마태복음 QT67 210330화【유다의 죽음】마태 27장 1~10

마태 27장 1~10 27:1 새벽에 모든 대제사장과 백성의 장로들이 예수를 죽이려고 함께 의논하고27:2 결박하여 끌고 가서 총독 빌라도에게 넘겨주니라27:3 때에 예수를 판 유다가 그의 정죄됨을 보고 스스로 뉘우쳐 그 은 삼십을 대제사장들과 장로들에게 도로 갖다 주며27:4 가로되 내가 무죄한 피를 팔고 죄를 범하였도다 하니 저희가 가로되 그것이 우리에게 무슨 상관이 있느냐 네가 당하라 하거늘27:5 유다가…

マタイによる福音書 QT66 20210329月【ペテロの裏切り】マタイ 26章 69~75

マタイ 26章 69~75 26:69 ペテロは外の中庭に座っていた。すると召使いの女が一人近づいて来て言った。「あなたもガリラヤ人イエスと一緒にいましたね。」26:70 ペテロは皆の前で否定し、「何を言っているのか、私には分からない」と言った。26:71 そして入り口まで出て行くと、別の召使いの女が彼を見て、そこにいる人たちに言った。「この人はナザレ人イエスと一緒にいました。」26:72 ペテロは誓って、「そんな人は知らない」と再び否定した。26:73 しばらくすると、立っていた人たちがペテロに近寄って来て言った。「確かに、あなたもあの人たちの仲間だ。ことばのなまりで分かる。」26:74 するとペテロは、噓ならのろわれてもよいと誓い始め、「そんな人は知らない」と言った。すると、すぐに鶏が鳴いた。26:75 ペテロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」と言われたイエスのことばを思い出した。そして、外に出て行って激しく泣いた。   マタイの福音書の主人公はここでしばらく変わります。イエス様は登場せず、ペテロが主役になりますが、テーマはまさに裏切りです。ペテロは、身の安全を確保するために三度、イエス様を知らないと答えます。注目したいのは、その程度が最初は「否定」、その後は「誓い」となり、最後は「呪い」になっていくという点です。偽りを貫くためにイエス様を呪ってしまいました。   誰でもイエス様を裏切ることができます。しかし、教会に失望したとか、自分の信仰が足なかったとかなどの言葉は、自己憐憫のゆえに美化したことにすぎません。イエス様を裏切る唯一の理由は、自分のためです。ユダの場合も、ペテロの場合も、パリサイ人や祭司やピラトの場合も、殺しなさいと叫んだ群衆の場合も同じです。   イエス様は私のために血を流しに行きますが、イエス様のために涙一滴、汗一滴も流せない利己的なのが、人間だからです。それでもイエス様は失望されなかったでしょう。なぜなら、人間というのは自己愛に満ちた希望のない利己主義者であることを知っておられるからです。それが罪であり、それに代わって十字架にかけられたのです。赦しのための十字架を裏切っているペテロの裏切りのパラドックスが悽絶です。   「ペテロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」と言われたイエスのことばを思い出した。そして、外に出て行って激しく泣いた。75」泣いているペテロに必要なのは、励まし、慰めにではなく、さらなる涙です。もっと泣かなければありません。ペテロは、夜明けの鶏が泣くたびにこのことが思い出され、庭に出ていて泣いていたと伝われますが、それも仕方がないことです。記憶に残っている後悔までも洗うことはできないからです。   一滴の血も残さず、すべて流されて死なれたイエス様の十字架の上で、裏切り者の涙さえ免除するなら、回復の道はありません。安っぽい赦しと励しは魂を救うことができません。それらはお金さえあれば、世からでも手に入れるようなものです。ペテロは悔恨の涙の中で福音が何であるかを発見したのです。

마태복음 QT66 210329월【베드로의 배신】마태 26장 69~75

마태 26장 69~75 26:69 베드로가 바깥 뜰에 앉았더니 한 비자가 나아와 가로되 너도 갈릴리 사람 예수와 함께 있었도다 하거늘26:70 베드로가 모든 사람 앞에서 부인하여 가로되 나는 네 말하는 것이 무엇인지 알지 못하겠노라 하며26:71 앞문까지 나아가니 다른 비자가 저를 보고 거기 있는 사람들에게 말하되 이 사람은 나사렛 예수와 함께 있었도다 하매26:72 베드로가 맹세하고 또 부인하여 가로되…

マタイによる福音書 QT65 20210327土【ユダの口づけ】マタイ 26章47~56

マタイ 26章 47~56 26:47 イエスがまだ話しておられるうちに、見よ、十二人の一人のユダがやって来た。祭司長たちや民の長老たちから差し向けられ、剣や棒を手にした大勢の群衆も一緒であった。26:48 イエスを裏切ろうとしていた者は彼らと合図を決め、「私が口づけをするのが、その人だ。その人を捕まえるのだ」と言っておいた。26:49 それで彼はすぐにイエスに近づき、「先生、こんばんは」と言って口づけした。26:50 イエスは彼に「友よ、あなたがしようとしていることをしなさい」と言われた。そのとき人々は近寄り、イエスに手をかけて捕らえた。26:51 すると、イエスと一緒にいた者たちの一人が、見よ、手を伸ばして剣を抜き、大祭司のしもべに切りかかり、その耳を切り落とした。26:52 そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに収めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。26:53 それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今すぐわたしの配下に置いていただくことが、できないと思うのですか。26:54 しかし、それでは、こうならなければならないと書いてある聖書が、どのようにして成就するのでしょう。」26:55 また、そのとき群衆に言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしを捕らえに来たのですか。わたしは毎日、宮で座って教えていたのに、あなたがたはわたしを捕らえませんでした。26:56 しかし、このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書が成就するためです。」そのとき、弟子たちはみなイエスを見捨てて逃げてしまった   口づけは愛と平和のサインです。しかし、ユダは、兵士たちにイエス様が誰であるかを識別するためのサインとしてイエス様に口づけしました。裏切りは口づけという偽善で約束されたのです。ユダは、イエス様との親交を用いてイエス様を売りました。イエス様を知っていたこそ裏切りがができ、イエス様に口づけすることができたこそ裏切りができました。知っていること、従っていたこと、それがユダの特権です。イエス様は、よく知っている人、従っていた人々、口づけする人によって売られていきます。   弟子の一人が剣を抜いて大祭司のしもべを打ち、その耳を落としましたが、「剣をもとに収めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。52」と言われました。卑劣な口づけに売られていきますが、正当に思われる暴力も使ってはいけないということです。暴力の習慣は、正当でない時にも起き、神の名によって剣を振る舞い、イエス様に口づけて人を殴り、殺すからです。   ボブ・ディランの曲の中の神は私たちの側(With God On Our Side)という歌があります。このタイトルは、皮肉です。曲中にユダの口づけが出てきます。ユダがイエス様に口づけたとしてユダがイエス様の側ではないということです。神様が自分の側だと思っている時代と国の偽善に抵抗する歌です。当時に戦争と暴力で多くの人が死に、その家族が苦しんでいるのに、神様が私たちの方と言えるのかというのです。   この歌は、変化する時間(The Times They Are a-Changin’)というアルバムに収録された曲です。イエス様を知る知識とイエス様を従った献身とイエス様に口づけした愛の告白は、十字架に向かっている弱く、恐れているイエス様にも同様に適用できるものかを考えます。ボブ・ディランの言葉通り、私たちは、神様の方に立っていおるのか、私たちは偽善と臆病から変わることができるのかを自問します。  

마태복음 QT65 210327토【유다의 입맞춤】마태 26장 47~56

마태 26장 47~56 26:47 말씀하실 때에 열 둘 중에 하나인 유다가 왔는데 대제사장들과 백성의 장로들에게서 파송된 큰 무리가 검과 몽치를 가지고 그와 함께 하였더라26:48 예수를 파는 자가 그들에게 군호를 짜 가로되 내가 입맞추는 자가 그이니 그를 잡으라 하였는지라26:49 곧 예수께 나아와 랍비여 안녕하시옵니까 하고 입을 맞추니26:50 예수께서 가라사대 친구여 네가 무엇을 하려고 왔는지 행하라 하신대…

マタイによる福音書 QT64 20210326金【ゲツセマネの祈り】マタイ 26章 36~46

マタイ 26章 36~46 26:36 それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという場所に来て、彼らに「わたしがあそこに行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。26:37 そして、ペテロとゼベダイの子二人を一緒に連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。26:38 そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、わたしと一緒に目を覚ましていなさい。」26:39 それからイエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈られた。「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」26:40 それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らが眠っているのを見、ペテロに言われた。「あなたがたはこのように、一時間でも、わたしとともに目を覚ましていられなかったのですか。26:41 誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。」26:42 イエスは再び二度目に離れて行って、「わが父よ。わたしが飲まなければこの杯が過ぎ去らないのであれば、あなたのみこころがなりますように」と祈られた。26:43 イエスが再び戻ってご覧になると、弟子たちは眠っていた。まぶたが重くなっていたのである。26:44 イエスは、彼らを残して再び離れて行き、もう一度同じことばで三度目の祈りをされた。26:45 それから、イエスは弟子たちのところに来て言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されます。26:46 立ちなさい。さあ、行こう。見なさい。わたしを裏切る者が近くに来ています。」   イエス様は苦しまれる前にエルサレムの東にあるオリーブ山の下のゲッセマネという所で一晩中お祈りしました。ゲツセマネという名は油を絞るという意味であり、実際にゲッセマネにはオリーブ山で生産したオリーブを絞るところがあったと言われます。   オリーブオイルは、オリーブの実を圧搾して数日間の油を絞って得られます。イエス様は当時に心境を「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」と表現しました。オリーブを絞るようにイエス様も体を絞りながら祈られたのです。イエス様を含むすべての人間は、肉の弱さと恐怖という感情を持っています。イエス様は孤独で恐れのあまり、弟子たちにとりなしの祈りを頼みましたが、彼らは疲れて寝ていました。   イエス様の祈りは「この杯をわたしから過ぎ去らせてください」で始まります。怖れの十字架ではなく、他の方法での使命を果たすことができる道を願ったのです。しかし、イエス様の祈りは、「しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」という従順を決断する祈りにつながります。神様の御心を確認したからであります。   その祈りは逮捕される直前まで続きました。肉体は貪欲であったり、卑怯てあります。自らはそれを放棄しません。十字架で死ぬということはまず神様の前で自分の肉体が死ぬということです。イエス様は祈りの中で、自分の思いと願いを下ろしました。それが祈りの結果であり、答えです。祈りの理由は、神様の御心を知ってそれに従うためです。  

마태복음 QT64 210326금【겟세마네의 기도】마태 26장 36~46

마태 26장 36~4626:36 이에 예수께서 제자들과 함께 겟세마네라 하는 곳에 이르러 제자들에게 이르시되 내가 저기 가서 기도할 동안에 너희는 여기 앉아 있으라 하시고26:37 베드로와 세베대의 두 아들을 데리고 가실쌔 고민하고 슬퍼하사26:38 이에 말씀하시되 내 마음이 심히 고민하여 죽게 되었으니 너희는 여기 머물러 나와 함께 깨어 있으라 하시고26:39 조금 나아가사 얼굴을 땅에 대시고 엎드려 기도하여 가라사대…

マタイによる福音書 QT63 20210325木【パンの祝福、杯の感謝】マタイ 26章 17~35

マタイ 26章 17~3526:17 さて、種なしパンの祭りの最初の日に、弟子たちがイエスのところに来て言った。「過越の食事をなさるのに、どこに用意をしましょうか。」26:18 イエスは言われた。「都に入り、これこれの人のところに行って言いなさい。『わたしの時が近づいた。あなたのところで弟子たちと一緒に過越を祝いたい、と先生が言っております。』」26:19 弟子たちはイエスが命じられたとおりにして、過越の用意をした。26:20 夕方になって、イエスは十二人と一緒に食卓に着かれた。26:21 皆が食事をしているとき、イエスは言われた。「まことに、あなたがたに言います。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ります。」26:22 弟子たちはたいへん悲しんで、一人ひとりイエスに「主よ、まさか私ではないでしょう」と言い始めた。26:23 イエスは答えられた。「わたしと一緒に手を鉢に浸した者がわたしを裏切ります。26:24 人の子は、自分について書かれているとおりに去って行きます。しかし、人の子を裏切るその人はわざわいです。そういう人は、生まれて来なければよかったのです。」26:25 すると、イエスを裏切ろうとしていたユダが「先生、まさか私ではないでしょう」と言った。イエスは彼に「いや、そうだ」と言われた。26:26 また、一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、神をほめたたえてこれを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」26:27 また、杯を取り、感謝の祈りをささげた後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。26:28 これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。26:29 わたしはあなたがたに言います。今から後、わたしの父の御国であなたがたと新しく飲むその日まで、わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは決してありません。」26:30 そして、彼らは賛美の歌を歌ってからオリーブ山へ出かけた。26:31 そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、今夜わたしにつまずきます。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散らされる』と書いてあるからです。26:32 しかしわたしは、よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます。」26:33 すると、ペテロがイエスに答えた。「たとえ皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません。」26:34 イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今夜、鶏が鳴く前に三度わたしを知らないと言います。」26:35 ペテロは言った。「たとえ、あなたと一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」弟子たちはみな同じように言った。   過越の祭りは正月14日の夕方であり、次の日の正月15日が種なしパンの祭りの日です。過越の祭りを、種なしパンの祭りの最初の日と言うのは、過越の祭りが種なしパンの祭りと一緒に始まるからです。種なしパンの祭りは今日のように木曜日です。   今朝の本文の中に重要な内容が集まっているのは、QT編集が十字架の時間を合わせているからだと思います。弟子たちは、イエス様の人気が最高に盛り上がったと思っていましたが、実は十字架が近づいていました。時間的には、一日後にイエス様は十字架にかけられます。   イエス様の一行も過越の食事をしました。それが私たち聖餐式の典型になります。イエス様は、自分の引き裂かれる体を食べ、流す血を飲まずには、互いに関係がないと言われました。神学的な意味で、教会の成立要件と言われる二つは、「御言葉の宣言」と「聖礼の執行」です。聖餐がない教会は教会ではないということです。今は伝染病の時代の中で聖餐さえ停止していますが、一日もはやく聖餐の喜びが回復することを祈ります。   青年の時代に断食祈祷会に参加したときのことです。日程が終わる朝におかゆを食べるに予定でしたが、奉仕が入り、おかゆを食べないまま朝の礼拝に出席しました。その礼拝には聖餐があってみんなはおかゆを食べて元気付けた後、聖餐にあずかりましたが、私は空腹のままで聖餐を受けました。   小さなカップに入っているブドウジュースが喉を下り、毛細血管の隅々まで吸収されていた気持ちが忘れられません。飢え渇いて貧しさを覚えている体は、イエス様の裂かれた体と流された血を全身を持って吸収しました。聖餐式は、ただ儀式的な行為ではありません。私たちを回復する聖餐を望んでいきたいと願います。

마태복음 QT63 210325목【떡의 축복, 잔의 사례】마태 26장 17~35

마태 26장 17~3526:17 무교절의 첫날에 제자들이 예수께 나아와서 가로되 유월절 잡수실 것을 우리가 어디서 예비 하기를 원하시나이까26:18 가라사대 성안 아무에게 가서 이르되 선생님 말씀이 내 때가 가까왔으니 내 제자들과 함께 유월절을 네 집에서 지키겠다 하시더라 하라 하신대26:19 제자들이 예수의 시키신대로 하여 유월절을 예비하였더라26:20 저물 때에 예수께서 열 두 제자와 함께 앉으셨더니26:21 저희가 먹을 때에 이르시되…

マタイによる福音書 QT62 20210324水【香油の壺】マタイ 26章 1~16

マタイ 26章 1~1626:1 イエスはこれらのことばをすべて語り終えると、弟子たちに言われた。26:2 「あなたがたも知っているとおり、二日たつと過越の祭りになります。そして、人の子は十字架につけられるために引き渡されます。」26:3 そのころ、祭司長たちや民の長老たちはカヤパという大祭司の邸宅に集まり、26:4 イエスをだまして捕らえ、殺そうと相談した。26:5 彼らは、「祭りの間はやめておこう。民の間に騒ぎが起こるといけない」と話していた。26:6 さて、イエスがベタニアで、ツァラアトに冒された人シモンの家におられると、26:7 ある女の人が、非常に高価な香油の入った小さな壺を持って、みもとにやって来た。そして、食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ。26:8 弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「何のために、こんな無駄なことをするのか。26:9 この香油なら高く売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」26:10 イエスはこれを知って彼らに言われた。「なぜこの人を困らせるのですか。わたしに良いことをしてくれました。26:11 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいます。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではありません。26:12 この人はこの香油をわたしのからだに注いで、わたしを埋葬する備えをしてくれたのです。26:13 まことに、あなたがたに言います。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。」26:14 そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行って、26:15 こう言った。「私に何をくれますか。この私が、彼をあなたがたに引き渡しましょう。」すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った。26:16 そのときから、ユダはイエスを引き渡す機会を狙っていた。   ヨハネ12章を参考にすれば香油を注いだ女性は、ラザロの姉妹であり、名前はマリアです。「一方マリアは、純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ取って、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。ヨハネ12:3」   ヨハネはイスカリオテのユダがイエス様に注いだナルド香油の価格が三百デナリと言います。当時一日の賃金が一デナリだったと言いますから、三百デナリであれば一年値の年俸に相当する高額です。ナルドは、揮発性が強くて壺を開けてしまうと再び利用することはできません。   それを見ていたイスカリオテのユダは悔しく思います。貧しい人々のために救済することができる多額のお金を浪費してしまったからです。しかし、ユダが貧しい人々を考えていたのではありません。お金がもったいないと思っだけけす。礼拝の価値については考えていません。マリアは自分の最も貴重な三百デナリの香油をもって礼拝し、ユダはたっだ三十シェケルで、イエス様を売ってしまいます。   もちろん、教会の機能には、救済もあり、宣教も、交わりもあり、礼拝もあります。その中一番の目的は、神を礼拝することです。すべてが礼拝の上になさらなければなりません。マタイは、香油の壺の出来事を言う前に、その時が過越祭であった時間的背景とイエス様が苦しみ受けると予言したことを配置して、香油の壺の出来事の意味がイエス様の死を備える礼拝だということをあらわしています。 神様にささげるものは、残りものや捨てるものではありません。余裕の中からのものでもありません。最も大切なことを先に区別してささげなければなりません。その時、いつもの意識の礼拝が、真心の礼拝になります。マリアの香油の中には、毎日の労苦が含まれています。マリアが純粋なものを完全な方法でささげた香油、それは礼拝をささげようと思うすべての人が持つべき礼拝の典型なのです。