마태복음 QT27 20210211목【요나의 표적이란】마태 12장38~50

마태 12장 38~5012:38 그 때에 서기관과 바리새인 중 몇 사람이 말하되 선생님이여 우리에게 표적 보여주시기를 원하나이다12:39 예수께서 대답하여 가라사대 악하고 음란한 세대가 표적을 구하나 선지자 요나의 표적 밖에는 보일 표적이 없느니라12:40 요나가 밤낮 사흘을 큰 물고기 뱃속에 있었던것같이 인자도 밤낮 사흘을 땅 속에 있으리라12:41 심판 때에 니느웨 사람들이 일어나 이 세대 사람을 정죄하리니 이는 그들이…

マタイによる福音書 QT26 20210210水【良い人は良い倉から良い物を取り出し】マタイ 12章 22~37

マタイ 12章 22~3712:22 そのとき、悪霊につかれて目が見えず、口もきけない人が連れて来られた。イエスが癒やされたので、その人はものを言い、目も見えるようになった。12:23 群衆はみな驚いて言った。「もしかすると、この人がダビデの子なのではないだろうか。」12:24 これを聞いたパリサイ人たちは言った。「この人が悪霊どもを追い出しているのは、ただ悪霊どものかしらベルゼブルによることだ。」12:25 イエスは彼らの思いを知って言われた。「どんな国でも分裂して争えば荒れすたれ、どんな町でも家でも分裂して争えば立ち行きません。12:26 もし、サタンがサタンを追い出しているのなら、仲間割れしたことになります。それなら、どのようにしてその国は立ち行くのですか。12:27 また、もしわたしが、ベルゼブルによって悪霊どもを追い出しているとしたら、あなたがたの子らが追い出しているのは、だれによってなのですか。そういうわけで、あなたがたの子らが、あなたがたをさばく者となります。12:28 しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。12:29 まず強い者を縛り上げるのでなければ、強い者の家に入って家財を奪い取ることが、どうしてできるでしょうか。縛り上げれば、その家を略奪できます。12:30 わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしとともに集めない者は散らしているのです。12:31 ですから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒瀆も赦していただけますが、御霊に対する冒瀆は赦されません。12:32 また、人の子に逆らうことばを口にする者でも赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、この世でも次に来る世でも赦されません。12:33 木を良いとし、その実も良いとするか、木を悪いとし、その実も悪いとするか、どちらかです。木の良し悪しはその実によって分かります。12:34 まむしの子孫たち、おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えますか。心に満ちていることを口が話すのです。12:35 良い人は良い倉から良い物を取り出し、悪い者は悪い倉から悪い物を取り出します。12:36 わたしはあなたがたに言います。人は、口にするあらゆる無益なことばについて、さばきの日に申し開きをしなければなりません。12:37 あなたは自分のことばによって義とされ、また、自分のことばによって不義に定められるのです。」   イエス様は悪霊につかれて目が見えず、口もきけない人の中にいる悪霊を追い出し、自由と安息を与えられました。ところが、パリサイ人たちは、イエス様が悪霊の力を借りて悪霊を追い出していると非難しました。これを見ると、最も恐ろしい目が見えず、口もきけないのはパリサイ人の中にいる悪霊かと思います。イエス様のも言葉とおりに悪霊が悪霊を追い出すことに何の意味があるでしょうか。良い実を見ても無理やり悪い木であると言い張るのは、霊的に悪しきものによって目が見えず、口もきけない人です。   信仰について言うと、それを形にして見せろと言われますがが、人々は見ることでは信じず、自分が信じたいことを信じます。信じたいことのために、事実を否定したり、真実を操作したりします。それが自己欺瞞、自分で自分をだますことです。良い実を結ばないことは必然的に木が悪いからです。逆に木が良い実が結んでとすればその木は良い木です。それを認めずにねたんでいる心が悪い木です。従ってそのような木は毒を含む実を結びます。   イエス様の善なるみわざを目でみましたが、口では悪口をしました。彼らにとっては目に見えることより大切なのは、イエスを認めたくないねたみの心だからです。宗教的な世界では自分たちが目立つべきですが、イエス様が注目されているので、それをねたんだからです。イエス様を引き下げ、自分たちの宗教的地位を維持し、さらに強化するためです。その根拠は憎しみです。   イエス様は、人のすべての罪は赦されるが、聖霊を妨げる罪は赦されないと厳重に警告されました。神様のなさることを見ても、自分をだまし、反対する愚かな心が聖霊を妨げることです。イエス様は彼らに対してまむしの子が心に悪を積み重ねていると指摘しました。信仰を積み重ねるなら良い実が結ばれ、自ら欺く愚かな心を積み重ねるならば毒を含んだ実になり、それが自分の中で結ばれます。

마태복음 QT26 20210210수【선한 사람은 그 쌓은 선에서 선한 것을 내고】마태 12장22~37

마태 12장 22~3712:22 그 때에 귀신들려 눈 멀고 벙어리 된 자를 데리고 왔거늘 예수께서 고쳐 주시매 그 벙어리가 말하며 보게 된지라12:23 무리가 다 놀라 가로되 이는 다윗의 자손이 아니냐 하니12:24 바리새인들은 듣고 가로되 이가 귀신의 왕 바알세불을 힘입지 않고는 귀신을 쫓아 내지 못하느니라 하거늘12:25 예수께서 저희 생각을 아시고 가라사대 스스로 분쟁하는 나라마다 황폐하여질 것이요 스스로…

マタイによる福音書 QT25 20210209火【安息日の主】マタイ 12章 1~21

マタイ 12章 1~2112:1 そのころ、イエスは安息日に麦畑を通られた。弟子たちは空腹だったので、穂を摘んで食べ始めた。12:2 するとパリサイ人たちがそれを見て、イエスに言った。「ご覧なさい。あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています。」12:3 しかし、イエスは言われた。「ダビデと供の者たちが空腹になったときに、ダビデが何をしたか、12:4 どのようにして、神の家に入り、祭司以外は自分も供の者たちも食べてはならない、臨在のパンを食べたか、読んだことがないのですか。12:5 また、安息日に宮にいる祭司たちは安息日を汚しても咎を免れる、ということを律法で読んだことがないのですか。12:6 あなたがたに言いますが、ここに宮よりも大いなるものがあります。12:7 『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、咎のない者たちを不義に定めはしなかったでしょう。12:8 人の子は安息日の主です。」12:9 イエスはそこを去って、彼らの会堂に入られた。12:10 すると見よ、片手の萎えた人がいた。そこで彼らはイエスに「安息日に癒やすのは律法にかなっていますか」と質問した。イエスを訴えるためであった。12:11 イエスは彼らに言われた。「あなたがたのうちのだれかが羊を一匹持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それをつかんで引き上げてやらないでしょうか。12:12 人間は羊よりはるかに価値があります。それなら、安息日に良いことをするのは律法にかなっています。」12:13 それからイエスはその人に「手を伸ばしなさい」と言われた。彼が手を伸ばすと、手は元どおりになり、もう一方の手のように良くなった。12:14 パリサイ人たちは出て行って、どうやってイエスを殺そうかと相談し始めた。12:15 イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。すると大勢の群衆がついて来たので、彼らをみな癒やされた。12:16 そして、ご自分のことを人々に知らせないように、彼らを戒められた。12:17 これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。12:18 「見よ。わたしが選んだわたしのしもべ、わたしの心が喜ぶ、わたしの愛する者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は異邦人にさばきを告げる。12:19 彼は言い争わず、叫ばず、通りでその声を聞く者もない。12:20 傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともない。さばきを勝利に導くまで。12:21 異邦人は彼の名に望みをかける。」   疲れ、重荷を背負った人を招き、安息を与えると言われたみ言葉は12章の安息日論争につながります。私のくびきは負いやすく軽いですといった言葉が安息日論争の中に入ると、信仰とは重荷を減らすものであって、それをさらに重くするものではないことを確認することができます。   安息日の朝に、弟子たちは畑を通りながら空腹を覚え、穂を切って食べました。当時は旅人が他人の畑の穂を切って食べることが制度的に許容されていました。かごに入れて持って帰らなければ大丈夫です。貧しい人と旅人のための慈悲と憐れみの制度です。   ですから誰もイエス様の弟子たちが他人の畑の穂を切って食べたということで問題を提起することはできません。ただし、穂を切って食べることがすなわち収穫と脱穀の行為であるということを問題視したのです。それが労働に該当し、労働を禁じている安息日の規定に違反するということです。みじめな話ですが、これが今朝の本文です。   イエス様はダビデの物語を引用し、わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない..と言われます。神様が人に6日間の労働を止め、安息を命じたのは、人を制限するためではなく、自由にするためです。いつも畑に置いている近視眼的視点は、自分も知らないうちに自分自身を縛ってしまいます。ですから、思い切って視線を天に置いて礼拝することが安息日の真の意味です。そうでなければ無意味なこだわりと欲に閉じ込められてしまうからです。   イエス様はまた、安息日に病人を癒しました。それに対してパリサイ人たちは、イエス様が安息日にしてはならない医療行為、すなわち労働をしたということで訴えます。イエス様は、安息日であってもあなたがたの財産を守ることについては働いているのではないかと言われ、貧しくて苦しい人の病気を癒したのが安息日の精神に反するのかと反問されました。当時は宗教権力は安息日に最も多くのお金を稼いていた時代でした。   このような精神を評価する際、イエス様を進歩的な博愛主義者であるとも言いますが、忘れてはならないことは、イエス様は受肉した神様であるということです。なので「人の子は安息日の主です」とされました。礼拝を受けられるべき方はイエス様ご自身です。   その方が人間を創造された方であって、安息日の礼拝を通して人間を人間らして守ってくださる方です。聖徒の位置づけはこれです。安息日の主はイエス様であり、主であるイエス様が最も大切にするのが人です。安息日は人を生かすための日であり、安息日の主は、人を生かすために来られた方です。  

마태복음 QT25 20210209화【안식일의 주인】마태 12장 1~21

마태 12장 1~2112:1 그 때에 예수께서 안식일에 밀밭사이로 가실쌔 제자들이 시장하여 이삭을 잘라 먹으니12:2 바리새인들이 보고 예수께 고하되 보시오 당신의 제자들이 안식일에 하지 못할 일을 하나이다12:3 예수께서 가라사대 다윗이 자기와 그 함께한 자들이 시장할 때에 한 일을 읽지 못하느냐12:4 그가 하나님의 전에 들어가서 제사장 외에는 자기나 그 함께한 자들이 먹지 못하는 진설병을 먹지 아니하였느냐12:5 또…

マタイによる福音書 QT24 20210208月【疲れた人、重荷を負っている人】マタイ 11章 20~30

マタイ 11章 20~3011:20 それからイエスは、ご自分が力あるわざを数多く行った町々を責め始められた。彼らが悔い改めなかったからである。11:21 「ああ、コラジン。ああ、ベツサイダ。おまえたちの間で行われた力あるわざが、ツロとシドンで行われていたら、彼らはとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。11:22 おまえたちに言う。さばきの日には、ツロとシドンのほうが、おまえたちよりもさばきに耐えやすいのだ。11:23 カペナウム、おまえが天に上げられることがあるだろうか。よみにまで落とされるのだ。おまえのうちで行われた力あるわざがソドムで行われていたら、ソドムは今日まで残っていたことだろう。11:24 おまえたちに言う。さばきの日には、ソドムの地のほうが、おまえよりもさばきに耐えやすいのだ。」11:25 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ、あなたをほめたたえます。あなたはこれらのことを、知恵ある者や賢い者には隠して、幼子たちに現してくださいました。11:26 そうです、父よ、これはみこころにかなったことでした。11:27 すべてのことが、わたしの父からわたしに渡されています。父のほかに子を知っている者はなく、子と、子が父を現そうと心に定めた者のほかに、父を知っている者はだれもいません。11:28 すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。11:29 わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」   なまけず、真面目に働くことは確かに良いことですが、仕事にも中毒というものあります。成り切っている人をほっとけば休まずに仕事に夢中になります。私の場合も、しばらくソファに座って休もうとすると、すぐに不安となり、ノートパソコンを探します。何かしなければならないという中毒症状です。休めない強迫は働かない怠惰と変わらない不幸な病気です。   神様はすべての人に「七」の周期で労働を休むとうにされました。現在、世界中のカレンダーはこれに従い、人が休むことなく労働することについては法律で禁じられています。7日を働いたら一日を休み、7年を働いたら一年を休み、七回を働いたら、一回を休むことです。   休むということは、疲れた肉体の労働を止めることではありますが、欲にブレーキをかけることでもあります。成り切ったところから立ち上がって世界を望むという意味でもあります。休むことににより、現在の位置と方向を把握し、動機と意味を確認することができます。そのような意味での旅行は、体を動かすことではありますが、休むことになります。   イエス様の言葉をよく聞いてみると、「あなたの重荷を下ろしなさい」で終わらず、「私のくびきは負いなさい」です。そしてイエス様のくびきは軽いと言われ、それからイエス様は、「わたしは心が柔和でへりくだっているから」と自己賞賛されます。   それはイエス様が柔和と謙遜という人格を誇るつもりではなく、負いやすく軽いくびきの性質について語られるのです。イエス様のくびきは柔和と謙遜で欲望による競争と紛争と高慢はありません。だからイエス様のものは軽いものであり、だから私たちのものは、そうでなく重苦しいのです。   イエス様が重荷を負った者を招待されたのは、人生の目的を変え、真の安息を味わせるためです。欲望により、休まない人間、休ませない世界を休ませるのが目的です。休みますが、神様の中で休むのです。同じ家に入って休むとしでもある人は快適に安息をとり、ある人にいらいらです。なぜなら、家主であれば楽ですが、他人の家に入ったのであれば不便だからです。私たちにおいてイエス様の人格がお家のような安息になることを願います。  

마태복음 QT24 20210208월【수고하고 무거운 짐진 자들아】마태 11장 20~30

마태 11장 20-~3011:20 예수께서 권능을 가장 많이 베푸신 고을들이 회개치 아니하므로 그 때에 책망하시되11:21 화가 있을진저 고라신아 화가 있을진저 벳새다야 너희에게서 행한 모든 권능을 두로와 시돈에서 행하였더면 저희가 벌써 베옷을 입고 재에 앉아 회개하였으리라11:22 내가 너희에게 이르노니 심판 날에 두로와 시돈이 너희보다 견디기 쉬우리라11:23 가버나움아 네가 하늘에까지 높아지겠느냐 음부에까지 낮아지리라 네게서 행한 모든 권능을 소돔에서…

マタイによる福音書 QT23 20210206土【剣をもたらすために】マタイ 10章 34~42

マタイ 10章 34~4210:34 わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはいけません。わたしは、平和ではなく剣をもたらすために来ました。10:35 わたしは、人をその父に、娘をその母に、嫁をその姑に逆らわせるために来たのです。10:36 そのようにして家の者たちがその人の敵となるのです。10:37 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。10:38 自分の十字架を負ってわたしに従って来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。10:39 自分のいのちを得る者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを得るのです。10:40 あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。また、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。10:41 預言者を預言者だからということで受け入れる人は、預言者の受ける報いを受けます。また、義人を義人だからということで受け入れる人は、義人の受ける報いを受けます。10:42 まことに、あなたがたに言います。わたしの弟子だからということで、この小さい者たちの一人に一杯の冷たい水でも飲ませる人は、決して報いを失うことがありません。」   「平和ではなく剣をもたらすために来ました」というイエス様の言葉は、ルカ12章ではもう少し詳しく出てきます。ルカは、「地上に火を投げ込むために来ました49」で始まり、「わたしが地上に平和をもたらすために来たと思っていますか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ分裂です 51」につながります。「父は息子に、息子は父に対立し、母は娘に、娘は母に対立し、姑は嫁に、嫁は姑に対立して分かれるようになります。53」は十戒の親を敬うことと衝突するように見えます。   現実的に福音を受け入れ、それを対外的に宣言することには、関係上の衝突を避けられません。その告白が純粋なものであればあるほど反対と葛藤は深まります。ルカはそれを克服することについて、「家族を憎まない場合…」という表現を使いましたが、マタイは、その誇張法的な表現を整理して「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません」としました。家族中心の考え方から見れば、どのように理解しても困難を覚える言葉です。   私たちは、家族共同体のために利益共同体に参加して経済活動をします。家族には、経済的利益が発生しなくても重要な価値と見なして、献身します。イエス様が家族を憎むようにと求めた言葉に失望する人がいるかと思いますが、家族利己主義を切って断面をみると、自分の子どもを愛する利己的な愛の理由で自分を育ててくれた親や兄弟と争っている人がいます。こういう言葉に引っ掛かり、異議を提起する前に、どのように愛しているを振り返ってみるべきです。   イエス様が家族の愛を制限しているのではありません。大切な家族も偶像化してしまうなら、その視野は狭く、神様と隣人を愛することはできなくなるからです。偶像化した家族の利己主義は、家族のためにも真の意味の愛にはなりません。しかし、神様を愛すること、その愛は利己的なものではなく、不寛容なものでもないので、神様の愛の中で、家族は今よりももっと愛することができます。   40節以下に続く言葉はそのような覚悟と献身をもって伝道者の道を歩む人を受け入れなさいということにつながります。「預言者を預言者だからということで受け入れる人は、預言者の受ける報いを受けます41」「わたしの弟子だからということで、この小さい者たちの一人に一杯の冷たい水でも飲ませる人は、決して報いを失うことがありません。42」イエス様は、すべての人に広がった意味の愛と献身を求められます。共同体が、家族利己主義を克服し、宣教に献身した人を家族として受け入れることを通して群れは宣教共同体に生まれ変わるのです。  

마태복음 QT23 20210206토【검을 주러 왔노라】마태 10장 34~42

마태 10장 34~4210:34 내가 세상에 화평을 주러 온 줄로 생각지 말라 화평이 아니요 검을 주러 왔노라10:35 내가 온 것은 사람이 그 아비와, 딸이 어미와, 며느리가 시어미와 불화하게 하려 함이니10:36 사람의 원수가 자기 집안 식구리라10:37 아비나 어미를 나보다 더 사랑하는 자는 내게 합당치 아니하고 아들이나 딸을 나보다 더 사랑하는 자도 내게 합당치 아니하고10:38 또 자기 십자가를…

マタイによる福音書 QT22 20210205金【拒絶される福音】マタイ 10章 16~33

マタイ 10章 16~3310:16 いいですか。わたしは狼の中に羊を送り出すようにして、あなたがたを遣わします。ですから、蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい。10:17 人々には用心しなさい。彼らはあなたがたを地方法院に引き渡し、会堂でむち打ちます。10:18 また、あなたがたは、わたしのために総督たちや王たちの前に連れて行かれ、彼らと異邦人に証しをすることになります。10:19 人々があなたがたを引き渡したとき、何をどう話そうかと心配しなくてもよいのです。話すことは、そのとき与えられるからです。10:20 話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話される、あなたがたの父の御霊です。10:21 兄弟は兄弟を、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に逆らって立ち、死に至らせます。10:22 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。10:23 一つの町で人々があなたがたを迫害するなら、別の町へ逃げなさい。まことに、あなたがたに言います。人の子が来るときまでに、あなたがたがイスラエルの町々を巡り終えることは、決してありません。10:24 弟子は師以上の者ではなく、しもべも主人以上の者ではありません。10:25 弟子は師のように、しもべは主人のようになれば十分です。家の主人がベルゼブルと呼ばれるくらいなら、ましてその家の者たちは、どれほどひどい呼び方をされるでしょうか。10:26 ですから彼らを恐れてはいけません。おおわれているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずにすむものはないからです。10:27 わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。あなたがたが耳もとで聞いたことを、屋上で言い広めなさい。10:28 からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。10:29 二羽の雀は一アサリオンで売られているではありませんか。そんな雀の一羽でさえ、あなたがたの父の許しなしに地に落ちることはありません。10:30 あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています。10:31 ですから恐れてはいけません。あなたがたは多くの雀よりも価値があるのです。10:32 ですから、だれでも人々の前でわたしを認めるなら、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。10:33 しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも、天におられるわたしの父の前で、その人を知らないと言います。   イエス様は福音伝道者が世の反対にぶつかり、迫害を受けることを予告されます。福音の働きのために公会議で裁かれ、会堂でむち打たれ、総督と王たちの前に連れて行かれます。これが阿鼻叫喚となり、兄弟は兄弟を、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に逆らって立ち、死に至らせます。恐ろしい預言です。   イエス様が言われているのは、福音のための苦しみます。歴史の中でその預言は成就され、また今もなお達成されているところです。キリスト教の信仰は、迫害という危機を迎えるたびに、福音の生命力がよみがえてくる神秘的な宗教でした。苦難を受けるたびに、信仰の本質が回復します。確かに苦難の予告は恐ろしいものですが、福音はそのような環境の中で生きていて救いの活動をします。   ところが、危機と苦難が消え、教会が社会の位置を獲得し始めると教会は力を失い、世俗化してしまいます。社会の中で生きなければならない教会が社会的信頼を失ってしまえば、教会の居場所もなくなります。それは福音のための苦しみではなく、偽の福音がもたらす世の拒絶です。宣教は、天国でするのではなく、この地においてしなければならないことだからです。地上でつなぐことは天でもつながれ、何でもあなたがたが地上で解くことは天でも解かれます。   福音を言うために何から始めれば福音の意味を伝えることができるでしょうか?病気の体の癒しと日常の必要が満たされる祝福を言ってみても、福音の恵みは届かず、かえって誤解されてしまいます。それによって福音を理解した人は、再び病み、乏しみ、困難にあえば離れてしまいます。しかし、福音は、そのような人と神様をつなげる恵みです。   伝道者が福音を語るためには、目に見える祝福を言う前に隠されている罪を言葉で言わなければなりません。救いは、罪からの救いだからです。罪を認識し、自覚していない人の福音はまだ福音がありません。ですから罪を指摘する福音は世によって憎まれ、また世の道徳基準をもっていない教会は、世によって拒絶されるのです。   福音を伝えることは、罪を告発し、非難するためではありません。福音は赦しを語っています。罪を知らないので当然赦しを受けいれる必要もありません。ということで福音は、今日も拒絶されます。イエス様は赦しのために十字架につけられましたが、それのために憎まれました。そのように、十字架の福音を伝えば、それのために嫌われるのです。しかし、赦された罪人の共同体は、それに負けず、それに恐れず、福音を告白し、宣言していきます。