누가복음 QT7 220115토【말씀을 들어도】누가복음 4장 16~30

누가복음 4장 16~304:16 예수께서 그 자라나신 곳 나사렛에 이르사 안식일에 자기 규례대로 회당에 들어가사 성경을 읽으려고 서시매4:17 선지자 이사야의 글을 드리거늘 책을 펴서 이렇게 기록한 데를 찾으시니 곧4:18 주의 성령이 내게 임하셨으니 이는 가난한 자에게 복음을 전하게 하시려고 내게 기름을 부으시고 나를 보내사 포로된 자에게 자유를 눈먼 자에게 다시 보게 함을 전파하며 눌린 자를 자유케…

ルカの福音書 QT6 220114金【荒野の試み】ルカ 4章 1~15

ルカ 4章 1~154:1 さて、イエスは聖霊に満ちてヨルダンから帰られた。そして御霊によって荒野に導かれ、4:2 四十日間、悪魔の試みを受けられた。その間イエスは何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。4:3 そこで、悪魔はイエスに言った。「あなたが神の子なら、この石に、パンになるように命じなさい。」4:4 イエスは悪魔に答えられた。「『人はパンだけで生きるのではない』と書いてある。」4:5 すると悪魔はイエスを高いところに連れて行き、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せて、4:6 こう言った。「このような、国々の権力と栄光をすべてあなたにあげよう。それは私に任されていて、だれでも私が望む人にあげるのだから。4:7 だから、もしあなたが私の前にひれ伏すなら、すべてがあなたのものとなる。」4:8 イエスは悪魔に答えられた。「『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」4:9 また、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、こう言った。「あなたが神の子なら、ここから下に身を投げなさい。4:10 『神は、あなたのために御使いたちに命じて、あなたを守られる。4:11 彼らは、その両手にあなたをのせ、あなたの足が石に打ち当たらないようにする』と書いてあるから。」4:12 するとイエスは答えられた。「『あなたの神である主を試みてはならない』と言われている。」4:13 悪魔はあらゆる試みを終えると、しばらくの間イエスから離れた。4:14 イエスは御霊の力を帯びてガリラヤに帰られた。すると、その評判が周辺一帯に広まった。4:15 イエスは彼らの会堂で教え、すべての人に称賛された。   イエス様はバプテスマを受けた後、聖霊に導かれ、40日間荒野で断食され、その後、悪魔に試みを受けました。イエス様が悪魔に試みを受けるなんて不思議に思いますが、イエス様は完全な人間だからです。断食すると空腹を覚えるし、荒野では不安で安全を求める存在です。   最初の試みは、石をパンにすることです。40日断食したイエス様は大変空腹を覚えています。悪しきものはその弱いところを突いて入ってきます。誰においても経済的な価値は大切です。それを超えて絶対的なものになっています。高い精神と良心を持っている人も、現実的なパンの誘惑に勝てずに倒れることがあります。イエス様は「人はパンだけで生きるのではない」と言われましたが、それは申命記 8章 3節の引用です。パンは常に必要ですが、パンだけで生きることではありません。お金そのものではなく、そのお金を使っても追い求めなければならない価値というのがあります。   ある時代の教会では、神様を信じれば、石がパンになり、金持ちになると言っていましたが、神様を信じる人の中では、金持ちになる人がいれば、そうではない人もいます。それが信仰の目的でも基準でもありません。聖徒の答えも、イエス様が引用した申命記 8章 3節です。「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の御口から出るすべてのことばで生きるということを、あなたに分からせるためであった。」   第二の試みは、世界のすべての国々の権力と栄光を与えるという誘惑です。そのために悪魔にひれ伏さなければなりません。権力と名誉は経済力に劣らずに人間を誘惑します。権威と栄光というもの確かにあってそれが反聖書的なものでもありません。それを与える方は神様です。これに対してイエス様は答えられます。「あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい。8」これは申命記 6章 13節です。 「あなたの神、主を恐れ、主に仕えなさい。また御名によって誓いなさい。」   最後の試みは、高い所から飛び降りることです。悪魔はそれでも傷つかないからと言っています。現象的な神秘のみで神様を体験したいと願う人は、理性や常識も働きません。神様を試してはなりません。イエス様はこのような非知性的な神秘主義の誘惑について「あなたの神である主を試みてはならない」と言われました。これも 申命記 6章 16節の引用です。悪魔の試みに対するイエス様の答えはみなみことばでした。イエス様はみことばで状況を解釈し、そのみことばで悪魔に対抗し、勝ちます。悪魔が人間を惑わすことから勝てる力は、神様のみことばを時宜にかなって、適確に解釈することです。

누가복음 QT6 220114금【광야에서 받은 시험】누가복음 4장 1~15

누가복음 4장 1~154:1 예수께서 성령의 충만함을 입어 요단강에서 돌아오사 광야에서 사십일 동안 성령에게 이끌리시며4:2 마귀에게 시험을 받으시더라 이 모든 날에 아무 것도 잡수시지 아니하시니 날 수가 다하매 주리신지라4:3 마귀가 가로되 네가 만일 하나님의 아들이어든 이 돌들에게 명하여 떡덩이가 되게 하라4:4 예수께서 대답하시되 기록하기를 사람이 떡으로만 살 것이 아니라 하였느니라4:5 마귀가 또 예수를 이끌고 올라가서 순식간에…

ルカの福音書 QT5 220113木【洗礼を受けたイエス・キリスト】ルカ 3章 21~38

ルカ 3章 21~383:21 さて、民がみなバプテスマを受けていたころ、イエスもバプテスマを受けられた。そして祈っておられると、天が開け、3:22 聖霊が鳩のような形をして、イエスの上に降って来られた。すると、天から声がした。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」3:23 イエスは、働きを始められたとき、およそ三十歳で、ヨセフの子と考えられていた。ヨセフはエリの子で、さかのぼると、3:24 マタテ、レビ、メルキ、ヤンナイ、ヨセフ、3:25 マタティア、アモス、ナホム、エスリ、ナガイ、3:26 マハテ、マタティア、シメイ、ヨセク、ヨダ、3:27 ヨハナン、レサ、ゼルバベル、シェアルティエル、ネリ、3:28 メルキ、アディ、コサム、エルマダム、エル、3:29 ヨシュア、エリエゼル、ヨリム、マタテ、レビ、3:30 シメオン、ユダ、ヨセフ、ヨナム、エルヤキム、3:31 メレア、メンナ、マタタ、ナタン、ダビデ、3:32 エッサイ、オベデ、ボアズ、サラ、ナフション、3:33 アミナダブ、アデミン、アルニ、ヘツロン、ペレツ、ユダ、3:34 ヤコブ、イサク、アブラハム、テラ、ナホル、3:35 セルグ、レウ、ペレグ、エベル、シェラ、3:36 ケナン、アルパクシャデ、セム、ノア、レメク、3:37 メトシェラ、エノク、ヤレデ、マハラルエル、ケナン、3:38 エノシュ、セツ、アダム、そして神に至る。   イエス様がヨハネに洗礼を受けた出来事について四福音書が共通に記述していますが、少しずつその視点は異なります。ヨハネの福音書は神様であるイエス・キリストを証してので、神様の霊がイエス・キリストに臨む場面を通してイエス様が神様の子であることを強調しています。マタイは、ユダヤの王として来られたイエス・キリストを語ろうとしているので、ヨハネがイエス様に洗礼を授けることを躊躇している様子を加えています。神様の御子であるイエス様が人間ヨハネから洗礼を受けたのは、完全な人間として来られたことでありますし、イエス様が、「今はそうさせてほしい。このようにして正しいことをすべて実現することが、わたしたちにはふさわしいのです。」と言われたのは、ご自身の民を救うためのキリストの謙遜を言っているのです。   ということで、続くルカの福音書のイエス・キリストの家系図は、マタイが記録した王家の系図とは異なり、人間の系図です。だからといって、二つの系譜の事実関係が違うわけではありません。ただ、マタイは王家の系譜に集中し、ルカは人間イエスに集中しています。マタイの福音書がユダヤ人の誇りのためにアブラハムまでさかのぼれば、ルカの福音書は異邦人、すなわち非ユダヤ人のために神様にまでさかのぼります。ルカが読者に設定している異邦人、つまりすべての人々にとっても、神様はキリストの福音を通して救いを予定しておられるからです。民族と国籍と宗教にかかわらず、神様はすべての人々の創造主であり、彼らを救う神様であるからです。   「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。ローマ 6:4」パウロは洗礼を受けるときに体が水の中に入るのを死ぬことと描写しました。洗礼を受けてキリストと結びついたのは、罪に対して死んだという意味です。それを悟った聖徒が外的に公表するのが洗礼です。イエス様において洗礼と十字架は最終目的ではありません。それは謙虚です。能力は復活です。復活と永遠の命が最終目的です。洗礼を受け、罪に対して死ぬことについて告白できれば、やがてくるその日に義の復活に参加します。

누가복음 QT5 220113목【세례받으신 예수님】누가복음 3장 21~38

누가복음 3장 21~383:21 백성이 다 세례를 받을쌔 예수도 세례를 받으시고 기도하실 때에 하늘이 열리며3:22 성령이 형체로 비둘기 같이 그의 위에 강림하시더니 하늘로서 소리가 나기를 너는 내 사랑하는 아들이라 내가 너를 기뻐하노라 하시니라3:23 예수께서 가르치심을 시작할 때에 삼심세쯤 되시니라 사람들의 아는대로는 요셉의 아들이니 요셉의 이상은 헬리요3:24 그 이상은 맛닷이요 그 이상은 레위요 그 이상은 멜기요 그…

ルカの福音書 QT4 220112水【まむしの子】ルカ 3章 7~20

ルカ 3章 7~203:7 ヨハネは、彼からバプテスマを受けようとして出て来た群衆に言った。「まむしの子孫たち。だれが、迫り来る怒りを逃れるようにと教えたのか。3:8 それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。『われわれの父はアブラハムだ』という考えを起こしてはいけません。言っておきますが、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子らを起こすことができるのです。3:9 斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木はすべて切り倒されて、火に投げ込まれます。」3:10 群衆はヨハネに尋ねた。「それでは、私たちはどうすればよいのでしょうか。」3:11 ヨハネは答えた。「下着を二枚持っている人は、持っていない人に分けてあげなさい。食べ物を持っている人も同じようにしなさい。」3:12 取税人たちもバプテスマを受けにやって来て、ヨハネに言った。「先生、私たちはどうすればよいのでしょうか。」3:13 ヨハネは彼らに言った。「決められた以上には、何も取り立ててはいけません。」3:14 兵士たちもヨハネに尋ねた。「この私たちはどうすればよいのでしょうか。」ヨハネは言った。「だれからも、金を力ずくで奪ったり脅し取ったりしてはいけません。自分の給料で満足しなさい。」3:15 人々はキリストを待ち望んでいたので、みなヨハネのことを、もしかするとこの方がキリストではないか、と心の中で考えていた。3:16 そこでヨハネは皆に向かって言った。「私は水であなたがたにバプテスマを授けています。しかし、私よりも力のある方が来られます。私はその方の履き物のひもを解く資格もありません。その方は聖霊と火で、あなたがたにバプテスマを授けられます。3:17 また手に箕を持って、ご自分の脱穀場を隅々まで掃ききよめ、麦を集めて倉に納められます。そして、殻を消えない火で焼き尽くされます。」3:18 このようにヨハネは、ほかにも多くのことを勧めながら、人々に福音を伝えた。3:19 しかし領主ヘロデは、兄弟の妻ヘロディアのことと、自分が行った悪事のすべてをヨハネに非難されたので、3:20 すべての悪事にもう一つ悪事を加え、ヨハネを牢に閉じ込めた。   ヨハネはバプテスマを受けようとして出て来た人たちに,「まむしの子孫たち」という厳しいことを言いました。彼らは神様のみ怒りを避けることができないとし、ただ、そのみ怒りを避けるためには「悔い改めにふさわしい実」を結ばなければならないと言いました。ユダヤ人にとって、アブラハムの子孫であることはすなわちアイデンティティであり、誇りです。彼らは、自ら敬虔なユダヤ人だと思っており、アブラハムの子孫であり、救われた民であると固く信じているいわゆる「選民意識」の人々です。   それなのにヨハネは彼らにアブラハムが自分たちの先祖であると思ってはいけないと言ったのは、所属や伝統、慣習や誇りで信仰を証明することはできないからです。信仰のアイデンティティは、ユダヤ人と非ユダヤ人、キリスト教と非キリスト教を分け、相対を非難しながら証明するものではなく、自身が信じていることが何であるかを確かめ、自身がそれを実践し、実現することで証明できるものです。   ヨハネの答えはこうです。持っている人は持ってない人に自分の所有を分け与えること、収税人たちには税金を不正に過大徴収しないこと、軍人たちは公権力をむやみに使わないこと、公務員らしく月給以外に他の利益を取らないことでした。金持ちと収税人と軍人に対する「悔い改めにふさわしい実」は、貧しくて力のない弱者とともに生きていくという社会的な配慮に対する要求です。   多くのクリスチャンは救われたという確信を持って教会と世に区別の線を引きますが、牧師や長老、執事などの所属と職分で信仰を証明することはできません。そのようなタイトルが世の中を歩き回り、教会の権威と信用を失わせています。金持ちは金持ちだと言わなくても金持ちであり、救われた聖徒は救われたと言わなくても聖徒です。   教会の中には「実践的無神論者(practicalatheists)」がたくさんいます。口では信仰を言いますが、生き方では神様を否定します。他人には信仰を求めますが、自分は利益の前で信仰がなくします。彼らは教会の中に入っていますが、その中に神様のみことばはなく、欲望に満ちて、隣人のための余白はありません。むしろそれらを用ようとします。金持ちと収税人と軍人は、誰かを貧しくすることによって自分を満たすからです。私たちが実践的なクリスチャンであることを自ら証明するためには、バプテスマのヨハネの「まむしの子」という恐い凝らめを重く聞かなければなりません。

누가복음 QT4 220112수【독사의 자식들아】누가복음 3장 7~20

누가복음 3장 7~203:7 요한이 세례 받으러 나오는 무리에게 이르되 독사의 자식들아 누가 너희를 가르쳐 장차 올 진노를 피하라 하더냐3:8 그러므로 회개에 합당한 열매를 맺고 속으로 아브라함이 우리 조상이라 말하지 말라 내가 너희에게 이르노니 하나님이 능히 이 돌들로도 아브라함의 자손이 되게 하시리라3:9 이미 도끼가 나무 뿌리에 놓였으니 좋은 열매 맺지 아니하는 나무마다 찍혀 불에 던지우리라3:10 무리가…

ルカの福音書 QT3 220111火【荒野で叫ぶ者の声】ルカ 3章 1~6

ルカ 3章 1~63:1 皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督であり、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟ピリポがイトラヤとトラコニテ地方の領主、リサニアがアビレネの領主、3:2 アンナスとカヤパが大祭司であったころ、神のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに臨んだ。3:3 ヨハネはヨルダン川周辺のすべての地域に行って、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。3:4 これは、預言者イザヤのことばの書に書いてあるとおりである。「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ。3:5 すべての谷は埋められ、すべての山や丘は低くなる。曲がったところはまっすぐになり、険しい道は平らになる。3:6 こうして、すべての者が神の救いを見る。』」 イエス様の家族がベツレヘムに行き、イエス様がそこで生まれたのは、ユダヤを支配していたローマ皇帝アウグストゥスが戸籍登録を命じたからです。その時の皇帝がアウグストゥスで、ギリシャ語ではオクタビアヌスです。今日の本文で登場するローマの皇帝は、アウグストゥスの後に続いてティベリウスです。   ルカ 3章 1~63:1 皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督であり、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟ピリポがイトラヤとトラコニテ地方の領主、リサニアがアビレネの領主、3:2 アンナスとカヤパが大祭司であったころ、神のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに臨んだ。3:3 ヨハネはヨルダン川周辺のすべての地域に行って、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。3:4 これは、預言者イザヤのことばの書に書いてあるとおりである。「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ。3:5 すべての谷は埋められ、すべての山や丘は低くなる。曲がったところはまっすぐになり、険しい道は平らになる。3:6 こうして、すべての者が神の救いを見る。』」   イエス様がベツレヘムでお生まれになったのは、ユダヤを支配していたローマ皇帝が戸籍登録を命じたことを受け、ヨセフが故郷ベツレヘムに帰ったからです。その時の皇帝がアウグストゥス、ギリシャ語ではオクタビアヌスです。今日の本文に登場するローマの皇帝は、このアウグストゥスの後に就いたティベリウスです。   アドベントの説教で新旧約中期の歴史について言及したことがありますが、マカビ以降ユダヤは内部政権争いで再び外勢をパレスチナに呼び込むことになり、当時盟主であるローマがユダヤを支配するようになりました。その過程で,エドムのヘロデがユダヤの支配権を受け,ユダヤはローマ皇帝とエドムのヘロデ王の二重支配体制の下に置かれます。   イエス様が生まれた当時、アウグストゥス、すなわちオクタビアヌスが皇帝であり、ユダヤを支配していた王は、エドムのヘロデ大王でしたが、今日の本文は時間が経過し、アウグストゥスの息子のティベリウスが皇帝になり、ヘロデ大王の息子たちが領土を分けて支配していた時です。   ローマはヘロデをユダヤの王に任命すると同時に、中央政府からも総督を派遣しました。その総督がポンティオ・ピラトです。総督とユダヤ王は上下関係に置かれず、互いに牽制しながら尊重する関係でした。イエス様の裁判の時、ヘロデはポンティオ・ピラト総督のもとに、一方のポンティオ・ピラトもヘロデ王のもとに、イエスの一連の事件を送検しようとしました。つまり一貫した体制が整っていなかったのです。   ローマ政府とヘロデ王は、ユダヤの宗教を部分的に認めていました。アンナスとカヤパが大祭司でしたが、大祭司はローマ総督が任命し、また解任することができました。アンナスとカヤバは支配権力に寄生していた宗教権力でした。彼らは丈人と婿関係で、丈人のアンナスと婿のガヤバが宗教権力を分けて握っていた時です。   ルカがこのような政治的、宗教的な時代の状況を紹介した後、バプテスマのヨハネを語るのは、すべてが不義に満ちた世界のただ中に来られるイエス・キリストを語るためです。そして、その道を備えるバプテスマのヨハネをイザヤの預言を通して語ります。   3:4 …「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ。3:5 すべての谷は埋められ、すべての山や丘は低くなる。曲がったところはまっすぐになり、険しい道は平らになる。3:6 こうして、すべての者が神の救いを見る。』」 あらゆる領域で暴力と抑圧があり、不正と不公平があったからです。世界の権力者たちは、まるでイエス様の衣を破って分けたローマ軍兵のように、か弱いユダを破って分けていました。   その時、ヨハネが登場します。ヨハネは、罪の赦しに導く悔い改めを叫びますが、それは高いところを削り、低いところを埋めるということでした。曲がったことをまっすぐにし、険しい道を平坦にするのです。   私たちがこの地で主を待ち望むというのは、不正に高められた山を切土(Cutting)し、それを低い所を埋める盛土(Banking)であります。それで地は平坦化します。それがイエス様が来る道を備えたヨハネの罪の赦しに導く悔い改めの宣べ伝えです。イエス様を待ち望む人は、自分の人生と生きているこの時代において、切土と盛土が何なのかを考えなければなりません。

누가복음 QT3 220111화【광야에 외치는 자의 소리】누가복음 3장 1~6

누가복음 3장 1~63:1 디베료 가이사가 위에 있은지 열 다섯 해 곧 본디오 빌라도가 유대의 총독으로, 헤롯이 갈릴리의 분봉왕으로, 그 동생 빌립이 이두래와 드라고닛 지방의 분봉왕으로, 루사니아가 아빌레네의 분봉왕으로,3:2 안나스와 가야바가 대제사장으로 있을 때에 하나님의 말씀이 빈 들에서 사가랴의 아들 요한에게 임한지라3:3 요한이 요단강 부근 각처에 와서 죄 사함을 얻게 하는 회개의 세례를 전파하니3:4 선지자 이사야의…

ルカの福音書 QT2 220110月【少年イエス】ルカ 2章 41~52

ルカの福音書 QT2 220110月【少年イエス】ルカ 2章 41~52 ルカ 2章 41~522:41 さて、イエスの両親は、過越の祭りに毎年エルサレムに行っていた。2:42 イエスが十二歳になられたときも、両親は祭りの慣習にしたがって都へ上った。2:43 そして祭りの期間を過ごしてから帰路についたが、少年イエスはエルサレムにとどまっておられた。両親はそれに気づかずに、2:44 イエスが一行の中にいるものと思って、一日の道のりを進んだ。後になって親族や知人の中を捜し回ったが、2:45 見つからなかったので、イエスを捜しながらエルサレムまで引き返した。2:46 そして三日後になって、イエスが宮で教師たちの真ん中に座って、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。2:47 聞いていた人たちはみな、イエスの知恵と答えに驚いていた。2:48 両親は彼を見て驚き、母は言った。「どうしてこんなことをしたのですか。見なさい。お父さんも私も、心配してあなたを捜していたのです。」2:49 すると、イエスは両親に言われた。「どうしてわたしを捜されたのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存じなかったのですか。」2:50 しかし両親には、イエスの語られたことばが理解できなかった。2:51 それからイエスは一緒に下って行き、ナザレに帰って両親に仕えられた。母はこれらのことをみな、心に留めておいた。2:52 イエスは神と人とにいつくしまれ、知恵が増し加わり、背たけも伸びていった。   人として来られたイエス様に焦点を当てているルカの福音書は、四つの福音書の中で唯一少年時代のイエスの話しを紹介しています。過越祭になると、すべてのユダヤ人はエルサレム神殿に登りました。今でも過越祭になると、世界中のユダヤ人はエルサレムに向かいます。イエス様の家族も過越祭を迎えてエルサレムに上りました。 12歳の少年イエスは初めてエルサレムを訪れたと思います。   ヨセフとマリアの夫婦はその12年前、ベツレヘムに戸籍を登録するために行ったとき、泊まる場所がなく、馬小屋で赤ん坊のイエスを産みましたが、12年後の過越祭のエルサレムでは、少年イエスを迷子にさせてしまいます。子どもがいなくなったことに気づいた両親はびっくり仰天してエルサレムに戻り、三日後に到着したエルサレム神殿で律法学者たちと話し合っている少年イエスを見つけました。律法教師たちは少年イエスの知恵に驚いていました。   しかし、52節を見ると、これが神的な力ではないことがわかります。「イエスは神と人とにいつくしまれ、知恵が増し加わり、背たけも伸びていった。52」そしてその後も成長していきます。イエス様は神性の力をお使いになったのではなく、人間として成長されました。成長しながら大人になり、知恵を学び、それで神様と人に愛されたということです。   イエス様が律法の教師たちと議論したように思われますがが、46節に見ると「話を聞いたり質問したりして」と言いました。教えたり主張したした議論ではなく、先生の言葉をきちんと聞いてそれについて質問したのです。ちゃんと学ぶなら、良い質問が出てきます。イエス様は間違いなく家庭とナザレの信仰共同体で聖書を学んでいたでしょう。   ルカは49節で「どうしてわたしを捜されたのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存じなかったのですか。」という言葉でイエス様の正体をわずかに表わしていますが、全体的には成長している人間イエス、少年イエスに焦点を当てています。それは2章が仕上げられるのを見るとわかります。「イエスは神と人とにいつくしまれ、知恵が増し加わり、背たけも伸びていった。2:51」   聖書を知っていた少年イエス、つまり神様を学んでいたイエス様は、両親に従い、さらに成長していきました。注目すべきことは、イエス様の神性ではなく、イエス様がみことばを学び、みことばに聞き従って生きたということです。エルサレム神殿での知恵とナザレで両親に従ったことは別ものではありません。神様のみことばを知り、それに聞き従ったからです。