마태복음 QT47 210306토【주가 쓰시겠다 하라】마태 21장 1~11

마태 21장 1~1121:1 저희가 예루살렘에 가까이 와서 감람산 벳바게에 이르렀을 때에 예수께서 두 제자를 보내시며21:2 이르시되 너희 맞은편 마을로 가라 곧 매인 나귀와 나귀 새끼가 함께 있는 것을 보리니 풀어 내게로 끌고 오너라21:3 만일 누가 무슨 말을 하거든 주가 쓰시겠다 하라 그리하면 즉시 보내리라 하시니21:4 이는 선지자로 하신 말씀을 이루려 하심이라 일렀으되21:5 시온 딸에게 이르기를…

マタイによる福音書 QT46 20210305金【仕える権威】マタイ 20章 17~34

マタイ 20章 17~3420:17 さて、イエスはエルサレムに上る途中、十二弟子だけを呼んで、道々彼らに話された。20:18 「ご覧なさい。わたしたちはエルサレムに上って行きます。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡されます。彼らは人の子を死刑に定め、20:19 異邦人に引き渡します。嘲り、むちで打ち、十字架につけるためです。しかし、人の子は三日目によみがえります。」20:20 そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、息子たちと一緒にイエスのところに来てひれ伏し、何かを願おうとした。20:21 イエスが彼女に「何を願うのですか」と言われると、彼女は言った。「私のこの二人の息子があなたの御国で、一人はあなたの右に、一人は左に座れるように、おことばを下さい。」20:22 イエスは答えられた。「あなたがたは自分が何を求めているのか分かっていません。わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか。」彼らは「できます」と言った。20:23 イエスは言われた。「あなたがたはわたしの杯を飲むことになります。しかし、わたしの右と左に座ることは、わたしが許すことではありません。わたしの父によって備えられた人たちに与えられるのです。」20:24 ほかの十人はこれを聞いて、この二人の兄弟に腹を立てた。20:25 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。20:26 あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。20:27 あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。20:28 人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい。」20:29 さて、一行がエリコを出て行くと、大勢の群衆がイエスについて行った。20:30 すると見よ。道端に座っていた目の見えない二人の人が、イエスが通られると聞いて、「主よ、ダビデの子よ。私たちをあわれんでください」と叫んだ。20:31 群衆は彼らを黙らせようとたしなめたが、彼らはますます、「主よ、ダビデの子よ。私たちをあわれんでください」と叫んだ。20:32 イエスは立ち止まり、彼らを呼んで言われた。「わたしに何をしてほしいのですか。」20:33 彼らは言った。「主よ、目を開けていただきたいのです。」20:34 イエスは深くあわれんで、彼らの目に触れられた。すると、すぐに彼らは見えるようになり、イエスについて行った。   イエス様は弟子たちに18節と19節の短い言葉に圧縮して十字架と復活を予告しました。その時にゼベダイの息子たちの母、つまりヤコブとヨハネの母が息子ヤコブとヨハネを連れて、イエス様のところに来て、請託をしたのです。よく見てくださいということです。   21節の「あなたの御国」とは、霊的な神の国をいうものではなく、イエス様がローマ帝国の圧制から革命を起こし、政権を握ると、政治的な権力の座に自分の息子たちを登用してもらいたいということです。   弟子たちがそれを聴いてヤコブとヨハネの母がしたことをを批判しましたが、それも、弟子たちそれぞれもこれからの自分の立場を狙っていたからです。イエス様の人気が高くなっていたのは、十字架がますます近づいてきた時でした。弟子たちは出世の期待に精一杯膨らんていたようです。   神に従うという価値を追い求めて、すべてのものを捨てて献身しますが、それは再びある社会を成し、その社会の中で、また権力といった秩序が作られます。ということで献身者といいながら、その世界の中で貪欲に陥ってしまうことが繰り返されます。それは信仰の歴史でもあります。 イエス様は、支配する人ではなく仕える人が偉い人であると言われます。「献身」という言葉は、確かに「献身的」な言葉ですが、その言葉は、使わないときに意味がより明確になります。イエス様は献身という抽象的な言葉ではなく、仕えるという具体的な行動を示して言われました。   ですから仕える人が献身者なのです。「あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。27」共同体の中で仕える人がいれば、その人が神の国で偉い人になるということです。   それから、イエス様は、弟子たちが聞き取れなかった十字架の話に戻ります。「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい。28」   今朝の本文はここで終わらず、盲人を直してくださったた話しまで続きます。これが著者の編集的意図かどうかは分かりませんが、多分に対照的です。イエス様が「わたしに何をしてほしいのですか。」という質問に、盲人たちは「主よ、目を開けていただきたいのです。33」と答えます。   この単純な救いの願いにイエス様は深くあわれんおられました。彼らは救いの感激の中で、イエス様を従いました。仕えることができる機会を獲得したのです。中傷することではありませんが、盲人たちは世界を見て感激したと思いますが、いつかは何の感激もなくなるかもしれません。見えるのが感激ではなく、当然のことだと思うようになります。そして、自分が苦労し、献身したことに対する補償を求めることになるかもし​​れません。毎朝、十字架で血を流し、仕えてくださったイエス様のことを思い起こさなければなりません。

마태복음 QT46 20305금【섬김의 권세】마태 20장 17~34

마태 20장 17~34마20:17 예수께서 예루살렘으로 올라가려 하실 때에 열 두 제자를 따로 데리시고 길에서 이르시되마20:18 보라 우리가 예루살렘으로 올라가노니 인자가 대제사장들과 서기관들에게 넘기우매 저희가 죽이기로 결안하고마20:19 이방인들에게 넘겨주어 그를 능욕하며 채찍질하며 십자가에 못 박게 하리니 제 삼일에 살아 나리라마20:20 그 때에 세베대의 아들의 어미가 그 아들들을 데리고 예수께 와서 절하며 무엇을 구하니마20:21 예수께서 가라사대 무엇을…

マタイによる福音書 QT45 20210304木【私の最も後に備えたもの】マタイ 20章 1~16

マタイ 20章 1~1620:1 天の御国は、自分のぶどう園で働く者を雇うために朝早く出かけた、家の主人のようなものです。20:2 彼は労働者たちと一日一デナリの約束をすると、彼らをぶどう園に送った。20:3 彼はまた、九時ごろ出て行き、別の人たちが市場で何もしないで立っているのを見た。20:4 そこで、その人たちに言った。『あなたがたもぶどう園に行きなさい。相当の賃金を払うから。』20:5 彼らは出かけて行った。主人はまた十二時ごろと三時ごろにも出て行って同じようにした。20:6 また、五時ごろ出て行き、別の人たちが立っているのを見つけた。そこで、彼らに言った。『なぜ一日中何もしないでここに立っているのですか。』20:7 彼らは言った。『だれも雇ってくれないからです。』主人は言った。『あなたがたもぶどう園に行きなさい。』20:8 夕方になったので、ぶどう園の主人は監督に言った。『労働者たちを呼んで、最後に来た者たちから始めて、最初に来た者たちにまで賃金を払ってやりなさい。』20:9 そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつ受け取った。20:10 最初の者たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らが受け取ったのも一デナリずつであった。20:11 彼らはそれを受け取ると、主人に不満をもらした。20:12 『最後に来たこの者たちが働いたのは、一時間だけです。それなのにあなたは、一日の労苦と焼けるような暑さを辛抱した私たちと、同じように扱いました。』20:13 しかし、主人はその一人に答えた。『友よ、私はあなたに不当なことはしていません。あなたは私と、一デナリで同意したではありませんか。20:14 あなたの分を取って帰りなさい。私はこの最後の人にも、あなたと同じだけ与えたいのです。20:15 自分のもので自分のしたいことをしてはいけませんか。それとも、私が気前がいいので、あなたはねたんでいるのですか。』20:16 このように、後の者が先になり、先の者が後になります。」   「後の者が先になり、先の者が後になる」という言葉は、今日の本文20章16節にも繰り返されます。昨日も書きましたが、これは、信仰の序列が変わるという意味ではありません。律法が支配(者)の論理で盗用されていた時代に、恵みによる救いという十字架の救いの秩序を語るためのものです。   イエス様は続いて、同じテーマのためにぶどう園の比喩という素材を使って教えておられます。主人は、早朝にぶどう園の働き人を雇い、その後、9時、12時、午後3時、5時に何もしてない人を追加で採用しました。早朝から働いた人と最後の午後5時に入った人の労働時間を比較すると、11時間の差があります。   午後5時に来た人は、日が暮れ6時に仕事を終わりました。主人は、午後5時に来た人にした人に一デナリの日当を支給しました。それを見た早朝から来た人たちは、当然それより多く受けると考えましたが、主人は、彼らにも同じようにして一デナリをくれました。朝から来た人たちは、労働時間と仕事の量を考えると、公平ではないと抗議しました。   賃金の公平性という意味で考えれば、不満と恨みがあります。現代では、同じ価値労働に対して同一賃金という賃金衡平の原則があります。私たちの社会には、正規職と非正規職、または性別などによる賃金差別と格差が存在しており、社会は公平な賃金という企業倫理と法制度の整備を続けています。   しかし、今朝の本文は、イエス様が、労働者の賃金を素材にして、企業倫理を教えせようとする意図ではありません。かえって救いの機会について語られることです。最初から一デナリの賃金が約束されていました。それは救いです。主人は、その約束を守りました。そして後半から入ってきた人にもそれと同じ機会を与てくださいました。   だからこそ恵みです。朝早くから来たことによってより良い天国に行くのではありません。天国より良い所はないからです。誰かと比較しなければ、誰も損する人はいません。皆が恵みを受けます。結論は昨日と同じです。救いは、人間の期間と功労によるものではなく、神様の選択と恵みによるものです。   作家の朴婉緖さんが息子を失った痛みの心で書いた短編「私の最も後に備えたもの」という本のタイトルは、すでに息子を失ったことのあるキム・ヒョンスン詩人の『涙』詩から引用して付けたものです。詩のタイトルで分かるよういにあるように、最も最後に備えたものは「涙」です。神様も息子を失いました。最後の最後、午後5時に入ってくる人のために…私に最も後に備えたものが自分の功労なしに受けた愛に感激する涙であることを望みます。  

마태복음 QT45 20304목【나의 가장 나종 지닌 것】마태 20장 1~16

마태 20장 1~1620:1 천국은 마치 품군을 얻어 포도원에 들여 보내려고 이른 아침에 나간 집 주인과 같으니20:2 저가 하루 한 데나리온씩 품군들과 약속하여 포도원에 들여 보내고20:3 또 제 삼시에 나가 보니 장터에 놀고 섰는 사람들이 또 있는지라20:4 저희에게 이르되 너희도 포도원에 들어가라 내가 너희에게 상당하게 주리라 하니 저희가 가고20:5 제 육시와 제 구시에 또 나가 그와…

マタイによる福音書 QT44 20210303水【先の者、後の者】マタイ 19章 23~30

マタイ 19章 23~3019:23 そこで、イエスは弟子たちに言われた。「まことに、あなたがたに言います。金持ちが天の御国に入るのは難しいことです。19:24 もう一度あなたがたに言います。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。」19:25 弟子たちはこれを聞くと、たいへん驚いて言った。「それでは、だれが救われることができるでしょう。」19:26 イエスは彼らをじっと見つめて言われた。「それは人にはできないことですが、神にはどんなことでもできます。」19:27 そのとき、ペテロはイエスに言った。「ご覧ください。私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました。それで、私たちは何をいただけるでしょうか。」19:28 そこでイエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに言います。人の子がその栄光の座に着くとき、その新しい世界で、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族を治めます。19:29 また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子ども、畑を捨てた者はみな、その百倍を受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。19:30 しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になります。   金持ちの青年は、イエス様を訪ねてきて、人生の究極的な目的を質問したが、彼にはすでに人生において上位価値が決まっていました。質問は、永遠の命と救いでありましたが、彼にとってお金は不動の救いでした。イエス様は金持ちが天の御国に入るのはらくだが針の穴を通るより難しいことであると言われました。既にお金に対する信仰があるからです。   弟子たちは、律法を守り、善良な人である金持ち青年も天国に入らなければ、誰が天国に入れるかと尋ねました。イエス様の答えは「それは人にはできないことですが、神にはどんなことでもできます。26」です。ちょっと難しそうな答えですが、救いは人の手にかかっておらず、神様の手にかかっています。ここの「人」とは、「律法」を言うものであり、「神」とは「恵み」を言うものであります。   するとペテロは、自分は金持ちの青年とは異なり、イエス様に従ったので、その報いはどのようなのかと尋ねたところ、イエス様は「十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族を治め…また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子ども、畑を捨てた者はみな、その百倍を受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。28、29」ということでした。それから続いて「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になります」と言われます。   「先にいる多くの者」は、律法であり、金持ちの青年を指します。「後にいる多くの者」は、イエス様の弟子たちの後に続き、恵みの救いを受ける人々であります。明日に読み20章にぶどう園で働く者の比喩もこれと一貫したテーマを語っているということが文脈上の支持を受けます。救いは律法的な努力によらず、神様の選択と恵みという贈り物によるものです。   「先にいる多くの者」と「後にいる多くの者」は、教会の中で、先に信じた人と後で信じ人、または新しく熱心になった人と熱心が冷めてしまった人を言うことはありません。よく信仰の序列が変わるような意味で読み取りますが、律法の時代から恵みの時代への移行されるということを言われたのです。何に熱心を出すかよりも、追い求めている価値が何なのかをまず確認しなければなりません。    

마태복음 QT44 20303수【먼저 된 자와 나중 된 자】마태 19장 23~30

마태 19장 23~3019:23 예수께서 제자들에게 이르시되 내가 진실로 너희에게 이르노니 부자는 천국에 들어가기가 어려우니라19:24 다시 너희에게 말하노니 약대가 바늘귀로 들어가는 것이 부자가 하나님의 나라에 들어가는 것보다 쉬우니라 하신대19:25 제자들이 듣고 심히 놀라 가로되 그런즉 누가 구원을 얻을 수 있으리이까19:26 예수께서 저희를 보시며 가라사대 사람으로는 할 수 없으되 하나님으로서는 다 할 수 있느니라19:27 이에 베드로가 대답하여…

マタイによる福音書 QT43 20210302火【子どもたちと金持ちの青年】マタイ 19章 13~22

マタイ 19章 13~2219:13 そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、子どもたちがみもとに連れて来られた。すると弟子たちは、連れて来た人たちを叱った。19:14 しかし、イエスは言われた。「子どもたちを来させなさい。わたしのところに来るのを邪魔してはいけません。天の御国はこのような者たちのものなのです。」19:15 そして手を子どもたちの上に置いてから、そこを去って行かれた。19:16 すると見よ、一人の人がイエスに近づいて来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをすればよいのでしょうか。」19:17 イエスは彼に言われた。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方はおひとりです。いのちに入りたいと思うなら戒めを守りなさい。」19:18 彼は「どの戒めですか」と言った。そこでイエスは答えられた。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽りの証言をしてはならない。19:19 父と母を敬え。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」19:20 この青年はイエスに言った。「私はそれらすべてを守ってきました。何がまだ欠けているのでしょうか。」19:21 イエスは彼に言われた。「完全になりたいのなら、帰って、あなたの財産を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」19:22 青年はこのことばを聞くと、悲しみながら立ち去った。多くの財産を持っていたからである。   弟子たちは子どもたちがイエス様のところに近づかないように防ぎましたが、イエス様は弟子たちを叱り、子どもたちを迎え、頭の上に手を手を置いて祈り、「天の御国はこのような者たちのものなのです」と言われました。イエス様が子どものどのような属性を言われたものかについては、直接的な説明はありません。それから金持ちの青年の話しが続きます。   子どもたちにも欲というものはあります。自分が欲しがるものを占めるために泣いたり、暴れたり、けんかします。教えなくても暴力を使い、嘘をつきます。こどもであれ大人であれ、表現が異なるだけで、心の中は同じです。罪を持っているのは同じだからです。泣いている子どもの心の中には緻密な計算があるかもしれません。もちろん、大人に比べると、子どもははるかに純粋ですが、子どもと大人を純粋と純粋ではないというに分割はできません。   今朝の本文では、結果的に子どもは天国を所有しますが、金持ちの青年は、彼が望んでいた永遠の命を得ることができませんでした。この対照的な結論とマタイ19章、マルコ10章、ルカ18章が同じ順序をもってそのまま記録していることを確認すれば、この比較を通じて、イエス様が言われた「子どものように」ということが何であるかを推測することができるかもしれません。   子どもたちはわがままで、汚れていたかもしれませんし、うるさかったと思います。弟子たちは、子どもたちが近づかないように防ぎましたが、子どもたちはその拒絶にもかかわらず、どうにかしてイエス様の懐に抱かれて、祝福の祈りを受け、天の御国にふさわしい人という認められました。   一方、金持ちの青年は、まるで罪のない人のような高い道徳性を持っていました。イエス様もそれ自体は肯定的に認められました。弟子たちが彼を防ぐこともありませんでした。金持ちだったので、むしろ道を開いてあげました。しかし結果的に、彼は自分で自らイエス様のところに行く道をあきらめます。イエス様は、青年に持っている財産を貧しい人々に分け与えてからついて来なさいと言われたからです。   イエス様に従いたいすべての人に対して全財産を処分して社会に還元しなけれなならないということではありません。ただし、イエス様を信じることにあって、その優先順位だけは変わることができません。イエス様を信じると言いますが、お金が優先になってしまうということは、イエス様を信じずお金を信じることだからです。変わらずお金は必要なものでありますが、優先順位といった場合には、妥協や折衝することはできません。そこで、私たちの「純粋さ」が明らかになります。   どのような純粋と敬虔があれば、それが天の御国にふさわしいものか、まだ分かりません。ただし、大人であっても子どもであっても、イエス様の懐に抱かれた人は、天国を所有した者であって、イエス様ではなく、他のものを優先し、それのためのイエス様のところにに出でいくことができない人は、自分で天の御国ではないことを選択したことになります。金持ちの青年が自ら規定したように、天国は童話の中の話ではなく、命、永遠の命を得るところだからです。  

마태복음 QT43 20302화【어린아이와 부자 청년】마태 19장 13~22

마태 19장 1~1219:13 때에 사람들이 예수의 안수하고 기도하심을 바라고 어린 아이들을 데리고 오매 제자들이 꾸짖거늘19:14 예수께서 가라사대 어린 아이들을 용납하고 내게 오는 것을 금하지 말라 천국이 이런 자의 것이니라 하시고19:15 저희 위에 안수하시고 거기서 떠나시니라19:16 어떤 사람이 주께 와서 가로되 선생님이여 내가 무슨 선한 일을 하여야 영생을 얻으리이까19:17 예수께서 가라사대 어찌하여 선한 일을 내게 묻느냐…

マタイによる福音書 QT42 20210301月【離婚について】マタイ 19章 1~12

マタイ 19章 1~1219:1 イエスはこれらの話を終えると、ガリラヤを去り、ヨルダンの川向こうを経てユダヤ地方へ入られた。19:2 すると大勢の群衆がついて来たので、その場で彼らを癒やされた。19:3 パリサイ人たちがみもとに来て、イエスを試みるために言った。「何か理由があれば、妻を離縁することは律法にかなっているでしょうか。」19:4 イエスは答えられた。「あなたがたは読んだことがないのですか。創造者ははじめの時から『男と女に彼らを創造され』ました。19:5 そして、『それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである』と言われました。19:6 ですから、彼らはもはやふたりではなく一体なのです。そういうわけで、神が結び合わせたものを人が引き離してはなりません。」19:7 彼らはイエスに言った。「それでは、なぜモーセは離縁状を渡して妻を離縁せよと命じたのですか。」19:8 イエスは彼らに言われた。「モーセは、あなたがたの心が頑ななので、あなたがたに妻を離縁することを許したのです。しかし、はじめの時からそうだったのではありません。19:9 あなたがたに言います。だれでも、淫らな行い以外の理由で自分の妻を離縁し、別の女を妻とする者は、姦淫を犯すことになるのです。」19:10 弟子たちはイエスに言った。「もし夫と妻の関係がそのようなものなら、結婚しないほうがましです。」19:11 しかし、イエスは言われた。「そのことばは、だれもが受け入れられるわけではありません。ただ、それが許されている人だけができるのです。19:12 母の胎から独身者として生まれた人たちがいます。また、人から独身者にさせられた人たちもいます。また、天の御国のために、自分から独身者になった人たちもいます。それを受け入れることができる人は、受け入れなさい。」   モーセの律法には、男性が妻を捨てる場合、妻が再婚できるように離婚証書を与えるとなっていますが、イエス様は、モーセが離婚を許したのは、人々の心が頑なだからと言われました。もっと具体的に言えば、男性の欲望が家の外に向かっているからだということです。   男性が妻を捨てて他の女性を取ることを防げないから捨てられた女性が再婚できるように離婚証書を書いてあげるとしたものですが、男性はそれをモーセが正式に離婚してもよしとしたという我田引水に考えました。   申命記24章1節で、モーセが言った離婚の条件というのは、女性の不倫でした。ところが、女性の性的不倫という言語で明示されておらず、「何か恥ずべきこと」という婉曲な表現になっていたことを男性カルテルはそれを悪意を持って解釈し、小さい問題まで、女性の恥にさせて離婚できるようにしたのです。ヒレル学派は、妻がご飯を燃やしたり、顔がわるということも恥ずべきことあり、離婚の条件に該当するとしていました。   これは、その社会の中で横行していたことであってイエス様は、それについて断固として原則を言われます。結婚は神様が造られたものであり、配偶者の不倫の原因ではなく、他の理由では離婚することはできない、とのことを確認してくださいました。それでも離婚すれば、そこはすなわち姦淫に該当するとされます。   現代では、離婚は稀に起こることがなくなりました。何らかの理由で片方または双方が苦しんでいるときに離婚を引き止めることも困難です。しかし、夫婦関係だけでなく、親子関係、教会共同体およびすべての社会を構成する集団と共同体の中でが違いと葛藤は常に存在します。その中に葛藤と問題があることを、神様は知っておられます。   今朝祈りの時間に読みましたミカ書の一行が記憶に残っています。「子は父を侮り、娘はその母に、嫁はその姑に逆らい、それぞれ自分の家の者を敵とする。しかし、私は主を仰ぎ見、私の救いの神を待ち望む。私の神は私の言うことを聞いてくださる。7:6,7」   聖書の中にも血を流すほど葛藤があります。しかし、破棄したり交換する方法ですべてが解決されることではありません。離婚というのが特殊で例外的なことであることを覚えておかなければありません。創世記の神様の秩序にも、申命記のモーセの律法にも、イエス様のマタイの教えでにも、経済問題や性格の違いは離婚の理由に言及もされていません。与えられたあらゆる状況に対して丁寧さを保ちたいと思います。