마태복음 QT57 210318목【시대와 말씀을 분별함】마태 24장 15~28

마태 24장 15~2824:15 그러므로 너희가 선지자 다니엘의 말한바 멸망의 가증한 것이 거룩한 곳에 선 것을 보거든 (읽는 자는 깨달을찐저)24:16 그 때에 유대에 있는 자들은 산으로 도망할찌어다24:17 지붕 위에 있는 자는 집안에 있는 물건을 가질러 내려 가지 말며24:18 밭에 있는 자는 겉옷을 가질러 뒤로 돌이키지 말찌어다24:19 그 날에는 아이 밴 자들과 젖먹이는 자들에게 화가 있으리로다24:20 너희의…

マタイによる福音書 QT56 20210317水【神殿は崩れ、福音が伝われる】マタイ 24章 1~14

マタイ 24章 1~1424:1 イエスが宮を出て行かれると、弟子たちが近寄って来て、イエスに向かって宮の建物を指し示した。24:2 すると、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはこれらの物すべてを見ているのですか。まことに、あなたがたに言います。ここで、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません。」24:3 イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのですか。あなたが来られ、世が終わる時のしるしは、どのようなものですか。」24:4 そこでイエスは彼らに答えられた。「人に惑わされないように気をつけなさい。24:5 わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『私こそキリストだ』と言って、多くの人を惑わします。24:6 また、戦争や戦争のうわさを聞くことになりますが、気をつけて、うろたえないようにしなさい。そういうことは必ず起こりますが、まだ終わりではありません。24:7 民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、あちこちで飢饉と地震が起こります。24:8 しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりなのです。24:9 そのとき、人々はあなたがたを苦しみにあわせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。24:10 そのとき多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合います。24:11 また、偽預言者が大勢現れて、多くの人を惑わします。24:12 不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えます。24:13 しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。24:14 御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます。   イエス様はエルサレム神殿が崩れるという運命を予言ましたが、弟子たちは、まだそれに執着していました。神殿が破壊されないことは当時のユダヤ社会の信念だったのかもしれません。バビロンの悪夢が再現されるとは誰も思っていませんでした。しかし、イエス様は神殿が徹底的に破壊されることを明確に宣言されます。   それは神殿という建物に神格を与えていた愚かさの結末であり、ユダヤ教の排他的な民族主義の厳密な判断でもあります。福音はユダヤの宗教の中に閉じ込められたものではないので、その予言は成し遂げられなければならないことでした。   弟子たちがいつこのようなことが起きますかと尋ねると、イエス様は恐ろしい艱難の日の風景を描きます。その恐ろしいことは、実際に起きました。40年後、西暦70年にローマの将軍ティトゥスがエルサレムを攻撃して、神殿は石の上に残る石がないように崩れ、ユダヤは完全に網ました。   絶望的で偽善のユダヤ宗教はローマによって神殿が崩れ、神殿信仰の根拠を再び失い、ローマの鞭によって国際社会に散らばっていきます。パリサイ人、サドカイ人といったものも皆消えさります。「御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます。14」   破壊された神殿とディアスポラとなったユダヤ人は、神様はその上に誰にでも必要な普遍的な福音を国際社会に普及されます。神殿は崩れますが、福音は伝えられます。枝川愛の教会の新しい礼拝堂がすべての人のための福音を抱いた建物であることを願います。

마태복음 QT56 210317수【성전은 무너지고 복음은 전파되고】마태 24장 1~14

마태 24장 1~1424:1 예수께서 성전에서 나와서 가실 때에 제자들이 성전 건물들을 가리켜 보이려고 나아오니24:2 대답하여 가라사대 너희가 이 모든 것을 보지 못하느냐 내가 진실로 너희에게 이르노니 돌 하나도 돌 위에 남지 않고 다 무너뜨리우리라24:3 예수께서 감람산 위에 앉으셨을 때에 제자들이 종용히 와서 가로되 우리에게 이르소서 어느 때에 이런 일이 있겠사 오며 또 주의 임하심과 세상…

マタイによる福音書 QT55 20210316火【偽善を行い、それを信仰と言う】マタイ 23章 25~39

マタイ 23章 13~2423:25 わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは杯や皿の外側はきよめるが、内側は強欲と放縦で満ちている。23:26 目の見えないパリサイ人。まず、杯の内側をきよめよ。そうすれば外側もきよくなる。23:27 わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは白く塗った墓のようなものだ。外側は美しく見えても、内側は死人の骨やあらゆる汚れでいっぱいだ。23:28 同じように、おまえたちも外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいだ。23:29 わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは預言者たちの墓を建て、義人たちの記念碑を飾って、23:30 こう言う。『もし私たちが先祖の時代に生きていたら、彼らの仲間になって預言者たちの血を流すということはなかっただろう。』23:31 こうして、自分たちが預言者を殺した者たちの子らであることを、自らに対して証言している。23:32 おまえたちは自分の先祖の罪の升を満たすがよい。23:33 蛇よ、まむしの子孫よ。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうして逃れることができるだろうか。23:34 だから、見よ、わたしは預言者、知者、律法学者を遣わすが、おまえたちはそのうちのある者を殺し、十字架につけ、またある者を会堂でむち打ち、町から町へと迫害して回る。23:35 それは、義人アベルの血から、神殿と祭壇の間でおまえたちが殺した、バラキヤの子ザカリヤの血まで、地上で流される正しい人の血が、すべておまえたちに降りかかるようになるためだ。23:36 まことに、おまえたちに言う。これらの報いはすべて、この時代の上に降りかかる。23:37 エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者よ。わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか。それなのに、おまえたちはそれを望まなかった。23:38 見よ。おまえたちの家は、荒れ果てたまま見捨てられる。23:39 わたしはおまえたちに言う。今から後、『祝福あれ、主の御名によって来られる方に』とおまえたちが言う時が来るまで、決しておまえたちがわたしを見ることはない。」   神殿を頼りとしていたユダヤ人は、バビロン捕囚時代の神殿崩壊によって、頼れる信頼の根拠が律法しかありませんでした。70年が過ぎ、帰還した後、ユダヤ人たちは、神殿を再建し、祭司は職務に復帰しましたが、捕虜の期間中、ユダヤ人においては祭司の権限というのはやや後退してしまいました。   説教で述べたことがあるかも知れませんが、ペルシャ時代からギリシャ時代に移る過程でギリシャ王朝が任命した祭司たちは、レビ系列でなかったので、祭司への信頼と権威が落ち、その状況の中で律法を解釈する律法学者という階級が生まれました。   レビ族出身のアロンの血統という世襲祭司はモーセ五書だけを教えましたが、学問的に世襲祭司よりも優れていた、一般信徒徒出身の律法学者たちは、旧約聖書全体をテキストにして民を教えました。この改革的な勢力をパリサイ派と呼び、パリサイ人の登場で聖職貴族階級と律法学者階級が対立し始めたのです。   そういう味で、初期のパリサイ人は、進歩主義者だったのです。当時、サドカイ人はハスモン王朝と癒着していた政治団体と何も変わらず、パリサイ人は、そのような宗教的な腐敗に問題を提起し、律法と聖潔を目指した信仰運動でした。   しかし、イエス様の時代はそれから、すでに150年が過ぎた時代です。結局、パリサイ人も政治化されました。本来ね動機が悪かったわけではないものの、宗教と政治の中で既得権を味わい、その後、信仰的本質が変質してしまいました。しかもそれに彼らは気づきません。自分たちの立場を信仰と定め、それを固く信じていたのです。   今朝に続く残りの3つの「わざわい」を読んでみると、3つの並列ではなく、一つのことを繰り返します。繰り返しによる偽善ということに対する強調です。わざわいのを宣言において一つも偽善、二つも偽善、三つも偽善に対する確認です。   イエス様がこれほどに怒ったことがあったでしょうか?イエス様が怒った対象が異邦や世ではなく、信仰者であったという、衝撃的な事実を受け入れなければなりません。世と区別したという安心感はかえって偽善の材料になるかもしれません。確かに区分しますが、自分の思い込みから、自分自身を区別しなければなりません。それ以外に言葉や行動をもって偽善に気をつけようするなら、それ自体がもう既に偽善なっています。

마태복음 QT55 210316화【위선을 행하고 그것을 믿음이라고 말하는】마태 23장 25~39

마태 23장 25~3923:25 화 있을찐저 외식하는 서기관들과 바리새인들이여 잔과 대접의 겉은 깨끗이 하되 그 안에는 탐욕과 방탕으로 가득하게 하는도다23:26 소경된 바리새인아 너는 먼저 안을 깨끗이 하라 그리하면 겉도 깨끗하리라23:27 화 있을찐저 외식하는 서기관들과 바리새인들이여 회칠한 무덤 같으니 겉으로는 아름답게 보이나 그 안에는 죽은 사람의 뼈와 모든 더러운 것이 가득하도다23:28 이와 같이 너희도 겉으로는 사람에게 옳게…

マタイによる福音書 QT54 20210315月【わざわいだ】マタイ 23章 13~24

マタイ 23章 13~2423:13 わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは人々の前で天の御国を閉ざしている。おまえたち自身も入らず、入ろうとしている人々も入らせない。23:14 ※異本に十四節として以下を加えるものもある。〔わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちはやもめの家を食いつぶし、見栄のために長い祈りをしている。だから、おまえたちは人一倍ひどい罰を受けるのだ。〕23:15 わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは一人の改宗者を得るのに海と陸を巡り歩く。そして改宗者ができると、その人を自分より倍も悪いゲヘナの子にするのだ。23:16 わざわいだ、目の見えない案内人たち。おまえたちは言っている。『だれでも神殿にかけて誓うのであれば、何の義務もない。しかし、神殿の黄金にかけて誓うのであれば、果たす義務がある。』23:17 愚かで目の見えない者たち。黄金と、その黄金を聖なるものにする神殿と、どちらが重要なのか。23:18 また、おまえたちは言っている。『だれでも祭壇にかけて誓うのであれば、何の義務もない。しかし、祭壇の上のささげ物にかけて誓うのであれば、果たす義務がある。』23:19 目の見えない者たち。ささげ物と、そのささげ物を聖なるものにする祭壇と、どちらが重要なのか。23:20 祭壇にかけて誓う者は、祭壇とその上にあるすべてのものにかけて誓っているのだ。23:21 また、神殿にかけて誓う者は、神殿とそこに住まわれる方にかけて誓っているのだ。23:22 天にかけて誓う者は、神の御座とそこに座しておられる方にかけて誓っているのだ。23:23 わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちはミント、イノンド、クミンの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実をおろそかにしている。十分の一もおろそかにしてはいけないが、これこそしなければならないことだ。23:24 目の見えない案内人たち。ブヨはこして除くのに、らくだは飲み込んでいる。   イエス様は真理を教える際には、比喩で教え、貧しくて弱い者には条件なしの癒しと助けを与えました。しかし、偽善者に対しては非常に厳しい言葉で非難されました。「わざわいだ」今朝の本文には、イエス様が律法学者やパリサイ人たちに言われた、厳しい七つの「わざわい」が出てきます。「わざわい」は、呪いを意味し、この呪いをもたらす本文全体の共通的な罪として偽善があります。   13節の最初のわざわいは、教える立場で偽善を行うことによって、教える自分も、教えられる者も滅ぼすということです。教える人は誰かを教えながら自分も学びます。つまり教えることこそが最高の学習であります。知らなければ教えることができないからです。間違ったことを教えたら教えた者も間違ったことを学習した訳です。偽善のことを教え、矛盾のことを教えるなら、自分が教えたことに自分も学習されて矛盾と偽善を積み重ねることになります。そのような環境の中で、知的かつ人格的な影響を受ける人は、一緒に偽善的、二律背反的なことに汚染されます。   15節の第二のわざわいは、信者を教育する目的が聖書の真理を教えるのではなく、教権を確立させるための教えだという批判です。パリサイ人たちは、ユダヤ教の信仰の問題において、絶対的な権限を持っていました。彼らは信者に神への献身を求めることには問題がありません。むしろそれが彼らがしなければならない職務でもあるからです。しかし、イエス様が戒めているのは、献身を託して宗教を追従させ、信者を労働力と財政の動員を目的としている点です。最近教会を政治的に扇動する人たちがいましたが、そのようなものを許してはいけません。   16節の第三のわざわいは、律法学者とパリサイ人たちの本音が明らかにされます。神殿を根拠に、誓いとそれを守る義務はありませんが、神殿の金で誓いをすれば、必ず守らなければならないと教えていたのです。信者を現金化したいという意図が分かります。欲は秩序を崩します。偽善者は、神を、金よりも低いものにしてしまいました。信じている中身がそのままあらわれたのです。   23節の第四のわざわいは、細かい規定と伝統については敏感ですが、それより大切な根本的な律法の精神については、無関心です。信者が十分の一の献金をささげることの教育は徹底にしますが、正義とあわれみと誠実の教育はおろそかにしたと言われます。正義に訳したクリシス(κρισις)は、公義でもありますが、それによる終末的な審判を意味する言葉でもあります。あわれみのエレオス((ἔλεος)は慈悲、誠実のピスチス(πίστις)は信頼、信仰です。偽善の中で義と憐れみと信頼が一緒にあることはできません。偽善というわざわいから逃れるための客観的な基準というのはありません。毎朝、自分の信念と立場を捨て、神のことばによって自分を喚起しなければ、自分も知らないうちに偽善という仮面をかぶってしまいます。  

마태복음 QT54 210315월【화 있을찐저】마태 23장 13~24

마태 23장 13~24마23:13 화 있을찐저 외식하는 서기관들과 바리새인들이여 너희는 천국 문을 사람들 앞에서 닫고 너희도 들어가지 않고 들어가려 하는 자도 들어가지 못하게 하는도다마23:14 (없 음)마23:15 화 있을찐저 외식하는 서기관들과 바리새인들이여 너희는 교인 하나를 얻기 위하여 바다와 육지를 두루 다니다가 생기면 너희보다 배나 더 지옥 자식이 되게 하는도다마23:16 화 있을찐저 소경된 인도자여 너희가 말하되 누구든지 성전으로…

マタイによる福音書 QT53 20210313土【一番重要な戒め】マタイ 22章 34~46

マタイ 22章 34~46 22:34 パリサイ人たちはイエスがサドカイ人たちを黙らせたと聞いて、一緒に集まった。 22:35 そして彼らのうちの一人、律法の専門家がイエスを試そうとして尋ねた。 22:36 「先生、律法の中でどの戒めが一番重要ですか。」 22:37 イエスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』 22:38 これが、重要な第一の戒めです。 22:39 『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。 22:40 この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」 22:41 パリサイ人たちが集まっていたとき、イエスは彼らにお尋ねになった。 22:42 「あなたがたはキリストについてどう思いますか。彼はだれの子ですか。」彼らはイエスに言った。「ダビデの子です。」 22:43 イエスは彼らに言われた。「それでは、どうしてダビデは御霊によってキリストを主と呼び、 22:44 『主は、私の主に言われた。「あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで」』と言っているのですか。 22:45 ダビデがキリストを主と呼んでいるのなら、どうしてキリストがダビデの子なのでしょう。」 22:46 するとだれ一人、一言もイエスに答えられなかった。その日から、もうだれも、あえてイエスに質問しようとはしなかった。 サドカイ人がイエス様を論破できなかったので、今度は再びパリサイ人のうちの律法学者が立ち上がって、自分の専門分野でイエス様に質問します。「先生、律法の中でどの戒めが一番重要ですか。36」律法の原語は「ノモス(νόμος)」であり、その言葉は、財産分配にかかわる動詞として使われてた言葉です。神様を愛し、隣人を愛するという精神から律法の各条項が分かれたということです。ノモスが英語の「法(Law)」の語源になります。 質問に「どの戒めが一番重要ですか」という表現が出てきますが、これの原語は「メカレー(μεγάλη)」で、原型はメガス、英語の大きいの意味の「メガ(Mega)」の語源になります。分けるという意味と大きい意味が一つの文章の中にあります。当時、しなければならない律法条項が248個、してはならない条項が365個、合計613個の律法がありました。律法学者は、これだけある律法の中で上位の律法は何なのかと質問したのです。 イエス様は申命記6章5節を引用しておられます。「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。37」申命記6章は、5章で紹介された十戒の神学的まとめです。神様の十戒は、人間を制限し、強制するためのものではなく、神を愛し、隣人を愛するために与えられたのです。ということで、神を礼拝するようにし、親や隣人を愛するようにし、奪ってはいけない、殺してないけない、偽りをしてはならないとしたものです。律法は愛するためのものです。 世はますます専門化され、大学の専攻は意味もなく細分化されています。世界を割ってみるとすべて分かると思いましたが、それでも人間は世界のすべての秘密を解くことはできません。律法学者は、613個の律法を暗記することはできたかもしれませんが、律法の精神は知りませんでした。むしろ専門ということで巨視的な見識を失ってしまいました。日本のことわざに「鹿を追う者は山を見ず」という言葉があります。木は見ても森は見ません。 私たちには、613個の行動規範が定められていることではありませんが、神様という森は変わりありません。その森は神様を愛することと、隣人を愛するという大原則です。愛という大きなもの(Mega)から行動という小さなものに分けられた(Law)のです。すべての解釈と判断と決定においてこれを思い出さなければなりません。愛に基づけば間違いません。木を植えるとき、森を見て、その木を植えることができるなら、それは良いことであり、神のものとなります。

마태복음 QT53 210313토【가장 큰 계명】마태 22장 34~46

마태 22장 34~4622:34 예수께서 사두개인들로 대답할 수 없게 하셨다 함을 바리새인들이 듣고 모였는데22:35 그 중에 한 율법사가 예수를 시험하여 묻되22:36 선생님이여 율법 중에 어느 계명이 크니이까22:37 예수께서 가라사대 네 마음을 다하고 목숨을 다하고 뜻을 다하여 주 너의 하나님을 사랑하라 하셨으니22:38 이것이 크고 첫째 되는 계명이요22:39 둘째는 그와 같으니 네 이웃을 네 몸과 같이 사랑하라 하셨으니22:40…

マタイによる福音書 QT52 20210312金【生きている者の神】マタイ 22章 23~33

マタイ 22章 15~2222:23 その日、復活はないと言っているサドカイ人たちが、イエスのところに来て質問した。22:24 「先生。モーセは、『もしある人が、子がないままで死んだなら、その弟は兄の妻と結婚して、兄のために子孫を起こさなければならない』と言いました。22:25 ところで、私たちの間に七人の兄弟がいました。長男は結婚しましたが死にました。子がいなかったので、その妻を弟に残しました。22:26 次男も三男も、そして七人までも同じようになりました。22:27 そして最後に、その妻も死にました。22:28 では復活の際、彼女は七人のうちのだれの妻になるのでしょうか。彼らはみな、彼女を妻にしたのですが。」22:29 イエスは彼らに答えられた。「あなたがたは聖書も神の力も知らないので、思い違いをしています。22:30 復活の時には人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。22:31 死人の復活については、神があなたがたにこう語られたのを読んだことがないのですか。22:32 『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。」22:33 群衆はこれを聞いて、イエスの教えに驚嘆した。   今日はサドカイが登場します。パリサイ派が宗教的であるとすれば、サドカイ派はパリサイ派よりも政治的なので、ローマの支配勢力に協力して強大な既得権を独占していました。彼らはモーセ五書以外は何も認めていなかったし、パリサイ人たちとは違って、復活と永遠の命、霊的な存在をも信じていませんでした。現世がすべてだから、政治的影響力にそれほど執着したかもしれません。パリサイ人とはいつも対立関係にありましたが、今朝の本文では、イエス様という共同の敵を排除するために、彼らは渾然一体と協力しています。   彼らが提起した問題も、律法の解釈です。ユダヤ社会は兄が死ぬと、兄の名を継承するために弟が義理の姉と結婚します。これを「継代結婚」といいます。サドカイ人たちの質問は、七人の兄弟が順番に死に、継代結婚が繰り返された場合、復活後は、誰の妻になるかということです。継代結婚と復活は、このような矛盾を抱えているので、復活はないというのがサドカイ人の論理です。非常に幼児的な発想です。   継代結婚と復活が論理的に衝突するので復活はないはずだという論理の前に、天国はどんなところであり、復活は何なのかという質問がまずあるべきではないでしょうか?しかし、彼らは復活はないという揺るぎない信念に立ってすべてのことを考えます。見えるものだけを信じて、信じたいことだけを固く信じます。現実に基づいて考えると、霊の世界はフィクションだと思ってしまうのです。そのような人々は、宗教を無視して現実的な自分を合理的かつ理性的、科学的だと思い込みます。   しかし、うぬぼれている瞬間、自分がすべてを知っていると信じてしまう瞬間、合理も、理性も、科学も止まってしまいます。疑わない科学は科学ではありません。サドカイ人が律法と復活について、言葉の定義もないまま使っているように、いわゆる科学主義者も科学という言葉を定義せずに、むしろそこに完全な神格を与えていることに気づかなければなりません。科学的思考のになら、部分に対して部分的にしか知ることができません。   「物事の構造と性質を経験主義と自然主義的な立場から繰り返し観察し、それを通って得られた理論的な知識体系が科学」です。観察することができ、証明できるものがない場合、科学は無力です。しかし、目に見えないもの、観察することのできないことは無数に存在します。それに対してないと言ってしまう、間違っていると言ってしまいますが、実は、それは科学が解決できないだけです。   人が観察できるのは、復活ではなく、死です。それだけでもよく観察すれば人間の思いは変わります。死ぬことは科学的に証明することができますが、復活は証明できません。それがないと断言する人は、科学を知らない人です。それは科学の限界であり、神様の限界にはなりません。科学的な論理にとどまらず、霊的な思惟を広げなければなりません。神様の力は、生かすことにあります。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。」というのは、神様は復活の命に入らない人々に神と呼ばれることを拒否しておられるからです。