하박국 QT1 211127토【떨고 있는 하박국】하박국 1장 1~17

하박국 1장 1~171:1 선지자 하박국의 묵시로 받은 경고라1:2 여호와여 내가 부르짖어도 주께서 듣지 아니하시니 어느 때까지리이까 내가 강포를 인하여 외쳐도 주께서 구원치 아니하시나이다1:3 어찌하여 나로 간악을 보게 하시며 패역을 목도하게 하시나이까 대저 겁탈과 강포가 내 앞에 있고 변론과 분쟁이 일어났나이다1:4 이러므로 율법이 해이하고 공의가 아주 시행되지 못하오니 이는 악인이 의인을 에워쌌으므로 공의가 굽게 행함이니이다1:5 여호와께서…

ヨブ記 QT48 211126金【ヨブの共感能力】ヨブ記 31章 24~40

ヨブ記 31章 24~4031:24 もし、私が金を自分の頼みとし、黄金に向かって「私の拠り頼むもの」と言ったことがあるなら、31:25 あるいは、私の富が多いことや、私の手が多くを得たことを喜んだことがあるなら、31:26 あるいは、日の光が輝くのを、月が照りながら動くのを見て、31:27 ひそかに心を惑わされ、手で口づけを投げかけたことがあるなら、31:28 これもまた、裁判で罰せられるべき不義だ。私が、上なる神を否んだのだから。31:29 あるいは、私を憎む者が衰えたのを喜び、彼にわざわいが下ったことに心躍らせたことがあるだろうか。31:30 私は自分の口を罪に任せなかった。のろいの誓いで彼のいのちを求めたりして。31:31 私の天幕の者たちはみな、こう言っているではないか。「あの方のパンに満腹しなかった者がいったいいるだろうか。」31:32 寄留者は外で夜を過ごさず、私は戸口を通りに向けて開けている。31:33 あるいは私がアダムのように、自分の背きをおおい隠し、自分の咎を胸の中に秘めたことがあるだろうか。31:34 私が群衆の騒ぎにおびえ、一族の蔑みにひるみ、黙っていて、門を出なかったことがあるだろうか。31:35 だれか、私の言うことを聞いてくれる者はいないものか。──ここに私の署名がある。全能者が私に答えてくださるように──私を訴える者が書いた告訴状があれば、31:36 私はそれを肩に担ぎ、冠のように、それをこの身に結び付け、31:37 私の歩みの数をこの方に告げ、君主のようにしてこの方に近づきたい。31:38 もし、私の土地が私に向かって叫び、その畝がともに泣くことがあるなら、31:39 あるいは私が金を払わずにその産物を食べ、その持ち主のいのちを失わせたことがあるなら、31:40 小麦の代わりに茨が、大麦の代わりに雑草が生えるように。ヨブのことばは終わった。   ヨブは金持ちでしたが,自分の財産のことで喜んでいなかったし,誰かを呪ったこともなく,他人の失敗と死を喜んだこともありません。むしろ困難で貧しい人々の必要を満たし、自ら卑怯ではなかったと言います。これらの中で一つも法で強制できるようなものではありません。ヨブが自分の心と約束した法です。ヨブは、なぜこのような難しいことを約束してまたそれを守っているのでしょうか。   律法的な綱領を守るという遵守義務ではありません。ヨブを読み続けて感じるのは、ヨブは他人を共感する共感能力が優れているということです。ヨブの行動は、ヨブの心の原理が定めています。その原理というのが共感です。周りで起こる多くのことについてヨブは共感しています。   神様のみことばを守るためには、神様が愛されることに対して共感することがなければそれを守ることができないでしょう。守らなければならないからではなく、共感の原理が働いているので惻隠の情を覚えるのです。共感がなければ、鞭で打つとしても守ることはできません。共感がなければ、善を追求することも抑圧で強制になってしまいます。   他人の感情を共有することを「感情的な共感能力」といい、他人が置かれた状況とそれを眺める観点まで理解できるような解釈が伴うことを「認知的な共感能力」といいます。言い換えれば、かわいそうと思って舌打ちするのは感情的な共感ですが、その状況で必要なものが何であるかを考えることができるのが認知的な共感です。ヨブは認知的共感をしたので,実践的な行動に移すことができました   共感があるこそ、共同体を成し、社会的な連帯と協力することができます。ヨブの最後の弁論は、もしかして共感能力を失い、個体化され、孤立していく世に対する訴えかもしれません。共感できない3人の友達と比べると、苦しんでいる共感がさらにかわいそうです。私たちがヨブを共感することができなければ、ヨブ記は読むこともできません。ヨブの共感が勝ってほしいし、この社会も痛いところと弱いところを共感する人が勝ってほしいと思います。  

욥기 QT48 211126금【욥의 공감능력】욥기 31장 24~40

욥기 31장 24~4031:24 내가 언제 금으로 내 소망을 삼고 정금더러 너는 내 의뢰하는 바라 하였던가31:25 언제 재물의 풍부함과 손으로 얻은 것이 많음으로 기뻐하였던가31:26 언제 태양의 빛남과 달의 명랑하게 운행되는 것을 보고31:27 내 마음이 가만히 유혹되어 손에 입맞추었던가31:28 이 역시 재판장에게 벌 받을 죄악이니 내가 그리하였으면 위에 계신 하나님을 배반한 것이니라31:29 내가 언제 나를 미워하는 자의…

ヨブ記 QT47 211125木【敬虔の方向】ヨブ記 31章 1~23

ヨブ記 31章 1~2331:1 私は自分の目と契約を結んだ。どうしておとめに目を留められるだろうか。31:2 神が上から分けてくださる取り分は何か。全能者が高い所から下さる相続のものは。31:3 不正を働く者にはわざわいが、不法を行う者には災難が来るではないか。31:4 神は私の道をご覧にならないだろうか。私の歩みをすべて数えておられないだろうか。31:5 もし、私が偽りとともに歩み、この足が欺きに急いだのなら、31:6 神は私を正しい秤で量られればよい。そうすれば神に私の誠実さが分かるだろう。31:7 もし、私の歩みが道からそれ、私の心が自分の目に従って歩み、私の手に汚れがついていたなら、31:8 私が種を蒔いて、ほかの人が食べるがよい。私の作物は根こそぎにされるがよい。31:9 もし、私の心が女に惑わされ、隣人の戸口で待ち伏せしたことがあったなら、31:10 私の妻が他人のために粉をひいてもよい。また、他人が彼女と寝てもよい。31:11 これは恥ずべき行い、裁判で罰せられるべき不義であるからだ。31:12 実に、それは滅びの淵まで焼き尽くす火だ。私の収穫をことごとく根こそぎにする。31:13 もし、しもべや召使いの女が私と争ったとき、私が彼らの訴えを拒んだことがあるなら、31:14 神が立たれるとき、私はどうすればよいか。また、神がお調べになるとき、何と答えたらよいか。31:15 私を胎内で造られた方は、彼らをも造られたのではないか。同じ方が、私たちを母の胎内に形造られたのではないか。31:16 もし、私が弱い者たちの望みを退け、やもめの目を衰え果てさせ、31:17 私一人だけでパンを食べ、みなしごにそれを食べさせなかったのなら、31:18 ──実は私の幼いときから、弱い者は私を父のようにして育ち、私は生まれたときから、やもめを導いた──31:19 あるいは、もし私が、着る物がなくて死にかかっている人や、身をおおう物を持たない貧しい人を見たとき、31:20 その人の腰が私にあいさつをすることも、私の子羊の毛で彼が暖められることもなかったなら、31:21 あるいは、私が門のところに助け手を見て、みなしごに向かって手を振り上げたことがあったなら、31:22 私の肩の骨が肩から落ち、私の腕がつけ根から折れてもよい。31:23 神からのわざわいが私をおののかせ、その威力のゆえに、私は何もできないだろう。   昨日の本文に続き、ヨブは自分の無実について最後に論議します。自分は性的倫理においても、弱者への配慮においても恥ずかしいことはしてないことを自負しています。これを見ると、ヨブは自分の内面にある欲を切除し、高いレベルの敬虔を守っていたことがわかります。   ヨブは完全であることはすでに神様が認められたことです。ですから、ヨブの道徳と敬虔は、他の人と比べて間違いなく優れたものであります。ヨブが、罪を認識してないから自分の敬虔と無罪を主張するわけではありません。なぜなら、ヨブは人間の内的な衝動に深い関心を持っていて、それを管理できる実力をも持って人であることが分かるからです。罪と人間を知らなければ、それから自分を守って生きることはできません。   ヨブは理性と隣人に対する法的義務を守ったのではなく、彼らの尊厳な人間の権利を守ったことになります。私たちの周りにいつもあるとセックスハラとパワーハラは人間を尊重せずに人間を道具化し、階級化している結果です。ヨブの敬虔の核心は、自分の中にある切除ということよりも、他人に向けた尊重です。それがヨブが神様を信じる原理でした。神様を意識したヨブは、当然の信仰の結果として人間を尊重する生き方をしました。

욥기 QT47 211125목【경건의 방향】욥기 31장 1~23

욥기 31장 1~2331:1 내가 내 눈과 언약을 세웠나니 어찌 처녀에게 주목하랴31:2 그리하면 위에 계신 하나님의 내리시는 분깃이 무엇이겠으며 높은 곳에서 전능자의 주시는 산업이 무엇이겠느냐31:3 불의자에게는 환난이 아니겠느냐 행악자에게는 재앙이 아니겠느냐31:4 그가 내 길을 감찰하지 아니하시느냐 내 걸음을 다 세지 아니하시느냐31:5 언제 나의 행위가 허탄하였으며 내 발이 궤휼에 빨랐던가31:6 그리하였으면 내가 공평한 저울에 달려서 하나님이 나의…

ヨブ記 QT46 211124水【苦痛の地位】ヨブ記 30章 16~31

ヨブ記 30章 16~3130:16 今、私のたましいは自分に注がれている。苦しみの日々が私をとらえたからだ。30:17 夜は私から骨をえぐり取り、私をむしばむものは休まない。30:18 神は大きな力で私の衣服に姿を変え、まるで長服の襟のように私に巻き付かれる。30:19 神は泥の中に私を投げ込まれ、私はちりや灰のようになった。30:20 私があなたに向かって叫んでも、あなたはお答えになりません。私が立っていても、あなたは私に目を留めてくださいません。30:21 あなたは、私にとって残酷な方に変わり、御手の力で、私を攻めたてられます。30:22 あなたは私を吹き上げて風に乗せ、すぐれた知性で、私を翻弄されます。30:23 私は知っています。あなたが私を死に帰らせることを。すべての生き物が集まる家に。30:24 それでも、瓦礫の中で人は手を伸ばさないだろうか。災難にあって助けを求めて叫ぶときに。30:25 私は不運な人のために、泣かなかっただろうか。私のたましいは貧しい人のために、心を痛めなかっただろうか。30:26 私は善を望んだのに、悪が来た。光を待ったのに、暗闇が来た。30:27 私のはらわたは、休みなくかき回され、苦しみの日が私に立ち向かっている。30:28 私は日にも当たらず、泣き悲しんで歩き回り、集いの中に立って助けを叫び求める。30:29 私はジャッカルの兄弟となり、だちょうの仲間となった。30:30 私の皮膚は黒ずんで剝げ落ち、骨は熱で焼けている。30:31 私の竪琴は喪のためとなり、私の笛は泣き悲しむ者の声となった。   神様のみ声を聞くことができないのは、まず、人がそれを聞こうとしない無関心であり、次は、聞いても分からない難聴の問題であり、もう一つは、神様が言われない沈黙のためです。神様が人間に沈黙されるのは、人間の時間と神様の時間が異なるからです。   その間に苦しみがあるので、神様の沈黙は人間にとって困ることです。しかし、予期せぬ幸福があるように、避けたい痛みも免除されることはありません。誰においても痛みは恐ろしいことで避けたいことですが、実は、苦痛は人生の中に正当な地位を持っています。痛みは自分の席を占めて退こうとはしません。   神様が沈黙しているようですが、神様なしで、神様が分からないうちに、神様のみ旨と違って与えられる苦痛というのはありません。神様の沈黙のように思いますが、裏を返してみると、嬉しい時、楽しい時も神様がその理由について沈黙されたのは同じです。その時は質問してなかっただけす。振り返ってみると、幸福にも苦痛にも、私が生きているという理由以外に、私が納得できるような他の理由はありませんでした。苦痛は痛いですが、有るものです。   17世紀の幕府のキリスト教の弾圧を描いた遠藤周作の『沈黙』は、人間が苦しむ時、神様はどこにおられるのかという絶叫です。本のタイトルは、その絶叫の急さとは相反する『沈黙』です。その沈黙は、壮大な音よりも重く人間の実存を押しかかります。神様が沈黙している間、人々は悲鳴を上げて死にかけます。なぜ、沈黙していますかと恨んでみますが、答えは沈黙です。   しかし、沈黙は沈黙ではありません。神様の沈黙の中には、「人生に苦しみがある」という答えが含まれています。沈黙の原題は『人生の踏み絵』でした。聖母とキリストの顔を踏んで生きた人もそうにはできなく死んだ人もいますが、両方苦しみました。踏み絵は苦痛なので。本題は、「人生の苦痛」です。つまり、「神様の沈黙」と「人生の苦痛」は、同じことではないでしょうか。   無秩序な分子が繰り返される混乱の中で一定の秩序を作り出したのが、「結晶体」になります。貝の中に入った異物から肉を守るための貝が必死の努力をしたのが、「真珠」になります。ヨブをはじめ、すべての苦しむ人生が哀れですが、意味のない痛みはないと思います。痛みは、私たちの人生の中に地位を持っています。

욥기 QT46 211124수【고통의 지위】욥기 30장 16~31

욥기 30장 16~3130:16 이제는 내 마음이 내 속에서 녹으니 환난날이 나를 잡음이라30:17 밤이 되면 내 뼈가 쑤시니 나의 몸에 아픔이 쉬지 아니하는구나30:18 하나님의 큰 능력으로 하여 옷이 추하여져서 옷깃처럼 내몸에 붙었구나30:19 하나님이 나를 진흙 가운데 던지셨고 나로 티끌과 재 같게 하셨구나30:20 내가 주께 부르짖으오나 주께서 대답지 아니하시오며 내가 섰사오나 주께서 굽어보시기만 하시나이다30:21 주께서 돌이켜 내게…

ヨブ記 QT45 211123火【裏切りの正体】ヨブ記 30章 1~15

ヨブ記 30章 1~1530:1 しかし今は、私より年下の者たちが私をあざ笑う。あの者たちの父は、かつて私が蔑んで羊の群れの番犬と一緒にいさせた人たちだ。30:2 あの者たちの手の力も何の役に立つだろうか。彼らの気力は失せている。30:3 彼らは欠乏と飢饉で干上がり、乾いた土にさえかじりつく。荒れ果てた廃墟の暗闇で。30:4 彼らは陸ひじきや藪の葉を摘み、えにしだの根を食物とする。30:5 世間からは追い出され、人々は盗人に叫ぶように、彼らに大声で叫ぶ。30:6 谷の斜面や、土の穴、岩の穴に住み、30:7 藪の中でいななき、いらくさの下に群がる。30:8 彼らは愚か者の子たち、名もない者の子たち、国からむちでたたき出された者たちだ。30:9 それなのに、今や私は彼らの嘲りの的となり、その笑いぐさとなっている。30:10 彼らは私を忌み嫌って遠く離れ、私の顔に向かって情け容赦なく唾を吐きかける。30:11 神が私の弓弦を解いて私を苦しめ、彼らが自分の綱を私の前で投げ捨てたのだ。30:12 この生意気な者たちは私の右手に立ち、私の足をもつれさせ、私に対して滅びの道を築いた。30:13 彼らは私の通り道を打ち壊し、私の滅びを進めている。彼らに助ける者はいらない。30:14 彼らは、広い破れ口から入るように、瓦礫となったところになだれ込む。30:15 突然の恐怖が私に降りかかり、私の威厳を、あの風のように吹き払う。私の平穏は、雨雲のように過ぎ去った。   シェイクスピアの『アテネのタイモン』(Timon of Athens)で、主人公のアテネの金持ちタイモンは、莫大で無条件な善行を実践し、アテネ市民に尊敬されていた人です。慈善の規模が大きくなりにつれ、タイモンは破産に至ります。しかし、タイモンは心配しませんでした。自らの共同体が、自分を覚え、助けてくれる、自分が実践した慈悲は、やがて自分にも戻ってくる、と思っていたからです。彼は自分がしてきたことを悔やみませんでした。   しかし、タイモンの期待とは裏腹に、世間は彼を助けようとしませんでした。タイモンに助けられた人や友人たちは、タイモンを蔑み、裏切ります。裏切られたタイモンはアテネを呪い、町から離れます。タイモンは裏切られた気持ちに勝てず、人間を嫌悪しながら死んでいきます。シェイクスピアの人間嫌悪を最大化した作品であると言われていますが、人間をあえて嫌悪したのではなく、かえって人間を直視したのではないでしょうか?タイモンが尊敬されたこと、そして没落と裏切り、そのすべての背景には、タイモンの人格ではなく、彼の経済的能力がありました。   タイモンからお金がなくなると、タイモンという実体も明らかになり、彼に従った人々の実体も明らかになります。タイモンに従った人々、彼に挨拶した人々、彼を尊敬した人々は、経済的能力を失ったタイマンを捨てます。人々の関心がお金にあったため、お金のない人は人々の関心を受けられず、やがて捨てられるのです。拝金主義が純粋な人間の善意を裏切らせ、裏切られた人間は人間を嫌悪します。   29節で読んだヨブは、タイモンのように有名で富んでおり、世の人々の尊敬を受けていました。しかし、彼が没落すると、人々はヨブを侮辱し、捨てました。裏切りが与える傷は深くて大きいものです。失敗には涙を流しますが、裏切りには血の涙が流れます。ただ、ヨブとタイモンの違うところは、タイモンは人間を嫌悪して呪いながら死んでいきましたが、ヨブは自分が受けた蔑みと裏切りが神様の摂理であったと考えた点です。「神が私の弓弦を解いて私を苦しめ、彼らが自分の綱を私の前で投げ捨てたのだ。11」   慈善を施す自分と、自分を賞賛する声を、私たちは警戒すべきでしょう。そして裏切りがあっても驚く必要はありません。聖書は「あなたが施しをするときは、右の手がしていることを左の手に知られないようにしなさい。 マタイ 6:3」と教えています。 ヨブは今、痛みをもって人間を学んでいるのです。

욥기 QT45 211123화【배신의 정체】욥기 30장 1~15

욥기 30장 1~1530:1 그러나 이제는 나보다 젊은 자들이 나를 기롱하는구나 그들의 아비들은 나의 보기에 나의 양떼 지키는 개 중에도 둘만하지 못한 자니라30:2 그들은 장년의 기력이 쇠한 자니 그 손의 힘이 내게 무엇이 유익하랴30:3 그들은 곧 궁핍과 기근으로 파리하매 캄캄하고 거친 들에서 마른 흙을 씹으며30:4 떨기나무 가운데서 짠 나물도 꺾으며 대싸리 뿌리로 식물을 삼느니라30:5 무리는 도적을…

ヨブ記 QT44 211122月【回復の希望】ヨブ記 29章 18~25

ヨブ記 29章 18~2529:18 そこで私はこう思った。「私は自分の巣とともに息絶えるが、自分の日数を砂のように増やす。29:19 私の根は水に向かって伸び広がり、夜露が私の枝に宿る。29:20 私の栄光は私とともに新しくなり、私の弓は私の手によって次々と矢を放つ」と。29:21 人々は期待して私の言うことに聞き入り、私の助言に黙って従った。29:22 私が語った後にはだれも言い返さず、私のことばは彼らの上に降り注いだ。29:23 彼らは雨を待つように私を待ち、後の雨を待つように、口を大きく開けて待った。29:24 私が彼らにほほえみかけると、彼らはそのことを信じることができなかった。彼らが私の顔の光を陰らせることはなかった。29:25 私は彼らの行くべき道を選んでやり、首長のように座に着いた。また、軍勢とともにある王のように住み、嘆き悲しむ人を慰める者のようであった。   ヨブは、自分が共同体の中で信頼された指導者であったと言います。昨日の本文にさかのぼってヨブの人生をまとめてみると、神様が灯りで自分の頭の上を照らしてくださるとき、彼は暗闇の中を恐れずに通りました。 3 あらゆる収穫が豊かで6 皆がが自分の人格と知恵を尊敬しました。7-12 人々はヨブの教えを慕い求めて聞き,それに従いました。皆にとってヨブの言葉は、聞きたい朝露と雨のように降るものでした。12,15-16,24,25 これらが事実なら、ヨブは共同体で知恵と人格を兼ね備え、尊敬された指導者です。   ヨブは、その日の事が思い出しながら懐かしんでいます。過去のことを思い出して往年を誇りたかったわけではありません。今まで生きてきた自分の人生に矛盾と偽りがなかったことを確認するのです。「私の根は水に向かって伸び広がり、夜露が私の枝に宿る。19」は、神様から降りる祝福であり,「…私のことばは彼らの上に降り注いだ。彼らは雨を待つように私を待ち、後の雨を待つように、口を大きく開けて待った。22,23」は、その祝福を隣人に分け与える生き方をしたということです。崩れ落ちている今のヨブにとって、回復は想像しにくいことですが、ヨブは回復を待ち望みます。立てられたのが神様なら、神様は再び立てられます。この状況でも、ヨブが自信を持って回復を望む根拠は、ヨブが神様からいただいた祝福の賜物を無駄に使わない生き方をしたからです。ヨブの回復を応援します。