욥기 QT61 211228화【하나님이 할 수 없는 것】욥기 40장 6~24

욥기40장 6~2440:6 여호와께서 푹풍 가운데서 욥에게 말씀하여 가라사대40:7 너는 대장부처럼 허리를 묶고 내가 네게 묻는 것을 대답할지니라40:8 네가 내 심판을 폐하려느냐 스스로 의롭다 하려 하여 나를 불의 하다 하느냐40:9 네가 하나님처럼 팔이 있느냐 하나님처럼 우렁차게 울리는 소리를 내겠느냐40:10 너는 위엄과 존귀로 스스로 꾸미며 영광과 화미를 스스로 입을지니라40:11 너의 넘치는 노를 쏟아서 교만한 자를 발견하여 낱낱이…

ヨブ記 QT60 211227月【私はただ手を口に当てるばかりです】ヨブ記 40章 1~5

ヨブ記 40章 1~540:1 主はヨブに答えられた。40:2 非難する者が全能者と争おうとするのか。神を責める者は、それに答えよ。40:3 ヨブは主に答えた。40:4 ああ、私は取るに足りない者です。あなたに何と口答えできるでしょう。私はただ手を口に当てるばかりです。40:5 一度、私は語りました。もう答えません。二度、語りました。もう繰り返しません。   ヨブは悔しくて神様に言いたいことがたくさんありましたが、神様と対面してから状況が変わりました。神様はヨブに答えるように言われましたが、ヨブは答えることができません。ヨブが自分で「私は取るに足りない者」と言ったのですが、本気であると思います。なぜなら、今は友人たちやエリフと論争しているのではなく、神様に会っているからです。神様に会った人間は、自分がどれほど小さな存在なのかを知ります。ヨブは神様に完敗しているようですが、ヨブはむしろここから平安を得ているでしょう。人間はこの時に幸せになります。自分の大きさに失望したのではなく、神様の大きさの中に入ると幸せです。   だから、ヨブは口が閉じて何の答えもしません。「私はただ手を口に当てるばかりです」と言います。人間が神様の創造秩序の中で、時間と息を得て生きる存在であることに気づいたら、抗弁の言葉が消えるはずです。それは宗教的に人間を卑下して弱めるためではありません。哲学的にも正当です。神様が自然の構造について言われたのは、ヨブに人間の位置を知らせるためです。宇宙を見れば、自己中心的な質問と不満はなくなります。人間の位置を知ったら、神様が神様であるという事実は幸いで感謝です。もし宇宙が偶然なら、偶然に食われる人生はいかに憐れむ存在でしょうか?一年間、たくさん食べたので、今日からしばらく食物を切ります。一年間、たくさんしゃべったので、今日からしばらく口も閉じたいと思います。

욥기 QT60 211227월【손으로 내 입을 가릴 뿐입니다】욥기 40장 1~5

40장 1~540:1 여호와께서 또 욥에게 말씀하여 가라사대40:2 변박하는 자가 전능자와 다투겠느냐 하나님과 변론하는 자는 대답할지니라40:3 욥이 여호와께 대답하여 가로되40:4 나는 미천하오니 무엇이라 주께 대답하리이까 손으로 내 입을 가릴 뿐이로소이다40:5 내가 한두번 말하였사온즉 다시는 더하지도 아니하겠고 대답지도 아니하겠나이다   욥은 억울했고 하나님에게 할 말이 많았습니다. 하지만 하나님과 대면하고 보니 상황이 달라졌습니다. 하나님께서는 욥에게 대답하라고 말씀하셨지만 욥은…

ヨハネに福音書 QT 211225土【メリークリスマス】ヨハネ 1章 9~18

ヨハネ 1章 9~181:9 すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。1:10 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。1:11 この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。1:13 この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。1:15 ヨハネはこの方について証しして、こう叫んだ。「『私の後に来られる方は、私にまさる方です。私より先におられたからです』と私が言ったのは、この方のことです。」1:16 私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。1:17 律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。1:18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。   メリークリスマス。 御子イエス・キリストが私たちの間に来られることをお祝いします。クリスマスは神様のみことばが成就された出来事です。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。1:14」私たちにおいてみことばはどのようなものですか?神様のみことばと人間の信仰が出会うと、それは現実になります。みことばを握りしめる人は、必ずそれぞれの現実で、神様を見、奇跡を経験します。その機会は毎朝夕に与えられます。奇跡を追い求める神​​秘主義を警戒するのは、奇跡を自分のための魔術杖と思うからです。しかし、神様はいつも神秘です。神様が人になったのと、神様の独り子が罪人の代わりに死んでくださったという愛よりも驚くべき神秘はありません。   みことばが現実となり、キリストは救いの十字架を成し遂げました。しかし、2000年の歴史を通して神様が救いと成し遂げられたことよりも難しかったのは、人がその救いの事実を信じようとしなかったことです。私のために来て、私のために死んだ人がいましたが、人々はそれを信じていませんでした。今も信じようとしません。「すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。1:9‐11」出エジプトで蛇に噛まれた民たちは竿にあげられた青銅の蛇を眺めるだけで救われることができましたが、そんなことはないと思い、挙げ句の果てにそれを見上げず、死にました。人は、魂の救いのための神秘は拒絶し、肉体の欲を満たす奇跡だけを求めます。   「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。1:12」十字架で成された救いが自分のための出来事のなるのは、キリストの愛を信じる信仰によります。クリスマスを待ちながら歌った賛美、聞いた御言葉、ささげたお祈りが、現実になるための実行ボタンは信仰なのです。私たちの中にそのような信仰があり、そして幸せなクリスマスになることをお祈りします。

요한복음 QT 211225토【메리 크리스마스】요한복음 1장 9~18

요한복음 1장 9~18 1:9 참빛 곧 세상에 와서 각 사람에게 비취는 빛이 있었나니1:10 그가 세상에 계셨으며 세상은 그로 말미암아 지은바 되었으되 세상이 그를 알지 못하였고1:11 자기 땅에 오매 자기 백성이 영접지 아니하였으나1:12 영접하는 자 곧 그 이름을 믿는 자들에게는 하나님의 자녀가 되는 권세를 주셨으니1:13 이는 혈통으로나 육정으로나 사람의 뜻으로 나지 아니하고 오직 하나님께로서 난 자들이니라1:14…

イザヤ QT 211224金【海をおおう水のように】イザヤ 11章 1~9

イザヤ 11章 1~911:1 エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。11:2 その上に主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、思慮と力の霊、主を恐れる、知識の霊である。11:3 この方は主を恐れることを喜びとし、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、11:4 正義をもって弱い者をさばき、公正をもって地の貧しい者のために判決を下す。口のむちで地を打ち、唇の息で悪しき者を殺す。11:5 正義がその腰の帯となり、真実がその胴の帯となる。11:6 狼は子羊とともに宿り、豹は子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜がともにいて、小さな子どもがこれを追って行く。11:7 雌牛と熊は草をはみ、その子たちはともに伏し、獅子も牛のように藁を食う。11:8 乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子は、まむしの巣に手を伸ばす。11:9 わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、滅ぼさない。主を知ることが、海をおおう水のように地に満ちるからである。   イザヤは,メシアの到来と支配によって平和の国が実現することを預言しています。イザヤが預言した時代も、イエス・キリストがお生まれになった時代も、食って食われる国々の時代でした。強い者が弱い者を殴り付け、奪い取り、押し付ける時代でした。力がまるで神様のように振り舞っていました。ユダヤ人にとって地中海の世界を統治していたダビデは絶対的な誇りでした。ですから、イザヤの預言ではダビデの根元ではなく、エッサイの根株として到来すると言いました。韓国語では幹、枝と訳しています。そこから出てくる小さな新芽です。来るべきメシアは力によって押される王ではなく、平和の王として来られます。すなわちイエス・キリストです。   「狼は子羊とともに宿り、豹は子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜がともにいて、…乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子は、まむしの巣に手を伸ばす。」キリストは蛇と獅子のために来られたわけではありません。力をもって悪を行う不条理が消え、強者と弱者が平和に暮らすという、あくまでも比喩です。これは天国の寓話ではありません。「主を知ることが、海をおおう水のように地に満ちる」と語られたように、イザヤの預言はこの「地」で起こらなければならないことです。イエス・キリストを信じる人々がこの地上において、求め続け、実現しなければならない、神の国です。今日はクリスマス・イブです。海をおおう水のように主を知ること、つまり平和と尊重がこの地に満たされることを願います。

이사야 QT 211224금【물이 바다를 덮음 같이 】이사야 11장 1~9장

이사야 11장 1~9장 11:1 이새의 줄기에서 한 싹이 나며 그 뿌리에서 한 가지가 나서 결실할 것이요11:2 여호와의 신 곧 지혜와 총명의 신이요 모략과 재능의 신이요 지식과 여호와를 경외하는 신이 그 위에 강림하시리니11:3 그가 여호와를 경외함으로 즐거움을 삼을 것이며 그 눈에 보이는대로 심판치 아니하며 귀에 들리는 대로 판단치 아니하며11:4 공의로 빈핍한 자를 심판하며 정직으로 세상의 겸손한…

ヨブ記 QT59 211223木【世に中で神様探し】ヨブ記 38章 39~39章 4

ヨブ記 38章 39~39章 438:39 あなたは雌獅子のために獲物を狩り若い獅子の食欲を満たすことができるか。38:40 それらが洞穴に伏し、茂みの中で待ち伏せしているときに。38:41 烏に餌を備えるのはだれか。烏の子が神に向かって鳴き叫び、食物がなくてさまようときに。39:1 あなたは岩間の野やぎが子を産む時を知っているか。雌鹿が子を産むのを見守ったことがあるか。39:2 あなたはこれらがはらんでいる月を、数えることができるか。それらが子を産む時を知っているか。39:3 それらは身をかがめて子を産み落とし、その胎児を放り出す。39:4 その子たちは強くなり、野で大きくなる。すると出て行って、元のところには帰らない。   雌獅子とカラスは動物の世界でそれぞれ生存のために生きるだけですが、人間はそれらに対し、無慈悲な捕食者、汚れた鳥という意味を与えました。獅子は狩りに無慈悲で、カラスは腐った肉をかきさがします。そんな獅子とカラスが食べることがなくて困った時、神様はそれらのために食べものを備えると言われました。すなわち、神様は悪人の食物をも備えられ、賄われます。   神様は、今も神様に向かって指を指し、悪口を言う人々の食べ物を用意しておられます。これを通して神様が言われるのは、人間の正義というのは、実に自己中心的なものであるということではないでしょうか。神様はすべての生態系と秩序を造られ、それらの生存のために今も必要を与えてくださいます。すべてが神様のうちにあり、神様は憐れみと愛で満たされた方です。   野やぎと雌鹿が子を産みます。出生と死とは、まさしく神様の証明です。命を宿すというのは、神様の創造の神秘を表します。定まった時まで身ごもり、命を出産するためには必ず苦しみます。犠牲にせずに生まれる命はいません。子は大きくなり、親のそばから離れてきます、また、次にを引き継ぎ、自分も去ります。命と生きることは、そのようにしてつながります。世に存在している当然のことが神様の神秘であることに気づければ、そこで神様を発見することができます。

욥기 QT59 211223목【세상에서 하나님 찾기】욥기 38장 39~39장 4

욥기 38:39~39:438:39 네가 암사자를 위하여 식물을 사냥하겠느냐 젊은 사자의 식량을 채우겠느냐38:40 그것들이 굴에 엎드리며 삼림에 누워서 기다리는 때에니라38:41 까마귀 새끼가 하나님을 향하여 부르짖으며 먹을 것이 없어서 오락가락 할 때에 그것을 위하여 먹을 것을 예비하는 자가 누구냐39:1 산 염소가 새끼 치는 때를 네가 아느냐 암사슴의 새끼 낳을 기한을 네가 알 수 있느냐39:2 그것이 몇 달만에 만삭되는지…

ヨブ記 QT58 211222水【I don’t know】ヨブ記 38章 22~41

ヨブ記 38章 22~4138:22 あなたは雪の倉に入ったことがあるか。雹の倉を見たことがあるか。38:23 これらは、わたしがとどめているのだ。苦難の時のため、争いと戦の日のために。38:24 光が分かれる道はどこか。東風が地の上で分かれ広がる道は。38:25 だれが、大水のために水路を、稲光のために道を切り開き、38:26 人のいない地、人間のいない荒野に雨を降らせ、38:27 荒れ果てた廃墟の地を満ち足らせ、それに若草を生えさせるのか。38:28 雨に父があるのか。露のしずくはだれが生んだのか。38:29 氷はだれの胎から出て来たのか。空の白い霜はだれが生んだのか。38:30 水は姿を変えて石のようになり、深い淵の面は凍る。38:31 あなたはすばるの鎖を結ぶことができるか。オリオン座の綱を解くことができるか。38:32 あなたは十二宮をその時にかなって、引き出すことができるか。牡牛座をその子の星とともに導くことができるか。38:33 あなたは天の掟を知っているか。地にその法則を立てることができるか。38:34 あなたの声を密雲にまであげ、みなぎる水にあなたをおおわせることができるか。38:35 あなたは稲妻を向こうに行かせ、あなたに向かって「私たちはここです」と言わせることができるか。38:36 だれが、隠されたところに知恵を置いたのか。だれが、秘められたところに悟りを与えたのか。38:37 だれが知恵をもって、雨雲を数えることができるか。だれが天の水袋を傾けることができるか。38:38 土が溶け合って塊となり、土くれが硬く固まるときに。38:39 あなたは雌獅子のために獲物を狩り若い獅子の食欲を満たすことができるか。38:40 それらが洞穴に伏し、茂みの中で待ち伏せしているときに。38:41 烏に餌を備えるのはだれか。烏の子が神に向かって鳴き叫び、食物がなくてさまようときに。   神様の質問を聞いていれば、私たちが信頼する先端科学は再び原始宗教に戻らなければならないように思われます。科学を通して知っていると思っているすべてを置いておいて、人間の原始的な本来に戻り、創造主を認め、礼拝しなければなりません。それが正しく知っていることだからです。母親について最もよく知っていた時は、生まれたばかりの赤ちゃん時でした。その時は、母親の存在についてはっきりと知り、完全に頼っていたからです。   神様は人間の言語で尋ねられました。すべての質問は、人間が目で見ることができる現象についてです。ところが人間はそれを耳で聞いて目で見ても現象の原理について知ることができません。ですから、それを造られ、治める神様の知恵について、全的に知ることはできますか。最も先端に立つ物理学者たちは、科学が知っていないということを告白しています。   人間が勉強するのは分からないことを知るためです。「汝自身を知れ」という言葉は、「自分が知らないことを知れ」ということです。人間は空を見ながら美しさを感じることができますが、宇宙の秩序と構造を分解して解釈することはできません。ですから、科学と芸術と宗教が神様の指先にぶら下がって同じことをしているのです。   ヨブは自分の道徳性に自信がありましたが、神様の統治の知恵については知りませんでした。ヨブは信仰の集中力を持っていたわけですが、範囲は狭かったです。倫理的な形で信仰を証明することはできません。自分の敬虔と情熱と知識の中に神様を閉じ込めることはできないからです。私が持っている物差で神様の長さと深さと広さを測ることはできません。   神様を十分に知ったと思うとき、人間は倒れます。それが高慢だからです。神様の主権を認めるという表現は、実に悔い改めの表現です。世の中と人生を自分のものと勘違いして高慢になった人が告白する言葉です。人間が神様の主権を認めなくても、主権は依然として神様のものです。人間は被造物であり、人生という時間に置かれている存在であることを覚えなければなりません。それを認めることは人間にとって有益です。神様の時計は間違いなく流れ、一年の終末に向かっています。