마태복음 QT17 20210130토【너는 나를 좇으라 】마태 8장 14~22

마태 8장 14~228:14 예수께서 베드로의 집에 들어가사 그의 장모가 열병으로 앓아 누운 것을 보시고8:15 그의 손을 만지시니 열병이 떠나가고 여인이 일어나서 예수께 수종들더라8:16 저물매 사람들이 귀신 들린 자를 많이 데리고 예수께 오거늘 예수께서 말씀으로 귀신들을 쫓아 내시고 병든 자를 다 고치시니8:17 이는 선지자 이사야로 하신 말씀에 우리 연약한 것을 친히 담당하시고 병을 짊어지셨도다 함을 이루려…

マタイによる福音書 QT16 20210129金【一言、与えたまえ】マタイ 8章 1~13

マタイ 8章 1~138:1 イエスが山から下りて来られると、大勢の群衆がイエスに従った。8:2 すると見よ。ツァラアトに冒された人がみもとに来て、イエスに向かってひれ伏し、「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります」と言った。8:3 イエスは手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。すると、すぐに彼のツァラアトはきよめられた。8:4 イエスは彼に言われた。「だれにも話さないように気をつけなさい。ただ行って自分を祭司に見せなさい。そして、人々への証しのために、モーセが命じたささげ物をしなさい。」8:5 イエスがカペナウムに入られると、一人の百人隊長がみもとに来て懇願し、8:6 「主よ、私のしもべが中風のために家で寝込んでいます。ひどく苦しんでいます」と言った。8:7 イエスは彼に「行って彼を治そう」と言われた。8:8 しかし、百人隊長は答えた。「主よ、あなた様を私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばを下さい。そうすれば私のしもべは癒やされます。8:9 と申しますのは、私も権威の下にある者だからです。私自身の下にも兵士たちがいて、その一人に『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをしろ』と言えば、そのようにします。」8:10 イエスはこれを聞いて驚き、ついて来た人たちに言われた。「まことに、あなたがたに言います。わたしはイスラエルのうちのだれにも、これほどの信仰を見たことがありません。8:11 あなたがたに言いますが、多くの人が東からも西からも来て、天の御国でアブラハム、イサク、ヤコブと一緒に食卓に着きます。8:12 しかし、御国の子らは外の暗闇に放り出されます。そこで泣いて歯ぎしりするのです。」8:13 それからイエスは百人隊長に言われた。「行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどそのとき、そのしもべは癒やされた。   百人隊長の愛するしもべが病気になって死にかかっていました。百人隊長はしもべの治療のために苦労をしましたが、治らなかったです。ルカを参考にすると、百人隊長はユダヤ人の長老数人をイエス様のところに遣わしましたが、長老たちはイエス様に百人隊長が自分たちのユダヤ人のためにシナゴーグを造ってくださった人であることを言いました。百人隊長は、ローマからカペナウムに派遣された職業軍人です。彼が自分に仕えるしもべを愛し、ユダヤ人のためにしたことを見ればあわれみと人に対する丁寧さのある人かと思います。   百人隊長はイエス様が自分の家に向かおうとしたときに、「主よ、あなた様を私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばを下さい。そうすれば私のしもべは癒やされます。」と言います。イエス様はこれに驚き、「まことに、あなたがたに言います。わたしはイスラエルのうちのだれにも、これほどの信仰を見たことがありません。10」とその信仰を賞賛しました。誰でも病気になることがあれば救いを求めます。その瞬間には、無神論者もなく不信者もいません。わらさえもつかみたいのです。緊急なときには人は急心に祈ります。ところが、百人隊長は、落ち着いた人格的な人です。まだ、家に着く前ですが、道の上で「ただ、おことばを下さい。そうすれば私のしもべは癒やされます。」と言いました。   百人隊長は、イエス様を信じましたが、正確にはイエス様の御言葉を信じていました。その言葉の力を信じています。御言葉がすなわち実際であるということを信じていました。百人隊長は確かにしもべが癒される現象を望んでいますが、その現象に執着せず、​​御言葉に注目しています。危機の瞬間に必要なのは、主の御言葉です。自分のために与えられる一言の神様の御言葉です。「一言だけいただければ私は生かされます」という告白です。危機と苦難の中、神様に出会ったという証は多くありますが、危機と苦難から救われたとしても、それが必ずしも神様に会うことではありません。危機から救われた超越的な神秘があったから神様に出会うのではなく、それをきっかけにして、神様との対話が始るという人格的な関係があったから、神様に出会うのです。現象を確認の前に御言葉を信じることが信仰です。ですから信仰は人格です。   一昨日に他界10周年を迎える作家の故朴婉緖(パク・ワンソ)は夫を失った四か月後に息子をも事故で失いました。当時、イエス様を信じてもいなかったですが、イエス様に救いを祈る間もなく一人息子が死にました。教養深い文学家は部屋に閉じこもり獣のように泣き叫んだということでした。生きるために文を書かなければならたもので、その痛み時に書いたのは、多くの時間を過ぎた後に本になりました。その本のタイトルがし『一言、与えたまえ』です。神様が一言、御言葉を与えてくださったので自分の命の死ぬよりも苦しい子どもの死を耐えられたと思います。 サムエルは、不妊の女性の体で奇跡的に生まれましたが、神様が神秘の中で、サムエルに現れた時、サムエルは言います。「お話しください。しもべは聞いております」私たちには、生老病死と生死禍福のすべての瞬間に、主の御言葉が必要です。私のみに与えてくださる御言葉が必要です。それは実在です。危機の中から生かしてくださる恵みも主の御言葉の恵みであり、失った痛みの上に立ち上がらせてくださる恵みも、主の御言葉です。今日、私の中で私を救う一言の御言葉があることを祈ります。

마태복음 QT16 20210129금【한 말씀만 하소서】마태 8장 1~13

마태 8장 1~138:1 예수께서 산에서 내려오시니 허다한 무리가 좇으니라8:2 한 문둥병자가 나아와 절하고 가로되 주여 원하시면 저를 깨끗케 하실수 있나이다 하거늘8:3 예수께서 손을 내밀어 저에게 대시며 가라사대 내가 원하노니 깨끗함을 받으라 하신대 즉시 그의 문둥병이 깨끗하여진지라8:4 예수께서 이르시되 삼가 아무에게도 이르지 말고 다만 가서 제사장에게 네 몸을 보이고 모세의 명한 예물을 드려 저희에게 증거하라 하시니라8:5…

マタイによる福音書 QT15 20210128木【現象と本質】マタイ 7章 13~29

マタイ 7章 13~297:13 狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。7:14 いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。7:15 偽預言者たちに用心しなさい。彼らは羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、内側は貪欲な狼です。7:16 あなたがたは彼らを実によって見分けることになります。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるでしょうか。7:17 良い木はみな良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。7:18 良い木が悪い実を結ぶことはできず、また、悪い木が良い実を結ぶこともできません。7:19 良い実を結ばない木はみな切り倒されて、火に投げ込まれます。7:20 こういうわけで、あなたがたは彼らを実によって見分けることになるのです。7:21 わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。7:22 その日には多くの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。』7:23 しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。『わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。』7:24 ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。7:25 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、家は倒れませんでした。岩の上に土台が据えられていたからです。7:26 また、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人にたとえることができます。7:27 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもその倒れ方はひどいものでした。」7:28 イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。7:29 イエスが、彼らの律法学者たちのようにではなく、権威ある者として教えられたからである。   「いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。14」狭く見えますが、実は欲望と虚像の大きい門を捨てることであるため、でむしろ安全な道です。狭い門に入れば、より詳しく見えます。ですから、神様の御言葉に基づいて選択を行うというのは現実的であり、具体的なことです。恐ろしいことですが、人の根本は実で知ることができます。間違いなく選択は結果を生みだすからです。衣を着ていても裸のようにさらされます。本質は現象を通して自分を現します。物事の道理を言うということは、現象の中から本質を読み取ることです。良い木が良い実を結び、悪い木が悪い実を結ぶということは、理にかなっていることです。悪い実を結んだ木に対して悪い木だと言っても、その木に言い訳はできません。良い実を出すのが良い木だからです。   本質を追い求める人は、価値に焦点を当てます。しかし、現象を追う人は実を飾ります。たとえ「主の名によって預言し、悪霊を追い出し、多くの奇跡を行っでも、主は彼を知らない」ということは恐ろしいです。中身のない実です。その偽善から自分を守るのは、24節以下です。「ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。24」「わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者」は、大きい門と偽預言者の惑わしに打ち勝ち、悪い実を結びません。神様の御言葉を聞き、それに従い、行うからです。「雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、家は倒れませんでした。岩の上に土台が据えられていたからです。25」、神様の御言葉が客体ではなく、主体となった人には、たとえ門が狭くても悪な者たちの貪欲と偽善の泥沼に落ちません。

마태복음 QT15 20210128목【현상과 본질】마태7장 13~29

마태7장 13~297:13 좁은 문으로 들어가라 멸망으로 인도하는 문은 크고 그 길이 넓어 그리로 들어가는 자가 많고7:14 생명으로 인도하는 문은 좁고 길이 협착하여 찾는 이가 적음이니라7:15 거짓 선지자들을 삼가라 양의 옷을 입고 너희에게 나아오나 속에는 노략질하는 이리라7:16 그의 열매로 그들을 알찌니 가시나무에서 포도를, 또는 엉겅퀴에서 무화과를 따겠느냐7:17 이와 같이 좋은 나무마다 아름다운 열매를 맺고 못된 나무가…

マタイによる福音書 QT14 20210127水【批判の意味】マタイ 7章 1~12

マタイ 7章 1~127:1 さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。7:2 あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量るその秤で量り与えられるのです。7:3 あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分の目にある梁には、なぜ気がつかないのですか。7:4 兄弟に向かって、『あなたの目からちりを取り除かせてください』と、どうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。7:5 偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取り除くことができます。7:6 聖なるものを犬に与えてはいけません。また、真珠を豚の前に投げてはいけません。犬や豚はそれらを足で踏みつけ、向き直って、あなたがたをかみ裂くことになります。7:7 求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。7:8 だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。7:9 あなたがたのうちのだれが、自分の子がパンを求めているのに石を与えるでしょうか。7:10 魚を求めているのに、蛇を与えるでしょうか。7:11 このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っているのです。それならなおのこと、天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか。7:12 ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。これが律法と預言者です。   イエス様が「さばいてはいけません」と言われたのは、善悪を区別しない、または不義に無関心であれとか、それらに沈黙しなさい、という意味ではありません。山上の垂訓の後半でイエス様は偽りと真実を見分けるように言われましたが、正当な批判意識がなくては見分けることはできません。霊的な覚醒とは、堕落の自覚であり、それは良心の中に宿る批判意識の力だからです。   ところが、批判が何なのか、その定義と解釈も経ないまま分別を根本的に禁じるということには、信仰を愚民化し、全体化するような意図が隠されているのです。不義を容認、黙認させるための道具として、この御言葉を悪用してはなりません。そのようなことについてはは、当然の厳しく批判しなければなりません。   一方、批判はしますが、その動機が相手を引き下げ、自分を上に上がらせるための場合があります。これらは、一見、改革的に見えるかもしれませんが、高度に計算された機会主義です。それは発展のための健全な批判ではなく、分裂させ、誤解させ、量り与えられないさばきになります。   時には批判してはならないし、時には批判しなければなりません。問題は動機です。今朝の本文を読みながら、新しい事を発見しました。7章に入って「さばいてはいけない」という御言葉が6節まで、それから7節から11節までが「求めなさい」という祈りの御言葉が続きます。「批判の主題」は終わり、「祈りの主題」が始まったと思いましたが、続く12節は、再び批判の主題に戻ります。 「ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。これが律法と預言者です。」で終わります。   まとめてみると、「さばいてはいけない → さばくならまず自分から振り返る → 求めれば与えられる。探せば見出す。たたければ開かれる。 → 神が良いものをくださる →  ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい」このような編集から分かるのは、7節から11節までにある「求めなさい」というメッセージが、その前の「さばいてはいけない」というメッセージと別々に離れたものではなく一つにつながっているメッセージである、ということです。   批判の動機は「ねたみと嫉妬」です。人を引き下げ、自分をえらくするためのことでした。ということで「さばく者の動機はねたみと嫉妬である」を挿入すると、文脈は自然に流れます。イエス様は、「ねたみと嫉妬の動機で人をさばかず、相手を理解すること、そしてあなたにとって良いものは神様に求めてもらいなさい」と整理してくださったのです。  

마태복음 QT14 20210127수【비판의 의미】마태7장 1~12

마태7장 1~127:1 비판을 받지 아니하려거든 비판하지 말라7:2 너희의 비판하는 그 비판으로 너희가 비판을 받을 것이요 너희의 헤아리는 그 헤아림으로 너희가 헤아림을 받을 것이니라7:3 어찌하여 형제의 눈속에 있는 티는 보고 네 눈속에 있는 들보는 깨닫지 못하느냐7:4 보라 네 눈속에 들보가 있는데 어찌하여 형제에게 말하기를 나로 네 눈속에 있는 티를 빼게하라 하겠느냐7:5 외식하는 자여 먼저 네 눈속에서…

マタイによる福音書 QT13 20210126日【何に責任を持っていますか?】マタイ6章 25~34

マタイ6章 25~346:25 ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものではありませんか。6:26 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。6:27 あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。6:28 なぜ着る物のことで心配するのですか。野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。6:29 しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。6:30 今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。信仰の薄い人たちよ。6:31 ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。6:32 これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。6:33 まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。6:34 ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。   神様を信じなければ、論理的に人間はおのおの生きる道を図らなければなりません。そのために熱心と責任感を持つことができると思いますが、残念ながら人間には自分に必要なすべてを賄うような能力がありません。神様が造られた1次的材料がなければ、何も創造できないし、神様から与えられなければ自分の手で作り上げるものは何一つありません。   ですから責任というのは、すぐに不安になります。神様がいない人間の熱心のもとは不安ですから、その不安は食べるもと、飲むものが揃ったからといって消えることではありません。消費もしたがって増え、果てしなく蓄積する必要が増えてきますす。それを追い求める間に、本当に大切なものは消えてしまいます。   心配は神様のない人の習慣です。しばらくの安息を楽しむこともできません。平安は供給を増やそうとする熱心ではなく、神様を認めることからきます。自分の人生に責任を負うということは、神様の外で自分の必要を供給しようとするのではなく、神様を認め、神様の中で生きることです。それが積極的な責任を持っている人です。   最近、責任という言葉が歪んでいると思うことがあります。人々は責任の所在を分けるために数多くの契約書を書き、法律を検討し、事務的、行政的な仕事を増やしていきます。そのようなものにはんこを押すことをに責任を感じます。責任を負わないことに対してそのような処理をしていなければ心配して不安になります。最近使っている責任という言葉は、ほとんどこのようなの消極的な意味の責任かと思います。   イエス様の教えの中で、聖徒の責任というのは、生活のためではなく、神の国とその義を求めることです。働きは始まらなければ負うべき責任はありません。しかし、それは責任関係を安全に設けたということではなく、無責任なままなのです。聖徒にはやらなければならないことがあります。私たちが持つべき責任というものは、損害の責任所在を設定するのではなく、神様の働きを積極的に推進していく責任ではないでしょうか?神様の働きを自分の責任にして働いている人の明日のは、明日が心配するのです。  

마태복음 QT13 20210126화【무엇에 책임감을 가지고 계십니까】마태6장 25~34

마태6장 25~346:25 그러므로 내가 너희에게 이르노니 목숨을 위하여 무엇을 먹을까 무엇을 마실까 몸을 위하여 무엇을 입을까 염려하지 말라 목숨이 음식보다 중하지 아니하며 몸이 의복보다 중하지 아니하냐6:26 공중의 새를 보라 심지도 않고 거두지도 않고 창고에 모아 들이지도 아니하되 너희 천부께서 기르시나니 너희는 이것들보다 귀하지 아니하냐6:27 너희 중에 누가 염려함으로 그 키를 한 자나 더할 수 있느냐6:28…

マタイによる福音書 QT12 20210125月【天に蓄える宝】マタイ6章 16~24

マタイ6章 16~246:16 あなたがたが断食をするときには、偽善者たちのように暗い顔をしてはいけません。彼らは断食をしていることが人に見えるように、顔をやつれさせるのです。まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。6:17 断食するときは頭に油を塗り、顔を洗いなさい。6:18 それは、断食していることが、人にではなく、隠れたところにおられるあなたの父に見えるようにするためです。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が報いてくださいます。6:19 自分のために、地上に宝を蓄えるのはやめなさい。そこでは虫やさびで傷物になり、盗人が壁に穴を開けて盗みます。6:20 自分のために、天に宝を蓄えなさい。そこでは虫やさびで傷物になることはなく、盗人が壁に穴を開けて盗むこともありません。6:21 あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです。6:22 からだの明かりは目です。ですから、あなたの目が健やかなら全身が明るくなりますが、6:23 目が悪ければ全身が暗くなります。ですから、もしあなたのうちにある光が闇なら、その闇はどれほどでしょうか。6:24 だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません。   イエス様が荒野でサタンに試みを受けたとき、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。4:4」と言われました。パンだけで生きるのではないということは、経済的価値だけが人生の全てではないということですが、裏を返して言えば、人においてパンは不可欠なものであるということの意味を既に含んでいることでもあります。その間に不安と絶望があります。経済力が高いということは良いことでしょうが、それには限りがないもので、より多くのことを欲しがるので、人間を貪欲と不安に追いやっていきます。一方、経済力が足りないということの弊害は人間を疎外し、絶望させることです。   強者の不安は高慢と暴力であり、弱者の絶望は恥とうつに現われます。経済というものはそもそも不安なものです。持っている者でとっても持たない者にとっても、そのような不完全なものにすべてかけてしまうから不安になることは当然のことかもしれません。消費がすなわち幸福だと定めたしてしまった時代にはより多くの消費のために蓄積しなければ不安になり、他人よりも消費できなければ憂うつになります。結局、人間はお金を消費するのではなく、経済によって人間が消費されてしまうのです。私たちは、当たり前のようにこれに支配されていますが、これが正常ではないことに気づかなければなりません。   本文は「自分のために、地上に宝を蓄えるのはやめなさい19」と言っています。神の国を簡単に定義するには難しいのですが、神の国といえば少なくとも神様が支配する国であります。神様と富を兼ね仕えることはできません。あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあると言われます。聖徒が神の国を求め、実践するということは、利己的な動機で消費し、蓄積するのではなく、利他的な動機で分け与え、施すことに移行する場合にのみ可能になります。それが、今朝の本文で言う「天に蓄える宝」です。