ツァラアトに冒された人がいた。その人はイエスを見ると、ひれ伏してお願いした。「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります。」5:13 イエスは手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。すると、すぐにツァラアトが消えた。5:14 イエスは彼にこう命じられた。「だれにも話してはいけない。ただ行って、自分を祭司に見せなさい。そして、人々への証しのため、モーセが命じたように、あなたのきよめのささげ物をしなさい。」5:15 しかし、イエスのうわさはますます広まり、大勢の群衆が話を聞くために、また病気を癒やしてもらうために集まって来た。5:16 だが、イエスご自身は寂しいところに退いて祈っておられた。5:17 ある日のこと、イエスが教えておられると、パリサイ人たちと律法の教師たちが、そこに座っていた。彼らはガリラヤとユダヤのすべての村やエルサレムから来ていた。イエスは主の御力によって、病気を治しておられた。5:18 すると見よ。男たちが、中風をわずらっている人を床に載せて運んで来た。そして家の中に運び込み、イエスの前に置こうとした。5:19 しかし、大勢の人のために病人を運び込む方法が見つからなかったので、屋上に上って瓦をはがし、そこから彼の寝床を、人々の真ん中、イエスの前につり降ろした。5:20 イエスは彼らの信仰を見て、「友よ、あなたの罪は赦された」と言われた。5:21 ところが、律法学者たち、パリサイ人たちはあれこれ考え始めた。「神への冒瀆を口にするこの人は、いったい何者だ。神おひとりのほかに、だれが罪を赦すことができるだろうか。」5:22 イエスは彼らがあれこれ考えているのを見抜いて言われた。「あなたがたは心の中で何を考えているのか。5:23 『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。5:24 しかし、人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために──。」そう言って、中風の人に言われた。「あなたに言う。起きなさい。寝床を担いで、家に帰りなさい。」5:25 すると彼はすぐに人々の前で立ち上がり、寝ていた床を担ぎ、神をあがめながら自分の家に帰って行った。5:26 人々はみな非常に驚き、神をあがめた。また、恐れに満たされて言った。「私たちは今日、驚くべきことを見た。」   イエス様は肉体の病気で社会的な欠乏を持つ者を回復させました。ツァラアトは肉が腐って、膿が出て、やがて骨まで食い込まれ、指と足指が切られ、最終的には手足まで落とすような怖い病気です。それなのに本人は神経が麻痺して無感覚です。人々はこの恐ろしい感染症の不正なものだと思い、社会から隔離し、差別しました。重度の場合は、その顔と体を見ることもできないほどむごたらしいです。腐って膿が流れますが、誰もそれに触れずに治療することもありません。   それが罪で腐っていく人の心です。人々はツァラアト病者のように心を隠して生きていきますが、その中にあるものは腐敗しています。ツァラアトの人のように無感覚になり、腐っていることを知らないだけです。イエス様は病気から癒してくださった後、「あなたの罪は赦された」と言われました。イエス様は、罪によって腐って崩れ落ちる心に直接手を触れてくださり、癒してくださいました。ツァラアトの人は、発症後、初めて自分の顔に誰かの手が触れたと思います。心が腐って犯罪し、断罪する人々の心にもイエス様の手が触れれば癒されるでしょう。   中風をわずらっている人は人々によって担架に乗せられてきました。自力では行動することもできないからです。ツァラアトの人の場合には、きよめられることをと願う本人の意志を確認し、その後13節の「わたしの心だ。きよくなれ」と言われ、イエス様の慈悲の心が彼を癒しましたが、中風病者を癒した決定的な動機は、20節の「彼らの信仰」です。「彼ら」とは、中風病者を連れてきて、屋上に上って瓦をはがし、そこから中風病者の寝床を、イエス様の前につり降ろした仲間です。   確かにイエス様の神的能力の中で治癒が起こりましたが、ツァラアト病者を憐れむとりなしの心と、中風病者を助けようとする仲間たちのとりなしが治癒を起こしました。そして、イエス様はそれを「罪の赦し」と言われました。「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。ヨハネ20:23」とりなしの祈りが罪を洗い、人の心を癒します。くちはてる心と臥して動けない人々のためのとりなしの祈りそれによるイエス様の癒しを祈ります。

누가복음 QT9 220118화【썩어가는 것과 누워있는 것】누가복음 5장 12~26

누가복음 5장 12~265:12 예수께서 한 동네에 계실 때에 온 몸에 문둥병 들린 사람이 있어 예수를 보고 엎드려 구하여 가로되 주여 원하시면 나를 깨끗케 하실 수 있나이다 하니5:13 예수께서 손을 내밀어 저에게 대시며 가라사대 내가 원하노니 깨끗함을 받으라 하신대 문둥병이 곧 떠나니라5:14 예수께서 저를 경계하시되 아무에게도 이르지 말고 가서 제사장에게 네 몸을 보이고 또 네 깨끗케…

ルカの福音書 QT8 220117月【深みに網を下ろしなさい】ルカ 5章 1~11

ルカ 5章 1~115:1 さて、群衆が神のことばを聞こうとしてイエスに押し迫って来たとき、イエスはゲネサレ湖の岸辺に立って、5:2 岸辺に小舟が二艘あるのをご覧になった。漁師たちは舟から降りて網を洗っていた。5:3 イエスはそのうちの一つ、シモンの舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして腰を下ろし、舟から群衆を教え始められた。5:4 話が終わるとシモンに言われた。「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。」5:5 すると、シモンが答えた。「先生。私たちは夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした。でも、おことばですので、網を下ろしてみましょう。」5:6 そして、そのとおりにすると、おびただしい数の魚が入り、網が破れそうになった。5:7 そこで別の舟にいた仲間の者たちに、助けに来てくれるよう合図した。彼らがやって来て、魚を二艘の舟いっぱいに引き上げたところ、両方とも沈みそうになった。5:8 これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して言った。「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから。」5:9 彼も、一緒にいた者たちもみな、自分たちが捕った魚のことで驚いたのであった。5:10 シモンの仲間の、ゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間を捕るようになるのです。」5:11 彼らは舟を陸に着けると、すべてを捨ててイエスに従った。   漁師だったペテロは夜間操業をしましたが、その日、一匹の魚も捕れませんでした。失敗です。ペテロは疲れた体と虚しい心で岸辺で網を洗っていました。イエス様はその虚しい朝に来られ、船を借り、それを講壇にして人々を教えた後、ペテロに「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。」と言われました。漁師の常識では、朝には魚がいなく、深いところにも魚がいません。しかも、夜間操業をして朝に網を洗ったのにお手入れした網を持って行ってもう一度水に投げるというのは無理な要求のように見えます。   しかし、ペテロを言います。「先生。私たちは夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした。でも、おことばですので、網を下ろしてみましょう。」一晩中一生懸命に魚を捕ろうとしましたが、失敗したペテロにイエス様は深いところに行き、網を降ろして捕りなさいと言われ、それは網の中で満船という現実になりました。   神様の「受肉」の話はクリスマスの馬小屋の話だけではありません。「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。ヨハネ1:1」と言われましたので、みことばが現実になるところはすなわち受肉の現場です。私たちが信じないのは、信仰と現実が異なるからです。しかし、信仰の中でみことばは現実となり、それを体験しなければ、みことばを信じることはできないのです。みことばを信じて網を下ろすことがないので、みことばが現実になることをを見ることも、経験することもできないのです。   ペテロはイエス様のみことばが現実になることを目撃し、それを身をもって体験しました。それがペテロの献身の原動力です。神様のみことばは信仰の中で現実になります。朝ごと、神様のみことばを読まなければならないのは、敬虔の形のためではありませんし、聖書の知識を加えるためでもありません。約束を探す宝探しです。神様のみことばが自分の現実とどのようなかかわるのかを探し続けることです。   私たちは魚に集中してしまいます。なかった魚があり、虚しかった人生に新たな期待と活力が与えられます。しかし、ペテロの反応は、罪の告白でした。「これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して言った。主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから。8」神様を体験した人は、自分が罪人であることを告白します。そして魚という成果にこだわりません。空船が満船になり、赤字が黒字になり、貧乏が富者になることより大切なのは、虚しい人生に現れた神様です。ペテロが捕ったのは、魚ではなく信仰でした。だから、ペテロは船も捨て、網も捨て、魚も捨ててその道でイエス様についていきます。「彼らは舟を陸に着けると、すべてを捨ててイエスに従った。11」  

누가복음 QT8 220117월【깊은데로 가서 그물을 내려 고기를 잡으라】누가복음 5장 1~11

누가복음 5장 1~115:1 무리가 옹위하여 하나님의 말씀을 들을새 예수는 게네사렛 호숫가에 서서5:2 호숫가에 두 배가 있는 것을 보시니 어부들은 배에서 나와서 그물을 씻는지라5:3 예수께서 한 배에 오르시니 그 배는 시몬의 배라 육지에서 조금 띄기를 청하시고 앉으사 배에서 무리를 가르치시더니5:4 말씀을 마치시고 시몬에게 이르시되 깊은데로 가서 그물을 내려 고기를 잡으라5:5 시몬이 대답하여 가로되 선생이여 우리들이 밤이…

ルカの福音書 QT7 220115土【みことばを聞いても】ルカ 4章 16~30

ルカ 4章 16~304:16 それからイエスはご自分が育ったナザレに行き、いつもしているとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとして立たれた。4:17 すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その巻物を開いて、こう書いてある箇所に目を留められた。4:18 「主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、目の見えない人には目の開かれることを告げ、虐げられている人を自由の身とし、4:19 主の恵みの年を告げるために。」4:20 イエスは巻物を巻き、係りの者に渡して座られた。会堂にいた皆の目はイエスに注がれていた。4:21 イエスは人々に向かって話し始められた。「あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました。」4:22 人々はみなイエスをほめ、その口から出て来る恵みのことばに驚いて、「この人はヨセフの子ではないか」と言った。4:23 そこでイエスは彼らに言われた。「きっとあなたがたは、『医者よ、自分を治せ』ということわざを引いて、『カペナウムで行われたと聞いていることを、あなたの郷里のここでもしてくれ』と言うでしょう。」4:24 そしてこう言われた。「まことに、あなたがたに言います。預言者はだれも、自分の郷里では歓迎されません。4:25 まことに、あなたがたに言います。エリヤの時代に、イスラエルに多くのやもめがいました。三年六か月の間、天が閉じられ、大飢饉が全地に起こったとき、4:26 そのやもめたちのだれのところにもエリヤは遣わされず、シドンのツァレファテにいた、一人のやもめの女にだけ遣わされました。4:27 また、預言者エリシャのときには、イスラエルにはツァラアトに冒された人が多くいましたが、その中のだれもきよめられることはなく、シリア人ナアマンだけがきよめられました。」4:28 これを聞くと、会堂にいた人たちはみな憤りに満たされ、4:29 立ち上がってイエスを町の外に追い出した。そして町が建っていた丘の崖の縁まで連れて行き、そこから突き落とそうとした。4:30 しかし、イエスは彼らのただ中を通り抜けて、去って行かれた。   イエス様は、故郷のナザレに帰られ,安息日に会堂で聖書を読まれました。安息日の会堂では、定められた本文が読みますが、イエス様に与えられたみ言葉は、イザヤ61章の18節19節でした。「主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、目の見えない人には目の開かれることを告げ、虐げられている人を自由の身とし、主の恵みの年を告げるために。18,19」   イエス様は、朗読の後にその本文を持って説教されましたが,22節に「人々はみなイエスをほめ、その口から出て来る恵みのことばに驚いて」とあります。説教の内容については記されていませんが、確かに彼らはイエス様の説教を聞ってその解釈の知恵に驚きました。イエス様は説教の後、「あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました。」と言われましたが、これはイザヤが預言したメシヤがご自身であることを宣言したものであります。それ以来、人々はイエス様の説教の恵みを忘れて彼が明らかに大工のヨセフの息子であることを思い出し、敵対的に変わります。   ここにイエス様はエリヤがシドンのやもめに会って彼女を救い、エリシャがアラムのナアマン将軍を癒したことを言われます。これは二人ともユダヤ人ではない異邦人だったからです。ユダヤという自尊心は信仰を妨げているからです。信仰という誇りが、信じないようにしているパラドックスです。ナザレ人はみことばをみことば通りに受け取らず、大工の息子という先入観と固定観念の中でイエス様を受け入れることをしませんでした。   「異邦人への恵み」という言葉でもう一度刺激されたナザレ人はイエス様を殺そうとしました。みことばを聞くときは、自分を空にしなければなりません。自分の考えを満たし、神様のみことばを聞いても聞こえません。アーメンということばは、自分の考えに神様が同意してくださるときに使う言葉ではなく、神様のみことばに私の考えを合わせるという意志の現われです。私たちが持つべき信仰の誇りは、謙遜で神様の恵みが聞こえる誇りではないでしょうか。