욥기 QT39 211116화【모르는 지식】욥기 26장 1~14

욥기 26장 1~1426:1 욥이 대답하여 가로되26:2 네가 힘 없는 자를 참 잘 도왔구나 기력 없는 팔을 참 잘 구원하였구나26:3 지혜 없는 자를 참 잘 가르쳤구나 큰 지식을 참 잘 나타내었구나26:4 네가 누구를 향하여 말을 내었느냐 뉘 신이 네게서 나왔느냐26:5 음령들이 큰 물과 수족 밑에서 떠나니26:6 하나님 앞에는 음부도 드러나며 멸망의 웅덩이도 가리움이 없음 이니라26:7 그는…

ヨブ記 QT38 211115月【うじ虫にたとえられた人生】ヨブ記 25章 1~6

ヨブ記 25章 1~625:1 シュアハ人ビルダデが答えた。25:2 主権と恐れは神のもの。神はその高い所で平和をつくられる。25:3 その軍勢の数には限りがあるだろうか。その光に照らされない者がいるだろうか。25:4 人はどうして神の前に正しくあり得るだろうか。女から生まれた者が、どうして清くあり得るだろうか。25:5 ああ、神の目には月さえ輝きがなく、星も清くない。25:6 まして、うじ虫でしかない人間、虫けらでしかない人の子はなおさらだ。   イザヤ41章で、神様はヤコブを「虫けら」と言いました。「恐れるな。虫けらのヤコブ、イスラエルの人々。わたしがあなたを助ける。──主のことば ──あなたを贖う者はイスラエルの聖なる者。41:14」ヤコブはイスラエルのことであり、イスラエルは人間のことです。   詩編22編ではダビデが自らを虫であると言いました。「しかし私は虫けらです。人間ではありません。人のそしりの的民の蔑みの的です。 22:6」 今日、本文のビルダデの表現にも「うじ虫でしかない人間、虫けらでしかない人の子」という言葉が出てきます。聖なる神様の前に立った罪深い人間が、自分の存在を悟るとき、うじ虫、虫けらなどの表現をすることはあり得るかと思います。ところが、それが他人に対するものであれば、事実かどうかを問わずに、引き下げるべきことであり、蔑むことです。   ビルダデも他の友人のように美辞麗句を立て板に水のように語っていますが、脳を通さず、心を通さずに口で言っている言葉です。ヨブの罪を指摘するために使われている表現は、ヨブの人格(6)と、ヨブの両親(4)と神様の創造された被造世界(5)までも罪悪に満ちたものとしています。2節では「神様は主権と恐れをもって高い所で平和をつくられる」と言いますが、ルカの福音書では、「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。2:14」とあります。お腹が空いた人がご飯を食べることと、孤独な人が慰められることと、病気の人が癒されることが、すなわち平和です。   人間がうじ虫、虫けらであるというのは、聖なる神様の前では人間は腐敗したという知識が前提としてありませ。だとすれば、もう一つの知識も必要なります。それは、神様がそんな人間を愛され、貴い存在として思われる、ということです。たとえ虫けらと表現される悲惨な状態の人間ですが、神様はそのような人を尊重しているということです。私たちね無視と蔑視に代わって和平を成してくださった十字架の愛がそれを証明します。   イザヤ書で、神様が虫けらのようなイスラエルと言われたのと、詩篇で虫けらのようなダビデが神様に訴えているのは、虐待や自虐ではなく、助けを求めているのであって、またそれに対する神様の約束の場面です。神様に赦された人が、人を赦すことができます。神様に愛された人が、人を愛することができます。ビルダデは、果たして自分の個人的な祈りでこのような告白をしたのでしょうか。自分が虫けらだったら、虫けらを憐れむべきです。ビルダデは自分の信仰という名の刀を握り、神様の愛を突き刺し、蔑んでいるのです。

욥기 QT38 211115월【구더기에 비교된 인생】욥기 25장 1~6

욥기 25장 1~625:1 수아 사람 빌닷이 대답하여 가로되25:2 하나님은 권능과 위엄을 가지셨고 지극히 높은 곳에서 화평을 베푸시느니라25:3 그 군대를 어찌 계수할 수 있으랴 그 광명의 비췸을 입지 않은 자가 누구냐25:4 그런즉 하나님 앞에서 사람이 어찌 의롭다 하며 부녀에게서 난 자가 어찌 깨끗하다 하랴25:5 하나님의 눈에는 달이라도 명랑치 못하고 별도 깨끗지 못하거든25:6 하물며 벌레인 사람, 구더기인…

ヨブ記 QT37 211113土【ヨブ記23章10節の理解】ヨブ記 23章 1~17

ヨブ記 23章 1~1723:1 ヨブは答えた。23:2 今日もまた、私の嘆きは激しく、自分のうめきのゆえに私の手は重い。23:3 ああ、できるなら、どこで神に会えるかを知って、その御座にまで行きたいものだ。23:4 私は神の御前に自分の言い分を並べて、ことばを尽くして訴えたい。23:5 神が私に答えることばを知り、神が私に言われることをわきまえ知りたい。23:6 神は強い力で私と争われるだろうか。いや、むしろ私に心を留めてくださるだろう。23:7 そこでは正直な人が神と論じ合うことができ、私は、とこしえにさばきを免れるだろう。23:8 だが見よ。私が前へ進んでも、神はおられず、うしろに行っても、神を認めることができない。23:9 左に向かって行っても、神を見ることはなく、右に向きを変えても、会うことができない。23:10 しかし神は、私の行く道を知っておられる。私は試されると、金のようになって出て来る。23:11 私の足は神の歩みにつき従い、神の道を守って、それたことがない。23:12 私は神の唇の命令から離れず、自分の定めよりも神の口のことばを蓄えた。23:13 しかし、みこころは一つである。だれがその御思いを翻せるだろうか。神はご自分が欲するところを行われる。23:14 神は、私について定めたことを成し遂げられる。神にはそのような多くの定めがあるからだ。23:15 それで私は、神の御前でおびえ、思いを巡らして、神を恐れているのだ。23:16 神は私の心を弱くされた。全能者が私をおびえさせられたのだ。23:17 しかし、闇によって私が黙らされることはない。私の顔が暗黒におおわれていても。   23章は、エリファズに対するヨブの抗弁ですが、私たちに親しみのある御言葉があります。 23章10節です。「しかし神は、私の行く道を知っておられる。私は試されると、金のようになって出て来る。」23章10節は、この間の8章7節「あなたの始まりは小さくても、あなたの終わりは、きわめて大きなものとなる。」の場合のように背景や文脈を考えると、解釈に誤解を招きやすい箇所です。ヨブ23章10節の韓国語の他の翻訳(私の重訳)を参照にすると、次のとおりになります。   「神様は、私が足を一度運ぶのを知っておられる方です。私を試してみると、私に傷がないことがわかります!標準新訳」 「それでも神様はわたしの運んでおく歩みを知っておられる方。私がどんな人間なのかを見てみようとされますが、私はきれいな人間であることを知るようになります。現代語聖書」 「しかし、神様は私の歩みをことごとく知っておられるから、はたいて、またはたいても私は純金のようにきれいです。共同訳」   もともと私たちの解釈は「神様が火のような試験を与えても、この試練が終われば私は純金になって神様の前に立ちます」と、ヨブが状況を受け入れる意志であると理解しますが、文の意味は「神様が私をどんなに試しても、私は今、現在の純金のように純粋です」ということです。そう言った後、ヨブは自分は偏らずに神様に従い、命令に背かず、食べ物よりも神様のみことばを慕ったと言います。そこに不純な意図が混ざっていないため自分は純金だということです。   これほど自らの潔白を強調するヨブを見ると、疑いの目を向けてしまうものです。友人たちの断罪は、ますます鋭い刀になり、ヨブの無実の訴えは、ますます自己陶酔と過大妄想になっているようにも見えます。もちろんヨブは完全ではありません。ヨブに罪が全くないということも認められません。ただし、ヨブは自分がしなかった悪行を疑われていて、友人たちはそれを確信的に問題視している中、そのような自分の行為がなかったという事実を証明しなければならない状況です。   読み進めていくと、15節でヨブは神を恐れています。10節と同じように重要なのが15節です。「それで私は、神の御前でおびえ、思いを巡らして、神を恐れているのだ。」10節が自分の信仰の真実を友人に訴えた箇所であれば、15節はヨブが神様の前で恐れ震えている姿を映し出しています。   8章7節の「あなたの始まりは小さくても、あなたの終わりは、きわめて大きなものとなる。」は、神様がヨブに言われた御言葉ではありません。ビルダデがヨブに言ったことと同じように、23章10節の「しかし神は、私の行く道を知っておられる。私は試されると、金のようになって出て来る。」もヨブは神様に告白した言葉ではなく、友達に弁論した言葉です。つまりヨブは妄想しているのではない。人には無実を証しし、神様の前では恐れなければならないからです。 23章10節の御言葉を愛したいなら、まず人の前に恥じのないように生きなければなりません。   金というものは、混ぜるとより強くなり、使いやすくなります。だから、純金で生きるということは、合金より美しくない、派手でもなく、弱くて不便な事になるかもしれません。ヨブが純金であるというのは、優れているという意味ではなく、純粋であるという意味です。ヨブは苦しみに置かれていますが、人の前で恥ずべきことはありません。ですから、より多くのものを混ぜて合金になろうとする人々にとって、神を恐れるヨブは羨ましい人だと言えるでしょう。

욥기 QT37 211113토【욥기23장 10절의 이해】욥기 23장 1~17

욥기 23장 1~1723:1 욥이 대답하여 가로되23:2 내가 오늘도 혹독히 원망하니 받는 재앙이 탄식보다 중함이니라23:3 내가 어찌하면 하나님 발견할 곳을 알꼬 그리하면 그 보좌 앞에 나아가서23:4 그 앞에서 호소하며 변백할 말을 입에 채우고23:5 내게 대답하시는 말씀을 내가 알고 내게 이르시는 것을 내가 깨달으리라23:6 그가 큰 권능을 가지시고 나로 더불어 다투실까 아니라 도리어 내 말을 들으시리라23:7 거기서는…

ヨブ記 QT36 211112金【エリファズのニンジンの鞭】ヨブ記 22章 21~30

ヨブ記 22章 21~3022:21 さあ、あなたは神と和らぎ、平安を得よ。そうすれば幸いがあなたのところに来るだろう。22:22 神の口からみおしえを受け、そのみことばを心にとどめよ。22:23 もし全能者に立ち返るなら、あなたは再び立ち直る。自分の天幕から不正を遠ざけるなら。22:24 あなたは黄金を土のちりの上に置け。オフィルの金を川の小石の間に。22:25 そうすれば全能者はあなたの黄金となり、あなたにとっての尊い銀となる。22:26 そのとき必ず、あなたは全能者を自分の喜びとし、神に向かって顔を上げることができる。22:27 あなたが神に祈ると、神はあなたに聞き、あなたは自分の誓願を果たすことができる。22:28 あなたが事を決めると、それは成り、あなたの道の上には光が輝く。22:29 彼らが気落ちすれば、あなたは「勇気を出せ」と言う。こうして、へりくだっている者は救われる。22:30 潔白でない者さえ助け出され、あなたの手のきよさによって逃れる。   エリファズの発言に間違いはありません。まさに模範答案ではありますが、ヨブが置かれた状況の前後関係には言及せず、解答だけをぽっと投じた感じです。エリファズ自身は問題を解く力を持っておらず、問題に悩んでもいませんでした。答えを覚えているだけです。ところが、エリファズは最後のところに来て、やや言葉が柔らかくなってきました。ツォファルはすでに議論から外されており、エリファズも長い議論で疲れているようです。ヨブが折れないからです。   強攻で勝てなかったエリファズの口調は回遊に変わります。いわゆるニンジンと鞭(Carrot&Stick)です。ロバは言うことをよく聞かないので働かせにくいと言っています。だからロバが好きなニンジンを口に届くように頭の上にぶら下げ、お尻は鞭で打ちます。すると、ロバはニンジンが食べたい一心で、お尻が痛いのも構わず、ひたすら走ります。もちろん生産力と遂行力は増大します。   これをさらに最大化したのがクレスピ効果(Crespi Effect)です。ニンジンをより多く与え、鞭もより強く打つと生産力が増大していくということです。まずは、ニンジンと鞭の効果で始まりますが、人間がそれにも慣れて緩んでいると、報酬と罰の水位を高め、より多くのことを遂行させることが、このクレスピ効果です。   人をロバのニンジンと鞭に比べるのは、いい気持ちにはありませんが、動機を与え、人を動かすための適切な補償、それから責任が伴う処罰は、明らかに効果があります。ところで、私たちはあまりにもそれに慣れています。短期的なグレスピ効果は確かにありますが、長期的には副作用につながります。生産性は増大しますが、人間性は後退します。人間はロバではないからです。人を動かすための心理的効果を狙うよりも、人間に対する尊重が先にあればと思います。ヨブには慰めの一言が切実です。

욥기 QT36 211112금【엘리바스의 당근과 채찍】욥기 22장 21~30

욥기 22장 21~3022:21 너는 하나님과 화목하고 평안하라 그리하면 복이 네게 임하리라22:22 청컨대 너는 그 입에서 교훈을 받고 그 말씀을 네 마음에 두라22:23 네가 만일 전능자에게로 돌아가고 또 네 장막에서 불의를 멀리 버리면 다시 흥하리라22:24 네 보배를 진토에 버리고 오빌의 금을 강 가의 돌에 버리라22:25 그리하면 전능자가 네 보배가 되시며 네게 귀한 은이 되시리니22:26 이에 네가…

ヨブ記 QT35 211111木【エリファズのギブアンドテイク】ヨブ記 22章 1~20

ヨブ記 22章 1~2022:1 テマン人エリファズが答えた。22:2 人は神の役に立てるだろうか。賢い人でさえ、ただ自分自身の役に立つだけだ。22:3 あなたが正しいからといって、それが全能者の喜びとなるだろうか。あなたの行いが全きものであるからといって、それが神にとって益になるだろうか。22:4 あなたが神を恐れているためか。神があなたを責められるのは。神があなたとともにさばきの座に入って行かれるのは。22:5 いや、それはあなたの悪が大きく、あなたの不義に際限がないからではないか。22:6 あなたは理由もなく兄弟から質物を取り、着ている物をはぎ取って裸にし、22:7 疲れている人に水を飲ませず、飢えている人に食物を拒んだからだ。22:8 土地を所有している有力者のように、そこに住む、名のある者のように、22:9 あなたはやもめを手ぶらで去らせ、みなしごたちの腕を折った。22:10 そのため罠があなたを取り巻き、恐れが突然あなたを脅かすのだ。22:11 あるいは、闇のために見ることもできなくなり、みなぎる水があなたをおおうのだ。22:12 神は天の高きにおられるではないか。星々の頂を見よ。それらはなんと高いことか。22:13 あなたは言う。「神に何が分かるだろうか。黒雲の中からさばくことができるだろうか。22:14 濃い雲が覆いとなって、神は見ることができない。神は天空を歩き回るだけだ」と。22:15 あなたは昔からの道を守って行くのか。悪人どもが歩んだあの道を。22:16 彼らは年若くして取り去られ、彼らの土台は流れに押し流された。22:17 彼らは神に向かって、「私たちから離れてくれ」と言った。全能者は彼らに何をなさるだろうか。22:18 しかし神は、彼らの家を良き物で満たされた。だが、悪者のはかりごとは私と何の関係もない。22:19 正しい者は見て喜び、潔白な者は彼らを嘲って言う。22:20 「まことに、私たちに向かい立った者は滅ぼされ、悪人どもが残した物は火が焼き尽くした」と。   22章から26章は、ヨブと友人の3回目の議論です。友人たちは、ヨブに悔い改めを促しましたが、ヨブの立場が変わらなかったので、ヨブに対する非難と攻撃の水位を高めます。エリファズは、ヨブの苦しみについて、間違いなく誰かの財産を奪い、貧しい人々に慈悲を与えず、権力と富を用い、利益を貪ったからだと言います。もちろん推測です。その推測は、神様は、人間の行為によって処罰される方であるという考え方に基づいています。   しかし、ヨブは人を搾取する無慈悲な人ではありませんでした。エリファズは,ヨブが主張する自分の敬虔が神様に利益にならないと言いながらも,自分が推測したヨブの搾取が神様の懲罰を受けるようになった原因である、という矛盾的な話をします。隣人の権利に対する尊重と配慮が神様に罰を受けないためのこと、または祝福を受けるためのこととして展開される論理に虚無を覚えます。   エリファズの中では、神様と自分の信仰の関係で何かの計算法があるようです。 「あなたが正しいからといって、それが全能者の喜びとなるだろうか。あなたの行いが全きものであるからといって、それが神にとって益になるだろうか。」神様の利益を取り上げます。いわゆる「ギブアンドテイク(Give and Take)」です。このような論理が成立すれば、神様に有益にならなければ、人間は祝福を受けることができないので、人間は祝福を受けるために神様に一生懸命何かをしなければなりません。もちろん神様に対して何かをするということは素晴らしいことですが、恵みを知らずにそれを行うならば、それは友達のケースのように、むしろ刃物になることがあります。ささげれば祝福を受け、ささげなければ罰を受けるという考え方が律法主義です。   「人間に対する神様の恵み」と「神様に対する人間の信仰」は、それ自体が相互関係にあります。関係性を離れては単なる無駄話にしかなりません。神様と人の関係が「取り引き」になってはいけません。それを区別する必要があります。新約聖書で使う「恵み(カリスκαρις)」という言葉は、値なしに与えられる救いの恵み、つまり福音です。たとえば、親の愛という恵みを返すと言うときに、それを債務の返済という取り引きの意味で考える人はおそらくいません。愛を受けることが恵みであり、それをまた伝えていく、流していくことが恩返しです。エリファズも多くの恵みを受けています。自分の罪は隠されたまま祝福の生活をしています。ヨブを攻める前に、神様から受けた恵みを少しでも、かわいそうなヨブに受け流せたら、それは素晴らしいのではないかと思います。

욥기 QT35 211111목【엘리바스의 기브앤테이크】욥기 22장 1~20

욥기 22장 1~2022:1 데만 사람 엘리바스가 대답하여 가로되22:2 사람이 어찌 하나님께 유익하게 하겠느냐 지혜로운 자도 스스로 유익할 따름이니라22:3 네가 의로운들 전능자에게 무슨 기쁨이 있겠으며 네 행위가 온전한들 그에게 무슨 이익이 있겠느냐22:4 하나님이 너를 책망하시며 너를 심문하심이 너의 경외함을 인함 이냐22:5 네 악이 크지 아니하냐 네 죄악이 극하니라22:6 까닭없이 형제의 물건을 볼모 잡으며 헐벗은 자의 의복을…

ヨブ記 QT34 211110水【人は死にます】ヨブ記 21章 17~34

ヨブ記 21章 17~3421:17 幾たび、悪者どものともしびが消え、破局が彼らの上に臨み、神が怒って彼らに滅びを分け与えられることか。21:18 彼らは風の前の藁のようではないか。つむじ風が吹き散らす籾殻のようではないか。21:19 神がそのような者の子らのために、わざわいを秘めておられるというのか。その人自身が報いを受けて、思い知らなければならないのだ。21:20 その人自身の目が自分の滅びを見、自分が全能者の憤りを吞まなければならない。21:21 自分の日数が限られているのに、なぜ自分の後の家のことを気にかけるのか。21:22 人が神に知識を教えようとするのか。神は、高ぶる者たちにさばきを下されるのだ。21:23 ある者は元気盛りの時に死ぬ。全く安らかに、平穏のうちに。21:24 そのからだは脂ぎって、骨の髄まで潤っている。21:25 しかし、ある者は苦悩のうちに死ぬ。幸せを味わうこともなく。21:26 両者はともに土のちりに伏し、うじ虫が彼らをおおう。21:27 確かに私は、あなたがたの計画を知っている。私を不当に扱おうとする企みを。21:28 あなたがたは言う。「高貴な人の家はどこにあるか。悪しき者たちが住んだ天幕はどこにあるか」と。21:29 あなたがたは道行く人たちに尋ねなかったのか。彼らの証しをよく調べたことはないのか。21:30 悪人がわざわいの日を免れ、激しい怒りの日から連れ出されるというのか。21:31 だれが面と向かって、彼の行くべき道を告げることができるのか。彼がしたことに対して、だれが報いることができるのか。21:32 彼は墓場に運ばれ、その塚の上には見張りが立てられる。21:33 谷の土くれは彼には快く、すべての人間が彼の後について行き、彼の先には数えきれない人がいる。21:34 それなのに、どうしてあなたがたは空しいことばで私を慰めようとするのか。あなたがたの応答は、不信実以外の何でもない。   自分が死ぬ存在であることを覚えているなら、直面していることが重要か重要ではないかをわきまえることができると思います。死を覚えると、私たちの貪欲と愚かさの多くのことがなくなるかもしれません。ヨブは本文の終わりに、「どうしてあなたがたは空しいことばで私を慰めようとするのか」と言います。友人がヨブの心情を慰めたということではありません。友人はヨブの失われた財産、家族、健康などを惜しんいるだけです。彼らはいわゆる祈福と成功主義を信仰と同一視しました。だから、ヨブは「あなたたちが注目しているのは死ぬ人間にとって虚しいことではないか」と叱責しているのです。   本文でヨブの最後の発言は「あなたがたの応答は、不信実以外の何でもない」です。つまり嘘だということです。友達が偽りを作り出して嘘をついているとは思いません。彼らは自分なりに自信を持って話しています。ところで怖いのは、それが偽だということです。意図的な嘘の言葉を言うだけが偽りではなく、真実を知らないのが偽りです。それを知ろうともしないことが偽りです。毎日のように人が死んでいく真理を目の当たりにて生きながら、自分はまるで死なないように生きるのが偽りです。生きたいから死を否定しますが、死を否定すると、生きる方法が見つかりません。   抗がんを拒否して闘病している老学者李御寧(イ・オリョン)先生は、死の過程を書き留めることができて幸せだと言いました。先生に与えられた残りの時間は、死に向かって行く人間の物語を執筆しています。私は死を経験した人の文を読んだことがありません。永遠に読めないです。死んでから天国に行ったきたという人たちの言葉は多いですが、死の真正な定義は、戻れない道を行ったことなので、それは死後の話ではありません。ということで、最も現実的な死に関する話というのは、李御寧先生が言うように死を考えて、その先に歩いていく人の話しです。   死を準備する彼は若者にこう言います。「若いからこそ、死を考えなさい」と。伝道の書でソロモンもそう言いました。「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に 伝道の書12:1」母が亡くなった後、病状日記を発見しました。死ぬかもしれないという恐れの中で神様に祈ったのは、子どもたちと別れるのが恐いとのことが書かれていました。忙しい日々、走り回っていますが、立ち止まって人生の中で何をすべきかを考え直さなければならないと思います。