마태복음 QT2 20210113수【구원과 임마누엘】마태1장 18~25

마태1장 18~251:18 예수 그리스도의 나심은 이러하니라 그 모친 마리아가 요셉과 정혼하고 동거하기 전에 성령으로 잉태된 것이 나타났더니1:19 그 남편 요셉은 의로운 사람이라 저를 드러내지 아니하고 가만히 끊고자 하여1:20 이 일을 생각할 때에 주의 사자가 현몽하여 가로되 다윗의 자손 요셉아 네 아내 마리아 데려오기를 무서워 말라 저에게 잉태된 자는 성령으로 된 것이라1:21 아들을 낳으리니 이름을 예수라…

マタイによる福音書 QT1 20210112火【歴史の中に来られたキリスト】マタイ1章 1~17

マタイ1章 1~171:1 アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図。1:2 アブラハムがイサクを生み、イサクがヤコブを生み、ヤコブがユダとその兄弟たちを生み、1:3 ユダがタマルによってペレツとゼラフを生み、ペレツがヘツロンを生み、ヘツロンがアラムを生み、1:4 アラムがアミナダブを生み、アミナダブがナフションを生み、ナフションがサルマを生み、1:5 サルマがラハブによってボアズを生み、ボアズがルツによってオベデを生み、オベデがエッサイを生み、1:6 エッサイがダビデ王を生んだ。ダビデがウリヤの妻によってソロモンを生み、1:7 ソロモンがレハブアムを生み、レハブアムがアビヤを生み、アビヤがアサを生み、1:8 アサがヨシャファテを生み、ヨシャファテがヨラムを生み、ヨラムがウジヤを生み、1:9 ウジヤがヨタムを生み、ヨタムがアハズを生み、アハズがヒゼキヤを生み、1:10 ヒゼキヤがマナセを生み、マナセがアモンを生み、アモンがヨシヤを生み、1:11 バビロン捕囚のころ、ヨシヤがエコンヤとその兄弟たちを生んだ。1:12 バビロン捕囚の後、エコンヤがシェアルティエルを生み、シェアルティエルがゼルバベルを生み、1:13 ゼルバベルがアビウデを生み、アビウデがエルヤキムを生み、エルヤキムがアゾルを生み、1:14 アゾルがツァドクを生み、ツァドクがアキムを生み、アキムがエリウデを生み、1:15 エリウデがエレアザルを生み、エレアザルがマタンを生み、マタンがヤコブを生み、1:16 ヤコブがマリアの夫ヨセフを生んだ。キリストと呼ばれるイエスは、このマリアからお生まれになった。1:17 それで、アブラハムからダビデまでが全部で十四代、ダビデからバビロン捕囚までが十四代、バビロン捕囚からキリストまでが十四代となる。   マタイによる福音書は、ユダヤ人のために書かれました。それはユダヤ人であれば誰もが知り、また誰もが待っているメシアの到来が達成するという観点からの書かれています。1章がはじめから系譜が出てきますが、マタイは、ユダヤ人たちが既に周知している、このイスラエルの歴史の上にイエス・キリストを関連付けさせているのです。   まず、血統の最初はアブラハムです。そして系譜の中で大きな転換を迎えることがダビデ王とバビロン捕囚の出来事です。つまりイスラエル王朝の始まりと終わりです。マタイは、イエス・。キリストが、イスラエルの歴史の中でアブラハムとダビデの約束を成就していることを証しているのです。   系譜の最後に、イエス・キリストが登場しますが、これは実際に祖先が誰なのかを遡るという意味よりも、この転期を通して、また新しい歴史が到来していることを語っています。人類の歴史は、アブラハムとダビデとバビロンの歴史より、2021年前のイエス・キリストの誕生から、より大きな転換点を迎えたことが事実です。それより大きな歴史的事件はありませんでした。   マタイの系図には根強い選民意識を持ったユダヤ人であっても拒否することができない歴史的事実、すなわちタマルとラハブとルツとウリヤの妻が含まれています。彼女たちは、言わば正統性がない異邦出身の女性たちです。タマルとラハブはカナン人であってルツはモアブの出身です。ウリヤがヘテ人出身ですから、彼の妻バテシバも異邦出身である可能性が大きいです。   しかも、この女性たちは、すべて律法的な意味で大きい傷があります。恥を人生を歩んだのですす。タマルは義父と不正を犯し、ラハブは娼婦でした。ルツは再婚をし、ウリヤの妻はダビデと姦淫しました。マタイは、歴代の王たちの名前は省いていますが、彼女たちの名前を記録することによってこれらががイエス・キリストのお祖母さんであることを思い起こさせています。   これはユダヤ人にとって否定できない歴史的事実でありますが、選民意識の誇りに陥った人々にとっては決して嬉しい話ではないです。ですからマタイの系図には、二つのメッセージを込めています。イエスが、イスラエルの約束どおり来たメシアであること、そしてそのメシアはイスラエルという民族の解放のために来られたのではなく、全人類の救いのために来られたという福音のメッセージです。その救いに入る資格というのは、最も底にまで下がります。異邦にある恥と屈辱にまで救いは届きます。キリスト教が持つべき自尊心というのは、名誉意識がなく、恥のうちに来られたキリストの愛を受けた恵み意識です。  

마태복음 QT1 20210112월【역사 안으로 오신 예수님】마태1장 1~17

마태1장 1~171:1 아브라함과 다윗의 자손 예수 그리스도의 세계라1:2 아브라함이 이삭을 낳고 이삭은 야곱을 낳고 야곱은 유다와 그의 형제를 낳고1:3 유다는 다말에게서 베레스와 세라를 낳고 베레스는 헤스론을 낳고 헤스론은 람을 낳고1:4 람은 아미나답을 낳고 아미나답은 나손을 낳고 나손은 살몬을 낳고1:5 살몬은 라합에게서 보아스를 낳고 보아스는 룻에게서 오벳을 낳고 오벳은 이새를 낳고1:6 이새는 다윗왕을 낳으니라 다윗은 우리야의…

Ⅲヨハネ QT1 20210111月【あなたのたましいが幸いを得ているように】Ⅲヨハネ1章 1~15

Ⅲヨハネ1章 1~151:1 長老から、愛するガイオへ。私はあなたを本当に愛しています。1:2 愛する者よ。あなたのたましいが幸いを得ているように、あなたがすべての点で幸いを得、また健康であるように祈ります。1:3 兄弟たちがやって来ては、あなたが真理に歩んでいることを証ししてくれるので、私は大いに喜んでいます。実際、あなたは真理のうちに歩んでいます。1:4 私にとって、自分の子どもたちが真理のうちに歩んでいることを聞くこと以上の大きな喜びはありません。1:5 愛する者よ。あなたは、兄弟たちのための、それもよそから来た人たちのための働きを忠実に行っています。1:6 彼らは教会の集まりで、あなたの愛について証ししました。あなたが彼らを、神にふさわしい仕方で送り出してくれるなら、それは立派な行いです。1:7 彼らは御名のために、異邦人からは何も受けずに出て行ったのです。1:8 私たちはこのような人々を受け入れるべきです。そうすれば、私たちは真理のために働く同労者となれます。1:9 私は教会に少しばかり書き送りましたが、彼らの中でかしらになりたがっているディオテレペスが、私たちを受け入れません。1:10 ですから、私が行ったなら、彼のしている行為を指摘するつもりです。彼は意地悪なことばで私たちをののしっています。それでも満足せず、兄弟たちを受け入れないばかりか、受け入れたいと思う人たちの邪魔をし、教会から追い出しています。1:11 愛する者よ。悪を見習わないで、善を見習いなさい。善を行う者は神から出た者であり、悪を行う者は神を見たことがない者です。1:12 デメテリオについては、すべての人たちが、また真理そのものが証ししています。私たちも証しします。私たちの証しが真実であることは、あなたも知っています。1:13 あなたに書き送るべきことがたくさんありますが、墨と筆で書きたくありません。1:14 近いうちにあなたに会いたいと思います。そうしたら、直接話し合いましょう。1:15 平安があなたにありますように。友人たちが、あなたによろしくと言っています。そちらの友人たち一人ひとりによろしく伝えてください。   ヨハネの3番目の手紙は、新約聖書の中で最も短い本です。手紙は、皆が覚えている挨拶、「愛する者よ。あなたのたましいが幸いを得ているように、あなたがすべての点で幸いを得、また健康であるように祈ります。」で始まります。たましいが幸いを得るというのは、信仰に生きることであって、すべての点で幸いを得るというのは、生活のすべての領域が、神の助けを受けることであって、健康であるようにというのは、身体の健康のために祝福です。「たましいが原因となって生活に結果として現われる」のです。   手紙は、受信者が「真理のうちに歩んでいる」ことに対する使徒ヨハネの賞賛と感謝の内容です。「真理のうちに歩んでいる」とはどいうことでしょうか?真理はキリストにあります。それは不変です。しかし、口ではキリストを信じるとしても、それふさわしい生活をしなければ、それを「真理のうちに歩んでいる」と言うことはできません。   本文に示された言葉だけで「真理のうちに歩んでいる」が何なのかを類推してみると、まずは主の名のための宣教の働き人を受け入れたということ、次は、公教会の連合と一致を追い求めたというです。そこには信仰のへりくだりがあります。   ということで使徒ヨハネは、自分を高め自分の意志が貫かれることを言い張り、信仰共同体の秩序を乱したディオテレペスを懲らしめます。ディオテレペスは上に立つことが好きな人でした。苦労した伝道者を冷遇し、使徒ヨハネの権威を引き下ろし、自分が優位を占めしようとしました。イエスを信じると言って教会の中に入ってきていますが、「真理のうちに歩んでいる」人ではありません。   教会と信徒は主の名によって苦労する働き人を受け入れなければありません。イエス様は、「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。また、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。マタイ10:40」信仰の中にいる人たちは、イエス・キリストの絆でつながっている人です。会ったことがなくても皆が主のための同労者です。キリストの信仰と福音の真正性は、思いやりと愛、連合と一致で表されます。   「あなたに書き送るべきことがたくさんありますが、墨と筆で書きたくありません。近いうちにあなたに会いたいと思います。そうしたら、直接話し合いましょう。平安があなたにありますように。友人たちが、あなたによろしくと言っています。そちらの友人たち一人ひとりによろしく伝えてください。」使徒ヨハネの終わりの挨拶を読んで二つのことを望みました。一つは、ヨハネがガイオと対面して交わることを待っていたように、私たちにも対面の喜びが回復されること、もう1つは「墨と筆ではなく」としたように、今は言葉を通して主に会いますが、その日には、主を対面して会うことです。「たましいが幸いを得ているように、すべての点で幸いを得、また健康であるように祈ります。」  

요한삼서 QT1 20210111월【네 영혼이 잘 됨같이】요한삼서1장 1~15

요한삼서1장 1~151:1 장로는 사랑하는 가이오 곧 나의 참으로 사랑하는 자에게 편지하노라1:2 사랑하는 자여 네 영혼이 잘 됨같이 네가 범사에 잘 되고 강건하기를 내가 간구하노라1:3 형제들이 와서 네게 있는 진리를 증거하되 네가 진리 안에서 행한다 하니 내가 심히 기뻐하노라1:4 내가 내 자녀들이 진리 안에서 행한다 함을 듣는 것보다 더 즐거움이 없도다1:5 사랑하는 자여 네가 무엇이든지 형제…

Ⅰヨハネ QT4 20210109土 【命のための祈り】Ⅰヨハネ5章 13~21

Ⅰヨハネ5章 13~215:13 神の御子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書いたのは、永遠のいのちを持っていることを、あなたがたに分からせるためです。5:14 何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。5:15 私たちが願うことは何でも神が聞いてくださると分かるなら、私たちは、神に願い求めたことをすでに手にしていると分かります。5:16 だれでも、兄弟が死に至らない罪を犯しているのを見たなら、神に求めなさい。そうすれば、神はその人にいのちを与えてくださいます。これは、死に至らない罪を犯している人たちの場合です。しかし、死に至る罪があります。これについては、願うようにとは言いません。5:17 不義はすべて罪ですが、死に至らない罪もあります。5:18 神から生まれた者はみな罪を犯さないこと、神から生まれた方がその人を守っておられ、悪い者はその人に触れることができないことを、私たちは知っています。5:19 私たちは神に属していますが、世全体は悪い者の支配下にあることを、私たちは知っています。5:20 また、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことも、知っています。私たちは真実な方のうちに、その御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。5:21 子どもたち、偶像から自分を守りなさい。   ヨハネは死に至る罪と死に至らない罪を区別しています。ユダヤの宗教的背景では、知らずに犯す罪と意図的な罪を区別しました。誤って犯した罪のためには犠牲のささげものをささげることができますが、そこに故意性が見つかると、その罪のために犠牲をささげることはできませんでした。故意に罪を犯してそれのために他の命を犠牲にさせるということはできないからです。それが当然のように行われることを厳格に禁じたのです。   ところが、初代教会の状況においては再解釈されます。初代教会の聖徒は、すでに血を流すささげものをしていませんでした。血のささげものをしていないということは、キリストがささげものとなり、完全な贖罪を成し遂げたということを信じるからです。それならヨハネが教会に対して死に至る罪と言っているのは、贖罪の手段がないことを意味します。すなわち、ヨハネはイエスが十字架で死なれたことを信じると言いながら、故意に罪を犯し、贖罪を繰り返していることを真の意味での信仰とは認めることができない、と言ったのです。   ヨハネが死に至る罪と死に至らない罪を区別して言うとき、確かにこれらを念頭に置いています。罪をどのように認識するかの問題です。罪を認識するには、自力では力不足です。罪に気づくのは、神の恵みによってです。だから、聖霊の照らしが必要です。光は闇を赤裸々にさらします。聖徒の信仰とは、その光に従う意志と勇気です。光を慕うなら光によって罪が現れることを許容しなければなりません。現われた罪を光の中で憎まなければなりません。それが悔い改めです。   ヨハネはヨハネの福音書で「この命は人の光」と言いました。罪を認識していないこと、犯罪を認めないこと、告白しないことは、光が照らそうとしても闇を愛し、光を避けて隠れることです。ヨハネの厳しい懲らしめはこれです。キリストの死因は罪なので聖徒がその罪を携え、喜びながら、キリストと同行することができないからです。   形式的な礼拝と惰性的な信仰生活がこれに該当します。罪の緊張と恐れを抜きにして、恵みと救いの言葉を言い表すことが指摘されています。ヨハネは、愛と信仰を訴える手紙の最後に、それらを脅かす一つの言葉をもってに手紙を締め括っています。手紙の全体は、この最後の言葉が言う危険から立ち返えなければならないからです。それが命のためのヨハネの祈りです。「子どもたち、偶像から自分を守りなさい。21」、私たちは必ず何かに仕えます。罪を犯すということは、自分の中に、神に代わる偶像があるからです。  

요한일서 QT4 20210109토【생명을 위한 기도】요한일서5장 13~21

요한일서5장 13~215:13 내가 하나님의 아들의 이름을 믿는 너희에게 이것을 쓴 것은 너희로 하여금 너희에게 영생이 있음을 알게 하려 함이라5:14 그를 향하여 우리의 가진 바 담대한 것이 이것이니 그의 뜻대로 무엇을 구하면 들으심이라5:15 우리가 무엇이든지 구하는 바를 들으시는 줄을 안즉 우리가 그에게 구한 그것을 얻은 줄을 또한 아느니라5:16 누구든지 형제가 사망에 이르지 아니한 죄 범하는 것을…

Ⅰヨハネ QT3 20210108金 【神から出たもの】Ⅰヨハネ5章 1~12

Ⅰヨハネ5章 1~125:1 イエスがキリストであると信じる者はみな、神から生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はみな、その方から生まれた者も愛します。5:2 このことから分かるように、神を愛し、その命令を守るときはいつでも、私たちは神の子どもたちを愛するのです。5:3 神の命令を守ること、それが、神を愛することです。神の命令は重荷とはなりません。5:4 神から生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。5:5 世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。5:6 この方は、水と血によって来られた方、イエス・キリストです。水によるだけではなく、水と血によって来られました。御霊はこのことを証しする方です。御霊は真理だからです。5:7 三つのものが証しをします。5:8 御霊と水と血です。この三つは一致しています。5:9 私たちが人の証しを受け入れるのであれば、神の証しはそれにまさるものです。御子について証しされたことが、神の証しなのですから。5:10 神の御子を信じる者は、その証しを自分のうちに持っています。神を信じない者は、神を偽り者としています。神が御子について証しされた証言を信じていないからです。5:11 その証しとは、神が私たちに永遠のいのちを与えてくださったということ、そして、そのいのちが御子のうちにあるということです。5:12 御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。   カルヴァンが「キリスト教綱要」の始まりに書いたように、「神を知ることが、自分を知ることであり、自分を知ることが、すなわち、神を知ること」です。神様を知れば知るほど、人間の存在は、絶望的なものであり、その悲惨な現実を自覚したときに、聖なる神様に対する知識は大きくなります。自分について知りたいなら、神様を探らなければならないし、神様について知っていくと、自分が誰なのかがわかります。相互補完的な知識であり、循環する知識です。   ヨハネは同様の構造で兄弟を愛することは神様を愛することを語ります。4:20以下で、「神を愛していると言いながら兄弟を憎むと嘘をつくのだから、神を愛する者は、兄弟を愛しなさい」と言いました。   そして、5章の始めに「神を愛する人が兄弟も愛することができる」と言いました。どっちが先なのか判断に困りますが、これも神様と自分を知っていく知識と同様に、順序的に矛盾しているのではありません。兄弟を愛すればそれが神様を愛することであって、神様を愛すると、それが兄弟を愛することです。   神様の恵みを受けると、神様への信仰が生じ、成長します。そして、その信仰があったからこそ恵みはより大きくなってきます。相互補完で、循環します。多くの恵みを受けた人が多くの従順をすると、恵みは広がり循環します。順序的に矛盾しません。   これで、私たちの信仰を成している形を確認することができます。自ら神様への信仰であると定めているものがあれば、それが兄弟愛にどう関係しているのかを点検するのです。神様を愛する心と兄弟を愛する心が表されたものが信仰でなければならないからです。例えば、礼拝は神様と交わる場所ですから、礼拝は神様を愛することであり、そのための奉仕というのは、皆の礼拝、つまり兄弟のための奉仕となりますから、この二つの愛を満たすことになります。   4章の兄弟愛は5章につながっています。4:21の「神」と「兄弟」は、5:1で、「生んでくださった方」と「生まれた者」という言葉に変わります。(神:兄弟=生んでくださった方:生まれた者)です。存在の出所を明らかにしています。3節以下を言い換えれば「神様を愛することは、兄弟を愛することであって、それは決して難しいことではない。なぜなら、出所が神様である人々はみな、世(愛ではないもの)に打ち勝っているからです。 」   愛せないようにする世にある悪に対して、既にキリストが私たちの兄弟になって愛のゆえに死なれました。4章で霊を見分けることについて読みましたが、それも兄弟を愛することと別々ではありません。そのように5:5以下のキリストへの信仰も、兄弟愛と別のテーマで扱っているものではありません。   キリストが再び来られるとき、これを確認するでしょう。「イエスを信じれば救われる」は、「イエスの愛を信じれば救われる」ということです。そして、その信仰は聖徒の愛に現われます。愛するということに恐れを持ちますが、愛は重いいびきではありません。愛は神様から出たものによってより大きなものになって循環していきます。    

요한일서 QT3 20210108금【하나님의 사랑에서 난 사람】요한일서5장 1~12

요한일서5장 1~125:1 예수께서 그리스도이심을 믿는 자마다 하나님께로서 난 자니 또한 내신 이를 사랑하는 자마다 그에게 난 자를 사랑하느니라5:2 우리가 하나님을 사랑하고 그의 계명들을 지킬 때에 이로써 우리가 하나님의 자녀 사랑하는 줄을 아느니라5:3 하나님을 사랑하는 것은 이것이니 우리가 그의 계명들을 지키는 것이라 그의 계명들은 무거운 것이 아니로다5:4 대저 하나님께로서 난 자마다 세상을 이기느니라 세상을 이긴 이김은…

Ⅰヨハネ QT2 20210107木 【愛し合うために】Ⅰヨハネ4章 13~21

Ⅰヨハネ4章 13~214:13 神が私たちに御霊を与えてくださったことによって、私たちが神のうちにとどまり、神も私たちのうちにとどまっておられることが分かります。4:14 私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、その証しをしています。4:15 だれでも、イエスが神の御子であると告白するなら、神はその人のうちにとどまり、その人も神のうちにとどまっています。4:16 私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。4:17 こうして、愛が私たちにあって全うされました。ですから、私たちはさばきの日に確信を持つことができます。この世において、私たちもキリストと同じようであるからです。4:18 愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。4:19 私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。4:20 神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。4:21 神を愛する者は兄弟も愛すべきです。私たちはこの命令を神から受けています。   使徒ヨハネの神学は愛で一貫されています。愛で神様を認識し、愛で信仰を実現します。使徒ヨハネがエペソで晩年を送るとき、すべての説教には、例外なく、互いに愛し合うという勧めがあったそうです。愛の中に神様を知ることと神様を信じてことがすべて含まれているからです。   ヨハネ4章は、霊をわきまえることの勧めから始まります。だから4章は、霊をわきまえることと、互いに愛すること、この二つの主題が混ざっているように見えます。しかし、この二つのお勧めは同じことを言っています。悪霊は互いに愛し合うことを妨げる方法で共同体を脅かすからです。 もし、正しさと正当の論理に陥って兄弟を憎んでいるなら、それは善と悪を見分けることではなく、霊をわきまえず騙されているということです。霊をわきまえることと互いに愛することは同じことだからです。   「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。19」愛の根拠は、神様が「先に」愛されたからです。神様の「先に」は、私たちの「互いに」になります。だから「互いに」愛そうとする人は、必ずその属性上、「先に」愛さなければありません。そうでなければ、結局愛することはできなくなります。   「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。20」神様を愛しているという告白は、兄弟を憎むことで偽りであることが明らかになります。口では神様を愛すると言いますが、先に兄弟を許さなければ、それは神様を知らないこと、また神様を愛していないことです。その信仰は虚しさに直面してしまいます。   先制的に愛することによって互いに愛するをところに達することができます。それが先に愛してくださった神様の愛を知ることであり、その愛に対する真実な告白になります。ヨハネが語る愛は積極的です。互いに愛するということは、先に愛することであり、先に愛するということは、兄弟の存在を容認して受け入れることです。