누가복음 QT17 220127목【은혜를 사랑하는 사람】누가복음 7장 36~50

누가복음 7장 36~507:36 한 바리새인이 예수께 자기와 함께 잡수기를 청하니 이에 바리새인의 집에 들어가 앉으셨을 때에7:37 그 동네에 죄인인 한 여자가 있어 예수께서 바리새인의 집에 앉으셨음을 알고 향유 담은 옥합을 가지고와서7:38 예수의 뒤로 그 발 곁에 서서 울며 눈물로 그 발을 적시고 자기 머리털로 씻고 그 발에 입맞추고 향유를 부으니7:39 예수를 청한 바리새인이 이것을 보고…

ルカの福音書 QT16 22025水【救いの大きさ】ルカ 7章 18~35

ルカ 7章 18~35 7:18 さて、ヨハネの弟子たちは、これらのことをすべてヨハネに報告した。すると、ヨハネは弟子たちの中から二人の者を呼んで、 7:19 こう言づけて、主のもとに送り出した。「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、ほかの方を待つべきでしょうか。」 7:20 その人たちはみもとに来て言った。「私たちはバプテスマのヨハネから遣わされて、ここに参りました。『おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、ほかの方を待つべきでしょうか』と、ヨハネが申しております。」 7:21 ちょうどそのころ、イエスは病気や苦しみや悪霊に悩む多くの人たちを癒やし、また目の見えない多くの人たちを見えるようにしておられた。 7:22 イエスは彼らにこう答えられた。「あなたがたは行って、自分たちが見たり聞いたりしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられています。 7:23 だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」 7:24 ヨハネの使いが帰ってから、イエスはヨハネについて群衆に話し始められた。「あなたがたは、何を見に荒野に出て行ったのですか。風に揺れる葦ですか。 7:25 では、何を見に行ったのですか。柔らかな衣をまとった人ですか。ご覧なさい。きらびやかな服を着て、ぜいたくに暮らしている人たちなら宮殿にいます。 7:26 では、何を見に行ったのですか。預言者ですか。そのとおり。わたしはあなたがたに言います。預言者よりもすぐれた者をです。 7:27 この人こそ、『見よ、わたしはわたしの使いをあなたの前に遣わす。彼は、あなたの前にあなたの道を備える』と書かれているその人です。 7:28 わたしはあなたがたに言います。女から生まれた者の中で、ヨハネよりも偉大な者はだれもいません。しかし、神の国で一番小さい者でさえ、彼より偉大です。 7:29 ヨハネの教えを聞いた民はみな、取税人たちでさえ彼からバプテスマを受けて、神が正しいことを認めました。 7:30 ところが、パリサイ人たちや律法の専門家たちは、彼からバプテスマを受けず、自分たちに対する神のみこころを拒みました。 7:31 それでは、この時代の人々を何にたとえたらよいでしょうか。彼らは何に似ているでしょうか。 7:32 広場に座り、互いに呼びかけながら、こう言っている子どもたちに似ています。『笛を吹いてあげたのに、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってあげたのに、泣かなかった。』 7:33 バプテスマのヨハネが来て、パンも食べず、ぶどう酒も飲まずにいると、あなたがたは『あれは悪霊につかれている』と言い、 7:34 人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『見ろ、大食いの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ』と言います。 7:35 しかし、知恵が正しいことは、すべての知恵の子らが証明します。」 牢屋に閉じ込められたバプテスマのヨハネは自分の弟子たちを送り、イエス様がキリストであることを確認します。それはヨハネが待っているキリストとイエス様が一致していないと思ったからです。イエス様が革命を起こし、ヘロデを追い出すなら、ヨハネは釈放されます。しかし、イエス様はご自身が来るべきメシヤであることを言われますが、イザヤ35章を引用して癒すために来られたことを明らかにしてされます。病気や苦しみや悪霊に悩む多くの人のために、目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられるため、すなわち癒しと救いです。イエス様は政治的審判者として来られたのではなく、魂の救い主として来られました。イエス様はヨハネに失望してはならないという意味で「だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです 23」 と言われます。 ヨハネの弟子たちが帰った後、イエス様はマラキ3章1節を引用して、バプテスマのヨハネがキリストの道を準備するために来た人であることを明らかします。さらに28節の「女から生まれた者の中で、ヨハネよりも偉大な者はだれもいません」ヨハネよりも大きな者はいないと評価されます。ところで、ここで難しいのは、ヨハネのことで「神の国で一番小さい者でさえ、彼より偉大です。28」というみことばです。男性は子を産むことができません。「女から生まれた者」という表現は、すべての人類を言います。イエス様は、すべての人の中でヨハネが最も大きいと言いました。しかし神の国では、ヨハネが最も小さい者だと言います。なぜ、ヨハネの大きさは地上といわゆる天国で異なるのでしょうか。 バプテスマのヨハネはイエス様の道を備える使命者として来ましたが、不義な暴力によって命を失う人です。イエス様の十字架の事件はバプテスマのヨハネが死んだ後のことであって、ヨハネはイエス様の十字架、すなわち罪を贖う恵みを受けた人ではありません。ただし、その恵みを成し遂げるためにキリストが来られたとき、その道を開く人として来ました。ということで人としては他の人と比べられないほど大きいな者ですが、十字架の恵みで神の国に入ったことではありません。 わたしたちは誰でもバプテスマのヨハネのような義を持って天の国に入る人はいません。私たちの天国は、子羊のイエス・キリストの十字架の贖いのみで入ります。イエス・キリストが十字架から流された血で自分を罪を贖ったということを心に信じ、救われた者だけがその信仰によって天の国に入ります。その天国には、偉大なバプテスマのヨハネは十字架の恵みを持っていません。だから神の国では、イエス・キリストの名によって入ったすべての人々よりも、バプテスマのヨハネは小さい者です。私たちに臨んだ救いの大きさを黙想する一日になることを願います。

누가복음 QT16 220126수【구원의 크기】누가복음 7장 18~35

누가복음 7장 18~357:18 요한의 제자들이 이 모든 일을 그에게 고하니7:19 요한이 그 제자 중 둘을 불러 주께 보내어 가로되 오실 그이가 당신이오니이까 우리가 다른 이를 기다리오리이까 하라 하매7:20 저희가 예수께 나아가 가로되 세례 요한이 우리를 보내어 당신께 말하기를 오실 그이가 당신이오니이까 우리가 다른이를 기다리오리이까 하더이다 하니7:21 마침 그 시에 예수께서 질병과 고통과 및 악귀 들린…

ルカの福音書 QT14 22024月【不滅の遺伝子】ルカ 7章 11~17

ルカ 7章 11~177:11 それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちと大勢の群衆も一緒に行った。7:12 イエスが町の門に近づかれると、見よ、ある母親の一人息子が、死んで担ぎ出されるところであった。その母親はやもめで、その町の人々が大勢、彼女に付き添っていた。7:13 主はその母親を見て深くあわれみ、「泣かなくてもよい」と言われた。7:14 そして近寄って棺に触れられると、担いでいた人たちは立ち止まった。イエスは言われた。「若者よ、あなたに言う。起きなさい。」7:15 すると、その死人が起き上がって、ものを言い始めた。イエスは彼を母親に返された。7:16 人々はみな恐れを抱き、「偉大な預言者が私たちのうちに現れた」とか、「神がご自分の民を顧みてくださった」と言って、神をあがめた。7:17 イエスについてのこの話は、ユダヤ全土と周辺の地域一帯に広まった。   リチャード・ドキンスという英国の生物学者が書いた『利己的遺伝子(The Selfish Gene)』という本があります。科学書としてはまれに多くの人が読みました。19世紀半ば以降の知識人がカール・マルクス『共産党宣言』に熱狂したように、20世紀後半の科学主義の教育を受けた人々は、リチャード・ドキンスの「利己的遺伝子」という進化論に真理を与え、それに熱狂しました。私にはそれにに反論するほどの生物学的知識はありませんが、反論したくもありません。   なぜなら、進化を認めているからです。私たちが神様の創造を言うとき、それはある日、突然生じた奇跡的な創造ではありません。神様が秩序を整え、その秩序の上で創造された、または創造されていることをいいます。進化はその秩序の一つです。進化生物学は学術的大きいな発見だと思いますが、それも現象を観察したものであって、根源を究明したものではありません。世界の構造が科学的に明らかになればなるほど、神様の創造の秘密が私たちに啓示されることであります。   『利己的遺伝子』は、ドキンスの文学的表現であって、出版社がマーケティングのためにこれをタイトルとしましたが、もともとドキンスは「不滅の遺伝子(ImmortalGene)」をタイトルにしたかったのです。生物学では、人間が死ぬと微生物によって分解され、後に消えるのですが、進化の世界の中で遺伝子は消えないということです。科学は死んだら終わりだと言って来ましたが、もう一つの科学は不滅だと言っているのです。といえるなら、「魂」という言葉と「永遠の命」という言葉も科学と話し合いができるのではないでしょうか。「不滅」を発見した以上、「永遠」をも認めなければなりません。生物学的な死によって人間の存在が根本的に消滅するわけではありません。   今朝の祈りの説教は箴言27章25節でした。「草が刈り取られ、若草が現れ、山々の青草も集められると」 草を切ってからものびます。終わりのようで絶望のようですが、また命があります。人間は生物学的に確かに死にますが、それは終わりではありません。死んでも消滅しないまま、その日に創造主の神様に導かれて復活します。こういう意味で、私が持っている復活の信仰が、決して非科学的なものとは思っていません。   今日の本文で、イエス様はナインという町の未亡人の死んだ独りの子をよみがえられました。神様が死んだ人を再び生かす話が、疑いもなく、抵抗もなく信じられるのですから、信仰の人に与えられた信仰の遺伝子は不滅かと思います。科学的な思考をする人々はこれを説話と言い、人の作り話だと言います。死んだら終わらなければならないからです。というのは彼らにも信仰があるのです。人間は、死んだら間違いなく終わりだということを信じているのです。しかし、科学にしても宗教にしてもまだ確認されたことは何もありません。何を信じるのかが残っているだけです。

누가복음 QT15 220125화【불멸의 유전자】누가복음 7장 11~17

누가복음 7장 11~177:11 그 후에 예수께서 나인이란 성으로 가실새 제자와 허다한 무리가동행하더니7:12 성문에 가까이 오실 때에 사람들이 한 죽은 자를 메고 나오니 이는 그 어미의 독자요 어미는 과부라 그 성의 많은 사람도 그와 함께 나오거늘7:13 주께서 과부를 보시고 불쌍히 여기사 울지 말라 하시고7:14 가까이 오사 그 관에 손을 대시니 멘 자들이 서는지라 예수께서 가라사대 청년아…

ルカの福音書 QT14 22024月【御言葉を信じる信仰】ルカ 7章 1~10

ルカ 7章 1~107:1 イエスは、耳を傾けている人々にこれらのことばをすべて話し終えると、カペナウムに入られた。7:2 時に、ある百人隊長に重んじられていた一人のしもべが、病気で死にかけていた。7:3 百人隊長はイエスのことを聞き、みもとにユダヤ人の長老たちを送って、自分のしもべを助けに来てくださいとお願いした。7:4 イエスのもとに来たその人たちは、熱心にお願いして言った。「この人は、あなたにそうしていただく資格のある人です。7:5 私たちの国民を愛し、私たちのために自ら会堂を建ててくれました。」7:6 そこで、イエスは彼らと一緒に行かれた。ところが、百人隊長の家からあまり遠くないところまで来たとき、百人隊長は友人たちを使いに出して、イエスにこう伝えた。「主よ、わざわざ、ご足労くださるには及びません。あなた様を、私のような者の家の屋根の下にお入れする資格はありませんので。7:7 ですから、私自身があなた様のもとに伺うのも、ふさわしいとは思いませんでした。ただ、おことばを下さい。そうして私のしもべを癒やしてください。7:8 と申しますのは、私も権威の下に置かれている者だからです。私自身の下にも兵士たちがいて、その一人に『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをしろ』と言えば、そのようにします。」7:9 イエスはこれを聞いて驚き、振り向いて、ついて来ていた群衆に言われた。「あなたがたに言いますが、わたしはイスラエルのうちでも、これほどの信仰を見たことがありません。」7:10 使いに送られた人たちが家に戻ると、そのしもべは良くなっていた。   今日の本文は、イエス様が百人隊長のしもべを癒し、百人隊長の信仰を褒めるところです。百人隊長はイタリアからパレスチナに派遣されたローマ軍の将校です。植民地を支配する軍人であり、彼の言う通り、言葉言うだけで部下たちは動く権威ある人です。そんな彼が歩き回っていました。それは、死にかかっている自分のしもべを癒すためです。   イエス様が賞賛された百人隊長の信仰の中には、「人に対する尊重」もあるでしょう。しもべを生かしたのはイエス様ですが、イエス様は百人隊長の信仰を褒め、彼に功績を回しました。百人隊長としもべがどのような関係であり、どのような事情があるのか​​は分かりませんが、彼は支配者であり、軍人でしたが、人間の命を大切にする人間でした。それは確かに「褒められる信仰」です。   百人隊長はしもべのために走り回りましたが、イエス様の御言葉の前では止まります。百人隊長は、イエス様が自分の家までこれらることを恐縮と思いました。しかし、しもべを生かさなければならなかったので、イエス様に「おことばを下さい。そうして私のしもべを癒やしてください」とお願いします。自分も軍人ですから言葉でいえば、手下の人々が動くように、イエス様がみことばを下されば死にかかっているしもべは癒されますということです。イエス様は、イスラエルにこのような信仰を見たことがないと言われます。   神様が御言葉を下してもその結果を見る前には信じない人々がイスラエル人です。彼らは、奇跡のある所を探し回りますが、人のためには苦労しません。百人隊長は、人のためには歩き回り、みことばの前に止まりました。癒しの集会に集まる人、伝道と奉仕に熱心な人、敬虔に熱心な人は確かに信仰の人ですが、みことばの力を信じ、みことばの前にとどまる信仰が真の信仰です。   救いの御言葉、命の御言葉は、見て聞いて触れるような感覚に依存するものではありません。神様が御言葉を下さればそれが現実になるということを信じ、その御言葉に耳を傾けることが信仰です。百人隊長の信仰から二つの「尊重」 を学びます。「人に対する尊重」、「人を生かす神様の御言葉に対する尊重」 です。

누가복음 QT14 220124월【말씀을 믿는 믿음】누가복음 7장 1~10

누가복음 7장 1~107:1 예수께서 모든 말씀을 백성에게 들려 주시기를 마치신 후에 가버나움으로 들어가시니라7:2 어떤 백부장의 사랑하는 종이 병들어 죽게 되었더니7:3 예수의 소문을 듣고 유대인의 장로 몇을 보내어 오셔서 그 종을 구원 하시기를 청한지라7:4 이에 저희가 예수께 나아와 간절히 구하여 가로되 이 일을 하시는 것이 이 사람에게는 합당하니이다7:5 저가 우리 민족을 사랑하고 또한 우리를 위하여 회당을…

ルカの福音書 QT13 22022土【積極的な人間関係】ルカ 6章 27~38

ルカ 6章 27~386:27 しかし、これを聞いているあなたがたに、わたしは言います。あなたがたの敵を愛しなさい。あなたがたを憎む者たちに善を行いなさい。6:28 あなたがたを呪う者たちを祝福しなさい。あなたがたを侮辱する者たちのために祈りなさい。6:29 あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬も向けなさい。あなたの上着を奪い取る者には、下着も拒んではいけません。6:30 求める者には、だれにでも与えなさい。あなたのものを奪い取る者から、取り戻してはいけません。6:31 人からしてもらいたいと望むとおりに、人にしなさい。6:32 自分を愛してくれる者たちを愛したとしても、あなたがたにどんな恵みがあるでしょうか。罪人たちでも、自分を愛してくれる者たちを愛しています。6:33 自分に良いことをしてくれる者たちに良いことをしたとしても、あなたがたにどんな恵みがあるでしょうか。罪人たちでも同じことをしています。6:34 返してもらうつもりで人に貸したとしても、あなたがたにどんな恵みがあるでしょうか。罪人たちでも、同じだけ返してもらうつもりで、罪人たちに貸しています。6:35 しかし、あなたがたは自分の敵を愛しなさい。彼らに良くしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いは多く、あなたがたは、いと高き方の子どもになります。いと高き方は、恩知らずな者にも悪人にもあわれみ深いからです。6:36 あなたがたの父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くなりなさい。6:37 さばいてはいけません。そうすれば、あなたがたもさばかれません。人を不義に定めてはいけません。そうすれば、あなたがたも不義に定められません。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦されます。6:38 与えなさい。そうすれば、あなたがたも与えられます。詰め込んだり、揺すって入れたり、盛り上げたりして、気前良く量って懐に入れてもらえます。あなたがたが量るその秤で、あなたがたも量り返してもらえるからです。」   生きることは、自分の人生の中に入っている人々と関係することです。私たちは、遠くにいる未知の誰かと生きるのではなく、今、ここに与えられた人々と一緒に生きています。すべての人は、人生を通して少ない人々に出会い、彼らに仕え、彼らに仕えられながら生きます。私たちに与えられた縁ろいうのは、少数を愛する機会です。   ということで関係は常に重要です。私を知らない人は、私を憎まないし、私を呪うこともしないし、侮辱もしません。利害のため、感情のために葛藤を起こすこともありません。問題は、近くいる人、一緒に生きている人々との関係です。本文で言われる「人、罪人、敵」は、私の近くにいます。今、私と人間関係をしている人です。   彼らから逃げれば、人生から逃げることです。「あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬も向けなさい」とうのは、負けなさいという教えではありません。負けるようですが、それこそが、積極的な人間関係を通じて関係の危機に打ち勝つことです。「与えなさい。そうすれば、あなたがたも与えられます。詰め込んだり、揺すって入れたり、盛り上げたりして、気前良く量って懐に入れてもらえます。あなたがたが量るその秤で、あなたがたも量り返してもらえるからです。」先に仕える人が仕えられます。

누가복음 QT13 220122토【적극적 인간관계】누가복음 6장 27~38

누가복음 6장 27~386:27 그러나 너희 듣는 자에게 내가 이르노니 너희 원수를 사랑하며 너희를 미워하는 자를 선대하며6:28 너희를 저주하는 자를 위하여 축복하며 너희를 모욕하는 자를 위하여 기도하라6:29 네 이 뺨을 치는 자에게 저 뺨도 돌려 대며 네 겉옷을 빼앗는 자에게 속옷도 금하지 말라6:30 무릇 네게 구하는 자에게 주며 네 것을 가져가는 자에게 다시 달라하지 말며6:31 남에게…

ルカの福音書 QT12 22021金【山上八幸と平地四幸】ルカ 6章 12~26

ルカ 6章 12~266:12 そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。6:13 そして、夜が明けると弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び、彼らに使徒という名をお与えになった。6:14 すなわち、ペテロという名を与えられたシモンとその兄弟アンデレ、そしてヤコブ、ヨハネ、ピリポ、バルトロマイ、6:15 マタイ、トマス、アルパヨの子ヤコブ、熱心党員と呼ばれていたシモン、6:16 ヤコブの子ユダ、イスカリオテのユダで、このユダが裏切る者となった。6:17 それからイエスは彼らとともに山を下り、平らなところにお立ちになった。大勢の弟子たちの群れや、ユダヤ全土、エルサレム、ツロやシドンの海岸地方から来た、おびただしい数の人々がそこにいた。6:18 彼らはイエスの教えを聞くため、また病気を治してもらうために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人たちも癒やしてもらっていた。6:19 群衆はみな何とかしてイエスにさわろうとしていた。イエスから力が出て、すべての人を癒やしていたからである。6:20 イエスは目を上げて弟子たちを見つめながら、話し始められた。「貧しい人たちは幸いです。神の国はあなたがたのものだからです。6:21 今飢えている人たちは幸いです。あなたがたは満ち足りるようになるからです。今泣いている人たちは幸いです。あなたがたは笑うようになるからです。6:22 人々があなたがたを憎むとき、人の子のゆえに排除し、ののしり、あなたがたの名を悪しざまにけなすとき、あなたがたは幸いです。6:23 その日には躍り上がって喜びなさい。見なさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。彼らの先祖たちも、預言者たちに同じことをしたのです。6:24 しかし、富んでいるあなたがたは哀れです。あなたがたは慰めをすでに受けているからです。6:25 今満腹しているあなたがたは哀れです。あなたがたは飢えるようになるからです。今笑っているあなたがたは哀れです。あなたがたは泣き悲しむようになるからです。6:26 人々がみな、あなたがたをほめるとき、あなたがたは哀れです。彼らの先祖たちも、偽預言者たちに同じことをしたのです。   ルカは、イエス様の言行を直接見たり、聞いたりしてその場で記録したものではなく、資料を通して編集したものです。四つの福音書の中で、マルコの福音書が最初に書かれ、マタイの福音書とルカの福音書はマルコの福音書を参考にして書かれ、さらにルカの福音書は別のイエス様の記録であるいわゆる「Q文書」を参照して編集しました。ということで福音書の中でも同じ時間、同じ出来事としても、少しずつ違いがあったり、添削があるのです。マタイにはマタイの読者がおり、ルカにはルカの読者がいたからです。著者は彼らの認識の範囲の内で編集したと思います。その意図まで読み取ることができれば,福音書を読む楽しみはさらなるものです。   ルカの福音書 6章を読んでいると、半分の「八つの幸い」出てきます。ルカは,マタイの福音書 5章に出てくる山上の説教の「八つの幸い」の一部だけを紹介しているからです。面白いのは、ルカはそれを山ではなく平地だと紹介します。今日は、マタイの「山上の八つの幸い」と、ルカの「平地の四つの幸い」を比較してみたいと思います。順番にすると、マタイの八つの幸いの第一、第二、第四、第八の幸いが、ルカの福音書に紹介されています。   「6:20 イエスは目を上げて弟子たちを見つめながら、話し始められた。「貧しい人たちは幸いです。神の国はあなたがたのものだからです。(マタイの第1の幸い、マタイの福音書5:3、心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです)6:21 今飢えている人たちは幸いです。あなたがたは満ち足りるようになるからです。(マタイの第二の幸い、マタイの福音書第5:6、義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです)今泣いている人たちは幸いです。あなたがたは笑うようになるからです。(マタイの第四の幸い、マタイの福音書第5:4、悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです)6:22 人々があなたがたを憎むとき、人の子のゆえに排除し、ののしり、あなたがたの名を悪しざまにけなすとき、あなたがたは幸いです。(マタイの第八の幸い、マタイの福音書第5:10、義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです)」   それから、ルカが言及していない部分ですが、マタイの八つの幸いの中で三、五、六、七の幸いに当たります。「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。(マタイ5:5)」「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです(マタイ5:7)」「心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです(マタイ5:8)」「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。(マタイ5:9)」   ルカは、確かに八つの幸いの記録を閲覧したと思います。しかし、八つの幸いの全部を記録したことではありません。その理由については、つながる文脈を通して考えることができます。「しかし、富んでいるあなたがたは哀れです。あなたがたは慰めをすでに受けているからです。今満腹しているあなたがたは哀れです。あなたがたは飢えるようになるからです。今笑っているあなたがたは哀れです。あなたがたは泣き悲しむようになるからです。人々がみな、あなたがたをほめるとき、あなたがたは哀れです。彼らの先祖たちも、偽預言者たちに同じことをしたのです。6:24‐26」   八つの幸いの主語は、「貧しい者、悲しむ者、柔和な者、義を求める者、憐れむ者、清潔な者、平和の者、迫害される者」ですが、ルカは、その中で「貧しい者、悲しむ者、義を求める者、迫害される者」だけを紹介しました。これはつまり「弱者」です。これらの「弱者」は確かにルカの福音書に含まれています。彼らには神様の慰めという希望があるからです。しかし、八つの幸いを2つに分けるとしたら、片方には持っている人たちへの教えもいます。彼らに求められているのは、柔和、憐れみ、清潔、平和です。ところがルカの平地の四つの幸いにはありません。   ルカの平地の四つの幸いは、祝福を受けるための教えではなく、災いを免れるための教えだからです。イエス様は当時の既得権者に対する怒りでこれらを言われました。ルカはその状況を充実に編集したのです。今ここには貧しい人々がおり、泣いている人々がおり、差別のない公平を求めている人がいます。   持っている人々に対する厳しい警告です。柔和と憐れみ、聖潔と平和のない既得権者に対する災いの宣言です。彼らの富と楽しみは、貧しい人々が差別され、泣いている事の上に与えられているものです。だからでしょうか。マタイの福音書では、八つの幸いの話が終わると、「世の光と塩」について語られます。欲では満足することができません。わたしたちの時代と隣人の貧しさと悲しみに対する柔和、憐れみ、清潔と平和の心がある時、慰められる、満ち足らせ、天の御国が自分のものになるのです。