열왕기하 묵상 【수넴 여인】 20240626(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

열왕기하 4:8~174:8 하루는 엘리사가 수넴에 이르렀더니 거기 한 귀한 여인이 저를 간권하여 음식을 먹게 한고로 엘리사가 그곳을 지날 때마다 음식을 먹으러 그리로 들어갔더라4:9 여인이 그 남편에게 이르되 항상 우리에게로 지나는 이 사람은 하나님의 거룩한 사람인 줄을 내가 아노니4:10 우리가 저를 위하여 작은 방을 담 위에 짓고 침상과 책상과 의자와 촛대를 진설하사이다 저가 우리에게 이르면 거기…

Ⅱ列王記 黙想 【油の壺一つと空の器】 20240625(火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

Ⅱ列王記 4:1~74:1 預言者の仲間の妻の一人がエリシャに叫んで言った。「あなたのしもべである私の夫が死にました。ご存じのように、あなたのしもべは主を恐れていました。ところが、債権者が来て、私の二人の子どもを自分の奴隷にしようとしています。」4:2 エリシャは彼女に言った。「何をしてあげようか。私に話しなさい。あなたには、家の中に何があるのか。」彼女は答えた。「はしためには、家の中に何もありません。ただ、油の壺一つしかありません。」4:3 すると、彼は言った。「外に行って、近所の皆から、器を借りて来なさい。空の器を。それも、一つや二つではいけません。4:4 家に入ったら、あなたと子どもたちの背後の戸を閉めなさい。そしてすべての器に油を注ぎ入れなさい。いっぱいになったものは、わきに置きなさい。」4:5 そこで、彼女は彼のもとから去って行き、彼女と子どもたちが入った背後の戸を閉めた。そして、子どもたちが次々と自分のところに持って来る器に油を注ぎ入れた。4:6 器がどれもいっぱいになったので、彼女は子どもの一人に言った。「もっと器を持って来なさい。」その子どもが彼女に、「もう器はありません」と言うと、油は止まった。4:7 彼女が神の人に知らせに行くと、彼は言った。「行ってその油を売り、あなたの負債を払いなさい。その残りで、あなたと子どもたちは暮らしていけます。」   預言者の仲間が若くして亡くなり、その未亡人が困難な状況をエリシャに伝えて助けを求めました。彼らには借金があり、債権者が二人の息子を奴隷にしようとしている危機的な状況でした。エリシャは未亡人に「何か持っているものはありますか?」と尋ね、彼女は「油の壺一つしかありません」と答えました。エリシャは、借りられるだけの空の器を持ってくるように指示しました。未亡人が持ってきた器に油を注ぎ始めると、油は尽きることなく、器がすべて満たされました。器がなくなると油も止まりました。その油を売って借金を返済し、家族は生活できるようになりました。   今でも誰かの必要は満たされます。常に準備すべきことは二つあります。一つは、自分が持っている小さい油の壺、そしてもう一つは恵みを受け取るための最大限の器です。神様が用い始める時、制限されないように、自分の領域、才能、資源、情熱を準備することです。空の器の大きさは信仰の大きさです。そして、それを引き起こすのは自分が持っている小さなものです。自分が持っている小さな資源と、それに神の供給を受け入れる空の器が準備されるならば、恵みは無限に与えられるでしょう。資本や組織の準備ではなく、信仰が宿る空の器の準備です。自分が持っている一壺の油と、自分が準備する空の器とは何かを深く黙想し、それが満たされるのを待ちたいと思います。  

열왕기하 묵상 【기름 한 병과 빈 그릇】 20240625(화) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

열왕기하 4:1~74:1 선지자의 생도의 아내 중에 한 여인이 엘리사에게 부르짖어 가로되 당신의 종 나의 남편이 이미 죽었는데 당신의 종이 여호와를 경외한 줄은 당신이 아시는 바니이다 이제 채주가 이르러 나의 두 아이를 취하여 그 종을 삼고자 하나이다4:2 엘리사가 저에게 이르되 내가 너를 위하여 어떻게 하랴 네 집에 무엇이 있는지 내게 고하라 저가 가로되 계집종의 집에 한…

Ⅱ列王記 黙想 【代表性の原理】 20240624(月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

Ⅱ列王記 3:13~273:13 エリシャはイスラエルの王に言った。「私とあなたの間に何の関わりがあるでしょうか。あなたの父の預言者たちや、母の預言者たちのところに行かれたらよいでしょう。」すると、イスラエルの王は彼に言った。「いや、モアブの手に渡すために、この三人の王を呼び集めたのは、主だ。」3:14 エリシャは言った。「私が仕えている万軍の主は生きておられます。もし私がユダの王ヨシャファテの顔を立てるのでなければ、私は決してあなたに目も留めず、あなたに会うこともしなかったでしょう。3:15 しかし今、竪琴を弾く者をここに連れて来てください。」竪琴を弾く者が竪琴を弾き鳴らすと、主の手がエリシャの上に下り、3:16 彼は次のように言った。「主はこう言われます。『この涸れた谷にはたくさんの水がたまる。』3:17 主がこう言われるからです。『風を見ず、大雨を見なくても、この涸れた谷には水があふれる。あなたがたも、あなたがたの家畜も、動物もこれを飲む。』3:18 これは主の目には小さなことです。主はモアブをあなたがたの手に渡されます。3:19 あなたがたは、城壁のある町々、立派な町々をことごとく打ち破り、すべての良い木を切り倒し、すべての水の源をふさぎ、すべての良い畑を石をもって荒らすでしょう。」3:20 朝になって、ささげ物を献げるころ、なんと、水がエドムの方から流れて来て、この地は水で満たされた。3:21 モアブ人はみな、王たちが自分たちを攻めに上って来たことを聞いた。よろいを着けることができる者はすべて呼び集められ、国境の守備に就いた。3:22 翌朝早く起きてみると、太陽が水の面を照らしていた。モアブ人は、向こう側の水が血のように赤いのを見て、3:23 こう言った。「これは血だ。きっと王たちが切り合って、同士討ちをしたに違いない。さあ今、モアブよ、分捕りに行こう。」3:24 彼らがイスラエルの陣営に攻め入ると、イスラエルは立ってモアブ人を討った。モアブ人はイスラエルの前から逃げた。イスラエルは攻め入って、モアブ人を討った。3:25 さらに、彼らは町々を破壊し、すべての良い畑にだれもが石を投げ捨てて石だらけにし、すべての水の源をふさぎ、すべての良い木を切り倒した。ただキル・ハレセテにある石だけが残ったが、その町も石を投げる者たちが取り囲み、これを打ち破った。3:26 モアブの王は、戦いが自分に不利になっていくのを見て、剣を使う者七百人を引き連れ、エドムの王のところに突き入ろうとしたが、果たせなかった。3:27 そこで、彼は自分に代わって王となる長男を取り、その子を城壁の上で全焼のささげ物として献げた。このことのゆえに、イスラエル人に対する激しい怒りが起こった。そこでイスラエル人は、そこから引き揚げて、自分の国へ帰って行った。   アハブの子、ヨラムがユダとエドムを連合し、モアブと戦争をしようとしています。北イスラエルのアハブを覚えているエリシャはヨラムを冷たく扱いますが、ユダの王ヨシャファテの顔を立てて連合軍を助けます。干ばつで苦しんでいた連合軍に水を提供し、モアブ軍は日の出で水が赤く染まるのを見て、それを連合軍同士の内紛によって血の水が流れていると勘違いし、先制攻撃を仕掛けましたが敗北します。窮地に立たされたモアブの王は、必死の抵抗の意思で自分の息子を人身供犠として捧げると、連合軍はこれを見て撤退します。まさに奇怪な状況です。ヨシャファテが北イスラエルとエドムと連合軍を組むのも奇妙ですし、その連合軍がエリシャに助けを求め、エリシャがそれに応じるのも奇妙です。モアブ軍が日の出に映る水を見て血の海だと思い略奪に出たことも奇怪であり、モアブの王が王子を敵軍の前で全焼のささげ物として捧げたことは驚愕すべきことです。連合軍はその光景に圧倒され、モアブを最後まで制圧せずに解散します。   エリシャがこの出来事に関与した唯一の理由は、ユダ王王ヨシャファテの要請です。エリシャは言いました。「私が仕えている万軍の主は生きておられます。もし私がユダの王ヨシャファテの顔を立てるのでなければ、私は決してあなたに目も留めず、あなたに会うこともしなかったでしょう。3:14」エリシャが動いたのは、ヨシャファテという一人の正しい人の名前のためです。ヨシャファテが連合軍に加担したことが良かったのかどうかは分かりませんが、ヨシャファテが神様の人であるという代表性がエリシャを動かしたことは確かです。パウロはローマ人への手紙とコリント人への手紙においてこの代表性について語りました。最初のアダムが人類の代表として罪を犯し、その結果、罪と死が全人類に入りました。私は善と悪を知るの木の実を食べたことはありませんが、アダムの代表性の中でその結果が私の中にあります。第二のアダムであるイエス・キリストは、贖いの死と復活を通して、回復の代表性を持っておられます。代表性の中で罪が入り、代表性の中で救いを得ました。救いの代表性はイエス・キリストにありますが、私はそれを信じる信仰の代表性を持ってこの世を生きると願います。  

열왕기하 묵상 【대표성의 원리】 20240624(월) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

열왕기하 3:13~273:13 엘리사가 이스라엘 왕에게 이르되 내가 당신과 무슨 상관이 있나이까 당신의 부친의 선지자들과 당신의 모친의 선지자들에게로 가소서 이스라엘 왕이 저에게 이르되 그렇지 아니하니이다 여호와께서 이 세 왕을 불러 모아 모압의 손에 붙이려 하시나이다3:14 엘리사가 가로되 내가 섬기는 만군의 여호와의 사심을 가리켜 맹세하노니 내가 만일 유다 왕 여호사밧의 낯을 봄이 아니면 당신을 향하지도 아니하고 보지도…

列王記第二 黙想 【別れからの祝福】 20240621(金) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

列王記第二 2:1-14 2:1 主がエリヤを竜巻に乗せて天に上げようとされたときのこと、エリヤはエリシャを連れてギルガルから出て行った。 2:2 エリヤはエリシャに「ここにとどまっていなさい。主が私をベテルに遣わされたから」と言った。しかしエリシャは言った。「主は生きておられます。あなたのたましいも生きています。私は決してあなたから離れません。」こうして、彼らはベテルに下って行った。 2:3 すると、ベテルの預言者の仲間たちがエリシャのところに出て来て、彼に言った。「今日、主があなたの主人をあなたから取り上げられることを知っていますか。」エリシャは、「私も知っていますが、黙っていてください」と答えた。 2:4 エリヤは彼に「エリシャ、ここにとどまっていなさい。主が私をエリコに遣わされたから」と言った。しかし彼は言った。「主は生きておられます。あなたのたましいも生きています。私は決してあなたから離れません。」こうして、彼らはエリコにやって来た。 2:5 するとエリコの預言者の仲間たちがエリシャに近づいて来て、彼に言った。「今日、主があなたの主人をあなたから取り上げられることを知っていますか。」エリシャは、「私も知っていますが、黙っていてください」と答えた。 2:6 エリヤは彼に「ここにとどまっていなさい。主が私をヨルダンへ遣わされたから」と言った。しかし彼は言った。「主は生きておられます。あなたのたましいも生きています。私は決してあなたから離れません。」こうして、二人は進んで行った。 2:7 一方、預言者の仲間たちのうち五十人は、行って遠く離れて立った。二人がヨルダン川のほとりに立ったとき、 2:8 エリヤは自分の外套を取り、それを丸めて水を打った。すると、水が両側に分かれたので、二人は乾いた土の上を渡った。 2:9 渡り終えると、エリヤはエリシャに言った。「あなたのために何をしようか。私があなたのところから取り去られる前に求めなさい。」するとエリシャは、「では、あなたの霊のうちから、二倍の分を私のものにしてください」と言った。 2:10 エリヤは言った。「あなたは難しい注文をする。しかし、私があなたのところから取り去られるとき、あなたが私を見ることができれば、そのことはあなたにかなえられるだろう。できないなら、そうはならない。」 2:11 こうして、彼らがなお進みながら話していると、なんと、火の戦車と火の馬が現れ、この二人の間を分け隔て、エリヤは竜巻に乗って天へ上って行った。 2:12 エリシャはこれを見て、「わが父、わが父、イスラエルの戦車と騎兵たち」と叫び続けたが、エリヤはもう見えなかった。彼は自分の衣をつかみ、それを二つに引き裂いた。 2:13 それから、彼はエリヤの身から落ちた外套を拾い上げ、引き返してヨルダン川の岸辺に立った。 2:14 彼は、エリヤの身から落ちた外套を取って水を打ち、「エリヤの神、主はどこにおられるのですか」と言った。エリシャが水を打つと、水が両側に分かれ、彼はそこを渡った。      中世時代に腐敗したキリスト教の歴史の中には、純粋な信仰を守るための闘いもありました。それは修道院運動です。修道院は世俗のものを捨て、修道院に入り、その中で敬虔な生活を学び、実践する場所でありました。教会が世俗化され、聖職者たちが腐敗して、自ら信仰を守ることが難しかった者たちにとって、その修道院という場所は夢みたいな場所であったでしょう。  御言葉を教えてくれる先生がいて、一緒に訓練する仲間たちがいて、どこでも誰とでも深い信仰の話ができる場所は、今の私たちにも夢みたいに思われる場所かもしれません。  エリヤの弟子としてその後ろをついていったエリシャの人生もそうだったでしょう。心強い先生がいて、仲間預言者たちがいて、いつも信仰の道について学べるところ、それがエリヤの隣でした。そして、今日の箇所と非常に似ている内容、その隣を離れたくない弟子たちの話は、新約聖書のイエス様の弟子たちを通しても見ることができます。  二つの話の重要な共通点は、先生との別れの時に与えられる神様の力です。  先生の隣を離れるということは、これから自分が誰かの先生になること、今まで先生の後をついていった道を、これからは自分が先に歩まなければならないということです。そのような思い責任を負うことになる弟子たちの不安と恐れは、彼らの足を止めるに十分なのでしょう。  しかし、夢みたいな修道院生活、夢みたいな先生の隣の場所は、いつか離れなければならない場所です。私たちは学んだことを私たちの中に止まらせるのではなく、学んだことを他人に与えなければならない者たちであるからです。  その旅に立つ者たちには神様が彼の霊を注いでくださいます。イエス様は私たちがその霊を通してイエス様ご自身がなさったことより、もっと大きなこともできると言われました。実際、私たちの最大の祝福、その夢みたいな瞬間は、修道院に住む時も、先生の隣にとどまる時にあるのではありません。その場所と分かれてからこそ初めて、私たちに最大の祝福が与えられるのです。  分かれるということ、その不安と恐れに向き合って世の中に進んでいく決断をしたイエス様の弟子たちを、神様は決して一人にさせません。新しい力を与えてくださり、新しい出会いを与えてくださり、その中でいつも彼らと共におられるのです。https://youtu.be/WZ39YWJU5pA?si=-24vz9taSVRHiWpE

열왕기하 묵상 【떠남 속에 주어지는 축복】 20240621(금) 최종석 전도사

열왕기하 2:1-14 2:1 여호와께서 회오리 바람으로 엘리야를 하늘로 올리고자 하실 때에 엘리야가 엘리사와 더불어 길갈에서 나가더니 2:2 엘리야가 엘리사에게 이르되 청하건대 너는 여기 머물라 여호와께서 나를 벧엘로 보내시느니라 하니 엘리사가 이르되 여호와께서 살아 계심과 당신의 영혼이 살아 있음을 두고 맹세하노니 내가 당신을 떠나지 아니하겠나이다 하는지라 이에 두 사람이 벧엘로 내려가니 2:3 벧엘에 있는 선지자의 제자들이…

Ⅱ列王記 黙想 【三度目の五十人隊長】 20240620(木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

Ⅱ列王記 1:9~181:9 そこでアハズヤは、五十人隊の長を、その部下五十人とともにエリヤのところに遣わした。隊長がエリヤのところに上って行くと、そのとき、エリヤは山の頂に座っていた。隊長はエリヤに言った。「神の人よ、王のお告げです。下りて来てください。」1:10 エリヤはその五十人隊の長に答えて言った。「私が神の人であるなら、天から火が下って来て、あなたとあなたの部下五十人を焼き尽くすだろう。」すると、天から火が下って来て、彼とその部下五十人を焼き尽くした。1:11 王はまた、もう一人の五十人隊の長を、その部下五十人とともにエリヤのところに遣わした。隊長はエリヤに言った。「神の人よ、王がこう言われます。急いで下りて来てください。」1:12 エリヤは彼らに答えた。「私が神の人であるなら、天から火が下って来て、あなたとあなたの部下五十人を焼き尽くすだろう。」すると、天から神の火が下って来て、彼とその部下五十人を焼き尽くした。1:13 王はまた、第三の五十人隊の長と、その部下五十人を遣わした。この三人目の五十人隊の長は上って行き、エリヤの前にひざまずき、懇願して言った。「神の人よ、どうか私のいのちと、このあなたのしもべ五十人のいのちをお助けください。1:14 ご承知のように、天から火が下って来て、先の二人の五十人隊の長とそれぞれの部下五十人を、焼き尽くしてしまいました。今、私のいのちをお助けください。」1:15 主の使いがエリヤに「彼と一緒に下って行け。彼を恐れてはならない」と言ったので、エリヤは立って、彼と一緒に王のところに下って行き、1:16 王に言った。「主はこう言われる。『あなたが使者たちをエクロンの神、バアル・ゼブブに伺いを立てに遣わしたのは、イスラエルにみことばを伺う神がいないためか。それゆえ、あなたは上ったその寝台から降りることはない。あなたは必ず死ぬ。』」1:17 王は、エリヤが告げた主のことばのとおりに死んだ。そしてヨラムが代わって王となった。それはユダの王ヨシャファテの子ヨラムの第二年のことであった。アハズヤには息子がいなかったからである。1:18 アハズヤが行ったその他の事柄、それは『イスラエルの王の歴代誌』に確かに記されている。   韓国語では、一度行くと連絡が取れず戻ってこないことを「咸興差使」(ハムンチャサ)と言います。朝鮮初期、太宗が政権を握る過程で非道な行為を行ったため、父である太祖李成桂が故郷の咸興に下ってしまいました。太宗は咸興に使者を送り迎えに行かせましたが、李成桂は馬に乗って使者を殺したと伝えられています。勅命を受けて使者として行ったが殺されたので、可哀そうなことです。その後、行ったきり戻ってこない人を「咸興差使」と呼ぶようになりました。後に李成桂が信頼していた無学大師が説得して漢陽に連れて行きました。無学大師は李成桂をうまく説得して問題を解決しました。   今日の本文でアハズヤはまるで太宗のように何度も使者をエリヤに送りますが、エリヤの火が下り、アハズヤが送った五十人隊と長が行く度に死んでしまいます。まるで咸興差使のようにエリヤのところに行くと戻れないのです。三度目に使者として行った五十人隊長は、自分も殺されるだろうと思い、不安だったことでしょう。実際、その時にはエリヤとエリヤの神様を認めざるを得なかったのです。三度目の五十人隊長はエリヤに自分たちを殺さないようにお願いします。その時に神様がエリヤに命じてエリヤの心を変え、アハズヤに会いに行きます。こうして三度目の五十人隊長は死なずに、エリヤをアハズヤのもとに連れて行くことができました。   三度目の五十人隊長は神様の力を知っていました。彼の役割はエリヤの心を変える機会を提供しました。しかし、滅びるものには滅びる理由があります。アハズヤは父アハブが滅びるのを見て、自分もまた滅びながら、なぜ滅びるのか分からずに滅びます。エリヤがカルメル山でバアルとその預言者を殺す時も分からず、五十人隊長が火の中で滅びる時も分かりませんでした。三度目の五十人隊長は賢明な人です。利害関係が異なる二つの勢力の間で仲裁役を果たす柔軟性を持つ人を「ブリッジビルダー(Bridge Builder)」と言います。橋を架ける人です。状況を判断し、神と世の間に橋を架けられる柔軟な人が必要です。  

열왕기하 묵상 【세 번째 오십부장】 20240620(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

열왕기하 1:9~181:9 이에 오십부장과 그 오십인을 엘리야에게로 보내매 저가 엘리야 에게로 올라가서 본즉 산꼭대기에 앉았는지라 저가 엘리야에게 이르되 하나님의 사람이여 왕의 말씀이 내려오라 하셨나이다1:10 엘리야가 오십부장에게 대답하여 가로되 내가 만일 하나님의 사람이면 불이 하늘에서 내려와서 너와 너의 오십인을 사를지로다 하매 불이 곧 하늘에서 내려와서 저와 그 오십인을 살랐더라1:11 왕이 다시 다른 오십부장과 그 오십인을 엘리야에게로…

Ⅱ列王記 黙想 【アハズヤの失足】 20240619(水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

Ⅱ列王記 1:1~81:1 アハブの死後、モアブがイスラエルに背いた。1:2 アハズヤは、サマリアにあった彼の屋上の部屋の欄干から落ちて重体に陥った。彼は使者たちを遣わし、「行って、エクロンの神、バアル・ゼブブに、私のこの病が治るかどうか伺いを立てよ」と命じた。1:3 そのころ、主の使いがティシュベ人エリヤに告げた。「さあ、上って行って、サマリアの王の使者たちに会い、彼らにこう言え。『あなたがたがエクロンの神、バアル・ゼブブに伺いを立てに行くのは、イスラエルに神がいないためか。1:4 それゆえ、主はこう言われる。あなたは上ったその寝台から降りることはない。あなたは必ず死ぬ。』」そこでエリヤは出て行った。1:5 使者たちがアハズヤのもとに戻って来たので、彼は「なぜおまえたちは帰って来たのか」と彼らに尋ねた。1:6 彼らは答えた。「ある人が私たちに会いに上って来て言いました。『自分たちを遣わした王のところに帰って、彼にこう告げなさい。主はこう言われる。あなたが人を遣わして、エクロンの神、バアル・ゼブブに伺いを立てるのは、イスラエルに神がいないためか。それゆえ、あなたは上ったその寝台から降りることはない。あなたは必ず死ぬ。』」1:7 アハズヤは彼らに尋ねた。「おまえたちに会いに上って来て、そんなことを告げたのはどんな男か。」1:8 彼らが「毛衣を着て、腰に革の帯を締めた人でした」と答えると、アハズヤは「それはティシュベ人エリヤだ」と言った。   アハブ王は悪い王でしたが、無能な王ではありませんでした。アハブの時代、モアブはイスラエルに支配され、貢ぎ物を捧げていました。アハブ王が亡くなった後、イスラエルは弱まり、アハブの子アハズヤが王位につくと、モアブはイスラエルから独立を目指して反乱を起こしました。ルーヴル美術館にあるメシャ碑文は、当時モアブがアハブのイスラエルに支配されていたことを記録していると言われています。これは今日、第二の列王記 1章1節でも確認できます。「アハブの死後、モアブがイスラエルに背いた。」とあります。   その時、アハズヤ王は屋上の部屋の欄干から落ちて大怪我をしました。その病気が回復するかどうかを尋ねるため、アハズヤはエクロンの神、バアル・ゼブブに使者を送りました。すると神様の使いがエリヤに現れて、アハズヤが神様を無視して異教の神に尋ねることを責め、アハズヤが必ず死ぬという預言を告げさせました。エリヤが王の使者に会い、そのことを伝えると、使者たちは帰り、王にその事実を報告します。アハズヤはそれを知らせた者がエリヤがであることに気づきます。   アハズヤが足を踏み外して怪我をしたということですが、それだけではなく、彼の人生の大切な局面で足を踏み外したことであります。よく言われることは、状況が厳しくなると、神様を求めると言われますが、必ずしもそうではないようです。状況が良いときは信仰の領域にとどまっていますが、状況が悪くなると焦って他の助けを求めていなくなります。世の中でつまずけば神様が立ち上がらせますが、神様につまずけば世に飲み込まれます。失足せず、一足一足主とともに歩みます。