욥기 QT29 211104목【빌닷의 사망론】욥기 18장 1~21

욥기 18장 1~2118:1 수아 사람 빌닷이 대답하여 가로되18:2 너희가 어느 때까지 말을 찾겠느냐 깨달으라 그 후에야 우리가 말하리라18:3 어찌하여 우리를 짐승으로 여기며 부정하게 보느냐18:4 너 분하여 스스로 찢는 자야 너를 위하여 땅이 버림을 당하겠느냐 바위가 그 자리에서 옮기겠느냐18:5 악인의 빛은 꺼지고 그 불꽃은 빛나지 않을 것이요18:6 그 장막 안의 빛은 어두워지고 그 위의 등불은 꺼질…

ヨブ記 QT28 211102火【慰められない孤独】ヨブ記 16章 18~17章 5

ヨブ記 16章 18~17章 516:18 地よ、私の血をおおうな。私の叫びに休み場がないようにせよ。16:19 今でも、天には私の証人がおられます。私の保証人が、高い所に。16:20 私の友は私を嘲る者たち。しかし、私の目は神に向かって涙を流します。16:21 その方が、人のために神にとりなしてくださいますように。人の子がその友のためにするように。16:22 数年もたてば、私は帰らぬ旅路につくのですから。17:1 私の霊は乱れ、私の日は尽き、私には墓場があるだけです。17:2 実に、嘲る者たちが私とともにいます。私の目は彼らの敵意の中で夜を過ごします。17:3 どうか、私を保証してくれる人をあなたのそばに置いてください。ほかにだれか誓ってくれる人がいるでしょうか。17:4 あなたはあの者たちの心を賢明さから引き離されました。ですから、あなたが彼らを高く上げられることはありません。17:5 分け前を得るために友の告げ口をする者。その子らの目は衰え果てる。   「地よ、私の血をおおうな。」この言葉は、身にしみるほどの悔しさをヨブが訴えていることを表しています。もちろんヨブは疲れ果ていて、彼の言葉にも信仰的な混乱があります。ヨブは神様に対して恨みませんでしたが、しかし迂回的に状況を恨みました。誰一人もヨブを慰める人がいなく、孤独はさらにヨブを苦しませています。独りという孤独は恐ろしい痛みです。人々は言います。頼るところがないので、神様に頼ればいいと。もちろんそうなのですが、これはもっともヨブの友達の口から出てくるような言葉です。孤独が人の不在のために起こるものであれば、人が満たさなければならない部分は依然として残っているはずです。   天国には信仰を必要としません。信仰は体を持って地上に生きる間に必要なものです。いかに大きい信仰を持っているとしても、人と人の関係抜きに考えることはできません。例えば孤独が神様に頼らせる機能があるとしても、その孤独に放置された人が良い役割を果たせる保証はどこにもありません。ヨブが言ったように、自分が直面する苦難よりも、友人たちの断罪の方が、よっぽど大きい災いになってヨブを押しつぶしています。ヨブの訴えは、友達の冷たい言葉による悲しみのゆえです。   ヨブと友達の会話を見ながら、なぜ消耗的な話を続けているのかとも思われます。ヨブは友達を帰らせて静かに断食の祈りでもすればいい思うのですが。しかし、ヨブは自分を指摘し責めるばかりの友人たちであっても、自分ね隣にいてほしかったのかもしれません。会話する人すらいない孤独は怖い苦しみです。苦しみの中で投げられた人間が神様を求めている話、それがヨブ記であるならば、苦しみの中で生きなければならない人間同士の関係については、さらに大きな重さを持って語っていると思います。   人生が崩れ、弱くなり、死に向かって行くのは、ヨブだけの特別な話ではありません。誰もが下り坂を歩きます。ところが、人々は簡単に言います。一生懸命生きていないからだと、老いてからだと、信​​仰が足りないからだと、罪を犯したからだと、、。東京には年に千人の高齢者が家で一人で孤独死します。話し相手一人もいない、孤独に生きて、飢えて死にます。   なぜ老いたのか、なぜ孤独だったのか、なぜ貧しかったのかを責め立てて何の益があるでしょうか?厳しい孤独の中で死んでいくヨブは私たちの周りにたくさんいます。ヨブに神様を望む信仰があるからといって、苦痛が消えたわけではなかったことと同じように、信仰があるからといって、人と人との関係の中で人に慰められる必要がなくなるわけではありません。私たちが出会う多くのヨブたちに対して、問い詰める代わりに、慰めることができればと願います。

욥기 QT28 211102화【위로받지 못하는 고독】욥기 16장 18~17장 5

욥기 16장 18~17장 516:18 땅아 내 피를 가리우지 말라 나의 부르짖음으로 쉴 곳이 없게 되기를 원하노라16:19 지금 나의 증인이 하늘에 계시고 나의 보인이 높은 데 계시니라16:20 나의 친구는 나를 조롱하나 내 눈은 하나님을 향하여 눈물을 흘리고16:21 사람과 하나님 사이에와 인자와 그 이웃 사이에 변백하시기를 원하노니16:22 수 년이 지나면 나는 돌아오지 못할 길로 갈 것임이니라17:1 나의…

ヨブ記 QT27 211101月【観点の喚起】ヨブ記 16章 1~17

ヨブ記 16章 1~1716:1 ヨブは答えた。16:2 そのようなことは、私は何度も聞いた。あなたがたはみな、人をみじめにする慰め手だ。16:3 むなしいことばには終わりがあるのか。あなたは何に挑発されて答え続けるのか。16:4 私も、あなたがたのように語ることができる。もし、あなたがたが私の立場にあったなら、あなたがたに向かって私は多くのことばを連ね、あなたがたに向かって頭を振ったことだろう。16:5 この口であなたがたを強くし、唇による慰めを惜しまなかったことだろう。16:6 たとえ私が語っても、私の痛みは抑えられません。たとえ私が忍んでも、どれだけ私からそれが去るでしょう。16:7 まことに神は今、私を疲れ果てさせました。あなたは、私の仲間をみな荒れ果てさせました。16:8 あなたは私をつかみました。自分の痩せ衰えた姿が証人となり、私に向かって立ち上がり、面と向かって不利な証言をします。16:9 神は激怒して私を攻めたて、私に向かって歯をむき出される。私の敵は私に向かって目を鋭くする。16:10 彼らは私に向かって大きく口を開け、そしりをもって私の頬を打ち、こぞって私を攻める。16:11 神は私を不遜な者に引き渡し、悪しき者の手に投げ込まれる。16:12 私は平穏でいたのに、神は私を引き回された。首筋をつかんで私を粉々にし、そうして、ご自分の標的とされた。16:13 その射手たちは私を包囲した。神は私の腎臓を容赦なく射抜き、私の胆汁を地に流された。16:14 神は私を打ち、打ち破って、勇士のように私に襲いかかられる。16:15 私は粗布を肌に縫い付け、自分の角をちりの中に突き刺した。16:16 私の顔は泣きはらして赤くなり、まぶたには死の陰がある。16:17 私の手には暴虐がなく、私の祈りはきよいのだが。   しゃべりたいことの多い友人3人が1回ずつ議論し、一回りしてエリファスズが再び議論した後のヨブの答えです。ヨブはもう友人3人の立場をよく知っています。彼らが確信的に言おうとしていることが何かについて知っており、それに対して変化の余地がないことも知っています。このようなことで人間をについて知るということは悲しいです。成熟した人は人間をあきらめるしかありません。「人はそういうもんだ」と思うべきであって、確信している人間と言葉をもって戦っても解決はないからです。   人間の絶望的な無知に出会うということは、真の希望を抱く機会になります。誰かを信じることも、頼ることもできないことに気づくと、ヨブの苦難に神様が介入されていることに気が付きます。ヨブはわけの分からない苦難の中で神様を学んでいますが、友人という人間についても多くことを学んでいるようです。   人々は自分のことでなければ、観察者の立場から考え、その立場を変えて考えることはしません。他人の苦しみを見ている人の視線は一方的です。一度自分の立場を決めたら、なかなかそれを変えることはせず、頑固なものになります。友人は、ヨブのために、ヨブが悔い改めなければならないと言っていますが、実際には自信に陥った論理でヨブをさらに苦しめているだけです。ヨブは、彼らに対して慰めに来たが、災いを加えていると言います。   絵を学んだことがありましたが、絵が気に入った日は、数時間も集中して描きました。ところで、そのように描いた絵は十重八九のどこかが間違って歪みます。遠くに離れて自分の絵を見なければなりません。構図を見、全体のバランスを確認します。部分ではなく全体を見るのです。人々のアドバイスを聞くことも大事です。客観的な視点を確保し、評価者の視線から見る力が必要です。   自分が描いた絵に自分がすでにだまされてしまったいわばピグマリオンのような人は、間違っているところを教えても直しません。下手より恐いのは、上手いと勘違っている思いです。ところが、トイレに行ってきて絵を見ると変に見えます。外に出てきたからみると、さらに可笑しいです。視点の換気が行われたからです。自分の視点と立場が間違っている可能性があることを認めない人は、自分の作品が世に出た瞬間に恥じを覚えるようになります。これを学んだヨブは、言葉の通じない友達と言葉をもって戦うことではなく、神様の前に立っている自分の視点を疑い、それを換気することです。  

욥기 QT27 211101월【관점의 환기】욥기 16장 1~17

욥기 16장 1~1716:1 욥이 대답하여 가로되16:2 이런 말은 내가 많이 들었나니 너희는 다 번뇌케 하는 안위자로구나16:3 허망한 말이 어찌 끝이 있으랴 네가 무엇에 격동되어 이같이 대답하는고16:4 나도 너희처럼 말할 수 있나니 가령 너희 마음이 내 마음 자리에 있다 하자 나도 말을 지어 너희를 치며 너희를 향하여 머리를 흔들 수 있느니라16:5 그래도 입으로 너희를 강하게 하며…

ヨブ記 QT26 211030土【神の発見】ヨブ記 15章 1~16

ヨブ記 15章 1~1615:1 テマン人エリファズが答えた。15:2 知恵のある者は、むなしい知識によって答えるだろうか。東風で腹を満たすだろうか。15:3 益にならないことばで、役に立たない論法で論じるだろうか。15:4 あなたは敬虔を不要と見なし、神の御前で祈るのをおろそかにしている。15:5 それは、あなたの咎があなたの口に教え、あなたが悪賢い人の舌を選んでいるからだ。15:6 あなたの口があなたを不義に定める。私ではない。あなたの唇が、あなたに不利な証言をする。15:7 あなたは最初の人間として生まれたのか。丘より先に生み出されたのか。15:8 あなたは神との親しい交わりにあずかり、知恵をひとり占めにしているのか。15:9 あなたが知っていることを、私たちが知らないというのか。あなたが悟っていることは、私たちのうちにはないのか。15:10 私たちの中には、白髪の者も古老もいて、あなたの父よりもはるかに年を重ねている。15:11 神の慰めは、あなたには不十分なのか。あなたに対して優しく語られたことばは。15:12 なぜ、あなたは自分を見失っているのか。なぜ、あなたの目は、ぎらついているのか。15:13 あなたが神に向かって苛立ち、口からあのようなことばを吐くとは。15:14 どういう人が清くあり得るのか。女から生まれた者で、だれが正しくあり得るのか。15:15 見よ、神はその聖なる者たちさえ信頼なさらない。天も神の目には清くない。15:16 まして忌み嫌うべき腐り果てた者、不正を水のように飲む人間は、なおさらだ。   私たちは神様のことをよくわかっていません。それは聖書が分厚いからだけではありません。それぞれの信仰の経験を通して自分の知識と現実が一致せず、また質問しても答えが得られず、未だに未知の領域として残っているものが、多くあるからです。答えが与えられるよりも、むしろ質問が与えられることの方が多いのかもしれません。   信仰と現実は、区別されるものではありませんが、信仰においても現実においても、上手くいかないとき、私たちは自分の信仰が足りないことがその原因だと思ってしまいます。私もそのように悩んでいました。意志薄弱な自分を自責するのです。どんなことでもさかのぼると自責することがあるからです。しかし、うまくいくときが信仰の成功であれば、信仰が存在する時間は一瞬に過ぎないのかも知れません。   どれほど神様を知れば道徳的になり、どれだけ熱心になれば神様に到達することができるでしょうか。しかし逆説的ですが、神様を信じるのは、神様を知らないからです。分からないから、とにかく信じようということではありません。知らないからこそ信じるのです。私が考えること、認識すること、経験することの限界を超えておられる神様を信じるのです。   不幸が重なり、死が訪れるとしても、信仰はその状況にとどまらず、それを超えておられる神様を信頼するのです。信仰は、何かを成し遂げるのではなく、知識を積み重ねることでもなく、時に道徳的でなくても、時に怠慢であっても、どんな場合でも神様が私を導いていくということを信じるのです。   私たちは人生の様々な困難にぶつかり、落ち込むことを繰り返しますが、ヨブの友人がヨブに求めている宗教的な理想のようなものを通して、神様に近づくことはできません。神様は今ここに、ヨブと共におられます。私たちに必要なのは、より高い宗教的理想を実現するのではなく、ぼろぼろになっていても、神様が導いてくださるという事実を発見することなのです。

욥기 QT26 211030토【하나님의 발견】욥기 15장 1~16

욥기 15장 1~1615:1 데만 사람 엘리바스가 대답하여 가로되15:2 지혜로운 자가 어찌 헛된 지식으로 대답하겠느냐 어찌 동풍으로 그 품에 채우겠느냐15:3 어찌 유조치 아니한 이야기, 무익한 말로 변론하겠느냐15:4 참으로 네가 하나님 경외하는 일을 폐하여 하나님 앞에 묵도하기를 그치게 하는구나15:5 네 죄악이 네 입을 가르치나니 네가 간사한 자의 혀를 택하였구나15:6 너를 정죄한 것은 내가 아니요 네 입이라 네…

ヨブ記 QT25 211029金【もう一度生きたい】ヨブ記 14章 13~22

ヨブ記 14章 13~2214:13 ああ、あなたが私をよみに隠し、あなたの怒りが過ぎ去るまで私を潜ませ、私のために時を定めて、私を覚えてくださればよいのに。14:14 人は死ぬと、また生きるでしょうか。私は苦役の日の限り、待ちます。私の代わりがやって来るまで。14:15 あなたがお呼びになれば、お答えします。あなたは御手のわざを慕っておられるでしょう。14:16 今、あなたは私の一歩一歩を数えておられます。私の罪に目を留めないでください。14:17 私の背きを袋の中に封じ込め、私の咎をおおってください。14:18 しかし、山は倒れて崩れ去り岩もその場所から移されます。14:19 水は石を打ち砕き、あなたは小石を押し流して地のちりとされます。そのように、人の望みを絶ち滅ぼされます。14:20 あなたがいつも人に打ち勝つので、人は去って行きます。あなたは彼の顔かたちを変えて、彼を追いやられます。14:21 自分の子どもたちが人に尊ばれても、彼がそれを知ることはなく、彼らが人に卑しめられても、彼には見分けがつきません。14:22 ただ彼の肉が彼のために痛みを覚え、そのたましいが彼のために嘆くだけです。   20節以下、「あなたがいつも人に打ち勝つので、人は去って行きます。あなたは彼の顔かたちを変えて、彼を追いやられます。自分の子どもたちが人に尊ばれても、彼がそれを知ることはなく、彼らが人に卑しめられても、彼には見分けがつきません。ただ彼の肉が彼のために痛みを覚え、そのたましいが彼のために嘆くだけです。」ここでヨブと友人たちの第1次弁論は終わります。死という混乱と苦しみの前で、自分の肉体と魂を修めることもできない人間のことを言います。   「山は倒れて崩れ去り岩もその場所から移されます。水は石を打ち砕き、あなたは小石を押し流して地のちりとされます。そのように、人の望みを絶ち滅ぼされます。」山と石は本来動かないものなのですが、それが水に磨かれて洗い流されたというのは、永遠に続くと思い込む人間のすべてが神様によって消えさるということです。   そのような絶望と虚無の中でヨブは14節で「人は死ぬと、また生きるでしょうか」と尋ねます。「人は一度死んだらまた生きられることはないです」という嘆息の質問かもしれませんが、これは溺れる者ものがわらをもつかむように、死の絶望の前でもう一度生きたいという願いの言葉でもあります。だからヘブライ語をギリシャ語に移した70人訳(LXX)では、14節を「人が死ぬと彼は再び生きる」と翻訳しました。ヨブの復活信仰と捉えることができます。ヨブは「私は苦役の日の限り、待ちます。私の代わりがやって来るまで」と言いました。その「待ち」とはすなわち復活です。   ティム・ケラーは『死について』でピューリタンの言葉を引用して「一度生まれれば二度死に、二度生まれれば一度死ぬ」と言いました。人が「二度生まれば一度死ぬ」ということは、生まれ変わったクリスチャンの肉体は一度死ぬものの、霊は決して死なないということです。人が「一度生まれれば二度死ぬ」というのは、生まれ変わらない人は肉体が死んだ後に、再び永遠の死を迎えるということです。生きている間に、二番目の誕生をしなければなりません。それがイエス・キリストの中で生まれ変わることです。ヨブがこれを知っていたら喜びのあまり踊ったと思います。   死の前に置かれたヨブの態度は正直です。虚しくて怖いものです。しかし、ヨブは希望を失いません。復活を願うのです。ヨブにとってはまだ慎重な復活ですが、私たちにとってはの復活は確固たる信仰です。クリスチャンは死を超えて何があるのか​​を確かに知っています。「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。Ⅰコリント15:55」復活がある。だから死は死にました。だれでもキリストを信じれば、キリストに連なって「罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者」なのです。永遠の死から救われ、永遠の命を味わうことになります。

욥기 QT25 211029금【다시 살 수 있다면】욥기 14장 13~22

욥기 14장 13~2214:13 주는 나를 음부에 감추시며 주의 진노가 쉴 때까지 나를 숨기시고 나를 위하여 기한을 정하시고 나를 기억하옵소서14:14 사람이 죽으면 어찌 다시 살리이까 나는 나의 싸우는 모든 날 동안을 참고 놓이기를 기다렸겠나이다14:15 주께서는 나를 부르셨겠고 나는 대답하였겠나이다 주께서는 주의 손으로 지으신 것을 아껴 보셨겠나이다14:16 그러하온데 이제 주께서 나의 걸음을 세시오니 나의 죄를 살피지 아니하시나이까14:17…

ヨブ記 QT24 211028木【メメント・モリ】ヨブ記 14章 1~12

ヨブ記 ヨブ記 14章 1~1214:1 女から生まれた人間は、その齢が短く、心乱されることで満ちています。14:2 花のように咲き出てはしおれ、影のように逃げ去り、とどまることがありません。14:3 このような者に対してさえあなたは目を見開き、この私をご自分とともに、さばきの座に連れて行かれるのですか。14:4 きよい物を汚れた物から取り出せたらよいのに。しかし、だれ一人できません。14:5 もし、人の日数が定められていて、その月の数もあなたが決めておられ、その人が越えることのできない限界をあなたが設けておられるなら、14:6 その人から目をそらして、かまわないでください。彼が雇い人のように自分の日を楽しむために。14:7 木には望みがある。たとえ切られても、また芽を出しその若枝は絶えることがない。14:8 たとえ、その根が地の中で老い、その根株が土の中で死んでも、14:9 水の潤いがあると芽を吹き出し、苗木のように枝を出す。14:10 しかし、人は死ぬと倒れたきりだ。人間は息絶えると、どこにいるのか。14:11 水は海から消え去り、川は干上がり、涸れる。14:12 そのように、人は伏して起き上がらず、天がなくなるまで目覚めず、その眠りから覚めることはない。   ヨブは「女から生まれた人間は、その齢が短く、心乱されることで満ちています。花のように咲き出てはしおれ、影のように逃げ去り、とどまることがありません。」と言いました。人生の弱さを訴え、死ぬべき人生の虚無を告白します。詩編90篇を思い起こさせます。「あなたが押し流すと人は眠りに落ちます。朝には草のように消えています。朝花を咲かせても移ろい夕べにはしおれて枯れています。90:5、6」   人生の悲しみは人生の短さのゆえだけではありません。その短い間に多くの苦しみを受けながら生きていきます。ヨブの人生の洞察は、自分が苦しみの時間を過ぎているからでしょう。ヨブの苦難は、彼の行為に対する神様の罰ではないのですが、それにもかかわらず、ヨブは苦しみの底から人生を改めて学んでいます。ソロモンが書いた伝道者の書は,「空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。伝道者の書1:2」ということばから始まります。知恵ある者は虚無の発見を前提に話を始めざる得ませんでした。   この難題について答えを言うことはできません。ただ、これを否定してはいけません。人生が虚無であるという本質を認めざる得ません。ローマの凱旋将軍の行列の後ろから、人々は「メメント・モリ」を叫びます。「死を覚えなさい」ということです。成功した人間に虚無を自覚させます。ローマの詩人ホラティウスは、一歩進んだ知恵を話しました。「カーペ・ディエム、「今日を生きる」ということです。「死んだ詩人の社会(いまを生きる)」でキーティング先生が言ったことでもあります。人間が見つけることのできる真理の最善は、人間は死ぬことを覚えること、そして与えられた今日を生きることです。   「私たちが詩を読み書くのは人類の一員だからだ。人類は情熱で満ちている。医学・法律・ビジネス・エンジニアリングは私たちの生活に必要なものだ。しかし、詩・美しさ・ロマンス・愛情こそが私たちが生きていく目的そのものだ。今日を生きなければならない。自分の足で歩みなさい。人々が笑ってもあなたの道を行きなさい。」これは「死んだ詩人の社会」で言われたキーティング先生のセリフです。考えてみるとヨブ記もまた苦しみを扱っていますが、すべて詩として書かれています。