열왕기하 묵상 【아하시야의 실족】 20240619(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

열왕기하 1:1~81:1 아합이 죽은 후에 모압이 이스라엘을 배반하였더라1:2 아하시야가 사마리아에 있는 그 다락 난간에서 떨어져 병들매 사자를 보내며 저희더러 이르되 가서 에그론의 신 바알세붑에게 이 병이 낫겠나 물어 보라 하니라1:3 여호와의 사자가 디셉 사람 엘리야에게 이르시되 너는 일어나 올라가서 사마리아 왕의 사자를 만나서 저에게 이르기를 이스라엘에 하나님이 없어서 너희가 에그론의 신 바알세붑에게 물으러 가느냐1:4 그러므로…

オバデヤ 黙想 【質量保存の法則】 20240618(火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

オバデヤ 1:15~211:15 なぜなら、主の日がすべての国々に近づいているからだ。おまえは、自分がしたように、自分にもされる。おまえの報いは、おまえの頭上に返る。1:16 おまえたちがわたしの聖なる山で飲んだように、すべての国々も絶えず飲み続け、飲んだり、すすったりする。彼らはまるで、いなかった者のようになる。1:17 しかし、シオンの山には、逃れの者がいるようになる。そこは聖となり、ヤコブの家は自分の領地を所有するようになる。1:18 ヤコブの家は火となり、ヨセフの家は炎となる。エサウの家は刈り株となり、火と炎は刈り株に燃えつき、これを焼き尽くす。エサウの家には生き残る者がいなくなる。」主がこう告げられたのである。1:19 ネゲブの人々はエサウの山を、シェフェラの人々はペリシテ人の地を占領する。また彼らはエフライムの野とサマリアの野を占領し、ベニヤミンはギルアデを占領する。1:20 イスラエルの人々に属する、この一群の捕囚の民はカナン人の地をツァレファテまで占領し、セファラデにいるエルサレムからの捕囚の民はネゲブの町々を占領する。1:21 救う者たちは、エサウの山をさばくため、シオンの山に上る。こうして、王国は主のものとなる。   オバデヤが受けた神託は、ヤコブを火、ヨセフを炎、エサウを刈り株とするということです。火と炎は刈り株に燃えつくように、イスラエルがエドムを征服し、エドムが消滅することを預言しています。しかし、実際の歴史において、イスラエルがエドムを完全に征服し消滅させたわけではありません。エドムは他の強大な帝国の侵略と支配によって弱体化し、新約時代にはローマの支配を受けるようになりましたが、イスラエルによって消滅させられたわけではありません。ただ、エドムが存在していた地域は現在、ヨルダンとイスラエルの一部となっています。   エサウの山、つまりエドムの土地は南部の人々、平地の人々、ベニヤミンなど他の民族のものにあります。しかし、刈り株のようなエドムが火に焼かれて消えでも、全体の質量は変わらないでしょう。エドムが滅び、刈り株のように火に焼かれて灰と煙になっても、すなわち、人間が勝ち負けすること、人間が所有し失うことに神様の総量が変わりません。人間の欲望は滅亡で終わりますが、神様の世界の総量は不変です。定められた総量の中で、信仰はどのように生きるかを決めなければなりません。罪と不義が世にはびこっても、最終的には神様の公義と秩序が必ず勝つというのは、神様が総量の中で公義を保っているからです。神様の側に立つ一片であることを望みます。  

오바댜 묵상 【질량보존의 법칙】 20240618(화) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

오바댜 1:15~211:15 여호와의 만국을 벌할 날이 가까왔나니 너의 행한대로 너도 받을것인즉 너의 행한 것이 네 머리로 돌아갈 것이라1:16 너희가 내 성산에서 마신 것 같이 만국인이 항상 마시리니 곧 마시고 삼켜서 본래 없던 것 같이 되리라1:17 오직 시온산에서 피할 자가 있으리니 그 산이 거룩할 것이요 야곱 족속은 자기 기업을 누릴 것이며1:18 야곱 족속은 불이 될 것이요…

オバデヤ 黙想 【シャーデンフロイデ】 20240617(月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

オバデヤ 1:1~141:1 オバデヤの幻。神である主は、エドムについてこう言われる。──私たちは主から知らせを聞いた。使節が国々の間に送られてこう言った、と。「さあ、立ち上がれ。エドムと戦おう」──1:2 「見よ。わたしはおまえを国々の中で小さい者、ひどく蔑まれる者とする。1:3 岩の裂け目に住み、高い所を住まいとする者よ。おまえの高慢は、おまえ自身を欺いている。おまえは心の中で言っている。『だれが私を地に引きずり降ろせるのか』と。1:4 鷲のように高く上っても、星々の間に巣を作っても、わたしは、おまえをそこから引きずり降ろす。──主のことば。1:5 盗人がおまえのところに来るなら、しかも夜に、荒らす者が来るなら、──いかに、おまえは荒らされることか──彼らは欲しい分だけ盗んで行くではないか。ぶどうを収穫する者がおまえのところに来るなら、彼らは取り残しの実を残さないだろうか。1:6 ああ、エサウは捜し出され、その秘宝は見つけ出される。1:7 おまえと同盟を組む者たちがみな、おまえを国境まで送り返し、親しい友がおまえを欺いて征服する。おまえのパンを食べていた者が、おまえの足もとに罠を仕掛ける。こんなおまえに英知はない。1:8 その日には、──主のことば──わたしは、エドムから知恵ある者たちを、エサウの山から英知を消し去らないであろうか。1:9 テマンよ、おまえの勇士たちは気をくじかれる。虐殺され、エサウの山から一人残らず断ち切られる。1:10 おまえの兄弟、ヤコブへの暴虐のために、恥がおまえをおおい、おまえは永遠に断たれる。1:11 他国人がエルサレムの財宝を奪い去り、外国人がその門に押し入り、エルサレムをくじ引きにして取ったその日、おまえは素知らぬ顔で立っていた。おまえもまた、彼らのうちの一人のようであった。1:12 おまえは兄弟の災難の日に、それを見ていてはならない。ユダの子らの滅びの日に、彼らのことで喜んではならない。その苦難の日に大口をたたいてはならない。1:13 おまえは彼らのわざわいの日に、わたしの民の門に入ってはならない。ほかでもないおまえが、彼の破局の日に、そのわざわいを眺めていてはならない。彼の破局の日に、彼らの財宝に手を伸ばしてはならない。1:14 その逃れる者を断つために、別れ道に立ちふさがってはならない。その苦難の日に、彼らの生き残った者を引き渡してはならない。   エドムは、レンズまめ煮物一杯で長子の権利を売ったヤコブの双子の兄、エサウの子孫の国です。エドムはイスラエルとしばしば対立し衝突しましたが、彼らが同じ血を分けた兄弟であることは間違いありません。そんなエドムが、イスラエルがバビロニアに攻撃される際にバビロニアと連携し、積極的にイスラエルの苦め、それを楽しみました。さらにイスラエルを略奪し、イスラエル人がバビロニアの侵略者から逃げるとき、彼らを助けるどころか捕まえてバビロニアに引き渡したことまでしました。エドムは高地の要塞にあり、その地理的条件に自惚れて自分たちは安全だと思い込んでいましたが、彼らの生き方から見れば彼らは安全ではありませんでした。「おまえの兄弟、ヤコブへの暴虐のために、恥がおまえをおおい、おまえは永遠に断たれる。10」神様はオバデヤを通してエドムに懲罰を預言されます。   イスラエルとエドムはそれほど親しくありませんでした。民数記20章によると、イスラエルの民が出エジプトする際、エドムを通過したいと願いましたが、エドム王はそれを許さず、サウルの時代にはイスラエルとエドムの間で頻繁に戦争が起き、ダビデとソロモンの時代にはエドムを支配したこともありました。第二サムエル記の8章には、ダビデ軍がエドム人を多く殺したと記されています。ヤコブと血を分けたエサウの国であっても、国際的な利益の衝突があれば対立し、戦うこともあるでしょう。それは理解できます。しかし、バビロニアによってユダが滅びるとき、バビロニアに味方して血を流すユダの苦痛を楽しみ、略奪したことは卑劣だと思わざるを得ません。競争関係においても、礼儀と倫理があるはずです。戦争で殺さざるを得ない場合でも残忍であってはならず、裏切るとしても卑劣な形であってはならないでしょう。複雑な状況でも人間性を基準に考えれば答えが見つかります。   心理学では、嫉妬して隣人を裏切り、その苦痛を楽しむ行動を「シャーデンフロイデ(Schadenfreude)」と言います。ドイツ語で害を意味するシャーデン(Schaden)と喜びを意味するフロイデ(Freude)が合わさった言葉です。最近、日本のインターネット世界では「メシウマ」という俗語がよく登場しています。ご飯がおいしいという意味ですが、他人の不幸を見て楽しむ文脈で使われる言葉で、シャーデンフロイデと同じ意味です。人間はそうなり得ます。他人を不幸から救うこともあれば、楽しむこともあり、他人の成功を妬み、嫉妬することもあります。望ましくはありませんが、人間にそのような悪魔性があることを否定することはできません。しかし、人間であれば、一方で違うこともできます。感情の攻防を止め、哀れみ、助けの手を差し伸べることもあります。人間にとってはどちらも可能です。ただ、どのような人間として生きるかを決めるだけです。「あなたの敵が倒れるとき、喜んではならない。彼がつまずくとき、心躍らせてはならない。主がそれを見て心を痛め、彼への怒りをやめられるといけない。箴言 24:17-18」  

오바댜 묵상 【샤덴프로이데】 20240617(월) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

오바댜 1:1~141:1 오바댜의 묵시라 주 여호와께서 에돔에 대하여 이같이 말씀하시니라 우리가 여호와께로 말미암아 소식을 들었나니 곧 사자가 열국 중에 보내심을 받고 이르기를 너희는 일어날지어다 우리가 일어나서 그로 더불어 싸우자 하는 것이니라1:2 여호와께서 가라사대 내가 너를 열국 중에 미약하게 하였으므로 네가 크게 멸시를 받느니라1:3 바위 틈에 거하며 높은 곳에 사는 자여 네가 중심에 이르기를 누가 능히…

ペテロの手紙第ニ 黙想 【振り返り】 20240615(土) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

ペテロの手紙第ニ 3:1-9 3:1 愛する者たち、私はすでに二通目となる手紙を、あなたがたに書いています。これらの手紙により、私はあなたがたの記憶を呼び覚まして、純真な心を奮い立たせたいのです。 3:2 それは、聖なる預言者たちにより前もって語られたみことばと、あなたがたの使徒たちにより伝えられた、主であり救い主である方の命令を思い出させるためです。 3:3 まず第一に、心得ておきなさい。終わりの時に、嘲る者たちが現れて嘲り、自分たちの欲望に従いながら、 3:4 こう言います。「彼の来臨の約束はどこにあるのか。父たちが眠りについた後も、すべてが創造のはじめからのままではないか。」 3:5 こう主張する彼らは、次のことを見落としています。天は大昔からあり、地は神のことばによって、水から出て、水を通して成ったのであり、 3:6 そのみことばのゆえに、当時の世界は水におおわれて滅びました。 3:7 しかし、今ある天と地は、同じみことばによって、火で焼かれるために取っておかれ、不敬虔な者たちのさばきと滅びの日まで保たれているのです。 3:8 しかし、愛する人たち、あなたがたはこの一つのことを見落としてはいけません。主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。 3:9 主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。     神様の御言葉は何一つ私たちと関連のないことはありません。私たちにはあまりにも遠い話だと感じる創世記の御言葉から、難解なヨハネの黙示録の言葉まで、すべての御言葉が私たちに向けて語られています。  聖書は私たちがすべて覚えるにはあまりにも長く、多くの内容を含んでいます。それは逆に言えば、神様は私たちがすべて数え切れないほど私たちに向けた良いご計画を持っておられるとも言えるでしょう。  しかし、私たちがそのご計画を全て知ることができないため、私たちはその御言葉を誤解してしまったり、偽預言者や偽教師の声に騙されることもあるでしょう。そのため、私たちは絶えず御言葉を身近にし、振り返り、正しく御言葉を学んでいかなければなりません。  神様はそのための時間を私たちに与えておられます。それが私たちに向かって忍耐しておられる神様の御恵です。  今、私たちは礼拝の中で創世記からの御言葉を一つ一つ振り返っています。次の主日には出エジプトの御言葉に入ります。既に馴染みの御言葉、何度も読み、聞いてきた御言葉なのかもしれません。しかし、それでも私たちは繰り返しその御言葉を読み、聞かなければなりません。私たちは神様の御言葉を忘れてしまうのが当たり前な弱い存在であり、誤解してしまう罪深い存在であるからです。  これからの御言葉を通して、また、個々人の御言葉の黙想を通して私たちに向けた神様の良いご計画を一つ一つ振り返り、私たちの純真な心を奮い立たせる神様の恵の中で生きていく者になることを望みます。https://youtu.be/RCudJn-zWJs?si=5h2W0nwkZDZG-9oP

베드로후서 묵상 【되새김】 20240615(토) 최종석 전도사

베드로후서 3:1-9 3:1 사랑하는 자들아 내가 이제 이 둘째 편지를 너희에게 쓰노니 이 두 편지로 너희의 진실한 마음을 일깨워 생각나게 하여 3:2 곧 거룩한 선지자들이 예언한 말씀과 주 되신 구주께서 너희의 사도들로 말미암아 명하신 것을 기억하게 하려 하노라 3:3 먼저 이것을 알지니 말세에 조롱하는 자들이 와서 자기의 정욕을 따라 행하며 조롱하여 3:4 이르되 주께서 강림하신다는…

ペテロの手紙第ニ 【大切な自分】 20240614(金) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

ペテロの手紙第ニ 2:12-22 2:12 この者たちは、本能に支配されていて、捕らえられ殺されるために生まれてきた、理性のない動物のようです。自分が知りもしないことを悪く言い、動物が滅びるように滅ぼされることになります。 2:13 彼らは不義の報酬として損害を受けるのです。彼らは昼間から飲み騒ぐことを楽しみとしています。彼らはしみや傷であり、あなたがたと一緒に宴席に連なるとき、自分たちのだましごとにふけるのです。 2:14 その目は姦淫に満ち、罪に飽くことがなく、心が定まらない人たちを誘惑し、心は貪欲で鍛えられています。彼らはのろいの子です。 2:15 彼らは正しい道を捨てて、さまよっています。ベオルの子バラムの道に従ったのです。バラムは不義の報酬を愛しましたが、 2:16 自分の不法な行いをとがめられました。口のきけないろばが人間の声で話して、この預言者の正気を失ったふるまいをやめさせたのです。 2:17 この者たちは水がない泉、突風で吹き払われる霧です。彼らには深い闇が用意されています。 2:18 彼らは、むなしいことを大げさに語り、迷いの中に生きている人々の間から現に逃げ出しつつある人たちを、肉欲と好色によって誘惑しています。 2:19 その人たちに自由を約束しながら、自分自身は滅びの奴隷となっています。人は自分を打ち負かした人の奴隷となるのです。 2:20 主であり、救い主であるイエス・キリストを知ることによって世の汚れから逃れたのに、再びそれに巻き込まれて打ち負かされるなら、そのような人たちの終わりの状態は、初めの状態よりももっと悪くなります。 2:21 義の道を知っていながら、自分たちに伝えられた聖なる戒めから再び離れるよりは、義の道を知らなかったほうがよかったのです。 2:22 「犬は自分が吐いた物に戻る」、「豚は身を洗って、また泥の中を転がる」という、ことわざどおりのことが、彼らに起こっているのです。  ペトロの偽預言者たちと偽教師たちに向けた辛辣な批判は、キリストの愛と救いを宣べ伝えていたそのペトロと本当に同じ人なのか疑いまで生まれてしまうほどです。しかし、彼のこれらの批判の理由は、個人的な関係と感情にありませんでした。ペトロは徹底的に教会と共同体のために偽預言者たちと偽教師たちに向けて批判を惜しまなかったのです。  私たちは自分の感情の通りに偏りやすい存在です。それはただ性格や、環境の問題でもありません。それは、私たちの中にある罪の問題なのです。  理性的に共同体のために、教会のために判断するのが難しい理由が、この罪にあります。いくら理性的に考えようとしても、感情が先立ってしまうのは、そのことが‘自分’と関係があるからです。私たちの中の罪が教会や共同体よりも自分に重点を置くようにさせてしまうからです。  一つの教会、同じ共同体、そして同じ世の中に生きていく以上、私たちは人と人として多くの人々と出会い、交わり、ぶつかるしかない存在です。そのため、そのような様々なぶつかりをどのように判断し、どのように解決するのかが私たちの重要な課題であるでしょう。  ‘自分’という存在は確かに大切で、愛すべき存在です。しかし、神様は自分という一人一人を呼び集めて一つの体にしてくださいました。それはもう新しい一つの‘自分’になるのです。そこで、人間の罪の本姓について誰よりも詳しい神様は、あなたの隣人をあなたのように愛しなさいと言われました。いろいろ言い訳をしても、私たちは結局自分自身が一番大切な存在であるからです。  ‘自分’という一人一人が集まった共同体、そして出会う隣人を自分のように愛するということは、彼らによって喜び悲しみ、彼らのために世の中と立ち向かって戦うことです。そのため、私たちは人生の様々なぶつかりの中で、正しい判断の基準を‘自分’という一人の感情ではなく、自分という一人一人が集まった共同体、教会、関係の中に置かなければならないのでしょう。https://youtu.be/oA7pzzRheFc?si=Fcs8au3kPgKa5ae1

베드로후서 묵상 【소중한 나】 20240614(금) 최종석 전도사

베드로후서 2:12-22 2:12 그러나 이 사람들은 본래 잡혀 죽기 위하여 난 이성 없는 짐승 같아서 그 알지 못하는 것을 비방하고 그들의 멸망 가운데서 멸망을 당하며 2:13 불의의 값으로 불의를 당하며 낮에 즐기고 노는 것을 기쁘게 여기는 자들이니 점과 흠이라 너희와 함께 연회할 때에 그들의 속임수로 즐기고 놀며 2:14 음심이 가득한 눈을 가지고 범죄하기를 그치지 아니하고…

Ⅱペテロ 黙想 【誰が偽教師なのか】 20240613(木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

Ⅱペテロ 2:1~112:1 しかし、御民の中には偽預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも偽教師が現れます。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込むようになります。自分たちを買い取ってくださった主さえも否定し、自分たちの身に速やかな滅びを招くのです。2:2 また、多くの者が彼らの放縦に倣い、彼らのせいで真理の道が悪く言われることになります。2:3 とはありません。彼らは貪欲で、うまくこしらえた話であなたがたを食い物にします。彼らに対するさばきは昔から怠りなく行われていて、彼らの滅びが遅くなるこ2:4 神は、罪を犯した御使いたちを放置せず、地獄に投げ入れ、暗闇の縄目につないで、さばきの日まで閉じ込められました。2:5 また、かつての世界を放置せず、不敬虔な者たちの世界に洪水をもたらし、義を宣べ伝えたノアたち八人を保護されました。2:6 また、ソドムとゴモラの町を破滅に定めて灰にし、不敬虔な者たちに起こることの実例とされました。2:7 そして、不道徳な者たちの放縦なふるまいによって悩まされていた正しい人、ロトを救い出されました。2:8 この正しい人は彼らの間に住んでいましたが、不法な行いを見聞きして、日々その正しい心を痛めていたのです。2:9 主はこのようにされたのですから、敬虔な者たちを誘惑から救い出し、正しくない者たちを処罰し、さばきの日まで閉じ込めておくことを、心得ておられるのです。2:10 特に、汚れた欲望のまま肉に従って歩み、権威を侮る者たちに対して、主はそうされます。この者たちは厚かましく、わがままで、栄光ある人たちをののしって恐れません。2:11 御使いたちは勢いも力も彼らにまさっているのに、主の御前で彼らをそしって訴えたりしません。   初代教会の指導者たちは、新約聖書がまだ形成されていない状態で、旧約聖書、イエス様の教え、使徒たちの伝承、そして初期キリスト教共同体の体験と実践に基づいて、キリストの福音と教会について教えていました。使徒ペテロが使徒職の権威を強調したことも、自分のリーダーシップを擁護するためではなく、教えの根拠を明確にするためでした。   「教える」ということの意味は、単に情報や事実を提供するだけでなく、その知識に基づいた価値観や行動様式を教育することです。知識は大切なことですが、それがどのように人生に影響を与えるかについての方向性を提供することがさらに大切なことです。したがって、教師は情報を伝える際、その情報の文脈と価値観、倫理的基準を共に教える必要があります。   教会の教師の役割は、自分の考えや言葉ではなく、神様の御言葉を教えます。情報の源は聖書でなければならず、教師は聖書を帰納的に理解して教えなければなりません。つまり、教えたいことのために聖書を引用するのではなく、聖書を通して教えられたことを教えなければなりません。これが真の教師と偽の教師を区別する重要な基準となります。聞かずに教える教師が真の教師であるはずがないからです。   ペテロによって断罪されている偽教師は、教えたいことをもうすでに決めておき、利権のために構成員を教える人です。このような偽教師は、対立と貪欲を引き起こし、不正と腐敗を正当化するために、ひたすら間違ったことを教えます。罪を犯しても恥じることのない牧師がいるかと思えば、それを擁護する人々もいます。それは神様の御言葉ではなく、人間の言葉によって教育されたものです。   騙されることの最終的な責任は、嘘をついた人にあるのではなく、自分の魂を管理できなかった人にあります。この時代にも偽物は存在し、偽物は自分の責任を負うでしょうが、その時代の責任は偽物を許容した教会にあります。滅びゆく世の中で欺かれなかった人が救われた聖徒です。偽物に欺かれたからといって、本物ではありません。偽物に欺かれただけです。欺かれないためには、人に従うのではなく、神様の御言葉に従って分別する聖徒になるべきです。神様と私の間に必ずなくてはならないものは牧師ではなく御言葉です。