마태복음 QT12 20210125월【하늘에 쌓아 두는 보물】마태6장 16~24

마태6장 16~246:16 금식할 때에 너희는 외식하는 자들과 같이 슬픈 기색을 내지 말라 저희는 금식하는 것을 사람에게 보이려고 얼굴을 흉하게 하느니라 내가 진실로 너희에게 이르노니 저희는 자기 상을 이미 받았느니라6:17 너는 금식할 때에 머리에 기름을 바르고 얼굴을 씻으라6:18 이는 금식하는 자로 사람에게 보이지 않고 오직 은밀한 중에 계신 네 아버지께 보이게 하려함이라 은밀한 중에 보시는 네…

マタイによる福音書 QT11 20210123土【勝つ信仰】マタイ5章 38~48

マタイ5章 38~485:38 『目には目を、歯には歯を』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。5:39 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい。5:40 あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着も取らせなさい。5:41 あなたに一ミリオン行くように強いる者がいれば、一緒に二ミリオン行きなさい。5:42 求める者には与えなさい。借りようとする者に背を向けてはいけません。5:43 『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。5:44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。5:45 天におられるあなたがたの父の子どもになるためです。父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。5:46 自分を愛してくれる人を愛したとしても、あなたがたに何の報いがあるでしょうか。取税人でも同じことをしているではありませんか。5:47 また、自分の兄弟にだけあいさつしたとしても、どれだけまさったことをしたことになるでしょうか。異邦人でも同じことをしているではありませんか。5:48 ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。   『目には目を、歯には歯を』と言ったのは、律法が定めたいわゆる同害報復法です。被害を受けた分を返しなさいということで、厳密に言えば、報復してもよいということではなく、被害を受けた分だけ返しなさいということです。人の心は、一発殴られると一発打ちたいのではなく、殺したくなるわけです。憎しみと呪いの感情が入り込むと罪はさらにに大きくなるため、やられた分だけ返すようにという最小限の制限でした。   しかし、イエス様はそれでは勝つことができないと言われるのです。右の頬を打つ者に左の頬も向ける、下着を取ろうとする者に上着もあげる、一ミリオン行くように強いる者と一緒に二ミリオン行くようにと言われます。やられた分を返さずに、かえって不当に求める分以上に与えなさいということです。自分の正当性の中で怒っている人ではなく、世と人を支配している罪のゆえに悲しむ人です。   悪は常にあり、善が忍耐を失ってしまうとの戦いが常に起こります。ところが、戦いはいつも悪が勝つものです。悪は謝罪せず、和解もしません。だから善が正当であっても血を流すのは民です。ということでこの教えは決してやられるまま我慢するということではありません。神様の民を守るためにあるものです。   戦いを止めるのは、善良な人です。不当な要求だと思って拒むとそこで敵になってしまうことがあります。とはいえ強いられると悔しくなるだけです。このようなことは、悪により多くの口実を与えます。しかし、それを超えていくと、むしろ主導権を握ることができます。無理に一ミリオンを行かせる人の荷物を持って二ミリオンを同行してあげれば、向こうはもはや敵でなくなります。   悪にやられても我慢しなさいということではなく悪に負けず善をもって利己的な世に勝てる方法を教えてくださるのです。愛する人だけ愛しているなら、愛する人の間でも、また不和が生じます。愛の器が小さいからです。勝つというのは、誰かを押しつぶし、上に立つことではなく、最終的に平和をつくり、関係をつくることです。敵対する者を自分の器の中に入れてしまえば、その器の中は平和です。  

마태복음 QT11 20210123토【이기는 믿음】마태5장 38~48

마태5장 38~485:38 또 눈은 눈으로, 이는 이로 갚으라 하였다는 것을 너희가 들었으나5:39 나는 너희에게 이르노니 악한 자를 대적지 말라 누구든지 네 오른편 뺨을 치거든 왼편도 돌려 대며5:40 또 너를 송사하여 속옷을 가지고자 하는 자에게 겉옷까지도 가지게 하며5:41 또 누구든지 너로 억지로 오리를 가게 하거든 그 사람과 십리를 동행하고5:42 네게 구하는 자에게 주며 네게 꾸고자 하는…

マタイによる福音書 QT10 20210122金【切り捨てるべきもの】マタイ5章 27~37

タイ5章 27~375:27 『姦淫してはならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。5:28 しかし、わたしはあなたがたに言います。情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです。5:29 もし右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨てなさい。からだの一部を失っても、全身がゲヘナに投げ込まれないほうがよいのです。5:30 もし右の手があなたをつまずかせるなら、切って捨てなさい。からだの一部を失っても、全身がゲヘナに落ちないほうがよいのです。5:31 また『妻を離縁する者は離縁状を与えよ』と言われていました。5:32 しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも、淫らな行い以外の理由で自分の妻を離縁する者は、妻に姦淫を犯させることになります。また、離縁された女と結婚すれば、姦淫を犯すことになるのです。5:33 また、昔の人々に対して、『偽って誓ってはならない。あなたが誓ったことを主に果たせ』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。5:34 しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。天にかけて誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。5:35 地にかけて誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。エルサレムにかけて誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。5:36 自分の頭にかけて誓ってもいけません。あなたは髪の毛一本さえ白くも黒くもできないのですから。5:37 あなたがたの言うことばは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』としなさい。それ以上のことは悪い者から出ているのです。   兄弟を憎むのは人殺しであるという厳しい勧告の後、イエス様は、女性を見て情欲を抱くことはすでに姦淫したものであると定められます。女性を見て情欲を抱いたため、その右の目をえぐりだし、その右手で触れてはいけないものに触れたため、それを手を切り落さなければならないと言われます。男性ならここでみな絶望します。この御言葉を文字どおりに解釈し、適用するなら、男であるならみな、右の目玉と右手はすでにありません。   ところが、目玉を抜き、手を切ることで欲望が消えるのでしょうか?左の目玉と左手が残っているのではないでしょうか?ギャンブル中毒の人が、止めることを決心して、手を切ってしまっても、残りの足の指と口を使ってギャンブルを続けてしまいます。ただの笑い話ではありません。昔の朝鮮の宦官は去勢されて宮に入ります。去勢されたといって性欲が消えるわけではありません。宦官の中には中国に亡命する者もいたのですが、彼らは朝鮮語を使うので、使臣になって戻ってくることがありました。それは一種の復讐でもありました。彼らが宴会で行う変態的な性欲はとても形容できないものでありました。抑えるからといってそれが消えるわけでもなく、切り離すからといって止められるわけでもありません。   目玉を抜いて手を切るというのは、文学的な誇張法です。目と手というのは、愚かな欲を満たそうとするあらゆる手段です。目と手に問題があるのではありません。医学的には、性欲は、脳の領域であり、それは心の問題であり、考えることの問題です。目を抜いて手を切りというのは性的犯罪に近付く道具と機会を切り捨てるということです。そのような警戒心なしに、または制限なしに許容してしまうと、ある日、突然倒れるかもしれません。   本文はこれに続いて離婚のことに言及した後、誓いについて話します。イエス様は神様の名においても、人の名においても、教会の名前でも、聖徒の名前でも誓ってはならないと言われました。37節「あなたがたの言うことばは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』としなさい。それ以上のことは悪い者から出ているのです。」は、「はい」と「いいえ」を言わなければならなら時に「はい」や「いいえ」と答えた上に、それに誓いの言葉を付け加えてはならないということです。   確かに誓いをすれば、より積極的な主張になるかもしれません。つまり他の名に頼って自分の真実性を訴えるのです。しかし、弱い意志を持った人間は、自分の誓いによって神様の名を信用できないものにしてしまいます。だからイエス様は「誓うな」と言われました。良いものであるならば、何かで飾る必要も、説明する必要も、ありません。本当に必要なのは、言葉の誓いではなく、心の真実です。  

마태복음 QT10 20210122금【잘라내서 버려야 할 것들】마태5장 27~37

마태5장 27~375:27 또 간음치 말라 하였다는 것을 너희가 들었으나5:28 나는 너희에게 이르노니 여자를 보고 음욕을 품는 자마다 마음에 이미 간음하였느니라5:29 만일 네 오른눈이 너로 실족케 하거든 빼어 내버리라 네 백체 중 하나가 없어지고 온 몸이 지옥에 던지우지 않는 것이 유익하며5:30 또한 만일 네 오른손이 너로 실족케 하거든 찍어 내버리라 네 백체중 하나가 없어지고 온 몸이…

マタイによる福音書 QT9 20210121木【回復される人】マタイ5章 17~26

マタイ5章 17~265:17 わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。5:18 まことに、あなたがたに言います。天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません。すべてが実現します。5:19 ですから、これらの戒めの最も小さいものを一つでも破り、また破るように人々に教える者は、天の御国で最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを行い、また行うように教える者は天の御国で偉大な者と呼ばれます。5:20 わたしはあなたがたに言います。あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません。5:21 昔の人々に対して、『殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。5:22 しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院でさばかれます。『愚か者』と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。5:23 ですから、祭壇の上にささげ物を献げようとしているときに、兄弟が自分を恨んでいることを思い出したなら、5:24 ささげ物はそこに、祭壇の前に置き、行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから戻って、そのささげ物を献げなさい。5:25 あなたを訴える人とは、一緒に行く途中で早く和解しなさい。そうでないと、訴える人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれることになります。5:26 まことに、あなたに言います。最後の一コドラントを支払うまで、そこから決して出ることはできません。   イエス様は律法を無効にしたり、消滅するために来られたのではありません。それを完成するために来られました。宗教権力が伝統と制御という名で付け加えた決まりであれば別ですが、律法そのものは、神様が与えられたものです。イエス様は、神様が与えられた律法と人間が作った抑圧的決まりを区別して、律法は回復し、宗教的決まりは批判しました。   神様が律法を与えたことと、イエス様を遣わした理由は同じです。罪の無秩序の中にある人間を神様が創造された秩序どおり回復するためです。律法というのは、神様が創造された人の人間らしさを守るための回復の装置として与えられ、イエス様は罪のゆえに断たれてしまった神様との関係をつないで回復するために来られました。そして十字架という贖いも、律法が定めた方法で行われました。   福音と救いを語りながら、人間と社会の回復を無視するなら、それは福音の無理解です。イエス様はパリサイ人の形式的、偽善的な宗教を痛烈に批判しましたが、彼らが持って倫理さえ持たなければ、信仰を語る人々の真正性は確認できないと言われます。「わたしはあなたがたに言います。あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません。20」   ここで、イエス様は律法を解釈します。「殺してはならない」は十戒の第六の戒めです。人を殺してはならないという律法は誰かを殺したいが、殺してはならないという制限はなく、究極的に誰にも殺されたくない自分の命を守ってくださる自由なのです。殺してはならないという法律の解釈の上、イエス様は兄弟は憎み、呪うことは、人殺しだと言われます。人格殺人はそのまま殺人であるということです。より厳しい基準を提示されました。だが、確かに法の目的というのは、相互尊重の中で自由と権利を享受することだからです。   礼拝する前に、それを解決する必要があります。怒りと憎しみと呪いの心を持って赦しと愛の神様を礼拝することはできません。自分と葛藤関係にある人は、自分を危険に陥らせることができます。その危険にさらされないために、できる限りすべての人と平和を持たなければなりません。それぞれ憎むべき理由があっても、敵を作るより愚かなことはありません。礼拝に先立ってそのような人に訪ね、先に手を出し、和解する人が律法を完成した十字架に従う人です。  

마태복음 QT9 20210121목【회복된 사람】마태5장 17~26

마태5장 17~265:17 내가 율법이나 선지자나 폐하러 온 줄로 생각지 말라 폐하러 온 것이 아니요 완전케 하려 함이로다5:18 진실로 너희에게 이르노니 천지가 없어지기 전에는 율법의 일점 일획이라도 반드시 없어지지 아니하고 다 이루리라5:19 그러므로 누구든지 이 계명 중에 지극히 작은 것 하나라도 버리고 또 그같이 사람을 가르치는 자는 천국에서 지극히 작다 일컬음을 받을 것이요 누구든지 이를 행하며…

マタイによる福音書 QT8 20210120水【悲しむ者は幸いです】マタイ5章 1~16

マタイ5章 1~165:1 その群衆を見て、イエスは山に登られた。そして腰を下ろされると、みもとに弟子たちが来た。5:2 そこでイエスは口を開き、彼らに教え始められた。5:3 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。5:4 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。5:5 柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。5:6 義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。5:7 あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。5:8 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。5:9 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。5:10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。5:11 わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。5:12 喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々は同じように迫害したのです。5:13 あなたがたは地の塩です。もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。5:14 あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。5:15 また、明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。5:16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。   マタイ5章から山上の垂訓が始められ、7章まで続きます。本文には八つの「幸いです」が繰り返します。「幸いになろう」ではなく、「幸いです」ですから、付け加えるべき幸いの条件ではなく、既に存在している幸いを宣言しているのです。   この幸いは、貧しい者と悲しむ者から始まります。人生が追い求める物質的な幸福とはまったく違います。苦しまなければならないこと、その苦労を通じた内面の成熟がの幸いの状態なのです。「心の貧しい者、悲しむ者、柔和な者、義に飢え渇く者、あわれみ深い者、心のきよい者、平和をつくる者、 義のために迫害されている者です。」です。   八つの幸いを1ページにまとめることはできません。今日は第2の幸いである「悲しむ者の幸い」について考えます。イエス様が伝えてくださった良い知らせ、つまり十字架の愛が私たちの罪を赦し、救ったということを私たちは「福音」と呼びます。ところが、それが福音になるには、十字架より、復活より、天国よりも先に前提されなければならないのが自分の「罪」の自覚であり、それらの認めることです。その後に悲しくなります。それが悲しむ者です。   ですから幸いがあって慰められる人は、信仰心に満ちて、自信満々な人ではなく、欠乏し、不完全のゆえに悲しんでいる人です。そのような人が神様が与える慰めを受ける人です。救われたと言いながら、自信感に満ちているならそれは「救われた」に矛盾するのではないしょうか。救われた者にふさわしい感情や態度は、感謝と謙虚でしかありません。   韓国の詩人、尹東柱の「八つの幸い」という時には「マタイ5章4節」というサブタイトルがついています。「悲しむ者は幸いです。」を8回繰り返し、最後に「その人は永遠に悲しむのです。」と言って終わります。   「八つの幸い」の聖書的な理解がなければ、尹東柱の『八つの幸い』は厭世的に感じられるかもしれません。尹東柱は、自分が生きていた時代の感情を代弁して「八つの幸い」の中の「悲しみ」を代表としました。   これは悲しむ者が幸いであるなら、永遠に悲しむ者は永遠の幸いがあるという逆説にもなります。そして裏返し言えば、永遠に幸いを受けるためには、永遠に悲しまなければなりません。永遠というのは私たちが理解できる概念ではないのですが、永遠と最も似ているのは「今」であると思います。   信仰を持っていますが、罪による悲しみが完全に消えることはありません。しかし、その悲しみの上に神様の慰めを受ける者は幸いです。それを続きたいです。私たちの心を悲しませることを通して神様から慰められる人はを祝福ある人です。  

마태복음 QT8 20210120수【슬퍼하는 자는 복이 있나니】마태5장 1~16

마태5장 1~165:1 예수께서 무리를 보시고 산에 올라가 앉으시니 제자들이 나아온지라5:2 입을 열어 가르쳐 가라사대5:3 심령이 가난한 자는 복이 있나니 천국이 저희 것임이요5:4 애통하는 자는 복이 있나니 저희가 위로를 받을 것임이요5:5 온유한 자는 복이 있나니 저희가 땅을 기업으로 받을 것임이요5:6 의에 주리고 목마른 자는 복이 있나니 저희가 배부를 것임이요5:7 긍휼히 여기는 자는 복이 있나니 저희가 긍휼히…

マタイによる福音書 QT7 20210119火【わたしについて来なさい】マタイ4章 12~25

マタイ4章 12~254:12 イエスはヨハネが捕らえられたと聞いて、ガリラヤに退かれた。4:13 そしてナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある、湖のほとりの町カペナウムに来て住まわれた。4:14 これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。4:15 「ゼブルンの地とナフタリの地、海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦人のガリラヤ。4:16 闇の中に住んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が昇る。」4:17 この時からイエスは宣教を開始し、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言われた。4:18 イエスはガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。4:19 イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」4:20 彼らはすぐに網を捨ててイエスに従った。4:21 イエスはそこから進んで行き、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父ゼベダイと一緒に舟の中で網を繕っているのを見ると、二人をお呼びになった。4:22 彼らはすぐに舟と父親を残してイエスに従った。4:23 イエスはガリラヤ全域を巡って会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病、あらゆるわずらいを癒やされた。4:24 イエスの評判はシリア全域に広まった。それで人々は様々な病や痛みに苦しむ人、悪霊につかれた人、てんかんの人、中風の人など病人たちをみな、みもとに連れて来た。イエスは彼らを癒やされた。4:25 こうして大勢の群衆が、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、およびヨルダンの川向こうから来て、イエスに従った。   マタイの福音書は時間の流れに沿って記述された本ではありません。イエス様が荒野での試みを受けた後、時間が経過しました。その間、バプテスマのヨハネは牢屋に閉じ込められます。その背景には、ヨハネの福音書の方が詳しく述べています。領主ヘロデが弟の妻ヘロデヤを取ったことを批判したことで、権力を欲しがっていたヘロデヤがヘロデにヨハネを殺すことを願ったからです。   イエス様はその時から疎外された辺境、イスラエル北部に移動して、公生涯を始めます。ヨハネが荒野で悔い改めを促し、天の国を説教したように、イエス様も辺境で悔い改めと天の御国を伝えます。ヨハネの働きもイエスの働きも改革を始めたことでした。   改革は、エルサレムとローマで始まったものではなく、ナザレとガリラヤから始まって、エルサレム、ローマと広がっていきました。磁石が荒野と辺境に置かれていても磁場の影響を受けたのはみな磁石の周りに集まってきます。神様が選んだ民はみな救いを受けるでしょう。まるで磁石にしがみつきようにイエス様に従った人の話しが続いて出てきます。   イエス様はガリラヤ湖のほとりで魚をとる漁師たちを弟子として呼ばれました。マタイの記述を読めば、ペテロとアンデレの兄弟、そして共同経営者のヤコブとヨハネの兄弟が召されましたが、たちまちすべてを置いて従うことがわかります。網も船も捨て、父も捨て、イエス様についていきます。   何かに憑かれたようについて行きますが、この背景についてはルカが詳細に伝えます。彼らがイエス様について行ったのは魚をとれなかったからではなく、むしろ魚をとれたからです。魚をとることができなかった無能な彼らに魚をとることができるような根源的な力が現れましたが、それがイエス様のみ言葉だったからです。   ということで彼らがイエス様を従った後、海辺には網と船だけではなく満船になった魚も残されました。それらを惜しげもなく捨てたのは、彼らがすでに磁石に導かれていたからです。磁石に長くくっ付いている鉄は磁力ができ、また、自分の磁場を形成していきます。   個人的には22節が描くことが悲しいと思いました。風の海に一人として残された父…イエス様は捨て従うようにしましたし、彼らは捨てていきました。しかし、イエス様は彼らの家族を捨てませんでした。戻ってペテロの義母の熱をおさめ。癒してくださったし、ヤコブの母も、イエス様に従う人になりました。   神様の召しは磁石のようです。磁石の磁は、仁慈の慈から生まれました。鉄を引き寄せる磁石がまるで母親が子を抱く慈しみを思い起こさせるということで磁石になりました。   船と魚があれば家庭の経済力は守れるかもしれませんが、それを捨てる献身は、家族を救うことになりますた。捨てるとこによってとるというのは逆説です。皆が恵みを求めますが、献身しなければ、その恵みを体験することができないかもしれません。   神様の恵みと人の献身をもって取り引きをするつもりではありません。恵みと献身は、本質が同じではありませんか?漁を取っていた漁師たちがイエス様に従うようになったのは、献身であるし、同時に恵みでもありました。