욥기 QT24 211028목【메멘토모리】욥기 14장 1~12

욥기 14장 1~1214:1 여인에게서 난 사람은 사는 날이 적고 괴로움이 가득하며14:2 그 발생함이 꽃과 같아서 쇠하여지고 그림자 같이 신속하여서 머물지 아니하거늘14:3 이와 같은 자를 주께서 눈을 들어 살피시나이까 나를 주의 앞으로 이끌어서 심문하시나이까14:4 누가 깨끗한 것을 더러운 것 가운데서 낼 수 있으리이까 하나도 없나이다14:5 그 날을 정하셨고 그 달 수도 주께 있으므로 그 제한을 정하여…

ヨブ記 QT23 211027水【Stand By Me】ヨブ記 13章 20~28

ヨブ記 13章 20~2813:20 ただ二つのことを、私になさらないでください。そうすれば、私は御顔から身を隠しません。13:21 あなたの手を私の上から遠ざけてください。あなたの恐ろしさで、おびえさせないでください。13:22 呼んでください。私が答えます。あるいは私に語らせ、あなたが返答してください。13:23 私には、咎と罪がどれほどあるのでしょうか。私の背きと罪を私に知らせてください。13:24 なぜ、あなたは御顔を隠し、私をあなたの敵と見なされるのですか。13:25 あなたは吹き散らされた木の葉を脅し、乾いた藁を追いかけられるのですか。13:26 実に、あなたは私に対し厳しい宣告を書きたて、私の若いときの咎を負い続けさせます。13:27 あなたは私の足にかせをはめ、私が歩む道をことごとく見張り、私の足の裏にしるしを刻まれます。13:28 そのような者は、腐った物のように朽ちます。シミが食った衣服のように。   ヨブは友人たちが並べた神様への知識について、文字通りには認めますが、その中身が無責任で表面的なものなので拒絶します。それからヨブは神様に二つを求めます。まずは「あなたの手を私の上から遠ざけてください」、つまり「私を殺さないでください」であって、次は「私を呼んでください」です。つまり「語ってください」ということです。ヨブは確かに命が脅かされ、神様の不在による不安感の中にいます。危機を乗り越え、安全の確保を願っています。神様が自分の命を守り、そばでいてくださるという保護者になることを祈っているのです。   神様の御手は人間の命をとることも、命を保することもできます。そのような神様の御手が自分に死ぬほどの押しつぶしはしないことを願い、不安で恐れている自分のそばで語ってくださるによう願っています。今朝、私には今息づく命があり、神様のみことばを聞くことのできますから、ヨブの切ない祈りは、私にとっては日常のことです。苦しむ者、死にかかっている者の切実さを考えると、生きていることの感謝を忘れてはいけません。神様がいない不安の人々を考えると、今日も幸せの中で安全に過ごしていることを感謝しなければなりません。   多くの人の耳になれているベン・E・キング(Ben E. King)のスタンド・バイ・ミー(Stand By Me)という曲があります。本来は「Stand By Me」という映画のOSTでしたが、歌詞はベン・E・キングの信仰告白です。原曲では「主(Lord)」でありましが、「ダーリング(Daring)」に変えて歌っています。曲の中には詩編46篇があります。 「神はわれらの避け所また力。苦しむときそこにある強き助け。それゆえわれらは恐れない。たとえ地が変わり山々が揺れ海のただ中に移るとも。たとえその水が立ち騒ぎ泡立ってもその水かさが増し山々が揺れ動いても。」「スタンド・バイ・ミー」は「私のそばにいてください」という要請でもあり、「私の側に立ってください」という要請でもあります。神様が私のそばにおられ、私の命を保ち、私に語ってくださることを祈ります。 音楽リンク↓ https://www.youtube.com/watch?v=_frwpbDedn4

욥기 QT23 211027수【Stand By Me】욥기 13장 20~28

욥기 13장 20~2813:20 오직 내게 이 두 가지 일을 행하지 마옵소서 그리하시면 내가 주의 얼굴을 피하여 숨지 아니하오리니13:21 곧 주의 손을 내게 대지 마옵시며 주의 위엄으로 나를 두렵게 마옵실 것이니이다13:22 그리하시고 주는 나를 부르소서 내가 대답하리이다 혹 나로 말씀하게 하옵시고 주는 내게 대답하옵소서13:23 나의 불법과 죄가 얼마나 많으니이까 나의 허물과 죄를 내게 알게 하옵소서13:24 주께서…

ヨブ記 QT22 211026火【原因の糾明】ヨブ記 13章 1~19

ヨブ記 13章 1~1913:1 見よ。私の目はこれらすべてのことを見た。私の耳も聞いて、それを理解している。13:2 あなたがたが知っていることは私もよく知っている。私はあなたがたより劣ってはいない。13:3 けれども、この私は全能なる方に語りかけ、神と論じ合うことを願う。13:4 しかし、あなたがたは偽りを塗る者、みな無用の医者だ。13:5 ああ、あなたがたが沈黙を守っていたら、それがあなたがたの知恵となっていただろうに。13:6 さあ、私の論じるところを聞き、私の唇の訴えに耳を傾けよ。13:7 あなたがたは、神のためにと言って不正を語り、神のためにと言って欺くことを語るのか。13:8 あなたがたは、神の顔を立てるつもりか。神のためにと、言い争うつもりか。13:9 神があなたがたを調べても、かまわないのか。人を欺くように神を欺こうとするのか。13:10 神は必ずあなたがたを責める。ひそかに自分の顔を立てようとするなら。13:11 神の威厳があなたがたをおびえさせ、神の恐れがあなたがたに下るのではないか。13:12 あなたがたの申し立ては灰のことば。あなたがたの弁明は粘土の盾だ。13:13 黙れ。私に関わるな。この私が話す。私に何が降りかかってもかまわない。13:14 何のために私は、自分の肉を歯にのせ、自分のたましいを手のひらに置くのか。13:15 見よ。神が私を殺しても、私は神を待ち望み、なおも私の道を神の御前に主張しよう。13:16 神もまた、私の救いとなってくださる。神を敬わない者は、御前に出ることはできない。13:17 あなたがたは、私のことばをよく聞け。私の述べることを、自分の耳で。13:18 今、私は自分の言い分を並べる。自分が義とされることを私は知っている。13:19 だれか私と論争する者がいるのか。もしいるなら、今にも私は黙って息絶えよう。   友人らは原則に基づいてヨブの弱みを見つけようと悩んでいますが、ヨブは神学的問題を抱えて悩んでいます。ヨブは自分に罪がないことを確信し、自分の無罪を証明しようとします。それはヨブが罪を認識していなかったのではないと思います。ヨブは常に自分と家族の問題を見つけ、いけにえをささげた人です。神様の前に罪認識がない人ではないということです。   ただ、今の苦痛をもたらした罪を見つけることができません。無罪の抗弁よりもヨブは原因を究明しようとしているのです。「すべては私が足りないからだ」と言ってしまえば、一見悔い改めたように見えますが、それは大切なものから目を背けてしまうことにもなります。ヨブの友人らの無責任な攻撃とは異なり、誰かがヨブの罪を納得できる方法で立証してくれれば、ヨブはその責任を負って死ぬ覚悟があると言っています。   その根本的な問題を知らなければ、いつか回復したときに、何を変えるべきかが分かりません。もちろん行為による結果というのは依然としてあります。昨日どのように生きたのかが、明日どのように生きるかを決めます。反省して回復しなければならない問題は確かにあります。しかし、すべてがそうなのではありません。痛みの中で最も大きい痛みである死の場合もそうです。その時期についても、理由についても誰も知りません。それは反省するも言ったところで、元に戻るようなものではありません。   神様の恵みを放蕩に使ってはならないように、攻められる苦難においても罪悪感を抱いたり挫折してはいけません。私たちが、今後どのような苦難に遭うか分かりませんが、それも神様の愛の中で許されていることを覚えましょう。ヨブは裁判長である神様の前に立っている被疑者であり、友達は犯してもない罪を作って起訴しようとする検事のようです。訴える者、嘘をつく者、断罪する者の前で、罪責し、挫折するだけなら、負けます。苦難の道を歩む時でも、たとえ、私たちに罪あるときも、ないときも、それが罪によって滅ぼされるのではないことを言ってくださる弁護士がおられるなら、それに頼りたいと思います。

욥기 QT22 211026화【원인의 규명】욥기 13장 1~19

욥기 13장 1~1913:1 나의 눈이 이것을 다 보았고 나의 귀가 이것을 듣고 통달하였느니라13:2 너희 아는 것을 나도 아노니 너희만 못한 내가 아니니라13:3 참으로 나는 전능자에게 말씀하려 하며 하나님과 변론하려 하노라13:4 너희는 거짓말을 지어내는 자요 다 쓸데 없는 의원이니라13:5 너희가 잠잠하고 잠잠하기를 원하노라 이것이 너희의 지혜일 것이니라13:6 너희는 나의 변론을 들으며 내 입술의 변명을 들어 보라13:7…

ヨブ記 QT21 211025月【知的不可知論】ヨブ記 12章 13~25

ヨブ記 12章 13~2512:13 知恵と力は神とともにあり、思慮と英知も神のものだ。12:14 見よ。神が打ち壊すと、二度と建て直せない。人を閉じ込めると、開けられない。12:15 見よ。神が引き止めると水は涸れ、水を送ると地はくつがえる。12:16 力と英知は神とともにあり、迷い出る者も、迷わす者も神のものだ。12:17 神は助言者たちを裸足にして連れ去り、さばく者たちを愚弄し、12:18 王たちのかせを解き放ち、彼らの腰に帯を巻き付け、12:19 祭司たちを裸足にして連れ去り、勢いある者に道を誤らせる。12:20 神は、信頼されている者の唇を取り去り、長老たちの良識を取り上げ、12:21 君主たちを侮り、力ある者たちの腰帯を解き、12:22 闇から深みをあらわにし、暗黒を光に引き出す。12:23 神は国々を栄えさせ、また滅ぼす。国々を広げ、また取り去る。12:24 地の民のかしらたちから良識を取り去り、彼らを道のない荒れ地の中でさまよわせ、12:25 彼らは光のない闇の中を、手探りで進む。神は彼らを酔いどれのようによろけさせる。   ヨブと友人がそれぞれ、自分の神論について言っています。ヨブは友人の主張に対して反対意見を提示します。このような会話は、私たちの日常の中にもあり得ることです。神様を証明しきれることはできなくても(源泉的に不可能であるため)根拠を持って論証する必要があります。自分の神様とそれを証しできることは大切なことです。   ヨブの友人は、自分が知っていること、または自分が設定した神様に基づいて、ヨブを非難していますが、ヨブはそれを確定的に分かることはできないと言うのです。騙す人も騙される人も神様の中におり、権力者を滅ぼさせる、知恵のある人の判断力も奪う、貴族も恥ずかしくなると言います。   現象については、その内幕をすべて知ることができないということがヨブの話です。「人間が持つ感覚や認識は非常に部分的なものであるため、物事の本質を知ることができず、ただ人間は本質ではなく、現象を見て、それを本質であると思う。」これが哲学の立場からの「不可知論」です。もちろん不可知論は、キリスト教の信仰からは否定的にとらわれる考え方ます。いわゆる不可知論とは、「神様の存在については、話してもしょうがないから言うことをやめよう」という放棄の意味で使われます。   しかし、不可知論は神学ではなく、人間の認識の限界を指摘する哲学です。そして不可知論の前提が無神論であることでもありません。当然ですが、ヨブは、神様の存在を否定しなしし、神についての質問をあきらめることもしません。ただし、世界に起こる現象について、人間が教条的に判断し、断罪することはできないということです。   神様について分からないという意味の不可知論を擁護しようとすることではありません。神様は知ることはできますし、信じることもできます。そもそも神様の存在を信じることは知的知識ではありませんでした。だから、知的会話の結果として神様を証明し、信じさせることができないのです。ただし、信仰が神様から与えられたものであれば、神様の知識は人間の中発展すべきです。神様の存在を知り、信じていますが、現われる現象からすべてを判断することはできないというヨブの主張に私は同意します。これにつきましては、優れた弁証家、オズワルド・チェンバーズの言葉を引用します。   「知的な不可知論者になるということは、私に知らないことがあるということを認めるという意味である。世界の秩序の中で、神様を考えると、屈折されて見える。神様はこの世界に屈折を許される。そして、それは、決して人間の思い通りには行われない。万事の根源には、何かが間違っている、すなわち屈折があるという聖書の啓示を受け入れなければならない。クリスチャンとは誰か?彼らは知的に不可知論者になることを誓った者である。彼らは”私は私の知識の限界にぶつかった。それで、イエス・キリストによって与えられる神様の啓示を謙虚に受け入れる”と告白した者である。」

욥기 QT21 211025월【지적 불가지론】욥기 12장 13~25

욥기 12장 13~2512:13 지혜와 권능이 하나님께 있고 모략과 명철도 그에게 속하였나니12:14 그가 헐으신즉 다시 세울 수 없고 사람을 가두신즉 놓지 못하느니라12:15 그가 물을 그치게 하신즉 곧 마르고 물을 내신즉 곧 땅을 뒤집나니12:16 능력과 지혜가 그에게 있고 속은 자와 속이는 자가 다 그에게 속하였으므로12:17 모사를 벌거벗겨 끌어가시며 재판장으로 어리석은 자가 되게 하시며12:18 열왕의 맨 것을 풀어…

ヨブ記 QT20 211023土【野ろばの子】ヨブ記 11章 12~20

ヨブ記 11章 12~2011:12 無知な人間も賢くなるだろう。野ろばの子が人として生まれるのなら。11:13 もし、あなたが心を定め、神に向かって手を伸べ広げるなら、11:14 もし、手に不法があればそれを遠ざけ、あなたの天幕に不正を住まわせないなら、11:15 そのとき、あなたは欠けのない者として顔を上げることができ、堅く立って恐れることはない。11:16 こうしてあなた自身は労苦を忘れ、これを流れ去った水のように思い出すだろう。11:17 あなたの一生は真昼よりも輝き、闇も朝のようになる。11:18 望みがあるので、あなたは安らぎ、守られて安らかに休む。11:19 横になっても、あなたを脅かす者はいない。多くの者があなたの好意を求める。11:20 しかし、悪者どもの目は衰え果て、彼らは逃れ場を失う。彼らの望みは、最後の一息にすぎない。   ツォファルが厳しい原則主義者だからヨブに、このような毒舌の助言をしているのではないと思います。自分に厳しい人は人に寛大です。おそらく彼は弱い人には強く、強い人に弱い人であるでしょう。ヨブに力あったときはヨブに対してこれほどの厳しいことを言うのはなかった思います。   ツォファルがヨブに言いました。「無知な人間も賢くなるだろう。野ろばの子が人として生まれるのなら12」「野ろばの子」と言ったのは、愚かで頑固なものだということです。野ろばとは家ロバとは違って、飼慣らされてない野生のロバですから人や荷物を載せたことがありません。だから暴れるのが当たり前です。ロバの立場では、自己の自由が奪われ、労働を強要させられてから抵抗するのが当然です。一方、人の立場では、野ろばの子というのは面倒な存在です。言うこと聞かないし、やらせる通りにしないし、体制と権威に屈しない存在が野ろばの子です。   ツォファルが、ヨブに対して野ろばの子といったということは、ヨブぐらい踏みにじってもいいと思っているからです。ということだから、彼の口から出てくる信仰の言葉は顔負けです。逆説的にも、私たちは、弱者に対する態度を通して神様に対する態度を確認することができます。イエス様が言われたように、最も弱い者にすることを見れば、神様に対する態度がわかります。「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。マタイ25:40」   ツォファルは、ヨブが悔い改めれば、良くなると言っていますが、その根拠が分かりません。ツォファルは悔い改めというテコだけあれば、呪いと祝福を分けられるといいますが、悔い改めしなくても、幸せな人がおり、信仰に生きても困難を経験する人もいます。人間の幸福と不幸はそれほど単純な図式で説明できるものではありません。私が信じて救われ、金持ちになり、健康になったことではなく、私は信じたから貧しい者を助け、傷んでいる者を慰め、滅びる者を救いに導き出しというのが誠の意味の信仰の結果ではないでしょうか?   ツォファル自身は、今祝福の中にいるので、悔い改めることはないと勘違いしています。高度の高慢です。彼の声が大きいのもそのような理由です。ヤコブの手紙では、「多くの人が教師になってはいけません」と警告しています。口正しい言葉を言うと、自分が実際にそのよう人であると錯覚します。信じるということを言うから、自分はよく信じている思い込みます。それが牧師の危険な罠です。多くのことを確信的に知っているツォファルのような牧師になってはいけないと思うところです。

욥기 QT20 211023토【들나귀 새끼】욥기 11장 12~20

욥기 11장 12~2011:12 허망한 사람은 지각이 없나니 그 출생함이 들나귀 새끼 같으니라11:13 만일 네가 마음을 바로 정하고 주를 향하여 손을 들 때에11:14 네 손에 죄악이 있거든 멀리 버리라 불의로 네 장막에 거하지 못하게 하라11:15 그리하면 네가 정녕 흠 없는 얼굴을 들게 되고 굳게 서서 두려움이 없으리니11:16 곧 네 환난을 잊을 것이라 네가 추억할지라도 물이 흘러감…

ヨブ記 QT19 211022金【自家撞着】ヨブ記 11章 1~11

ヨブ記 11章 1~1111:1 さらに、ナアマ人ツォファルが答えた。11:2 ことば数が多ければ、言い返されないだろうか。人は唇で義とされるのだろうか。11:3 あなたの無駄話は、人を黙らせるだろうか。あなたが嘲るとき、あなたに恥を見させる者はいないのだろうか。11:4 あなたは言う。「私の主張は純粋だ。私はあなたの目に清い」と。11:5 しかし、神が語りかけ、あなたに対して唇を開いてくださっていたなら、11:6 神は知恵の奥義をあなたに告げ、知性を倍にしてくださったであろう。知れ。神があなたのために、あなたの咎を忘れてくださることを。11:7 あなたは神の深さを見極められるだろうか。全能者の極みを見出せるだろうか。11:8 それは天よりも高い。あなたに何ができるだろう。それはよみよりも深い。あなたが何を知り得るだろう。11:9 それを測ると、地よりも長く、海よりも広い。11:10 もし、神が通り過ぎたり、閉じ込めたり、あるいは法廷を召集したりするなら、だれが神を引き止められるだろう。11:11 確かに神は、不信実な者を知っておられる。不法を見て、それに気づかれないだろうか。   三番目の友人、ツォファルの考え方も因果応報に傾いています。ヨブの苦難は、その原因が罪にあり、悔い改めなければならないと非難する人するわけです。ツォファルは今までの二人の友人に比べて、露骨であり、攻撃的です。ツォファルが言っている義、恥、純粋、神のことば、知恵の奥義、知性の広さ、神の深さ、全能者の極み、天よりも高く、よみよりも深い、地よりも長く、海よりも広い等の表現は、果たしてツォファルの知識でしょうか?彼自らが経験した知識とは思えません。単純に耳で聞いた言葉を口にして並べているだけです。   このような人は、神様の義を語ることを好みますが、その裏には非難する目的があります。神様の愛を語っているようでも、自分の放縦と不従順を合理化しています。神様の全知全能を言っているようですが、自分は無責任であると主張するのです。信仰の言語は抽象的なものが多くあります。『禪林類聚』に「須弥山は高く頂きを見ることができず、海水は深く底が見えない。頭を回してぶつかるの自分自身」とあります。すなわち「お経を読みながら真理を求めますが、それは高く、広くて至らない、いつも自分自身にとどまっている」ということです。これが「自家撞着」の由来です。   神様のことを言いながら、自分が信じたいことを信じるのです。ツォファルの言葉そのものは間違っていないかもしれませんが、「自家撞着」であるが故、その言葉に力がありません。もし私たちの中に定義されないまま使っている抽象的な言語がなくなるならば、おそらく大きな空白が生じると思います。それが占めているところが大きいからです。しかし、その事実を知ることが大切です。それを認め、実体を知るために悩み続けることが、教会の課題です。そのような教会と信仰の告白は揺らぎません。