요한복음 묵상 【헛된 진리】 20250131(금) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

요한복음 8:48-59 8:48 유대인들이 대답하여 이르되 우리가 너를 사마리아 사람이라 또는 귀신이 들렸다 하는 말이 옳지 아니하냐 8:49 예수께서 대답하시되 나는 귀신 들린 것이 아니라 오직 내 아버지를 공경함이거늘 너희가 나를 무시하는도다 8:50 나는 내 영광을 구하지 아니하나 구하고 판단하시는 이가 계시느라 8:51 진실로 진실로 너희에게 이르노니 사람이 내 말을 지키면 영원히 죽음을 보지 아니하리라…

요한복음 묵상 【너희가 내 말에 거하면】 20250130(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

요한복음 8:31~47 8:31 그러므로 예수께서 자기를 믿은 유대인들에게 이르시되 너희가 내 말에 거하면 참 내 제자가 되고 8:32 진리를 알지니 진리가 너희를 자유케 하리라 8:33 저희가 대답하되 우리가 아브라함의 자손이라 남의 종이 된 적이 없거늘 어찌하여 우리가 자유케 되리라 하느냐 8:34 예수께서 대답하시되 진실로 진실로 너희에게 이르노니 죄를 범하는 자마다 죄의 종이라 8:35 종은 영원히…

ヨハネによる福音書 黙想 【わたしのことばにとどまるなら】 20250130(木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ヨハネによる福音書 8:31~47 8:31 イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。 8:32 あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」 8:33 彼らはイエスに答えた。「私たちはアブラハムの子孫であって、今までだれの奴隷になったこともありません。どうして、『あなたがたは自由になる』と言われるのですか。」 8:34 イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。 8:35 奴隷はいつまでも家にいるわけではありませんが、息子はいつまでもいます。 8:36 ですから、子があなたがたを自由にするなら、あなたがたは本当に自由になるのです。 8:37 わたしは、あなたがたがアブラハムの子孫であることを知っています。しかし、あなたがたはわたしを殺そうとしています。わたしのことばが、あなたがたのうちに入っていないからです。 8:38 わたしは父のもとで見たことを話しています。あなたがたは、あなたがたの父から聞いたことを行っています。」 8:39 彼らはイエスに答えて言った。「私たちの父はアブラハムです。」イエスは彼らに言われた。「あなたがたがアブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行うはずです。 8:40 ところが今あなたがたは、神から聞いた真理をあなたがたに語った者であるわたしを、殺そうとしています。アブラハムはそのようなことをしませんでした。 8:41 あなたがたは、あなたがたの父がすることを行っているのです。」すると、彼らは言った。「私たちは淫らな行いによって生まれた者ではありません。私たちにはひとりの父、神がいます。」 8:42 イエスは言われた。「神があなたがたの父であるなら、あなたがたはわたしを愛するはずです。わたしは神のもとから来てここにいるからです。わたしは自分で来たのではなく、神がわたしを遣わされたのです。 8:43 あなたがたは、なぜわたしの話が分からないのですか。それは、わたしのことばに聞き従うことができないからです。 8:44 あなたがたは、悪魔である父から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと思っています。悪魔は初めから人殺しで、真理に立っていません。彼のうちには真理がないからです。悪魔は、偽りを言うとき、自分の本性から話します。なぜなら彼は偽り者、また偽りの父だからです。 8:45 しかし、このわたしは真理を話しているので、あなたがたはわたしを信じません。 8:46 あなたがたのうちのだれが、わたしに罪があると責めることができますか。わたしが真理を話しているなら、なぜわたしを信じないのですか。 8:47 神から出た者は、神のことばに聞き従います。ですから、あなたがたが聞き従わないのは、あなたがたが神から出た者でないからです。」 イエス様が語られるイエス様の弟子とは、御言葉の中にとどまる人のことです。御言葉の中にいることで真理を悟り、真理を見出した人は、非真理によって複雑になった心と魂が解放され、自由になります。しかし、ユダヤ人たちは自分たちの矛盾に気づいていませんでした。彼らは混乱していました。自分たちはアブラハムの子孫だから自由な存在であると主張しましたが、それは宗教的な誇りが生み出した霊的な自己欺瞞であり、虚偽の確信にすぎませんでした。 イエス様は彼らの現実を指摘されます。彼らはアブラハムの子孫ではなく、罪の奴隷であると語られました。神の子は神の言葉を聞くものですが、彼らはそれを聞こうとしませんでした。それによって彼ら自身が神に属していないことを証明してしまったのです。ユダヤ人たちの矛盾を見ながら、驚かずにはいられません。イエス様は彼らを「悪魔の子」と言われましたが、彼らは自分たちがアブラハムの子孫、すなわち神の子だと信じていました。御言葉の前でどのような態度を取るかによって、決まるということは、実に恐ろしいことです。 教会の中には「御言葉」という言葉がどれほど多く語られているでしょうか。しかし、御言葉が真に「御言葉」となるのは、その御言葉と自分自身の関係の中においてです。真の弟子とは、御言葉を受け、自分の生活の場に戻ってその御言葉と格闘せずにはいられない人です。そのような人だけが神の御言葉を内に宿し、この世の束縛から自由にされるのです。基準が明確な人は、流されず、揺るがされることのない自由な人です。御言葉と格闘し、その御言葉が自分を打ち破り、ついにはその御言葉が自分自身となること——その御言葉の中に生きる人こそが自由な人であり、彼こそがイエス・キリストの弟子です。今一度、自分と御言葉との関係を点検しなければなりません。

요한복음 묵상 【너희가 내 말에 거하면】 20250130(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

요한복음 8:21~30 8:21 다시 이르시되 내가 가리니 너희가 나를 찾다가 너희 죄 가운데서 죽겠고 나의 가는 곳에는 너희가 오지 못하리라 8:22 유대인들이 가로되 저가 나의 가는 곳에는 너희가 오지 못하리라 하니 저가 자결하려는가 8:23 예수께서 가라사대 너희는 아래서 났고 나는 위에서 났으며 너희는 이 세상에 속하였고 나는 이 세상에 속하지 아니하였느니라 8:24 이러므로 내가 너희에게…

ヨハネによる福音書 黙想 【説明しない】 20250129(水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師  (복제)

ヨハネによる福音書 8:21~30 8:21 イエスは再び彼らに言われた。「わたしは去って行きます。あなたがたはわたしを捜しますが、自分の罪の中で死にます。わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません。」 8:22 そこで、ユダヤ人たちは言った。「『わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません』と言うが、まさか自殺するつもりではないだろう。」 8:23 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは下から来た者ですが、わたしは上から来た者です。あなたがたはこの世の者ですが、わたしはこの世の者ではありません。 8:24 それで、あなたがたは自分の罪の中で死ぬと、あなたがたに言ったのです。わたしが『わたしはある』であることを信じなければ、あなたがたは、自分の罪の中で死ぬことになるからです。」 8:25 そこで、彼らはイエスに言った。「あなたはだれなのですか。」イエスは言われた。「それこそ、初めからあなたがたに話していることではありませんか。 8:26 わたしには、あなたがたについて言うべきこと、さばくべきことがたくさんあります。しかし、わたしを遣わされた方は真実であって、わたしはその方から聞いたことを、そのまま世に対して語っているのです。」 8:27 彼らは、イエスが父について語っておられることを理解していなかった。 8:28 そこで、イエスは言われた。「あなたがたが人の子を上げたとき、そのとき、わたしが『わたしはある』であること、また、わたしが自分からは何もせず、父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していたことを、あなたがたは知るようになります。 8:29 わたしを遣わした方は、わたしとともにおられます。わたしを一人残されることはありません。わたしは、その方が喜ばれることをいつも行うからです。」 8:30 イエスがこれらのことを話されると、多くの者がイエスを信じた。 イエス様は、ご自身が行かれる所にユダヤ人たちは来ることができず、彼らは罪の中で死ぬと言われました。人々はイエス様のお言葉を理解できませんでしたが、続けてイエス様はご自身が世に属しておられないため、自分を信じない人々は罪の中で死ぬと警告されました。イエス様はただ父なる神様から受けた御言葉だけを伝え、神様の御心を行うと言われました。これをを聞いて多くの人々が信じるようになりました。 福音を知っており、今この本文を読んでいる私たちは、簡単な解説を通じてこの御言葉の意味を理解することができます。しかし、当時、基礎的な情報を持っていない人々にとっては、イエス様の言葉を確実に理解するのは難しかったことでしょう。なぜなら、イエス様はわかりやすく説明したり、納得させようとされたのではなく、ただ宣言されていたからです。 今日の本文でイエス様が語られたことはすべて真理です。真理の本質は客観的であり、絶対的なものです。それが真理の本質であり、その真理の伝達方法は「宣言」です。説明は宣言を補完することはできますが、本質ではありません。イエス様が神様であり、イエス様を信じなければ罪の中で滅びること、そしてイエス様がなされているすべての御業が神様の御業であるという事実は、説明して同意を求めるのではなく、宣言されるべきことです。 30節で信じた多くの人々は、理解したのではなく、宣言を受け入れたのです。神様から与えられた信仰とはそのようなものです。真理は宣言され、人間には信仰が求められます。それは、人間の論理や説明が神様を証明する道具になることができないからです。それは非知性的で盲目的な信仰を強いるものとは異なります。ジェームズ・パッカーはその名著『神を知る知識(Knowin God)』で、「福音の真理は論理的な説明を通じて説得するものではなく、神の権威によって宣言されるものであり、それは信者に信仰と決断を求めるものである」と述べました。説明は論拠と論証に依存しますが、宣言は真理に依存し、信仰によって行われます。教会に委ねられた役割の核心は、神様の権威と福音の宣言です。

요한복음 묵상 【설명하지 않는다】 20250129(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

요한복음 8:21~30 8:21 다시 이르시되 내가 가리니 너희가 나를 찾다가 너희 죄 가운데서 죽겠고 나의 가는 곳에는 너희가 오지 못하리라 8:22 유대인들이 가로되 저가 나의 가는 곳에는 너희가 오지 못하리라 하니 저가 자결하려는가 8:23 예수께서 가라사대 너희는 아래서 났고 나는 위에서 났으며 너희는 이 세상에 속하였고 나는 이 세상에 속하지 아니하였느니라 8:24 이러므로 내가 너희에게…

ヨハネによる福音書 黙想 【説明しない】 20250129(水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ヨハネによる福音書 8:21~30 8:21 イエスは再び彼らに言われた。「わたしは去って行きます。あなたがたはわたしを捜しますが、自分の罪の中で死にます。わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません。」 8:22 そこで、ユダヤ人たちは言った。「『わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません』と言うが、まさか自殺するつもりではないだろう。」 8:23 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは下から来た者ですが、わたしは上から来た者です。あなたがたはこの世の者ですが、わたしはこの世の者ではありません。 8:24 それで、あなたがたは自分の罪の中で死ぬと、あなたがたに言ったのです。わたしが『わたしはある』であることを信じなければ、あなたがたは、自分の罪の中で死ぬことになるからです。」 8:25 そこで、彼らはイエスに言った。「あなたはだれなのですか。」イエスは言われた。「それこそ、初めからあなたがたに話していることではありませんか。 8:26 わたしには、あなたがたについて言うべきこと、さばくべきことがたくさんあります。しかし、わたしを遣わされた方は真実であって、わたしはその方から聞いたことを、そのまま世に対して語っているのです。」 8:27 彼らは、イエスが父について語っておられることを理解していなかった。 8:28 そこで、イエスは言われた。「あなたがたが人の子を上げたとき、そのとき、わたしが『わたしはある』であること、また、わたしが自分からは何もせず、父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していたことを、あなたがたは知るようになります。 8:29 わたしを遣わした方は、わたしとともにおられます。わたしを一人残されることはありません。わたしは、その方が喜ばれることをいつも行うからです。」 8:30 イエスがこれらのことを話されると、多くの者がイエスを信じた。 イエス様は、ご自身が行かれる所にユダヤ人たちは来ることができず、彼らは罪の中で死ぬと言われました。人々はイエス様のお言葉を理解できませんでしたが、続けてイエス様はご自身が世に属しておられないため、自分を信じない人々は罪の中で死ぬと警告されました。イエス様はただ父なる神様から受けた御言葉だけを伝え、神様の御心を行うと言われました。これをを聞いて多くの人々が信じるようになりました。 福音を知っており、今この本文を読んでいる私たちは、簡単な解説を通じてこの御言葉の意味を理解することができます。しかし、当時、基礎的な情報を持っていない人々にとっては、イエス様の言葉を確実に理解するのは難しかったことでしょう。なぜなら、イエス様はわかりやすく説明したり、納得させようとされたのではなく、ただ宣言されていたからです。 今日の本文でイエス様が語られたことはすべて真理です。真理の本質は客観的であり、絶対的なものです。それが真理の本質であり、その真理の伝達方法は「宣言」です。説明は宣言を補完することはできますが、本質ではありません。イエス様が神様であり、イエス様を信じなければ罪の中で滅びること、そしてイエス様がなされているすべての御業が神様の御業であるという事実は、説明して同意を求めるのではなく、宣言されるべきことです。 30節で信じた多くの人々は、理解したのではなく、宣言を受け入れたのです。神様から与えられた信仰とはそのようなものです。真理は宣言され、人間には信仰が求められます。それは、人間の論理や説明が神様を証明する道具になることができないからです。それは非知性的で盲目的な信仰を強いるものとは異なります。ジェームズ・パッカーはその名著『神を知る知識(Knowin God)』で、「福音の真理は論理的な説明を通じて説得するものではなく、神の権威によって宣言されるものであり、それは信者に信仰と決断を求めるものである」と述べました。説明は論拠と論証に依存しますが、宣言は真理に依存し、信仰によって行われます。教会に委ねられた役割の核心は、神様の権威と福音の宣言です。

ヨハネによる福音書 黙想 【どこから来て、どこへ行くのか】 20250128(火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ヨハネによる福音書 8:12~20 8:12 イエスは再び人々に語られた。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」 8:13 すると、パリサイ人はイエスに言った。「あなたは自分で自分のことを証ししています。だから、あなたの証しは真実ではありません。」 8:14 イエスは彼らに答えられた。「たとえ、わたしが自分自身について証しをしても、わたしの証しは真実です。わたしは自分がどこから来たのか、また、どこへ行くのかを知っているのですから。しかしあなたがたは、わたしがどこから来て、どこへ行くのかを知りません。 8:15 あなたがたは肉によってさばきますが、わたしはだれもさばきません。 8:16 たとえ、わたしがさばくとしても、わたしのさばきは真実です。わたしは一人ではなく、わたしとわたしを遣わした父がさばくからです。 8:17 あなたがたの律法にも、二人の人による証しは真実であると書かれています。 8:18 わたしは自分について証しする者です。またわたしを遣わした父が、わたしについて証ししておられます。」 8:19 すると、彼らはイエスに言った。「あなたの父はどこにいるのですか。」イエスは答えられた。「あなたがたは、わたしも、わたしの父も知りません。もし、わたしを知っていたら、わたしの父をも知っていたでしょう。」 8:20 イエスは、宮で教えていたとき、献金箱の近くでこのことを話された。しかし、だれもイエスを捕らえなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。 イエス様がご自身を「世の光」であると語られると、パリサイ人たちは「自己賛美」に過ぎず、信用できないと反発しました。イエス様は暗闇の中で光となる希望について語られましたが、彼らがそれを受け入れなかったため、今度は始まりと終わりについて語られました。イエス様は、ご自身がどこから来て、どこへ行くのかをご存じであると仰せになりました。これはパリサイ人たちに、自分たちの人生がどこから来て、どこへ向かうのかを知らないという無知を自覚させるためのものでした。 パリサイ人たちは、自分たちに光がなければ何も見ることができないという無力さを認識すべきでした。誰も自分がどこから来たのか、どこへ向かっているのかを知りません。それこそが、人間が神様を信じざるを得ない切迫した理由なのです。人間は自分の起源、目的、そして結果について知ることができないため、真理に至る唯一の道、すなわち信仰を通じてのみ答えを見出すことができます。 「私たちが地球に存在している状況は奇妙だ。私たちは誰も望まれることなく、招かれることもなく、ただ一時的にここに留まり、なぜここにいるのかを知らない。」これはアルベルト・アインシュタインの言葉です。彼は光、時間、空間の秘密を解き明かし、物理学の基礎を刷新した偉大な科学者です。しかし、彼自身もどこから来たのか、どこへ行くのか、そしてなぜここにいるのかを知らないと語りました。それは無能や無知ではありません。「知らない」ということを知ることこそが、科学的発見を超える人間の偉大な発見です。人間は必ず「知らない」という壁にぶつかるようになっており、そこで初めて信仰と告白が始まります。人間の暗闇と無知の絶望を通らずして、光と起源について知ることはできないのです。 どこから来てどこへ行くのかを知っている人は誰もいません。しかし、時空を超越する神であるイエス様は、すべての始まりと終わりをご存じです。イエス様は、私がどこから来て、どこへ向かっているのかもご存じです。イエス様が語られる「始まりと終わり」は時間の境界ではなく、人間存在の意味を含んでいます。イエス様はアルファでありオメガであり、人間の始まりと目的、そしてその終わりを知っておられるお方です。魂はその中で安心を得、その告白の中で平安を得ます。

요한복음 묵상 【어디서 왔다가 어디로 가는가】 20250128(화) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

요한복음 8:12~20 8:12 예수께서 또 일러 가라사대 나는 세상의 빛이니 나를 따르는 자는 어두움에 다니지 아니하고 생명의 빛을 얻으리라 8:13 바리새인들이 가로되 네가 너를 위하여 증거하니 네 증거는 참되지 아니하도다 8:14 예수께서 대답하여 가라사대 내가 나를 위하여 증거하여도 내 증거가 참되니 나는 내가 어디서 오며 어디로 가는 것을 앎이어니와 너희는 내가 어디서 오며 어디로 가는…

ヨハネによる福音書 黙想 【良心を生かす奇跡】 20250127(月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ヨハネによる福音書 7:53~8:11 7:53 〔人々はそれぞれ家に帰って行った。 8:1 イエスはオリーブ山に行かれた。 8:2 そして朝早く、イエスは再び宮に入られた。人々はみな、みもとに寄って来た。イエスは腰を下ろして、彼らに教え始められた。 8:3 すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、 8:4 イエスに言った。「先生、この女は姦淫の現場で捕らえられました。 8:5 モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするよう私たちに命じています。あなたは何と言われますか。」 8:6 彼らはイエスを告発する理由を得ようと、イエスを試みてこう言ったのであった。だが、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。 8:7 しかし、彼らが問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」 8:8 そしてイエスは、再び身をかがめて、地面に何かを書き続けられた。 8:9 彼らはそれを聞くと、年長者たちから始まり、一人、また一人と去って行き、真ん中にいた女とともに、イエスだけが残された。 8:10 イエスは身を起こして、彼女に言われた。「女の人よ、彼らはどこにいますか。だれもあなたにさばきを下さなかったのですか。」 8:11 彼女は言った。「はい、主よ。だれも。」イエスは言われた。「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」〕 イエス様がオリーブ山におられたとき、律法学者たちとパリサイ人たちは姦淫の現場で捕まった女性をイエスのもとに連れてきて、「律法に従ってこの女性を石打ちにすべきだ」と言いました。イエス様は身をかがめて地面に何かを書きながら、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」と言われました。その言葉を聞いた人々は良心の呵責を覚え、一人ずつその場を立ち去り、最後にはイエスと女性だけが残りました。イエス様はその女性をも裁かず、「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」と言われ、彼女を送り出されました。 ユダヤ人たちが姦淫した女性をイエス様のもとに連れてきたのは、ユダヤの律法とローマの法の矛盾を利用してイエス様を困難な状況に追い込むための罠でした。レビ記や申命記では姦淫した女性を石打ちの刑にするよう定められています。しかし当時、死刑執行権はローマが握っていたため、イエスがユダヤ律法を擁護すればローマへの越権行為となり、逆にそれを否定すれば律法違反となるジレンマに陥る仕組みでした。 この女性はユダヤ人たちのこうした策略に巻き込まれた被害者だったのかもしれません。また、姦淫の相手である男性は連れてこられませんでした。もしかするとその男性は、女性を姦淫の現行犯として捕まえるために近づいた者の可能性も考えられます。もしそうだとすれば、この事件は恋愛による不倫や情事ではなく、生計を立てるための性売買に関わる出来事だった可能性が高いでしょう。そうでなければ、ユダヤ人たちがタイミングよく、しかもイエス様がいる現場で姦淫の現行犯を捕まえることはできなかったはずです。 この本文を読むたびに、いくつかの疑問が湧いてきました。まず、イエス様が身をかがめて指で地面に書いたものは何だったのか?指で書いたということは、詳細な文章ではなく、簡潔な何かだったのだと思われます。それはどんな内容で、誰に向けたメッセージだったのか?さらに、イエス様に敵対していたユダヤ人たちがなぜ石を置き、素直に立ち去ったのか?それはイエス様が地面に書いた内容と関係があったのでしょうか? はっきりしているのは、イエス様が地面に何かを書かれた後、人々の態度が変わったことです。イエス様を陥れ、罠にかけようと集まっていた人々が良心の呵責を覚え、立ち去ったのです。その過程でイエス様は「罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい」と言われました。もし偏見に満ち、煽動され、感情が高ぶっている人々であれば、ためらうことなく石を手に取り投げたでしょう。しかし彼らはそうしませんでした。それは、イエス様が地面に書かれた何かを見て、良心が働き始めたからではないでしょうか。 年長者から順に自分の罪を悟り、最後に若者が立ち去りました。地面に何が書かれていたかは分かりませんが、本文に記されたいくつかの手がかりを考えると、人間の良心が目覚めるなら、滅びを免れることができるということを示しています。この女性はユダヤ人たちの政治的陰謀に巻き込まれた犠牲者だった可能性があります。政治的な策略、卑劣な妨害、暴力と破壊が支配する世界の中でも、もし一つの良心が目覚めるなら、滅びることなく勝利することができるのです。イエス様が地面に指で書かれたものは分かりませんが、それは確かに彼らの良心を呼び覚ますものでした。 神様の御言葉を聞いても良心が痛まない人こそ、最も不幸な人です。彼らは罠を仕掛けても自らその罠に落ちるでしょう。しかし、心が刺され、良心の呵責を覚えた人は、手に持った石をおろすべきです。良心が戻れば、闘争的で暴力的だった人々の正気も戻るでしょう。そして、神様の憐れみと救いを思い起こし、共に生きるべき価値について考えるようになるでしょう。これは「姦淫してもゆるされる」という教訓ではなく、良心さえ生きていれば、滅びる人を救うことができるという教訓として読むべきです。これはイエス様が起こされたもう一つの奇跡の物語であり、その奇跡は人々に良心の呵責を感じさせるものでした。